人とイルカ
第11話 悪夢と疑惑
僕ら二人の顔を水槽からの光が照らしている。僕らが見つめる水槽の中では大きなサメがじっと佇んでいる。大人の人間よりも大きなサメは、口から鋭い牙を覗かせて、体に比べればずいぶんと小さな目でどこかを見ながらゆっくりと体をくねらせている。
「シロワニ?サメなのに?」
水槽の横の案内板に示されたサメの種族名を見て僕が呟くと、隣の紗由が得意そうな顔で答えた。
「昔の日本ではワニはサメを指していたんだって。今のワニ、いわゆるアリゲーターはもともと日本にはいないからね。」
「へぇ。ややこしいなぁ。」
「なんだか水の中にじっと浮かんでいるサメって、飛行船が空に浮かんでいるみたいに見えない?」
「え、こんな飛行船恐いよ。でも確かに形はSFの宇宙船か何かっぽいかもね。」
そう言われて見れば、シロワニの体の横で開いたり閉じたりしている
「生物は美しいねぇ。目的が作り出した自然の美だよ。私はサメ好きだよ。御影君は水族館の生き物で何が好き?」
「へ?そうだなぁ……小さい頃はタカアシガニが好きだったかな。」
「……なんで?」
「なんかロボットみたいでカッコいいなって。」
「ロボットというよりエイリアンじゃない?」
「はは、確かに。あ、あと……」
「ん?」
「イルカも好きかも?」
その時、イルカショーの開始を館内アナウンスが告げた。一斉に移動を開始した他の観客の流れに乗って、僕と紗由もショーが行われるイルカプールへと向かった。ガラス張りの天井の開けた空間の中央には丸い大きなプールがあり、上には輪っかやボールがぶら下がっている。質素なプラスチックの観客席がプールの周りを円形に取り囲んでいる。その客席の後ろから三番目の列に、僕らは座った。
飼育員の女性がマイクを持って案内を始め、最前列の客席にはイルカが水をかけてくる演出があると言う。水を被りたい人はぜひ!という声に応えて、修学旅行で来ていたと思しき団体から目立ちたがり屋の男子グループがここぞとばかりに最前列へと移動した。その光景を見た紗由はこちらを見て、ほほ笑みながら言った。
「一番前が良かった?あっちでカッパも配ってるよ。」
「いやいや、遠慮しておくよ。僕はそういうキャラじゃない。」
時間になり、ショーが始まった。派手な音楽と共に、背に飼育員を乗せたイルカ達が入場する。名前を呼ばれたイルカが水中から飛び上がり、そのたびに会場から歓声が上がった。天井から照らされるライトの色が目まぐるしく変わる演出の中、輪をくぐったり、大ジャンプを披露するイルカ達。飼育員の合図に合わせて、尾びれを器用に使って予告通りに最前列の観客に水をかける。注目と水を同時に被って、お調子者の男子生徒達には良い思い出が出来たことだろう。会場が笑顔に包まれた。
「イルカは綺麗だねぇ。」
会場を見つめ、そうつぶやく紗由の横顔を僕は見ていた。
これは僕の思い出だ。まだ普通の高校生活をしていた頃の。
「ね、なんでイルカが好きなの?」
僕の視線に気が付いた紗由が首を傾げてこちらを向いた。さらりと黒い髪が揺れる。僕がその問いに答えようと口を開こうとした時、突然会場が困惑のざわめきに包まれた。
僕の思い出には無い光景だった。
