相反する者達と、その事象

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相反する者達と、その事象

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※残酷描写があります。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。













 


婚約をしていた彼氏と別れることにした。そう彼女がSNSに書き込んだ日、彼女を除く私達三人は和食の美味しいダイニングバーで夕飯を食べていて、「ご報告」とタイトルのついた簡潔な破局の報告が表示されたスマホの画面をかわるがわる見ていた。

 正面に座っていた奈美は頼まれもしないのに興奮気味にその記事を読み上げ、私の隣にいた紗弥香は気の毒そうに眉間に皺を寄せていた。私は、なんとなくちあきならそういうことがあっても不思議ではないな、と思ってもくもくとサバの味噌煮をつついていた。

 ちあきは本当に簡単に「別々の道を進むことになりました。これからもよろしくお願いします」とだけ書いていて、長毛の賢そうな顔をした猫の写真を添付していた。

それをきっかけに仕事の愚痴から大学での懐かしい話しへと変わり、奈美がちあきの悪口を言いだして、紗弥香がそれをうんうんと聞いてやりながらときどきなだめていた。悪口とは言っても、具体的に何をされたとかそういう話しはなく、雰囲気やしゃべりかたが気に入らないなどといったぼんやりとしたものだった。私はそれらのやりとりを右から左へと受け流す。窓の向こうでは雨が降り出していた。五月雨だ。

 携帯電話がメールの受信を告げる。彼が仕事を終えて最寄駅まで迎えにきてくれるという。彼とは大学生のときにバイト先の本屋で知りあった。付き合って六年経つ。時間を確認すると午後九時をすぎたところだった。あと少ししたら店を出ることを奈美と紗弥香に伝えると、甲高い声でちゃかされた。肩をすくめて、苦笑いで受け流す。

 私達は同じ大学の同級生だ。同じ講義を受けたり、ご飯を食べたり。なにかといつも一緒にいた。卒業してからもう五年が経つ。お互いに今年、二十七になる。


*


 曇天の空は重苦しい。焼けたアスファルトから立ち上がる湿度の匂いが連日の雨を物語っていた。夕方からの雨の予報にレインブーツを履いていたり傘を持つ人がちらほらと目に留まる。

雑踏を抜け小さな路地に入り、約束の喫茶店に着くと、ちあきはもう席に座っていて何枚にも大胆に重ねられた山岳のようなパンケーキを崩しにかかっていた。「パンケーキがとっても美味しいお店があるの」と彼女が電話をかけてきたのが一昨日のこと。日が傾きかかっている。夕食を食べるには早すぎる時間だ。店内にはまばらにしか客がおらず、常連客と思しき年配の男女が数名コーヒーを飲んでいるだけであった。

「翔子、ひさしぶり」

 ナイフとフォークを構えながらはにかむように笑った彼女は、誰かの作った砂山を崩しにかかる無邪気な少女のように見えた。

「ひさしぶり。ごめんね、少し遅くなっちゃった」

 私は数カ月前の彼女のSNSへの書き込みのことを思い出していた。

婚約をしていた恋人とは高校生からの付き合いで、若い男女のカップルというよりはもう何十年も一緒にいる夫婦のようだと彼女自身から聞いていた。だから大学を卒業したら当然のように結婚するものだと思っていたし、そういう恋人がいることを少しも鼻にかけた様子もないちあきは充実しているように見えた。だから私は失恋のストレスで、情緒の安定を失い、体型や顔つきのなにもかもが変わってしまった彼女のことを何度も脳裏に浮かべ、かける言葉を何パターンも練習して今日を迎えた。なのでなんだかえらくさっぱりとした彼女の顔を見て拍子抜けした。

 木製の椅子を引いて腰掛ける。ちあきは分厚いメニュー表を差し出した。受け取ってページをめくる。

「ごめんね、突然に誘っちゃって。お仕事忙しかった?」

 ちあきは眉尻を下げて申し訳なさそうにこう言った。

「大丈夫よ。前のとこよりはとってもいい職場だから」

 私は少し前に転職していた。以前は給料の安い小さな個人院で医療事務の仕事をしていた。ただ薄給のわりに残業も多く、年配のスタッフからの圧力も相まってストレスフルになり不動産会社へと転職していた。

