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「おっさんもっとスピード上がんないのかよ!」


「無理言わねぇでくだせぇよ旦那! これ以上やったら俺の可愛いサンドリーネちゃんが火ぃ噴いちまうよ!」


 律儀に待っていてくれた行商のおっさんを、緊急事態という名の名目で無理やり協力させて街まで戻る道をひた走る。流石に俺が走るよりも速い。


 おっさんには悪いが、二代目サンドリーネちゃんになってもらうかもしれない。


「なんかあっても協会がきったねぇ尻の穴まできちんと拭いてやっからよ!」


「めっちゃ綺麗ですけど⁉ 毎日清潔な水で穴という穴洗ってますけど⁉」


 おっさんとサンドリーネちゃんの穴事情はすまんが今は考える余地がない。


 思考はあの男が言っていたことで埋め尽くされている。何もなければそれでいい。だけど何かが始まってそこに俺がいないのではなにも出来ない。


 支部にもディオスにも連絡はつかないまま、何が起きているのか状況が掴めない。なんかあったら遅いというのに。


 埒もないことをぐるぐると考えているとブルーノの街が見えてきた。


 到着したそこは、不穏な空気で淀んではいても、子どもらの笑い声や人々のささやかな笑顔があったはずのその街は今、火の手が上がっていた。


 白い煙が一本、二本、三本と、まだ小さいが燃え上がればすぐに広がる。今も広がり続けているに違いないのだ。


「おいおいおいおい! なにが起きてるんですかい⁉」


「ここまで送ってくれてありがとよ。俺は導きの星協会のカナタ・ランシア。街の人を可能な限り見つけたら避難させてくれ。事が済んだらブルーノ支部まで来てくれ。ただし危険だと思ったら自分の身を最優先にしてくれ」


「へ、へい!」


 車から乗り下りて飛び出す。


 街の入り口は大混乱で逃げ場を求めて住民が大挙して押し寄せていた。


 そこには一組の男女が住民をなんとか落ち着かせようと奮闘していた。


「マッツ先輩!」


「お、おお! カナタか!」


「何が起こっているか分かりますか!」


「俺にもよくわからん。奴ら突然沸いてきやがった。他の奴らとの通信だと例の連中が各所で火をつけただの交戦しているだのって情報が錯綜していてな。警察も出張っちゃいるが事件のせいでとにかく手が足りん。何をするにも後手後手だ!」


「ハルとレイは⁉」


「二人とも支部にいたはずだけど姿は見ていないわ」


 マリーダさん。無事でいてくれたみたいだ。


「ちっくしょ。連中の狙いはハルとあいつの持ってる石だってのは分かってたのに。俺たちが出払っているうちにあいつをかっさらうのが目的だ」


「……その為に街を襲うだなんて、そんなのってあるの。協会を敵に回してまで」


「そこまでしても欲しい物だったのだろう連中にとって。だが、その目的の為に街を襲うなんて俺たち全員が等しくありえないと思っていた」


 そう、ハルは導きの星協会に保護されている。大陸中に支部を持つ協会に。そんな場所に襲いかかってきたとしたら今後、大陸での存続は不可能。裏道に入ったとしても、草の根分けてでも、草の根根切にしても探し出す。生きてはいけない。


 俺もそう考えて、ここなら安心だとハルから離れた。慢心。油断。自分がそうだと思っているなら、他人から見てもありえないなんて思い込みが今の事態の一助になってる。


「誰かあいつらのそばにいたんですか⁉」


「ディオス君がいたはずだけど、彼とも連絡がつかないの」


 くっそあの馬鹿。どこにいやがる。


「カナタ。これが計画的な物なのか、あるいは状況に便乗しての物なのかは判断できない。はっきりしているのはハルさんを奪われれば俺たちの負けということだ。お前はなんとしてもハルさんを見つけろ」