イルカ達が背中の飼育員を振り落とし、狂ったように猛スピードで泳ぎ始める。一人の飼育員がイルカに観客席に投げ込まれて椅子に叩きつけられ、そのままぐったりと動かなくなった。ひれを思いっきり水に叩きつけ、さっきの比ではない量の水が観客席を襲う。いつの間にか音楽は止まり、天井のライトが真っ赤な光を投影し、イルカプールはまるで血の海のように変わっていた。イルカ達がキィ、キィと不快な金切り声を上げ、僕らを睨みつけた。僕は紗由の手を引き、周りの観客と一緒に逃げ出す。
気が付けば、水族館は炎に包まれていた。阿鼻叫喚の中、僕らは炎に照らされた水族館を、どこかにあるはずの出口を求めて逃げ惑う。
その時、ひときわ大きな悲鳴がしたと思うと、割れた水槽から飛び出したサメ――シロワニが、なぜか空中を悠々と泳ぎ、鋭い牙を剥いて人間に襲い掛かった。僕らの後ろからは、プールにいたイルカが同じように空中を飛ぶように泳ぎ、追いかけてきている。
必死に逃げる僕に手を引かれ、紗由は無言でついてくる。
突然周囲の温度が下がったと思うと、水族館は消え失せ、冷気の靄の中に僕らはいた。僕の周りには棺桶のような物がいくつも並んでいた。僕はそれに見覚えがあった――僕が入っていた冷凍睡眠用のカプセルだ。
ドガン!と大きな音がして、巨大なイルカが壁を突き破って飛び込んできた。電源が落ち、薄く光っていた冷凍睡眠のカプセルの光が消え、ピー、と耳障りな電子音が鳴り響いた。僕はいつの間にか目の前にあった窓から、声にならない声を上げながら飛び出した。
着地した先は住宅街の一角だった。顔を上げた目の前には、男の影があった。その手にはどこかで見たナイフが握られている。
「お前は?!」
ウィリーの家に火を付けた襲撃者の、あの無精ひげの男だった。
無精ひげの男が僕を睨みつけながら一歩、一歩と近づいてくる。気が付くと、その手を引いていたはずの紗由の姿が無い。どこにいったんだろう?
僕の頭上を泳ぐシロワニとイルカが気味の悪い声で一斉に喋った。
「もう逃げ場は無いぞ、人間。」
目の前の無精ひげの男の姿が突然ノイズに包まれ、ゆっくりと別の男の姿に変化していく。
それはアルのアバターの姿だった。
「……!!」
僕は汗だくでベッドから勢いよく身を起こした。
夢だ。悪夢だ。
悪夢の構成要素は、昨日の出来事――ウィリーの家、男に襲われ、火事、無精ひげの男。路地を逃げて、秘密基地。殺人容疑で指名手配。
昨夜聞いた歴史の知識もくまなく取り込んで――公安13課、類人猿戦争、共存派、イルカ中心主義者。
起きたことを考えれば、悪夢を見るのは逆に自然だ。恐怖体験と信じがたい情報が作り出した、分かりやすい悪夢である。しかし、よりによって高校の時の紗由の思い出とミックスするとは……僕の脳も趣味が悪い。
脳裏に夢の最後に現れたアルの姿が浮かぶ。人類滅亡を企むイルカ中心主義者の話と、都合の良すぎる秘密基地への小さな不信感が悪夢の中で生んだ妄想だ――アルは実際に僕らを助けてくれたし、敵では無いはずだ……たぶん。
悪夢を振り払おうと、僕は夢の前半の紗由の顔を思い出す。まだ生きているなら一度会いに行こうと考えていたことも。
ああ、僕の事を知っている人間に会いたい……
そこで、僕はさっきから自分を見ている視線に気が付いた。
「グーテンモルゲン?」
ユリネの顔が扉からひょっこりと覗いていた。
「あ……お、おはよう、ユリネさん。」
いつからいたんだろう?そしてなんでドイツ語なんだ?