「それよりも、今日ほんとうに私だけでよかったの? ちあきさえ良ければ奈美も紗弥香も誘ったのに」

 私がそんなことを言うと、彼女はくすぐったそうに笑ってこう言った。

「いいの。だってわたし、あの人達めんどうくさいんだもん」

 いつもと変わらない彼女だ、と私は安心した。通りかかったウェイトレスにアイスココアを注文する。

 ちあきの肌理の整った白い肌は相変わらず美しかった。黒目がちな切れ長の目も濡れて光っている。余計な凹凸のない顔。矯正なパーツが丁寧に並べられている。彼女の顔は精巧な絵画の描かれた小さなキャンバスのようだ。

パフスリーブの袖からすらりと伸びた細い腕はしなやかに動いて、器用にパンケーキを口へと運んでいく。「美味しいね」と口にする彼女の、控えめにリップグロスを塗った唇についたホイップクリーム。やけに艶めいて生々しく見えた。

ちあきには品がある。きっと育ちがいいのだろうと思う。彼女の口から家族や家のことについての話しを特別聞いたことはないが、いつも小奇麗な格好をしているし、所作の随所にきちんとしつけられて育ってきたのだろうことがうかがえた。

ただ彼女は自身のそういうところに関してひどく鈍感で、努力せずとも持ち得ている美しさをぞんざいに扱うところがあった。たとえばそう、偏食であること。一度気に入ったものを延々と食べ続けては、ある日嘘のように見向きもしなくなるところ。睡眠が不規則であること。日が高くなるまで寝ていたせいで講義に来ない日もあれば、寝不足でいつも眠いと口にする日もあった。覚えたての言葉を使いたがる子供のように、無垢で暴力的な言葉を吐いた。彼女は不完全からなりたっている。ただ私は彼女のそういうアンバランスさが気に入っていた。

他愛もない世間話しをぽつりぽつりと交わす。彼女は卒業してからこども園のスタッフとして働いていたがどうやら辞めてしまったらしい。

私の注文したものが届いた頃にはもう、彼女はパンケーキのほとんどを食べ終わっていて、お皿に残ったクリームや真っ赤なラズベリーソースを掬っては丁寧に舐めていた。フォークやお皿が喜んでいるようだった。口内には彼女の白い歯にすり潰されたパンケーキが残っているのだろう。彼女は咀嚼する。淡々と咀嚼する。むしゃむしゃと音が聞こえてきそうだった。子供の頃に祖母の家で飼われていた鈴虫の共食いを思い出していた。クレーンゲームのアームのような牙を仲間の腹に突き立てて小さな口ではらわたを貪る。私はちあきの頬が膨らみを失っていくのを見ていた。ごちそうさま、と彼女はナイフとフォークを置いた。そうしてそれまで手付かずのままだったブラックコーヒーにざばざばと砂糖を入れて、蒼い薔薇の装飾が施されたカップに口づける。彼女の柔らかそうな上唇が、白い陶器にそっと触れる。ああ、カップが喜んでる。その様をなんとなく私は見ていられなくなって目を逸らした。

「翔子は全然訊かないんだね。わたしが彼と別れたこと」

 その話題を先に口にしたのはちあきのほうだった。もちろんそのことは頭の片隅にはあったが、人間誰しも触れられたくない話がある。だからもし彼女が言いたくないようだったら進んで訊き出すようなことはやめよう、と思っていた。でも目の前にいる彼女の顔に陰りはなかった。

「確かとても仲良かったよね? どうして別れちゃったの?」

 ちょっとだけ訊いてみようと思って私はそっと訊ねた。彼女はくすり、と笑った。

「大学を卒業してすぐに結婚の話しになって、とんとん拍子でほんとう結婚間近だったの。お互いの両親に挨拶したりしてね。言っても家族同士も随分前から知っていたから何を今更って、みんな喜んでくれたわ。家族も含めてみんなでご飯食べたりして、彼と入籍をいつにするか決めて、結婚式場を探したり新婚旅行はどこいこうかって順調だったわ」

