6
そそくさと晴海楼の勝手口から出て行こうとした直巳の袖を、丹念に手入れされた真白い手がひょいと捕まえた。
今日はもう勘弁してくれ、の『きょう』まで言いかけながら振り向いた直巳は、残りの言葉をすっかり胸の中に押し込んだ。
手の主は、この妓楼で直巳が最も頭が上がらない相手、野分花魁だった。深い青地に白い鶴が舞う打掛を身にまとい、すらりと伸びあがる肢体を誇るように銀色の帯を高く締めている。
「なにか、ご用でしょうか。」
直巳がきっちり向かい直り、低姿勢に問いかけると、野分は満足げに打掛の袖を口元に当てて笑った。衣の青と唇の赤が、眩暈のしそうな妖しい対比を作り出す。
「別に御用って程じゃないけど、またプロポーズされたんでしょう。もてる男はいいものね。」
「……。」
なんで分かったんですか、とか、またってことはこれまでのも全部承知ですか、とか、もてるって表現していいような状況じゃないことくらい分かっているでしょう、とか、言いたいことは山ほどあったが、どれも口には出せなかった。
食えなかった時代に白い飯を腹いっぱい食わせてくれた恩は、海より深いし山より高い。
ぐっと言葉を飲み込んで黙った直巳を見て、さも可笑しそうに野分花魁は笑った。笑えば笑うほど、彼女の周りの気温が怖いほど低くなっていく。
「もう、いっそ早く結婚してしまえばいいのに。女衒なんかやめて、ヒモにでもなんなさいよ。あんた、歌舞伎に出て来る色男みたいな顔してんだからお似合いよ。」
戯言みたいなそれは、けれど決して戯言ではなかった。野分花魁はいつもそうだ。直巳の職業上の手落ちを絶対に無視してはくれない。
確かにこれは、直巳の手落ちなのだ。少なくとも直巳の職業上の師は、手持ちの女にべたべたと求婚やら求愛なんてされてはいなかった。
女衒として、これは手落ちだ。明らかに。
見たくなかった現実を眼前に叩きつけられ、直巳はじっと項垂れた。
うつくしい花魁は唇を冷たく笑わせたまま、結婚しちゃいなさいよ、と直巳を追い詰める。
「……しません。」
直巳には、辛うじてそう答えるくらいの余力しか残されていなかった。
「忘れられないんでしょう。」
野分花魁の白い頬が、直巳を憐れむようにわずかに歪む。
「忘れられないんでしょう、あの時のこと。」
あの時とはどの時を指すのか、それくらいは愚かな直巳にだって理解できる。
頬を打たれるより、痛かった。あの夜を忘れられない自分を見せつけ、晒し者にされるのは。
「ごめんなさい。」
誰になにを詫びているのかは、直巳自身にももう分からない。
野分花魁に背を向けた直巳は、小雨の降る桜町へいっさんに駆け出して行った。
もうこれ以上、傷つくだけの肉が残っていないと思った。少なくとも、今夜はもう。
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