「分かってる。そいつは俺の役目だ」


 ハルは俺が預かった。そして俺の判断ミスで危険に晒している。あいつの側にいるだろうレイについてもそうだ。


 そう言い捨てて俺は支部に向かって走り出す。


 こんな時だからこそ落ち着けと懐中時計を握りしめる。


 道になりに行ったんじゃ時間がかかる。だから民家を飛び越して屋根を走り、道なき道を見定め駆けていく。


 街が燃えている。赤い火が大きくなるたびに悲鳴が上がる。そんな中で見つけてしまった。一つの出来事。


 子どもだ。女の子が一人、父親らしき男から引き離されて連れ去られそうになっている。


 俺の中の天秤が傾く。個人としてのカナタ・ランシアと、煌士としてのカナタ・ランシア。個人としての俺がつまんなそうな顔をして自分の秤に重りを乗せようとしている。


 見捨てて自分の望みを叶えろと訴えている。


 そいつは紛れもなく俺の本心で、だからこそ、ささやく声を喝破する。


「んな真似が出来るわっきゃねぇだろうがよ!」


 道理に悖るとか、人の情。


 そんなのの前に、そいつを見逃した時、俺はきっと俺じゃなくなる。今の俺は死んで俺じゃない誰かになる。


 俺の道を外れる。


 そいつが恐ろしいだけだ。


 白塗り、白い服の異様な風体。フードに隠れて顔は見えないがどうでもいい。連中のうちの一人だと決めつけた。


「ガキ離せや変態が!」


「あがっ⁉」


 声。男の物ではない。女。蹴り飛ばす。口から血を吐いてのたうつ人間は屈強な男ではなく、それどころかどこにでもいる女だった。


 お母さんと子どもが呟いた。ぐわんと頭を殴られた気分で子どもを見る。その側の父親を見る。


 待て。お母さんだと。なんだそれは。なんで母親が連中と同じ格好して嫌がる自分の子どもを連れて行こうとする。


 沈痛な顔をした父親がすみませんと謝ってきたがそれがどんな意味なのかまるで分からない。そも、どうして謝られるのか分からない。


 そんな時間は塵ほどもないというのに立ち竦んでしまった。


「どんなに望んでもあの子は帰ってこないのに」


 父親は悄然とした泣きだす寸前の子どもを抱きかかえて俺に再び謝ってきた。俺は、機械的に街の入り口へ逃げるようにと言った。


 あいつはどうすると、恐らくは子どもの母親だろう女について尋ねると黙って首を振ってその場から駆け去って行った。


 その時、二人の背を追う呪いのような声が「返せ」と響いた。母親だった。


 口の端からは血交じりの泡が出て、まるで老人のように落ちくぼんだ眼窩と血走った目が呪い殺すように我が子と夫を追っていた。


「取り戻すんだ。幸せを。時間を。そのためにそのためにそのために……」


 ぎょろりと濁った眼が俺に向けられる。その目に宿る異様さに気圧された。邪魔をしやがって殺すぞと訴えかけてくる、なんの力もない中年の女に気圧された。


 狂人の相手なんぞしてられない。


 女に背を向けて支部へと再び走り出した。


 あの女は何を言っていたのか。幸せな時間を取り戻すだとかわけのわからん。そんなもんまっとうに生きてなんかしろ。こんなトチ狂った舞台を作り上げないと出来ないもんなのか。


 狂った人間の思考を理解出来るのは同じ狂った人間だけだと自分を納得させる。


 支部が見えた。砂糖に集る蟻のように白塗りの集団。外にいる奴らの数は三。くそ邪魔い。俺の目的はハルとレイを無事に見つけ出し、そのまま確保して保護すること。だからあいつらの相手なんぞしたくもない。


「煌士だ!」


「石と子どもはまだか⁉」


 そうかいそうかいそうだよな。邪魔すんなくそボケどもが。


 だからそこをどけ。


 ここに最大の目標がある以上、戦力も最大のものを投入すると決めつけて、この三人を凶星と断定する。


 いつものように、力を抑えるなんぞしない。


 踏み込んだ足は舗装された地面を砕き、打ち込んだ拳は三人組の一人を支部の壁にめり込ませた。


 視界の端にぎらりと無機質な殺意を向けるガンメタリック。


 拳を固めた左手を伸ばす。


 世界で一番有名な銃器製造会社の代名詞、オルヴァー〇四から銃弾が発射される。


 落とし子っても銃に当たれば怪我をする。当たり所が悪ければ死んだりもする。だから当たらなければいいわけだが、あいにく今の俺には至近距離から発射された銃弾を避けるなんて出来ない。普通ならここで終わり。行動不能。


