2
相手が薄らと笑みを覗かせながら、依織の正面に至った。冷ややかな双眸がこちらを見据える。
「お見舞い?」と藤倉沙夜が問う。「葉宮さん、どうだった? なにか変わったところはあった?」
「特には」
余計なことを言うべきではないと直感し、依織は短く応じた。さっさと帰りのバスが訪れてくれないものかと思ったが、視線は逸らさなかった。弱腰と思われたくはない。
「そっか。まあそうだよね。直後に自分で起き上がって、歩いて帰ったのは奇蹟だって、私も聞いた」
「奇蹟、ね。もう一回、起こすかもしれない」
ふふ、と沙夜は息を吐き、「私もそう思いたい。でも稀にしか起きないから奇蹟なんじゃない?」
「私は佳南を信じてる」
「私だって信じてるよ、当然。冴木さんより、ずっと」
形のいい眉が僅かに吊り上がる。その仕種にも、声音にも、友好的な気配は微塵も感じられなかった。依織は身を守るように両腕を組み合わせた。
「思うんだけどさ」と沙夜が声を低める。「葉宮さんのお見舞い、いい加減にしたら?」
「どうして」
「葉宮さんの立場になってみなよ。仮に目覚めたとして、会いたいと思う? 顔も見たくないって感じるほうが普通じゃないの? 自分をあんな目に遭わせた相手に」
「あれは――」
沙夜はこちらの返答を待たず、
「事故だった。うん、分かるよ。私も、きっと葉宮さんだって分かってる。だけど冴木さんになんの非もないってことにはならないでしょ。冴木さんだって多少なり、責任を感じてるわけだよね」
「そうだね。私に責任がないなんて言わない。許してもらえるとも思ってないよ」
沙夜の唇の端が湾曲した。「口ではどうとでも言えるよね。もし葉宮さんが目を覚ましたら、冴木さんは泣いて謝るんだろうね。ずっと傍で見守ってた、まだ親友なんだって顔して。そういうの、葉宮さんからしたら厭じゃないかな。そっとしておいてほしいって、思うんじゃないのかな」
「そんなの分からないでしょ。今は確かめようがないんだから。私はただ、佳南の友達としてするべきことをしたいだけだよ」
頭痛が甦ってくるのを意識した。表面上は平静を保ったつもりだったが、相手はこちらの変化を見て取ったらしく、
「分かってるんだよ。冴木さんは分かってる。黙って引き下がる勇気がないから、ぐずぐず居座って自分を正当化したがってるだけなの」
痛みのせいか怒りのせいか、じっとりと冷や汗をかきはじめていた。「そんなこと、あなたに決めつけられたくない」
途端に沙夜が表情を歪め、距離を詰めてきた。「いくらでも言ってやる。あなたのせいだって」
勢いに気圧されかけた。後ずさりしそうになる足を、どうにか同じ場所に留める。
「あの日、冴木さんが誘ったからだよ。あなたが誘わなかったら、葉宮さんはあんなにならずに済んだ。私と一緒のはずだったのに。依織と約束があるからごめんねって、それが最後だったんだよ。なにもかも、あなたのせい」
吐き捨てるように言い放つと、沙夜は方向を転換して依織から離れていった。こちらから追いかけて怒鳴り返してやりたい衝動に駆られたが、相手の背中が幽かに震えているのを知ってその気が失せた。どうしようもなかったのだ、彼女も。
沙夜の姿が完全に見えなくなると、頭痛が嘘のように霧散した。蟀谷を指で軽く揉んでから、ゆっくりと歩きはじめる。
今日まで出くわさずに済んだのが、むしろ不思議だったのかもしれない。沙夜にとっても、佳南は昔からの友人だ。頻繁に見舞いに訪れているのは安易に想像できる。佳南を思っているのは、自分だけではない。
ひとり、バスで駅まで引き返した。ホームへ下りると、唐突にスマートフォンが振動しはじめた。表示された名を確かめて応答した。
「そっちでどうかしたの」
北海道にいる母である。ときおりメッセージを書き送ってくることはあるものの、いきなり電話してくるのは珍しい。
「どうってこともないんだけど、依織、いま家? それとも学校?」
少し気が抜けた。「駅」
「遊びに?」
「ううん、病院に行ってた」
小さな溜息が聞こえた。それから彼女は短く、「佳南ちゃんのところ?」
「お見舞いに」
「いつ以来? 二か月ぶりくらい?」
「先月も行った。足繁く通ったからどうっていうんじゃないのは分かってるけど、それでもやっぱり、放ってはおけないから」
「そう」再び溜息が挟まる。「あのね依織。言っておきたいんだけど、佳南ちゃんのこと、あんまり気に病まないでね」
「気に病むとか病まないとかじゃない。友達だもん」
「そうだけど、あなたが背負い込みすぎてるんじゃないかって気がするの。悲しい出来事だったけど――あれは事故だったわけでしょう」
依織は目を閉じて沈黙した。どう答えるべきか判じかねているうち、母は言い聞かせるように、
「もちろん佳南ちゃんのこと、忘れろとは言わない。でも依織には依織の人生があるってこと、ちゃんと覚えておいてね」
「分かってる」
通話を切った。少し待ってみたが、架けなおしてはこなかった。
電車が近づいてくる。ほんの一瞬だけ捨て鉢な気分に駆られたが、何事もなかったようにその場に立ち止まって、車内の乗客がホームに吐き出されるのを待った。
「私の人生」
唇だけで言葉を反芻し、それから藤倉沙夜の激昂を思い返した。彼女の怒りはもっともだ。強く跳ね除けられたのは単に、無理やり虚勢を張ったからに過ぎない。
あなたのせいだ、と沙夜は言った。彼女は正しい。母は真実を知らない。
葉宮佳南が向こう側に追いやられたのは、私の言葉のせいだ。
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