序章 出会い
大きな耳とふわふわのしっぽを揺らしながら、魔法使いの箒みたいな竹ぼうきで小さな末社の前の小道から落ち葉をどかしていく巫女の少女。この少女はあんこという名の狐の女の子。化け狐はこの町ではあまり珍しくないため人間の姿ではあるものの耳としっぽはそのまま出している。本当は白狐のため真っ白なはずの毛並みは黄昏の色に染め上げられ普通の狐の色と変わらない。
鼻歌を歌いながら掃除をしているあんこのもとへ小さな女の子が近づいてくる。
「あんこ、おはよう」
小学生にしては大きすぎる態度であんこの隣まで裸足でとてとてと歩き、足元の落ち葉を拾い上げる。
「おはようございます。凜様」
凜様と呼ばれた女児はこの末社にまつられている神であり、八歳のまま肉体の成長が止まっている女の子、四宮凜だ。
「すこし寝たら小腹がすいた。なにか食べるものが欲しい」
要求だけ端的に伝えると、持っていた落ち葉をぽいと捨て、また末社のほうへすたすたと帰っていった。
「凜様はいつも通りですね」
はぁとため息をついたあんこは、掃除をそこそこに社務所のほうにある道具倉庫へ箒を置きに行く。
黄昏が隠れどっしりと夜のようになっている雑木林に囲まれた小道を歩き、小さな分かれ道へたどり着いた。
左を選べば近道のはずだが、何故かあんこの足は右へ進んでいた。
軽い足取りで遠回りの道を歩む。さっきの道よりも広くなっていき、景色を開けてくる。夜が突然明けるように、途端に黄昏の世界へ放り投げられる。空も、木々の葉も、石畳に散らばる絨毯も、見渡す限りのオレンジに囲まれ、くるくるとまわりながら果てしない空間を満喫する。あんこはこの道が好きだった。オレンジに包まれると自分は茶色い普通の狐になれた気がして。だから遠回りでもいつもこの道を選んだ。
あんこはひとしきりオレンジの世界を堪能し、社務所へ向かおうと石畳に戻ってきた。
その瞬間。
ぶわああああああ
と大きな風が吹き、思わず顔を袖で覆ってしまう。たくさんの落ち葉が舞い上がり、あんこの体にぺたぺたとくっつき離れまた舞い上がり、風が止むのとともにまた絨毯へと戻っていった。
服をはたきながら、顔を上げる。
そこにはとても立派な鳥居があった。吸い込まれてしまいそうな赤が目の前にでかでかとたたずんでいた。思わず怖いと感じてしまうほどの威圧と迫力に目を離せず立ち尽くしてしまう。あんこはまだざわざわと風に揺れる木々に今の心を重ね合わせていた。
雷に打たれたかのように、突然現実に戻ってきたあんこはその場から逃げるように、社務所へ走った。
息を切らし、握っていた箒をぶっきらぼうに倉庫へ投げる。魔法は使えないから箒棚の端にぶつかり、床へ転がった。だが、今のあんこにはそんなことを気にする余裕はなかった。
勢いよく扉を開けると、まったりご飯を食べていた巫女が眉間にしわを寄せきつく睨みつけた。
「なんだいあんた。そんなでかい音立てて」
隣にいた別の巫女も同じように睨みつけてくる。
「そうだよ。みっともない」
そしてお決まりの一言を言うのだった。
「白狐のくせにね」
あんこはぐっと唇をかんだ。ここで怒っても良いことはない。それよりも今はあの嫌な予感を伝えておく必要がある。
「っあの!」
思ったより大きな声がでて、体をびくりとさせる。
「なんだい自分の声に驚いて。情けないわね」
高笑いをする年寄り狐二人をキッと睨みつけ、もう一度手を握りしめた。
「鳥居が! 様子が変です……」
だんだん自信がなくなり、尻すぼみになっていく。あんこの脳裏に浮かんだ嫌な質問はすぐに耳に届いてしまう。
「だからどうしたってのさ」
「そうよ今更。あなたの従える神様だってお外からきた子でしょ?」
「あんた慣れてるんだから何かあったらお願いねぇ」
また下品な高笑いをする女狐たちに沸々と腸を煮やしながら、どしどしと部屋に上がり、冷蔵庫から箱を取り出し、お茶セット用のかごを乱暴に掴みどしどしと玄関口に戻る。
「もし人間が迷い込んでもいじめたりしないでくださいね‼」
捨て台詞を吐き、何も聞こえないようドアをバシンと閉めたのに、あの高笑いが耳の奥に張り付いていた。
「どうした。とても機嫌が悪そうだな」
のんきに末社の中の隅でひっくり返って寝ている神にあんこはまたため息をつく。
「いえ」
「また他の巫女たちにいじめられたのか」
凜は起き上がりあんこの顔が見えるところまでとてとてと歩いてきた。
「どうってことはないんです」
「強がるでないよ。私には負の感情は隠しきれんぞ」
顔を覗き込む神はとても可愛い女児の表情をしていて、あんこはそのギャップでつい笑ってしまった。
「大丈夫です。凜様がおそばにいてくれるので。さぁ今日もあんころ餅をいただきましょう」
「そうなのか。無理はするなよ」