 ちあきはゆっくりとした口調でときどきコーヒーを飲みながら話してくれた。

「結婚式場もあっさりと決まってね、両親とかプランナーさんと相談しながら準備を進めてたんだけど……わたしどうしても着たいドレスがあったの」

 不思議なくらいに自然な話し方だった。

「彼もとっても似合うって言ってくれたわ。だからそのウェディングトレスって決めてて予約も済ませたの。きちんと。期日までに」

 私は無言のまま頷く。

「そしたらね。じゃぁ招待状をそろそろ郵送しようっていう日にね、プランナーさんから電話があったの。びっくりしちゃった。わたしが予約したドレス、めちゃくちゃになっちゃったんですって」

「え?」

「信じられる? 結婚式の準備で、ヒステリックを起こしたよその花嫁さんがひきちぎっちゃったって言うの。妊娠中で気持ちが不安定で、マリッジブルーも重なって。でもこっちからすればそんなの関係ないわよね」

 ちあきは苦笑しているが私はその様子を想像して眩暈がした。髪を振り乱して、泣き喚きながら何十万もするドレスを引き千切る妊婦。幸せになるはずだった花嫁。

「……それでどうしたの?」

「やめちゃった、そのドレス。ううん、彼と結婚すること自体やめちゃったの」

 悪戯っ子のように肩をすくめて悪びれた様子もなく彼女が言うので私は驚いた。

「なんで? 仲良かったんでしょう?」

 そうね、と彼女は小首を傾げた。私には考えられなかった。お互いに愛しあっていて、そして家族にも祝福されて。ドレスの一着や二着が駄目になったって、まぁショックにはショックだけれど破談にするほどのことなのだろうか。打つ手はいくらでもあったはずなのに。ちあきはなにか考えているふうだった。

「めちゃくちゃになっちゃったドレスの新品をすぐ取り寄せるって式場側はね、平謝り。必要な資金を割り引いてくれたりいろんなサービスをつけるからって言ってくれたんだけど、そのドレスがかなり年季の入った物で、とっても素敵なドレスだったの。アイボリーの少しくすんだ色合いでね、レースがたくさん施されてたわ。窓から差し込んだ光が透けて、きらきら光って見えるの。でもドレスのメーカーの本店から取り寄せても結婚式に使えるか微妙だって言われたのよ。わたし以外にもそのドレスを着たい人が近い日取りでいたみたい。だから最悪の場合に備えて違うドレスも選んでくれないかってお願いされたんだけど、わたしはあのドレスがよかった。形やデザインが同じであってもほかのものは着たくなかった。あの何十人、何百人に着られてきたドレスが良かったのよ。子供みたいでしょ? それで、もうわたしの選んだあのドレスはこの世には存在しないんだってそう思ったら、なんだか彼との結婚もなにもかもがどうでもよくなっちゃったの。わたしはあのドレスを着て満面の笑顔をふりまいて結婚式をするわたしになりたかった。だから一方的に破談にさせてもらった。もちろんこのことに関して彼には一切の非はないわ。結婚式場側にも別に怒ってない。みんな一生懸命だった。ひとりで勝手にやる気をなくしたわたしが悪いの」

 私は何か大きな違和感が胸のあたりにひっかかるのを感じた。だけれどその違和感が何であるかははっきりしなかった。

「破綻してるわ」

 思ったことを、率直に彼女に伝えた。

「破綻?」

 彼女は鳩が鉄砲玉をくらったような顔をした。三文芝居をする役者みたいだった。私の中にある違和感が膨らんでいく。

「結婚ってそういうものじゃないんじゃない? 誰だって我慢のひとつやふたつするわ。だってちあきはその彼とずっと仲良かったじゃないの? それがどうしてドレスの一着で破談だなんて」

「・・・破綻、そうね破綻してるわね。でもどのみち今回のことが上手くいったとしても将来的にわたしは彼と別れることになっていたわ、きっと」

 私はちあきが何か隠しているように思えた。この違和感の決定的な確信を。

「それはどうして?」

「わたしはわたしがどういう人間であるか気付いてしまったから」

 ちあきの突然に見せる憂鬱そうな表情に私は息を飲む。グラスの中のココアは溶け出した氷と分離している。

「わたしは小さい頃から周りの期待にこたえられるように生きてきたわ。きちんとした両親なの。型から外れることを嫌うというか……そういう親の元で育ったから間違いを犯さないようにそして大きく自分の暮らしている群れからはみ出さないようにしてきた。だけどそう、それがとても息苦しかった。わたしの内臓に見合わないおかしな形の火の通ってない物を食べるかのようで。不味いのよ。とても。食べても食べても消化できないし、みんなの目があるから吐き出せない。だけどどんどん食べるよう差し出されるの。彼といるときもそうだった。わたしを大切にしてくれて、本当に優しい人だったけれど、わたしは彼の優しさはわたし自身もそうあるべきだとという彼の要求に思えてとってもとっても居心地が悪かった。吐き気がしてた。わかる? 翔子」

