第53話 堕ちて

そして俺は、扉を開けた。


「……ただいま。」


誰も居ない部屋にそう呟いて、俺はアパートへと帰宅する。


怠い体を部屋まで運び、荷物を隅へと放り投げ、そのままベッドへと身を投げる。


一切の無駄なく成されたその動きは、これまでも幾度となく繰り返されてきたかのような洗練さを感じさせた。


……なんか、今日は色々と上の空だったな。


振り返ってみると、今日1日の記憶がほとんど飛んでいる。


中身の詰まっていない日々を過ごしてきたのは、これまでも同じだったのに、今日は何故か、果てしない虚無感を感じていた。


……寝ようかな。


何もする気が起きず、特に眠気がある訳でもないのに、そんな考えが脳裏を過ぎる。


それは、ただ単純に、考えることから離れたかっただけなのかもしれない。


……勉強もする気起きないし、本気で寝ちまうか。


いつしか、瞼が重くなり始め、1寸の眠気に誘われるように、俺は意識を泳がせる。


そして、気付かぬうちに、微睡まどろみの中へと落ちて行くのだった。

























……やがて、どれだけ時間が経ったのだろうか。


不意に目が覚め、小さく瞼を震わせながら、俺は目を開ける。


……?


しかし、目の前には深い暗闇が広がっていた。


……あれ?


一瞬、自分はまだ目を開けていないのかと疑問に思ったが、瞼に触れ、パッチリと目が開いていることを確認した故、それは違う。


そう、目は開いている。


なのに、何も見えないのだ。


「……なっ!?」


その事態に驚き、俺は勢いよくベッドから上体を起こす。


その時やっと理解した。


俺は、暗闇をその瞳に映していたのだ。


それはつまり、真っ暗な部屋を見ていたのだ。


……そっか、帰ってきた時、部屋の電気付けてなかったもんな。


帰宅時は、窓から入ってくる微かな光があったが、今は、それも消え失せて完全なる闇が、その場を支配していた。


急に湧いてきた嫌な汗が引き始め、俺は内心安堵する。


真っ暗な部屋に驚くとか……ガキかよ。


はぁ、と息を大きく吐き出して、俺は床に足を着け、電気を入れるスイッチを壁伝いに探し始める。


部屋の中が真っ暗なせいで分かりにくいが、だいたいこの辺りだったはずだ。と目星を付けて俺は壁を押した。


瞬間、パチッと音が鳴ったかと思えば、あっという間に部屋の暗闇は振り払われ、明るい光がこの場を照らし始める。


「よし、ビンゴ。」


一発で電気のスイッチの場所を当てた俺は、少々気分が良くなり、ガッツポーズをとる。


……なんか食うか。


同時に、空腹感も湧いてきたので、俺はカップラーメンの在庫を確認しようと台所に向かった。


その時……


ピンポーン!


突如、来客を知らせるチャイムが鳴った。


「……こんな時間に一体誰が。」


口ではそう言いつつも、頭の片隅では、まさかという思いが湧いて出てきていた。


早足で、玄関へと向かう。


あるいは、心の何処かで、そう期待していたのかもしれない。


逸る気持ちを抑えて、玄関のドアノブへと手を触れる。


そして……捻った。


やがて、その奥から現れる銀色。


精巧な人形のように、思い描いた姿のまま、その場で微笑む。


扉を開けた先には、白雲心音が、にこやかな顔で佇んでいた。


「……随分と急いでドアを開けてくださったみたいですね?」


少し困ったような表情で、そう苦笑する心音。


そりゃ当然だ。


今の俺の格好は、学校の制服も脱ぎかけで、髪もボサボサ。お世辞にも格好良いとは言えないものだろう。


今になってようやく、俺もこの姿で出たことを後悔しだしている次第だ。


「……もしかして、ボクが来るのを待っていてくれてたりして?」


「……んな訳あるか。」


そう言いつつも、心の奥深くの場所を正体不明の温もりが、満たしていくのを感じる。


これと似たような暖かさは、きっと『安堵』。


何に対して抱いた『安堵』なのかは定かではないが、今この時、俺は確かに安心していた。


「ふふ、可愛いですね。」


心音は、そんな俺の心の内を見透かしてか、愛おしそうなものを見るように、そう微笑む。


その彼女の表情を間近で直視してしまった俺は、思わず、こんな感想を抱いてしまった。


……好きなのかもしれない。

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