顔面
角霧きのこ
1
呼ばれた気がして、ふと、俯いていた顔を上げた。
辺りをそっと見回してみる。知り合いは誰一人としていない。呼ばれたのは、気のせいだったようだ。
ただ、ひとつ、あるものが目につく。それはこの休憩スペースのやけに派手な色をした壁ではなくて、溢れかえっているゴミ箱でもない。私が座っているベンチから見て斜め左前にあるベンチ、その端っこに座っている、知らない人だった。
彼は、俯いてスマホを眺めている。それはもう、首を痛めそうなくらいに、俯いている。肉の落ちすぎていない、健康的な細身。この初冬の冷たい空気の中、サンダル。家でくつろいでいて、小腹がすいたからコンビニにジャンクフードを買いに行こうとした、ってくらいのラフな服。そんな彼のシャツの上に、ぱら、と小さな破片が落ちている。ぱらり……ぱら……ぱらり、と、少しずつ。
顔、壊れかけているんだな。私にはそうわかった。彼本人は気付いているんだろうか。まあ、いずれきっと気付くだろう。
スマホを開いて、現在時刻を確認する。火曜日の、十三時五十分。次の講義まで、あと一時間と数十分ほど、暇だ。顔の向きを戻して、彼の真似をするように軽く俯き、目を閉じる。
じぃ、じぃ、じぃ……と低い耳鳴りがする。まるで、サイレンみたい。でも、何の警告? 私が何かしたって言うの?
そんなはずはない。私は間違ったことなんかしてない。私の顔だって、壊れてないもの。
じぃ、じぃ、と警告音が止まない。うるさい。目を開けてみると、音はゆっくり小さくなった。
……困ったな、あんなにうるさいんじゃ眠れない。まあ、眠れても一時間だけだと、起きた時に余計に眠くなるだろう。
端の彼はまだ俯いている。破片は落ち続けている。
砂時計に少し似た落下を、しばらく横目で見守ってから、私は立ち上がった。
キャンパスの中を、特に目的もなくゆっくり歩く。次の講義まで、どう時間を潰そうか。学食にでも行こうかな。
「あっ、
今度は間違いなく、名前を呼ばれた。振り向くと、少女たちがこっちに歩いてくるのが見える。大学に入ってから知り合った友人たちだ。
「今、空きコマなの?」
「そう。次の講義まで暇なんだよね」
言葉を返しながら、私も顔をつくる。私の素顔を、つくりものの顔がぱきぱきと覆い隠していく。
穏やかで優しく、どちらかと言えば大人しい、ごく普通の女子大生。それが私。私の、顔。
「そっか、美沙は四限まで授業あるんだ〜。うちらはもう今日の授業終わったの」
さっきから私に喋りかけてきているのは、
「これから学外のカフェ行こっかって話してたんだけど〜、美沙も来ない? ちょ〜良いお店だよ!」
「えっ、私も行っていいの? じゃあ次の講義までそこ行こうかなぁ」
「よし決定〜! じゃあ行こ行こ!」
元気よく歩き出す花純の後を、少女たちに紛れてついていく。花純と並んで雑談を始めたのは、
「美沙ちゃん、授業お疲れ」
今私に話しかけてきた、
「日向もお疲れ様」
「ありがと〜。あのね、今から行くカフェね、美沙ちゃんが好きそうな雰囲気なんだよ」
柔らかい口調で、日向が話し始める。
「だからね、美沙ちゃんも一緒に来てくれて嬉しいな」
小さめのリュックを背負い直しながら、日向は照れたように笑う。その顔は、つくられたものじゃない。私には、わかる。
「え、ほんと? そう言われると私も嬉しい」
そう返せば、日向はますます柔らかく笑った。
日向の笑顔には、見る人の心を和ませるような、不思議な魅力がある。つくられた顔でもないのに。
私はそれが、気に入らない。
「……秋姫。秋姫も授業お疲れ様」
斜め前で黙々と歩いていた秋姫に話しかける。
「えっ? あぁ、ありがと。美沙もお疲れ」
突然話しかけたから、少し驚いたらしい。
「秋姫、今日は早く帰らなくていいの? いつも授業終わるとすぐ帰ってるけど」
問いかけると、即座に秋姫の顔がつくられていく。