僕はなんだか決まりが悪くなって目をそらし、自分のいる場所を見回してごまかす。地下にあるラボに窓は無く、日が昇っても日光は入らない。冷たい蛍光灯の光が照らす六畳程の大きさの部屋には、シングルベッドが一つだけ。隣の部屋から漏れ聞こえる何かの機械音が静かに響いている。
気が付くと、ユリネは何も言わずに無言でどこかへ行ってしまった。
使い方を思い出しながら視界にORCAシステムのウィンドウを開き時刻を確認すると、既に午前10時を回っていた。逃亡劇の疲れはずいぶんと深い眠りに誘ってくれたようだ。
昨日の夜の「ディナータイム」はそれはそれは豪華なもので、冷蔵庫に取り揃えられた各種魚肉ソーセージを食べた。案の定独特な味付けのイルカ向けの食べ物以外にも、ちゃんと人間用の味もあったのは幸いだった。きっとユリネ用なんだろう。
そのユリネはといえば、見た目から明らかに未成年のはずなのだが、昨日は家に帰る素振りを一切見せなかった。というより、どうやらここが彼女の家のようだ。いったい親はどこにいるのだろう?当然の疑問がよぎったものの、食欲の後に来た睡眠欲への対処の方が、昨夜の僕にとっての優先順位は高かった。
人間用の仮眠室があるから使うと良い、そういってアルに案内されたのがこの質素な部屋だった。ユリネが使っている形跡は無かったが、寝具は綺麗に整えられていた。僕は倒れるようにベッドに飛び込み、気が付くと眠っていた。そして、あの悪夢を見てさっき目覚めた、というわけだ。
「先輩、おはようございます。ずいぶん良く寝てたみたいですねぇ。」
仮眠スペースを出て中央の大きな部屋に行くと、少女のアバターの姿を纏ったウィリーが部屋の中央で一人、両手を大きく振りながら立っていた。ユリネは机の上のコンピューターを無言でいじっている。アルの立体映像の姿は見えなかった。
「おはよう、ウィリー。元気そうだね。」
ラボにはコンピューターの並ぶ中央の大きな部屋を中心に、僕が寝ていた仮眠室以外にもいくつかの部屋があった。そのうちの一つには普段はアルが使っているというイルカ用睡眠水槽があり、ウィリーはそれを使ったようだ。見せてもらったが、横3m、縦2mくらいある、大きいが何の変哲もない水槽だった。
「先輩、見てくださいよ、これ。」
ウィリーは自分の背中から伸びるケーブルを不満そうに指さして言った。まるでリードに繋がれた犬のような姿だ。
「このポッド、外部電源しか無いから、このケーブルの範囲でしか動けないんですよ!水槽の部屋まではギリギリ届きましたけど。」
「なんとかしないとね。そんなんじゃまた襲われても逃げられないし。」
「でも、その時はまた先輩が私を抱えて逃げてくれるんでしょ?」
ウィリーが少しいじわるそうな笑顔で言う。
「あはは……もうあれは勘弁して欲しいかな。」
その時、いつの間にか姿を消していたユリネが、小さな両手に何か黄色い箱をいくつかを持って別の部屋から出てきた。
「あっ、ユリネちゃん。」
「……あさごはん。」
ユリネが持ってきてくれた小さな箱の中身は、固形のバー状の栄養食品だった。
「私たちはもう食べたので、先輩一人でどうぞ。奥の保管庫に一杯あるんですよ。」
「この味、たくさん余ってる。食べて。」
「えっ、あ、ありがとう。」
二コリと笑って差し出したユリネの手に載せられた黄色いパッケージには『イワシ味』と書かれた青い文字が踊っていた。案の定、独特の味付けだったその朝食を、僕は苦い顔で堪能した。
束の間の平和な時間。味はともかく、栄養バランスに優れたイワシ味のバーによって僕の頭もすっきりしてきたようだ。僕は気になっていたことをウィリーに尋ねることにした。ちょうどこの場にいない、アルの事だ。
「ねえ、ウィリー。」
「はい?」
背中から伸びるケーブルを弄んでいた銀髪の少女が、首を傾げてこちらを向いた。さらりと髪が揺れる。
「えっと、アルとは昔からの知り合いなんだよね?どんな……イルカなの?」
「ええ、同級生ですよ。私がORCAシステム管理局の試験勉強していて分からないことを訊いたのがきっかけで話すようになったんです。当時から変わってるなと思ってましたけど、頭は良かったし、ORCAシステムには詳しかったですからね。」
「その頃から、こんな秘密基地とか設備を持ってたの?」
「わかんないですね、家は特別裕福ってわけじゃなかったはずですけど……」
うーんとうなり、僕は次にユリネの方を見た。ユリネはコンピューターの載った机の前に座り、いつの間にか淹れたコーヒーを飲んでいた。
「ねえ、ユリネさん?」
「ユリネでいい。コーヒー?」
「ああ、うん、ユリネ……コーヒーはまた今度もらうね。君とアルはいったいどういう関係なんだい?」
「アル?」
「えーっと……普通は君くらいの子が一人でこんな所にいるのはおかしいと思うんだけど……」
「……?」
きょとんとした顔で首を傾げるユリネ。僕は思わずウィリーに助けを求めた。僕と目の合ったウィリーが任せて、という顔で頷いた。
「ユリネちゃん、先輩はイルカの名前が発音できないの。許してあげてね。アルはウィムアルゼムィンスェの事だよ。」
「なるほど。」
僕が助けて欲しかったのはそこではなかったんだけど……ウィリーは人間の女の子が自分の同級生と一緒に謎の地下室で暮らしていても何とも思わないのだろうか?イルカの感覚はわからない。
僕がため息の後に再度質問を口にしようとした時、ラボにピンポーンと、明るい電子音が鳴り響いた。
「来た。」
ユリネの言葉で、その音がラボへの来訪者の到着を告げるものだと知る。昨日僕が入ってきた金属の扉がゆっくりと開き、朗らかな声と共に一人の男が入って来た。この秘密基地の主で、昨日は立体映像だった姿は、今日は半透明では無かった。
「おはよう、諸君!よく眠れたか?」
僕が勝手に「IT企業社員風アバター」と呼んでいる姿で、アルが朗らかに挨拶をする。このアバターの下の本当の姿はウィリーと同じようにポッドに入った小さいイルカなのだろう――そういえば、僕はアルの本当の姿をまだ見ていない。今朝見た悪夢の最後のシーンを思い出してしまい、自然と心臓の鼓動が早くなった。目の前にいる男は、果たして本当にウィリー達がウィムアルゼムィンスェと呼ぶイルカなのだろうか?アバターを解除したら、昨日の無精ひげの男が出てくる事が無いと、なぜ言い切れる?