あんこにとっては神と過ごす日常があればそれでよかった。それが救いだったのだった。
おやつを食べ終え、話もひとしきり盛り上がったあと、一緒に食器を置きに行こうかとあんこと凜が末社から出てきた。
「ねぇ。おねぇちゃんたち。ここどこ?」
末社の目の前に小さな女の子が立っていたのだった。
「おい、この人間は誰だ」
小さな声で神は尋ねた。
「私も知りません。しかし……」
あんこがさっきの鳥居での異変の話を伝えると神はほうと少し考える素振りをした。そんなやりとりを困った顔の女の子は眺めていた。
「とりあえずこの子を部屋にあげろ。お茶は飲めるのだろうか」
「わかりました」
あんこは神に一礼し、女の子に目線を合わせる。淡い色のフリルのスカートに涼し気なシャツを着て、小さなぬいぐるみのお尻が右のポケットから顔をのぞかせていた。
「さぁこちらへ来てください。お茶は飲めますか?」
「おねぇちゃん。にゃんにゃんのみみはえてるよ。かわいいね」
あんこはその言葉で目を見開いた。黄昏町に慣れすぎた弊害で迷い込んだ人間に耳を見せてしまった。どうしたらよいか神へ目線を送ると、親指を立ててこちらをにこやかに見ていた。あんこはまたため息をついた。
「おねぇちゃん。おみみさわってもいい?」
「ああ。好きに触ってあげると良いぞ。別にエキノコックスとかついてないから大丈夫だ。綺麗な狐だぞ」
「凜様、余計なことはおっしゃらなくて大丈夫です」
「えき……?よくわからないけどこんこんきつねさんだったのおねぇさん。おみみさわるー」
「はぁ」
あんこは頭を下げて耳が触れるように手元に近づける。すると小さな冷たい手で優しく耳を三回だけ撫でた。
「えへへ。ふわふわ」
「満足なされましたか?行きましょう」
あんこが目を合わせ、手を差し伸べると、小さな両手でぎゅうと掴んできた。
おそるおそる立ち上がり、手を引くように歩き出すと少女は小さな足でひたひたとついてきた。
「お茶は飲めるかい。君」
先に末社に戻っていた凜はもう一度お茶を入れていた。
女児はこくこくとうなずいた。
「お茶が飲めるなんて偉いな。小さいのに」
凜はことんと小さなちゃぶ台にお茶を並べていく。
「きみもちいさいよ?」
凜は女児の目の前にお茶を置きながらその回答を聞き、あんこと同じようにすこしフリーズした。
「ん。あ、ああ。そう見えるがじつはそんなことないのさ。小さいけどとってもおねぇさんだぞ」
女児と変わらないサイズの胸を張り、大きく見せようとする凜を、目を輝かせてみている女の子。手がかかる子供が増えた気がしたあんこはまたため息をついた。
「そういえば、あなたお名前はなんていうんですか?」
「えっと、これ!」
ごそごそとポケットから小さなピンク色のハンカチを取り出した。ウサギの刺繡の横には『ささの まいこ』と同じく刺繍されていた。
「まいこちゃんでいいのかな?」
凜が確認のために名前を呼ぶとこくこくと頷いた。
「可愛い名前だね。私は凜だよ。よろしくね」
「舞子さん、私はあんこと申します。よろしくお願いします」
舞子は二人の顔を交互に見比べ、少し微笑んだ。
「りんちゃんとあんこおねぇちゃん」
反復するように名前を呼んでまたクスクスと笑った。
「ねぇねぇ、なんであんこおねぇさん、おそとだとぱんのいろだったのにいまはしろいろ?」
笑い終えた舞子はふと疑問を口にした。
「私は白色の狐なんです」
「きつねさんしろいろもいるの!かわいい!」
嬉しそうにあんこの周りをくるくると回る舞子。あんこがあたふたしているのを凜は笑ってみていた。
「しっぽ!」
あんこの後ろからしっぽがでているのに気付いた舞子は、耳を見た時と同じように目を輝かせた。
「そちらも触って構いませんよ」
舞子は嬉しそうにぺこりとお辞儀をした後に、恐る恐る小さな手をもふもふの大きなしっぽに近づけた。
ふわ、ふわふわ。
一撫でする度、クスクスと笑い、また撫で、クスクス笑った。
あんこはその様子を満足そうに見ていたが、聞きたかったことを思い出し、口にした。
「そういえば、舞子さんは何故こちらへ来てしまったんですか?」
しっぽにだきついてころころと転がっていた舞子は動きを止め、少し考えるしぐさをした。
「ママが、ううん、パパかも、うん、わかんないけど、なんかそこのおっきいもん、とこにおいてきぼり、それで、よばれたきがしたから」
拙い説明でよくわからず、あんこは黙って考えていた。
沈黙を破ったのは凜だった。
「もしかして、お父さんかお母さんに置いて行かれたの?」
舞子は俯いて、そのあと目に涙をたくさんため込んで、こくこくと小さく頷いた。頷くたびに小さなしずくがぽたぽたと床を濡らし、そのうちこの小さな部屋には舞子のすすり泣く声だけが響くようになっていた。