 目の前にいた女は少しづつ表情を変えていく。流暢にしゃべる口元が歪んで美しい絵画は崩壊を始めた。

「翔子の目にはわたしはどんなふうに見えてた?」

「私にはとても丁寧に育てられた人のように見えてたわ。それこそちあきがさっき言ったみたいな、きちんとした子。でも、たまにぞっとするくらいのアンバランスさを感じていたわ。まるで正反対の人格が混在してるとてもいうのかしら、そう……例えば」

「シーソーおばけ」

 ちあきが唐突に口にした。

「この間まで働いていたこども園のね、ある子に言われたの。わたし最初なんのことだったかわからなかった。でもその子はわたしのことを言っていたのね。元気な先生と、おばけの先生がいるって言うのよ。ふたりの先生がかわりばんこでシーソーしてるって。子供って聡いわね」

 外ではぽつぽつと雨が降り出していた。気圧の変化のせいなのか左耳が水の中にいるときのように塞がれているように感じた。気持ちの悪さに私は左耳のピアスホールを撫ぜた。

「わたしはそこで自分の本質は別のところにあるんじゃないかって思ったの。核となる本質の周りに両親の期待やら周囲の視線で凝り固まった余計なものが肉付けされたんじゃないかって。アイスキャンディーみたいなね。木の棒がほんとのわたし。アイスはみんなが知ってるわたし。そう考えると園の子が言ってたおばけっていうのがわたしの本質になるわ」

 ちあきはどんどん早口になっていく。

「そしたらね、わたし毎朝鏡で笑顔の練習をするんだけど、その日を境にして鏡に映るわたしの顔、とっても怖いの。口元は笑ってるのに目は死んでてまるで人形みたいなの。どんなに綺麗なお洋服を着ても、今まで飲みこんできた歪な形のものたちがぼこぼこにお腹の形を変えてるの。そう、まさしくおばけよ!」

 不自然なほどに整った顔と歪な形の体。

「毎日怖かったわ。これ以上おかしなものを食べたら、わたしはわたしじゃいられなくなるって。だから仕事も辞めたの。きらきらしてる子供達を見てると気が滅入ってしまって。彼との破談も結局のところ同じ理由ね。わたしは彼との幸せよりも、自分を守ることを選んだ。だっておばけと結婚したってどうせいつかは別れてしまうわ。そんなのわたし嫌だもの」

「それが最善だったと思う?」

「思うわ。いつかは訪れる崩壊を知っていながら悪戯にみんなを騙すことよりも、一時の痛手で済むほうが将来的にはみんなが幸せになれると思って選んだ方法だった」

 そこでちあきはひとつ深呼吸をした。ゆっくりと瞬きを繰り返し、吐き出すようにこう言った。

「だけどなぜだか誰も幸せそうじゃないのよ」

 ありとあらゆるものを食べつくしてぼろぼろになった怪物は、気だるげに頬杖をつく。破片として少しだけ残ったかつての美しい仮面の目からは涙が伝う。

 私はその姿を哀れに思いながらも、甘えだと思った。そんな屁理屈はただの甘え。

「ちあきの言ってることはわかるわ。だけど……」

 私は深く息を吸った。

「そんなのは結局自分のことしか考えてない。自分のことをぐっと堪えなきゃいけない瞬間なんて誰にでもあるわ。だけどそういうところを一番近くにいる人達はずっと見ていてくれてる。今がそうでなくてももっと年をとってから報われるときがくるわ。それまでは速足でも遅くても歩くことをやめちゃいけないのよ。ご飯が食べれない日も、眠れない日も、前を見据えてやりすごしていかなきゃいけない。そのぶんきっと得るものがたくさんあるはずよ。見えるものが増えるはずよ。今のちあきは自分に対して悲観的になってる。かっこ悪いわ、そんなの」