「やっと来た。ウィムアルゼムィンスェ、このポッドのケーブルどうにかしてよ。」
背中から伸びたケーブルを弄びながら、ウィリーが訴える。
「ああ、追加で部品を買えば何とかなる。今日買いに行くさ。」
「えー、じゃあ早く買ってきてよ。」
「部品のリストアップはしてある。」
ユリネがコンピューターの画面を指さして言った。
「さすが優秀な助手だ。……ミカゲ?大丈夫か?よく眠れなかったのか?」
アルとウィリー達のやり取りをぼうっと見ていた僕は、名前を呼ばれ、ハッとする。根拠のない考えを振り払おうとする。
「ああ、いや、大丈夫だよ。」
「?……そうか。じゃあとりあえず、ウィリェシアヴィシウスェのポッドの様子を確認しよう。」
「お願いね。ついでに右足の動きに引っかかりがあるから、そっちも何とかしてよ。」
「仕方ないな、そっちも見よう。それで、ポッドを直した後なんだが、」
「ちょっと待って!」
思ったより大きな声が出てしまい、自分でも少しびっくりする。
「な、なんだよ、ミカゲ……」
「先輩、いきなりどうしたんですか?」
人の姿をした三人の視線が僕に集まった。
「アル、その前に教えてくれ。ここは一体なんなんだ?君は一体何者で、ユリネはなんでこんなところに一人でいるんだ?」
耐えられなくなって一気に疑問を吐き出す。だが、
「ミカゲ、それは今話すとややこしくなるから、後にしよう。」
と、アルはそっけなく答えた。
「……いや、教えてくれ。」
「ミカゲ、時間が無いんだ。この後、」
質問に答えないアルに僕はいら立ち、声に感情が入ってしまう。
「この後、どうするんだよ?あの襲撃者の事、本当は何か知ってるんじゃないのか?」
「……襲撃者の事は知らない。この後は、俺の支援者がお前たちを保護する。」
「はあ?支援者って誰だよ。」
「それはちょっとややこしくなるから、後でな。」
「いいかげんに……」
「ちょっと先輩!落ち着いてください。どうしちゃったんですか?ウィムアルゼムィンスェは私の同級生で、悪いヤツじゃないですよ。私たちを助けてくれたじゃないですか?」
思わずアルに詰め寄ろうとした僕の前に、ウィリーが割って入った。ユリネは困惑した様子で僕とアルの顔を交互に見ている。
確かにそうなのだ。僕の疑念には何の根拠もない。
「そうなんだけど……」
「ミカゲ、お前の疑問はもっともだ。だが信用してもらうしかない。それに、俺にも分からないことも多いんだよ。」
「……悪かった。ちょっと頭を冷やしてくるよ。一人にさせてくれ。」
そう言って僕は三人の視線を背中に感じながら仮眠室へと足を向けた。背中越しにウィリーが不安そうに呟くのが聞こえた。
「先輩……」
仮眠室に戻り、ベッドに腰かけた僕は腕を組んで唸っていた。
一体僕は何をやっているんだ?
