第2話 コードV
公園を後にして、「僕ら二人」はウィリーの家にたどり着いた。
道すがらウィリーに教わったところによると、知性イルカの数え方は一人、二人……で、人間と同じだそうだ。知性イルカ達に対して動物のような数え方をするのはとんでもない差別表現にあたるらしく、公の場でそんな表現を使えばアイツはまともな人間ではない、とみなされる。
例えば、数年前ある有名な人間のベテラン動画配信者に起こった悲劇。彼はある日のライブ配信でついうっかり知性イルカに対して「一頭」という表現を使ってしまったがために、その直後から猛烈なバッシングを受けることになった。「知性イルカを動物扱いしている」、「うっかり人間が偉いという本当の気持ちが出たのだ」、「人間中心主義者の手先に違いない」、「下等な猿野郎!」などなど……。そして彼はひっそりと表舞台から姿を消し、今はどこで何をやっているか誰も知らない。ずいぶん前から公的な機関がライブ配信をすることは無くなっていたが、その事件以降は個人の配信者もライブ配信を避けるようになったという。
だからこの時代では、「一人と一頭」でも「一人と一匹」でもなく、「僕ら二人」という表現が、道徳的に、倫理的に、道義的に、人道的に、正しいのだった。
ウィリーの住む家は典型的な日本の木造家屋で、二階建ての一軒家で一人暮らしだという。知性イルカは成長してからは家族で一緒に住む習慣が基本的に無く、ウィリーの家族は海沿いに住んでいるそうだ。やはり、海が近いほうが彼らは良いのだろう。とはいえ、ウィリーのように内陸に住んで陸の上で仕事をしている知性イルカは別に珍しくないという。
そう、ウィリーは既に働いており、立派な社会人ならぬ、社会イルカだった。一方、生年月日から数えると99歳の僕はといえば、バイトすらしたことがない人生の先輩なのだった。
「一人暮らしで働いてるなんて、大人だなぁ。ところで、見た目は普通の家なんだね。」
「もしかして水族館みたいなのを想像してました? 海水を作る設備とか、ベッド代わりの水槽とかを持ち込んでますけど、もともとは人間の家ですから。」
19歳なのに一軒家に一人暮らしと聞き実はお金持ちかと思ったが、そういうわけではなく家は賃貸とのことだった。なんでも内陸に住むイルカには補助金が出るらしい。政府が内陸のイルカ人口を増やしたいとか、海沿いの不動産価格の高騰の問題とか、色々あるそうだ。
「ふーん、時代は変わっても、悩みは尽きないねぇ。」
「そんなおじいちゃんみたいなこと言ってないで、どうぞお入りください、先輩。」
玄関で家を見上げる僕の横を抜け、ウィリーが先に玄関を開けて家の中に入った。少女が玄関の敷居をくぐった瞬間、ブン、という音と共にその姿が消え、病院で僕の隣を歩いていた円筒形の水槽に入ったイルカの姿が現れた。
「あっ……」
「ん、家の中はプライベート設定にしてたんだった。」
無機質なポッドの姿。さっきまで話していた少女が幻だと、否が応でも思い出させられる。
「先輩、人間のほうが良いでしょ?」
「いや、そのままのほうが、楽なら、大丈夫、だよ……。」
「ふふ、わかりやすいな。」
水槽の中のウィリーは少し視線を動かして、僕には見えない何かを操作した。
「はい、変更完了!」
再びブン、と音がして、僕の前には人間の姿のウィリーが帰ってきた。さっきと服装が違い、ゆったりとした部屋着になっており、ストレートの長い髪は後ろで結んでいた。室内用の設定なんだろう。家の中ではアバターを使う必要は無いはずだが、人間の来客のために室内用設定が作ってあるのかも知れない。
「また会えましたね。さあ、我が家へようこそ!」
明るく僕を自宅に招き入れようとするウィリーの表情には、自宅で本来の姿以外で居なければならない億劫さ、といったものは感じられなかった。そして僕は、ウィリーが人間の姿に戻ってくれたことに確かに安堵していた。
このイルカは、「僕の気持ちを考えて」、「気を使って」、「わざわざ」、人間の姿に戻ったのだ。
人間以外の生き物から向けられる、やさしさ、気遣い、思いやり。
人間以外の生き物の家に招かれ、世話になろうとしている。
それの何が悪い?今の僕には、このイルカしか頼れる知性生命体はいないのだ。
人間の尊厳?イルカ達が対等な関係なら、そんなものは過去の遺物だ。
しかし、イルカ達は姿形を変えてまで必要以上に寄り添っているように感じる。なんだか不気味だ。とたんに僕はこの世界に違和感を覚え、寒気を感じた。アバターの姿に紛らわされていた、世界からの疎外感も戻ってくる。
「あれ、先輩?どうかしましたか?」
「……ごめん、ちょっと疲れたみたいだ。一人にしてもらって良いかな。」
ウィリーは、二階は丸々空いているので一つを僕の部屋として使って良い、と言ってくれた。悪いね、と返し、心配そうな顔のウィリーを残して階段を上がると、扉が二つ見えた。なんとなく近いほうの扉を開けると、部屋の片隅にベッドが置いてあった。イルカはベッドで寝ないだろうから、僕のために用意されたものだろう。至れり尽くせりの状況に感謝すべきなんだろうが、素直に喜べなかった。
僕は部屋のベッドに腰掛けた。私物といえばウィリーが用意してくれた今着てる服だけで、病院からは手ぶらで出てきた僕には荷物はない。まだカーテンがついていない窓から、がらんとした部屋に明るい光が差し込んでいる。
暗闇が欲しくて目を閉じ手で目を覆うと、冷凍睡眠に入る直前の光景が浮かんだ。逆光の中、両親ともう一人の影が僕を覗き込んでいる。僕の主観としては1週間前、でも実際は80年前の光景だ。
冷凍睡眠を維持するために治療費以外にも継続的に費用がかかっていたはずだが、それを含めて費用はすべて支払い済みだった。あと5年間は冷凍睡眠を続けられる分が残っていたそうだ。両親が一体いくらを支払ったのか、僕は知らない。僕が冷凍睡眠をしている間、両親は一体どんな人生を送ったのだろう?安く無かったはずの治療費を、一生かけて支払ってくれたのだろうか?