 自分が感情的になっていることがわかった。だけれど口にした言葉は本心だった。ちあきには掴むべき幸せがあったはずだ。どうしてそうなにもかもを振りほどいて棄てていってしまおうとするのだろう。

「綺麗事だわ。そんなの」

「綺麗事じゃないわ。あくまで希望的観測よ。綺麗事になるかどうかは自分の腕にかかってる。辿り着くまでは泥沼の道よ」

 ちあきの表情を伺うと、無表情のままなにも入っていないカップに手をかけていた。そこにいたのはさきほどの怪物ではなく、なにもかもを失ったひとりの女だった。

「悲観的かしら、わたし」

 しばらくしてからちあきはそう言った。絞り出すようなか細い声だった。

「ええ。少なくとも私にはそう見えるわ。あり得もしない自分像を作りだして、ふりまわされてる。自分の本質なんて用意して乗っかっていくもんじゃないわ」

 随分と長い時間が経っているように感じた。降り出していた雨はいつの間にか止んでいて辺りはすっかり暗くなっていた。人達は傘を閉じて足取り軽く群れの中へ消えていく。

「あなたって強いのね」

そんなことを彼女は言う。

「強くなんてないわ。気丈にしてないと負けちゃいそうだもの。ほら今だって」

 私の手足は震えていた。震える両手を差し出すとちあきは小さな手でそっと私の指先を包み込んだ。人にここまで頑として意見を述べたのは初めてだった。

ちあきは依然として呆けた顔のまま「ありがとう」と呟いた。そして翔子と話せてよかった、とくしゃりとした笑顔を浮かべた。その顔は泣いているようだった。

 口直しに夕飯も食べていくという彼女を背に私は会計を済ませた。「翔子はわたしのようにはならないでね」とちあきが言うので、私は彼女の小さな肩を叩いて「またね」と手を振った。


 ちあきが死んだのはそれから数カ月後の秋の始めの頃だった。自殺だった。奈美と紗弥香から慌ただしく立て続けに連絡がきて、葬儀に参列しようと誘われたが体調が芳しくなく香典だけ預けて参列はしなかった。私は来週で妊娠三カ月を迎える。

妊娠を告げると彼は飛び跳ねて喜んだ。それから思い出したかのようにプロポーズをしてきた。彼の暮らすぼろぼろのアパートで妊娠検査薬を片手にトイレの前で立ちつくし、ムードもへったくれもなくて、それがおかしくて二人でお腹を抱えて笑った。両親に挨拶を済ませ、体の負担も考えて家族だけで簡単に結婚式をしようと相談し合って決めた。しかし彼の厳格な母親は妊娠を告げると「順序が間違っている」と怒り狂い私達の結婚を反対した。私の両親も両親で「好きにすれば」とまかせっきりでほとんど顔も合わせていない。三十を越えて独身の姉はあからさまに私を避けるようになった。問題がたくさんあった。こなさなければいけないことも山ほどある。しかしへたってる場合じゃない。お腹の中の新しい命は待ってはくれないのだ。

 私はちあきの死の連絡を受けても驚きはしなかった。それには理由があった。先月の半ばに炎天下の中、やっと引っ越しが終わって彼と一緒に暮らし始めて間もないある晩のことだった。私は不思議な夢を見た。

ひんやりとしたなにもない真っ白などこまで広がっているかもわからない部屋の床で私は仰向けに横になり、お腹の痛みに悶えていた。陣痛だった。彼を呼ぼうにも私の他は誰もおらず、大きくなったお腹を抱えながら脂汗を流し必死に私は耐えていた。

 そのときだった。足元の方からひたひたと静かな足音が迫ってくる。助けて、と視線をそちらへ向けると膨らんだお腹越しに見えたのは、ちあきの姿だった。

 血色の悪い顔で彼女は私のことを見下ろしていた。そして無表情のまま私の足元へぺたんとしゃがみこんだ。鈍く痛む下腹部や背骨とかんかんと火照る恥部へ彼女の生気のない視線が注がれる。私は子供を無事に産むことしか頭になかった。陣痛を堪え、いきみ、呻き、競走馬のように荒々しく呼吸することをどのくらい繰り返したのだろう。胎(はら)にあった巨大な太陽がずるんと体の真ん中を通り抜けていった。それまで私を打ちのめしていた気の狂いそうなほどの痛みは嘘のように消え失せた。温い羊水が尻の下に水溜りをつくる。間もなくして聞こえてきた赤ん坊の泣き声に私は息を飲む。 