 ならばどうする。弾速と射角を見極め、突き出した拳を最小限で動かした。表皮が剥がれ、肉がこそがれ血がしぶく。


 銃弾は俺の体を掠めて背後へと飛んでいく。弾いただけだ。


 単純に外れたと思ったのだろう。銃を持った男は焦りながらもう一度狙ってくるが、次弾なんか撃たせん。


 体を旋回させ、右足による足刀を首筋に叩きこむと勢いそのまま、男を巻き込んだまま地面まで蹴り込んだ。


 残り一人。


 回る体の遠心力に噴き出た血を乗せて、眼球目掛けて振りまいた。粘性の強い血は張り付いて容易に落とせないどころか落とそうとすれば落とそうとするほど薄く伸びて剥がせない。


 声上げて目を瞑って所かまわず振り回される腕や足が支部の壁を壊し、植木を倒すがそんなん当たるわけがない。


 両手による水月への掌打を放つ。


 一人一秒。計三秒。


 地面を転がり吹き飛んでいく男に目もくれずに支部へ踏み込む。中は所々に穴が開いていた。戦闘があった証拠。


「レイ! ハル! いるなら返事しろ! いなくても返事しろ!」


 聞こえた。切羽詰まったハルの声。二階へと駆け上がる。ハルとレイ、そして白い異装の男が二人。背中にレイを隠したまま対峙していたのかハルは顔に痣を作り肩で息をしていた。


「こんなところまで追いかけてくるなんて、何を考えているんですか。あなたたちは……!」


 語気が荒く、ハルは男たちを問い詰めていた。


 男たちは無言だが険しい表情を崩さず、ハルの問いかけに答えもしなかった。


「よく生きてたな」


「レイちゃんに助けられました。でもこんなことになるなんて……」


 沈鬱さを含んだはっきりと弱音と分かる言葉だった。きゃんきゃんわめかれるよりも百倍マシだが。


 つーか、レイが助けただってよ。あいつが一体どうやってハルを助けるというのか。足を引っ張ることはあってもその逆がどんなだか……いや、もしかしたら。


「石を奪われる寸前だったんですけどレイちゃんを見るなり動きが鈍くなって、そこにカナタさんが来てくれたわけです」


 丁寧な説明ありがとうよ。


 たいていの人間はレイを見ると気味悪がる。それは奴の外見もあるだろうが最たる原因はその目だ。虚ろで胡乱で無機質で地底湖みたいにさざ波一つない。それと対峙すれば否応なく醜さも愚かさ矮小さを隠さない自分の姿が映し出される。そんなものは見たくないと目を背け、気味悪がって忌むのだ。助けたってのは多分それだろう。