「あ……うん、今日はいいの。サークルがあるって、親には言ってあるから」
秋姫はもともと口数が少なくて大人しい子だけど、自分が発言するとき——特に家の話をするときになると、すぐに顔をつくる。何か知られたくないことでもあるのかもしれない。
私はそれについて、特に何も思わない。みんな多かれ少なかれ、そういうことはあるだろう。隠しておきたいこととか、取り繕っておきたいこととか。みんな、そのために顔をつくっている。顔をつくることで、波風を立てずに他人と付き合っていける。
……それなのに。
「そうなの? よかった〜、じゃあ今日は秋姫ちゃんと長く一緒にいられるねぇ」
日向はそんなことを言いながら、秋姫にじゃれついていく。秋姫はそれを拒むことなく、微笑んで受け入れている。
秋姫だけじゃない。花純も、茉莉も、それ以外の人たちも。日向を拒んでいるところなんて見たことがない。
——おかしい。顔をつくらなくても、上手くやっていけるなんて。絶対、おかしい。
私のそんな考えは、花純の声によって遮られる。
「着いた〜! ここだよ、入ろ!」
顔を上げると、こぢんまりとしたカフェが建っていた。花純が開け放ったドアから、ふんわりコーヒーの香りが漂ってくる。暗めの色のフローリングと木の板張りの壁が、暖色の照明に照らされている。いらっしゃいませ、という控えめな店員の声が私たちを迎えた。
なるほど……確かに、雰囲気のいいお店かも。
店内に入って注文を済ませる。ゆったりとしたジャズが流れる店内は、仄かなコーヒーの香りに包まれている。日向と花純が楽しそうにお喋りを始める中、茉莉がふとスマホを眺め始めた。
「あっ……」
店内のジャズと日向たちのお喋りにかき消されるほどの小さな声が、茉莉から上がる。私と秋姫だけが、それに気付いた。加えて、私は——声と一緒に、茉莉の顔にパキリと亀裂が入ったことに、気付いていた。
「どうしたの、茉莉。何かあった?」
秋姫が声をかけると、茉莉はハッとしたようにスマホから顔を上げる。僅かに手元が下がって、スマホの画面がちらりと見える。……流行ってるアニメのホームページ?
「あ、ううん、全然……何でもない!」
慌てたように茉莉がスマホを閉じる。同時に、彼女の顔に入った亀裂も直っていく。何があったかは、知られたくなさそうだ。
「そう? それならいいけど……」
秋姫もそれを察知したようで、それ以上聞き込んだりはしなかった。茉莉は、何かを隠すために顔をつくっているタイプなんだな。
そうだ、茉莉だってこうして何かを隠しておくために顔をつくっている。だけど、目の前で花純と隣り合って談笑している日向は、やっぱり顔をつくっていない。
——他人が顔をつくっているのがわかるようになったのは、中学生の頃からだ。当時よく一緒に過ごしていた友達の顔に、ある日亀裂が入っていた。他の誰にもそんなものは見えていない。私にだけ、わかるものだった。見回してみると、誰もが本当の顔をつくりものの顔で覆い隠して、その顔面を使って上手く渡り歩いていた。
私は、私もそうやって生きていかなければいけないんだと感じた。だからそれ以来、顔をつくる習慣がついたというのに。
どうして、日向だけ、素顔のままで生きているの?
「——だよね、やっぱり花純ちゃんもそう思う? ねえねえ、美沙ちゃん!」
不意に、日向がクルッと私のほうを向いた。
「ん、何?」
即座に微笑んで返す。
いけない、あまり気にしすぎないようにしないと。顔は案外壊れやすい。出来る限り大事に扱わなければならない。だから私は、顔が壊れることのないように穏やかに過ごすよう努めている。
今だってそうだ。穏やかに、過ごさなきゃ。みんなの前で顔が壊れるなんてことがないように。
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