赤ちゃんを抱きたかった。しかし体を起こそうとするも力が入らない。すると我が子をちあきがその痩せ腕で抱きあげようとしていた。「抱かせて」そう口にしようとしたが声にはならなかった。ちあきは相変わらずの冷えた眼差しで私を一瞥し、ふいに微笑んだかと思うと私と赤ちゃんを繋げていた臍の緒を乱暴に素手で引きちぎった。血の気が引いた。そうして自分の口元へはだかんぼう赤ちゃんを寄せると、付着した体液や血痕をゆっくりと舐めとった。いつかの彼女の姿がリフレインする。クリームや真っ赤なソースをお皿舐め取りパンケーキを咀嚼するあの姿。びっしょりとかいた汗が背中を伝っていく。全身の震えは止まらない。やめろ。かえせ。私の子供を!

 彼女はそのまま赤ちゃんを抱いてどこかへ行こうとした。私は渾身の力を振り絞り体を動かすと、這いつくばったまま彼女の足首を掴む。赤ちゃんを離せ。さもないとこの枯れ枝のような足首を噛みちぎってやる。彼女を睨みあげる。体中の血が煮えたぎっているようだった。噛みしめた奥歯が割れそうだった。

 するとちあきは顔色も変えず、そっと赤ちゃんを私の目の前に置いた。新しく生まれた命は柔らかく清らかな肌を真っ赤にして大きな泣き声をあげた。そこに生きていることをめいいっぱい叫び続ける。私は我が子を無我夢中で抱いた。その温もりは日向のように温かだった。顔を上げるとどこまでも続く白の部屋を振り子のようにゆらゆらと大きく体を揺らしながら歩いていくちあきの後姿が見えた。

 そんな夢を見たものだから、私はお腹の子供に何か問題が起きたのではないかと思って彼に付き添ってもらい泣きながらその日のうちに産婦人科を訪れたが、経過は順調と言われた。リラックスして過ごすようにしてください、とお医者さんは笑った。

 ――だからちあきが亡くなったことも、あれはきっとお別れを言いにきたんだと、妙に納得がいった。


 安定期に入りようやくつわりも落ち付いた頃、私はちあきのお墓を訪れた。冬の匂いがつんと立ち込めていて、息を吐くと白くなった。集合墓地には誰も訪れてなくて、しんと静かだった。その一角にあるちあきのお墓は真新しく綺麗だった。彼女の瞳を彷彿させる深みのある黒色だ。誰かが備えたのであろう花は寒さに凍えて頭を垂れていた。もう少ししたらきっと茶色く枯れてしまうのだろう。

 私はしゃがんで線香に火を灯す。煙がくゆる。そっと目を閉じ手を合わせた。あの日、あの喫茶店でちあきが言っていたことを思い出す。「誰も幸せそうじゃないのよ」と。きっと一番苦しかったのは彼女自身だった。ちくりと胸が痛んだ。でもこうなることを止めることは誰にもできなかった。今この目の前にある現実こそが揺るぎのない「確かなこと」だ。彼女はきっと今もあの白い部屋で虚ろな目をして彷徨い歩いてる。

持って来ていた小菊と竜胆を供えた。私は今日というこの日の痛みでさえいつかは忘れてしまうのだろう。

 滲んだ涙を拭い、立ち上がる。ちあきの墓前に背を向ける。立ち止っている場合ではないのだ。

 引っ越しの荷物はすっかり片付いてきた。来週には新しい家具やら出産に備えての準備を始めないといけない。私達の結婚に対してしっちゃかめっちゃかだった互いの両親もようやく納得してくれ憎まれ口を叩きながらもなんとなく応援してくれている。新しい命の誕生を楽しみにしてくれている。

 私はこの春、母になる。

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相反する者達と、その事象 よまのべる @yomanovel

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