 ただ、今回は運が良かった。場合によっては逆上されかねないからな。


「危ないから出てきちゃダメって言ったんですけどね」


「よくやったぞレイ」


 なんだかよく分かってないレイは、なんだかよく分かってないままちょっぴり頷いた、ように見えた。


「外にいた三人組は片付けた。このあたりに残ってるのはあんたらだけじゃないか」


 俺はまだ勝ったわけではない。ようやく手が届くかもしれない位置に来ただけだ。


 この二人、外にいた奴らとは格が違う。瞬殺ってわけにはいかないだろう、多分。


 二人は暗い瞳に粘ついた油っこい光を宿していた。あの母親と同じで人間として、薄気味悪い。レイのそれとは違う人間の粘度があるからそこの気味悪さ。


 ハルがどれだけやれるのか分からないし、こっちにはレイもいる。殴りっこは基本的に守るよりも攻める方が有利なのだ。


 そして、俺はこの期に及んでも投降しなさいなどと呼びかける様な心身ともに立派な煌士ではない。そんな見栄を張る余裕はない。


 どうやってぶちのめすかなんて考えている間に先に動かれた。


 男二人の両手に星の光が集まって、大きな戦槌が形を為した。あんなでかいのを落とし後の膂力で振り回されちゃ支部なんてあっという間に瓦礫になっちまう。


 俺になんぞ構うわけがない。狙いは当然、ハルの方だった。二人が同時にハルに向かって飛び掛かる。


 ハルがレイを抱えて飛んだ直後、都合、二対の戦槌が床を倒壊して一回まで直通の穴っぽこを作った。


 俺も間髪を容れずに踏み出すが一人に邪魔されて近づけない。振り下ろされる戦槌をまともに受けては大きなダメージを受けてしまう。


 じゃあ、どうするかと。大きな獲物は懐に入り込まれると弱いという定石。まずはそいつを試す。


 斜めに振られる戦槌。ヘッド部分がうなりをあげて迫ってくるのを冷や汗まじりになんとか避けて、踏み込むと膝で迎撃される。


 手で受け止めると重さに背がのけ反る。その反動を利用して右足刀を横っ腹に叩きこんだ。飛び上がっている間に体を捻って回転。左足での踵で側頭を切って捨てる。


 それでも落ちない。それどころかでかい隙を晒した俺の足を掴んで床に叩きつけてきた。一階まで強制的に運ばれた。くっそ痛ってぇなもう!


 目前に迫る戦槌が叩きつけられる。後転して避ける。叩きつけられる。後転して避ける。叩きつけられる。後転して避ける。


「それやめろ!」


 転がりつつ戦槌が叩きつけられるタイミングを見計らって腕の力で跳ね上がる。両膝を折り畳み、全体重と愛しさと切なさと心強さ、諸々の悪態を乗せたドロップキック。


 入った。


 男の鼻と口から体の内側で爆発が起こったみたいな空気が漏れた。


「終わってろ!」


 よろけた男にすかさず取り付いて首に腕を巻き付き締め上げる。


 両腕を掴まれる。とんでもない力で引きはがされそうになる。爪が腕に食い込んで皮膚が破ける。


「ゆるさない。みとめない。やりなおす。ユルサンミトメンヤリナオス。ヤリナオスヤリナオスヤリナオス……」


 繰り返される同じ言葉。そこに込められた極低温の熱量が気味悪い。


 どんな意味でその言葉を吐き出しているのかは理解出来ない。だがそこに込められた意思の量は誰が聞いても分かる。必ずやり遂げる。結実させる。その為ならば命も惜しまない。


 願い、誓い、切実なる祈り。それらに対する信念、執念、捨て去れない妄念。


 本当に厄介だ、そんなのは。


 男から出てくるくぐもった野犬の唸り声めいた苦鳴。だらだらと零れる涎。血走って見開かれた目玉がぐるんと裏返ると力がふっと抜けて落ちた。少なくともこの騒動が終わるまで目覚めはしないはず。


 ようやく一人。悪いことに同格のやつがもう一人。


 そして支部を破壊する音が、いま、しなくなった。


 二人の元へと駆けつける。


 ハルは床に伏せて血を流している。そしてレイは、無抵抗のまま両手で掴み上げられていた。男が少しでも力を込めれば草花のように容易く折れるのに、男はそうしなかった。


 自分で掴んでいるのに少しでも離そうと懸命に身を捩っているという奇妙な構図。目に入れたくない、入れたくないが目を離すのも怖いという矛盾で動きが止まっている。


 レイはいつものように変わらない。痛みも苦しさも感じさせない、深海のような底なしの目で男を眺めていた。


 男はひどく狭まった視野をしていて俺に気づけない。その均衡が崩れれば男はすぐにでもレイをその手に掛けるだろう。どんだけ焦るような状況でも、俺が下手をうって均衡を崩すわけにはいかなかった。