冷静に考えれば、アルが昨日の襲撃者という事は無い。屋外であれば公共エリアのはずだから、昨日の無精ひげの男の姿はアバター無しの生身か、公共アバターということになる。ウィリーはアルの公共アバターを知っているはずだから、もし無精ひげの男がアルならウィリーがわかるはずだ。
ほら、なんの心配も無いじゃないか。疲れていると驚くほど人の知能は低下すると、紗由も言っていた気がする。
その時、僕の視界にウィンドウがポン、と現れ、メッセージが届いた事を伝えた。
「ん?ウィリーかな?」
今の時代で僕の連絡先を知っている人はまだほとんどいない。というか、ウィリーとアル以外だと退院初日に出会ったシロキさんしかいない。今の僕のアドレス帳は人よりイルカのほうが多いのである。
メッセージの差出人は、そのシロキさんだった。
シロキさんは退院初日にウィリーと街を歩いていて出会ったアバターデザイナーの人間だ。ウィリー曰く「世界的に有名なカリスマアバターデザイナー」のシロキさんは、ウィリーの公共アバターのデータを取りたい、という理由で僕たちに声をかけてきた。その後、僕が公共アバターが上手く自動生成出来ないという事を知り、ウィリーの公共アバターのデータと引き換えに、後日アバターを作ってくれると言ってくれた。その時に連絡先を交換していたのだ。
シロキさんからのメッセージを読んだ僕の感情は、再び困惑に引き戻された。
『二人で話したい。誰にも、特にイルカにわからないように連絡してほしい。』
今の僕は凶悪な殺人犯で指名手配されている、というのが世間に伝わっている情報のはず。シロキさんは懸賞金を目当てに、はたまた正義感から僕の居場所を探ろうと連絡してきたのだろうか?それにしては、イルカのいないところで連絡して、というのが引っかかる。今の状況について何か知っている?
どう返すべきか。怪しい地下室に謎の少女といるイルカを信用するのが本当に正しい選択なのか、また自信が無くなってきてしまった。だが、下手に連絡して場所がばれたら、殺人犯として逮捕されるかも知れない。一旦ウィリー達に相談するか?しかし、イルカのいないところでと書いてあるし。
なぜ?まさか。いや、でも。
僕はため息をつき、3秒迷ってから仮眠室の扉の鍵をかけた。ウィリーやアルが入ってこないように 連絡してみるだけなら……場所を伝えなければ、大丈夫なはず。判断材料は多いほうが良い……
さらに5秒迷ってから、僕はシロキさんからのメッセージに返信した。
◆ ◆
御影が疑念に揺れていたその頃、とある屋敷の一室。アルの「支援者」である老紳士は、アンティークの家具の並ぶ部屋で美しい音楽に浸っていた。
望郷の想いを感じさせる美しく豊かな弦楽器の調べが曲の始まりを告げる。
『ドヴォルザーク作曲 交響曲第8番 ト長調 作品88:第2楽章 Adagio』
森でさえずる鳥であろうか、フルートのさわやかで優しい音色が、弦楽器と会話を始めた。そして、静かになったと思った刹那、ヒステリックな弦楽器の音色が静寂を破る。
私はこの瞬間、一瞬の無音が一番好きだ。音と音の間のわずかな時間の静寂を、きちんと音楽として奏でられる楽団は一流だ。真に音楽的な休符は、聴くものの時間すら止める。
弦楽器の弓の動きとともに、あの日ホールにいた私の時間も、確かに止まったのだ。それ以来、どんな超絶技巧のエチュードよりも、世紀の歌姫が高らかに歌い上げるアリアよりも、私はこの曲が大好きになった。
生のオーケストラをどのくらい聴いていないだろう。
もう人類は古き良き芸術を懐かしむことしか出来ない。なぜなら知性イルカはどういうわけか芸術を生み出すことが出来ないのだ。知性イルカとの共存により、人間も何かを失った。もう、あの時代の音楽はきっと帰ってこない。
でもそれで良いのかも知れない。人類は老いたのだ。老いては子に従え、と言うではないか。新しい種族に地球を明け渡そう。
豪奢な屋敷のオーディオセットの前で、
「もう少しで、人類の歴史を終わらせる鍵が手に入りそうだよ。」
老紳士はそう、部屋の娘達に語りかけた。
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