天鵞絨症候群
下村アンダーソン
第一章 病み人たち
1
季節外れの粉雪がちらついているのを悟り、冴木依織は顔を背けた。いつもの赤い傘を置き忘れてきたのはきっと、こうなることをどこかで予期していたからだ。雨の日に広げれば華やかな大輪のような相棒も、雪には用を成さない。記憶は薄れない――罪の意識もまた。
ペデストリアンデッキからバス停へと続く階段を、依織は足早に下った。待合では女子高生の集団が他愛ないお喋りに興じている。見慣れた制服だった。どこといって目立つところはないのに、遠目にも母校のものと知れる。少し前まで自分も着ていたはずなのに、今となっては遠い過去の出来事に思えてならない。
制服を纏った佳南を想像しようとするうち、目的のバスがゆるゆると近づいてきた。ヘッドライトの灯りが、無数の雪の軌跡を浮かび上がらせる。
手早くICカードを取り出し、自身の後輩たる女子高生たちに続いて乗車した。後方の座席に陣取り、イヤフォンを嵌める。窓の向こうは早くも、白く色づきはじめていた。
鼻にかかったような独特のアナウンスののち、バスが動きはじめた。依織は目を瞑り、空想の世界に戻っていった。記憶に鮮明な中学時代の佳南が、まもなく脳裡に生じた。
成績は同程度だったから、受験さえできれば彼女も合格したはずだと思う。あるいはより要領よく、推薦入学を勝ち取ったかもしれない。大学入試もおそらくその調子で、軽やかに突破したのではないかという気がする。そのほうが佳南には似つかわしい。いつでも快活で、器用で、何事にも物怖じしなかった少女に。
「――で、死んだんだって」
不意に飛び込んできた言葉にはたとし、依織は顔を上げた。反射的に音楽のヴォリュームを落としかけ、馬鹿馬鹿しいと思いなおして手を止める。つまらない怪談か、都市伝説の類だろう。死んだんだって。いつの時代にもある、定番のフレーズだ。
やだ、怖い、といった笑い交じりの声を意識から追いやって、再び目を閉じた。例によって、頭に鈍痛が生じている。眠れる心境ではなかったが、外の様子が視界に入るのは耐えがたかった。
目的地が近づくにつれ、頭の痛みは増した。ずきずきとしたリズムを伴う感覚ではない。万力で締め上げられるかのような、無機質で平坦な重みだ。
原因は分かり切っている。予定を変更しさえすれば、この苦痛から逃れられることも。
それでもいつも通り、杠葉総合病院前まで行った。建物に入る前に、ステンカラーコートの肩に乗った雪を丹念に払い落とす。
本来、降雪の多い土地ではない。今年こそ見ずに済むのではないかと期待しては、裏切られつづけている。雪など、わざわざ出掛けていかなければ触れられないはずだったのだ、あの年までは。
受付を済ませ、面会者であることを示すバッジを貰う。消毒の匂いが立ち込める廊下を行き過ぎて、エレヴェータに乗り込んだ。
頭痛を堪えながら三〇三号室の扉を開けると、アコーディオンカーテンに囲まれたベッドが目に入った。いったん立ち止まり、トートバックから駅ビルの雑貨店で買ってきた土産を取り出す。意を決してカーテンに手を伸べた。
「佳南」声を絞り出すようにして、呼びかけた。「会いに来たよ」
丸椅子を引き寄せ、横たわったままの少女の傍らに腰掛けた。そっと身を乗り出して、顔を覗き込む。
鼻孔に挿し込まれたチューブの存在を無視すれば、ただ穏やかに眠っているように見える。顔色は蒼白いが、もとより色白だからそう違和感を覚えることはない。自分のよく知っている、それでいて決定的に遠い、葉宮佳南だ。
浅く静かな呼吸と、規則的な計器の音だけをしばらく聞いていた。ようやく土産を持ってきたことを思い出し、ゆっくりと包装紙のテープを外した。
「けっこう迷ったんだけど、リトルバットにしたよ。佳南、好きだったもんね。いつも持ってた。昔はどこにでもあったのに、最近は売り場が縮小されて――」
語りながら、独り芝居をしているような虚ろな気分になった。小さな縫いぐるみの蝙蝠を枕元に置いてやろうとした手を、静かに引っ込める。
あれから、もう七年が経過している。十九歳の相手への贈り物としては、なんだか相応しくないような気がしはじめていた。同い年の友人なのだ――外見は凍りついた時間の中に閉ざされた、十二歳の女の子だとはいえ。
依織は細く吐息を洩らし、縫いぐるみを見下ろした。当時流行っていたこのキャラクターに佳南は熱中して、あれこれとグッズを収集していた。ずんぐりした体躯と愛嬌のある顔立ちは依織の目にも好もしかったが、ここ数年で人気が下火となり、めっきり見なくなっていた。
沈黙したまま、リトルバットをバッグの中に仕舞いなおした。空いた手で、佳南の小さな掌を握る。その確かな温もり。
「今度はもう少し、お洒落なのを持ってくる。そのほうがさ――いいよね」
そっと立ち上がり、そのまま病室を後にした。波が引くように、頭痛が和らいでいくのを感じる。一階に降りる頃には、ほとんど気にならなくなっていた。
雪が止むか、あるいは雨に変わってくれることを願いつつ、ぱっと目に付いた食堂に入った。大規模な病院内にある店だからか、そこそこメニューが充実していたが、そう空腹ではなかったので軽食と飲み物だけを注文した。漫然とテレビ画面を眺める。
程なくしてスポーツの特集が始まった。よりによってスノーボードの選手へのインタビューだ。大会時の映像が映し出される。画面全体を支配する白。
一刻も早く席を立つべく、パンをジュースで無理やりに胃袋に流し込んだ。味は、ほとんど分からなかった。
料金を支払い、逃げるように外に出た。案の定、雪は変わらない調子で降りつづいている。このぶんだと、おそらく積りはしないだろうが――。
ぼんやりとしていたせいで、人影に気付くのに遅れた。暗色のコートで痩身を包んだ若い女だ。迷いなく接近してくる。
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