 じりじりと足の指先だけで移動して停滞した時間が過ぎていく。


 そしてその均衡はパキリと音を立てて崩れ落ちる屋根によって破られた。火が回ってきたのだ。


「俺のせいじゃない! 失くしたのは俺のせいじゃない! 俺を恨むな! 俺を見るな!」


 追い詰められたように叫ぶ男はもはやレイ以外が見ていない。倒壊する建物の破片が当たろうが気にしていない。


 ここで取り返すしかない。


「殺してやる殺してやる殺してやるもう一度殺して!」


 そうして飛び込んだ俺の直上に燃える木片が落下してくる。視界と動きを遮られた。そしてそれは、不運なんて言葉で片付けられない致命的な一瞬の永遠でもあった。


 血が沸騰する。直後に広がった視界の端に赤黒い血が飛び散っていた。


 だが、俺にとって死を意味する最悪の絵が像を結ぶことはなかった。


「殺してやるのはこっちの方だ」


 男の悲鳴と千切れ飛んだ両腕。暖かみの要素が欠落した冷酷な言葉。普段の姿からはかけ離れた相棒がいた。


 ディオスが愛用の剣で男の両手を切り飛ばしていた。


「なんのつもりだ。何を考えて犠牲を出そうとしている。お前の身勝手な行動がどれだけの思いを砕くか分からないのか。至極、不愉快だ」


 一刺し、そして切り払う。喉を突き刺された後で切り裂かれた男は絶命した。男の死に俺はなんの感慨も抱かなかった。そうなっても仕方がないし、俺自身もそうするつもりだったからだ。


 ディオスは冷徹な顔をしたまま俺に近づいてきて、そのまま殴ってきた。


「これは千載一遇の幸運だ。二度はない。僕が間に合わなければ、あの子は死んでいた」


 その通りだった。


 憎しみに近い色さえ浮かべて胸倉をつかんで言ってきた。


「もう一度言う。僕が間に合わなければあの子は死んでいた。命は一つきり、人生は一回きり、それはもそう。失えば戻らないものなんだろう。君が失わなかったのはただの運にすぎないんだ」


 その通り。命は一つ、人生は一回。それが人間に課せられた絶対の律。ならばこそ、失わないためには死に物狂いにならなければならない。死に物狂いになったとしても失うってしまうのが世界の律。


 世界はいつだって唐突で、どこで奈落の入り口から引きずり込まれるのか分からない。


 当たり前の言葉で、言われて当然の言葉に黙って頷いた。


「だったら誓え。あの子が自分自身の意思で生きていけるようになるまで、あの子を守り続けると。この先、何があってもだ」


 もとよりそれは自分自身で決めていたことでもある。頷いた俺を見てようやくディオスは胸倉を掴んでいた手を離した。


 倒れていたハルを助け起こす。


「平気なわけがないよな。顔を殴られたんだ。痣出来てんぞ」


「別にそれぐらい大したことありません。女の一人旅だったので荒事に巻き込まれることもありましたから。でも……」


 ふらついてはいるが言葉もしっかりしているし、タフな女だった。


 ただし声ほど顔色は頑丈そうではなかった。暗い成分。少なくとも負の方向性が含まれた何か。


「レイちゃんはご無事ですか」


「お前のおかげもあってな」


 だからあとはここから逃げるだけだ。ディオスもいる。成功する目算はある。


「そう上手くはいかないかもしれないよ」


「あん?」


 階下からのっそりと現れる男の影。俺が絞め落としていたはずの男。こんな短時間で目を覚ますなんて想定外だった。


 意識は混濁し、視線は虚ろ、涎は垂れっぱなしで足取りも危うい。だけど発散される威圧だけは俺が対峙した時よりも遥かに大きくなっていた。


 石をくれ、子どもを寄越せと呂律の回っていない舌から放たれる言葉は上下に乱高下する音程をしていた。


「カナタ。レイちゃんとハルさんを連れて行くんだ。あれは僕が処理しよう」


「そうかよ」


「君が二人を連れて逃げきれれば君たちの勝ちだ。捕まらないことを祈ってる」


 レイの手を取り、ハルの腕を取り、ここから逃げる。


 ちっと遠いが隣の支部か。近くの拠点まで逃避行。追手さえなければどうにかなる。追手があいつら並みの手練れかもしれないってのはあんまり考えたくない。


「繋いだその手を、離してはいけないんだ。絶対に」


 悔悟のように吐き出された小さな言葉。それはこいつが静かに激高した理由なのかもしれない。


 無防備に俺を見上げてくる無垢な視線と出会い、繋いで手から伝わってくるひんやりとした温もりを握りなおした。


 そうしてディオスに背後を任せて親しんだ街を後にした。


 この手を繋ぎ続ける為に。

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