動けなくなってしまったあんこは、しっぽに抱き着いたまま小さな寝息をたてる舞子のほほを優しく撫でた。
くたびれた顔で外から帰ってきた凜は一度一息ついてから話し始めた。
「ふう。一通り社務所へおいてきたぞ。なんか変な狐にいろいろ言われたが、舞子ちゃんのことは気づいてなさそうだった」
「ありがとうございます。わざわざお手を煩わせてしまって……」
「かまわないよ。それよりも舞子ちゃんのが心配だ」
ほとんど凛と年の変わらなさそうな見た目の女の子を心配していることにあんこは少し心寒さを覚えた。
「もし、凜様がこっちに来たばかりの時私がいたら、きっと向こうの世界に返していると思います。人間には人間の暮らしがありますから」
何度も伝えてきた本音を口に出す。
「もしもの話だろ。私はあんこと毎日お餅食べてお茶を飲んで黄金の空を眺めてって生活好きだ。ここに後悔はないよ」
そして何度も同じ答えを繰り返す凜。
凜は八歳の少女がするにはあまりにも大人すぎる表情で、舞子の寝顔を見つめていた。
「なら、この子はどうなさるおつもりなんですか」
「本人が望むなら、向こうに返してあげるさ。のぞまないなら……」
凜にはわかっていた。
きっと向こうに帰っていたとしても、待ってくれている家族がいないこと。誰にも愛されず一人ぼっちで向こうの世界を彷徨うくらいなら、この黄金の町で悠久の時を過ごしていたいこと。あんこが愛してくれるこの町のほうが何倍も居心地がいいこと。きっとこの子も自分と同じようにこちらへ来たこと……。
「あんこおねぇちゃん、ねてるときつねさんだった」
目を覚ました舞子はまたクスクス笑いながら、人に化けるあんこを見ていた。
「あと、おきてもゆうがたのまんま。いっぱいねすぎた?」
「ここはね、ずっと夕方なんだよ。不思議でしょ」
舞子は少し首を傾げていたが、なんだか納得したようにこくこくと頷いた。
「舞子ちゃんは理解が早いね。とても賢いよ」
「っん。そういえば……」
にこやかだった舞子の顔に影が差し、見る見るうちにまた泣きそうな顔になった。
「ママに、ね、まいこ、あたま、わるい、って」
「いわれたんですか?」
舞子はまた俯いて、こくこくと頷いていた。あんこと凜は顔を見合わせて、舞子に近づいた。
「大丈夫だ。舞子ちゃんは賢いよ」
「そうですよ。お母さんも本気でいったわけじゃないかもしれないですよ」
慰める度にこくこくと頷いて、顔をごしごしとこすった。
「舞子さん、お父さんお母さんに会いたくなったらいつでも教えてくださいね」
「いやなことは忘れていいんだよ。私たちと一緒にいてもいいからね」
正反対のことを言う二人の声を聴きながら、舞子は静かに泣いていた。
「まいこね、まいこね、おりこうさんしてたの、してたのにね……」
小さな体が抱えるには大きすぎる傷。あんこも凜もただ優しく抱きしめてあげるしかなかった。
あんこも少しずつ気づいていた。凜には、そして舞子には鳥居の向こうに愛してくれる人がいないかもしれないこと。けれど、人間は鳥居の向こうに住む生き物だから。こちらにいてもきっと人間として幸せにはなれないから。
「やっぱり、舞子ちゃんはうちに置こう。そして、引っ越そうよ。こんな神社でてさ」
突然の提案に、あんこは驚きを隠せず、質問攻めをしてしまう。
「でもそれは、凜様に神のご加護がなくなるかもしれないということですよ?」
「もともと引っ越すつもりだったんだ。私は神のご加護なんかより、あんこが幸せに暮らせるところに住みたい」
まっすぐにあんこを見つめながら凜は言った。まるで質問されることをわかっていたかのような速さで答えられてしまった。あんこはまたため息をついた。
「本当に、わがままな人ですね」
優しく微笑んだあんこは、小さな凜の手と舞子の手をつかんだ。
「二人とも、少しだけですからね。満足したら向こう側に本当に帰ってくださいね。約束ですよ。そういう『契約』で巫女はあなたたちのお世話をしているんですからね」
「あぁ。もう何十年も前に聞いたよ。初めてあんこと出会った日に」
コロコロと笑う凜をみて、舞子は涙を拭いて、クスクスと笑った。二人をみてあんこもケタケタ笑った。
ひとしきり笑ったあと、みんなでひと眠りして、起きた時に引っ越しを始めた。
凜が周辺の散策をしていたので、引っ越し先は簡単に見つかり、神社の近くにある丘の上に住むことにした。
その丘からは神社の大きな赤い鳥居と大きな夕日がよく見えて、居心地がよかった。いつかあの鳥居に帰るんだって決めて。
あの沈まない夕焼けの広がる、黄昏七丁目に帰るんだ。その向こう側にある世界に。
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