そして、あの子は?
―—未来で、幸せになって。
あの時の言葉をまた思い出す。両親と一緒に僕を覗き込んでいた、幼馴染の少女。
名は、
紗由は僕の幼馴染で、小さいころからよく一緒に遊んだ。ありがちな話だが、次第に大人になっていく彼女に魅力を感じて、僕は恋心を抱いた。
幸いにもその感情は一方通行ではなかったようで、僕らは高校生の間は幸せな恋人ごっこにうつつを抜かした。そして、これもまたありがちな話だが、大学受験を機にお互いのために別れた。聡明な彼女と同じ大学には行けそうに無かった、というのも一つの理由だ。
そして、これはありがちな話ではなかったが、僕はその後不治の病に倒れた。会いに来てくれた彼女は明るい笑顔で僕の病室を彩ってくれたが、じきに死ぬ人間のために彼女の人生から無駄に時間を奪っている気がした僕は、ある時から彼女に会うのを拒んだ。
最後に、冷凍睡眠に入る僕に会いに来た彼女は、泣きそうな感情に無理やり笑顔で蓋をしたような顔をしていた。そして、未来で幸せになって、と僕に願った。
「幸せ、か……」
ため息がブレンドされた独り言が、ベッド以外何もない部屋の空間に消えていく。
この時代はなんだか不気味だ。でも幸せな人生を送ること、それが両親や、あの子の願いなら、生き延びた僕にはそれに答える義務がある。適応して、生きなければ。
でも、これからどうしたものだろうか。5年分残っていた冷凍睡眠の費用は僕に返金されるが、一生暮らせるほどの金額ではない。発病後に大学は中退したので、身分としては学生ではなく無職だ。幸せな人生を送るには働かないといけない。
でも何が出来る?
僕は一体何になれるのだろう?
そもそも、僕は一体何者だ?
「ああ、僕を知っている人間に会いたい。紗由はまだ生きてるのかな……」
こぼれた本音をかき消すように、下から喋るイルカの、ウィリーの声がした。
「先輩!人間の食べ物が無いので買いに行きますけど、一緒に来ますかー?」
部屋に時計は無かったが、確かにそろそろ昼食の時間のはずだった。時間を意識したとたんに、自分の空腹に気がつく。
まずは、この世界で生きよう。そして、そのうち紗由を探して会いに行こう。僕は大きく息を吸って立ち上がり、喋るイルカのいる世界へと階段を降りていった。
「ああ、行くよ。」
「あ、来ますか?良かった。じゃあ、先輩、出かける前にアバターを設定しましょう。」
「ん?いいけど……僕は人間だから、別にアバターはいらないんじゃない?」
ウィリーは人間の姿で階段の下でこちらを見上げて待っていた。小さなバッグを肩にかけている。実際はポッドのどこかに引っ掛けてあるんだろうけど、上手く補正されているのだろう。自分の見ているものが真実とは限らない世界なのだ。
「うーん、公共の場でのアバターはマナーというか。ぶっちゃけ今の時代、アバター無しで歩いてるのは裸で歩いてるようなものなんです。」
「なっ、そうだったの!?」
「先輩は人間だから、公共エリアをアバター無しで歩いても別に違法では無いんです。でも最近は、『アバター必須のイルカへの配慮にかける人間本位で自分勝手な行為』、という人も多くて。正直、変な目で見られますね。地域によっては殴られても文句は言えません。」
さっき歩いていた時、なんだかジロジロ見られている気がしていたのはそのせいだったのか。80年前からやってきた時間的田舎者は、自分が裸であることに気づいていなかった。
「ええ……何でさっき帰るときに教えてくれなかったんだよ。」
「だって、いきなりいろいろ説明すると混乱すると思ったから。なるべく人通りの少ない道を通ったから大丈夫だったでしょ?」
ウィリーのアバターを見た僕の印象からは、この時代のアバターは遠目だと本当の姿と見分けがつかないような気がしたが、この時代で生きていれば一目瞭然だという。一応、違法ではなかったから通報はされなかったものの、もしあの道中で事件でもあって刑事が聞き込みをしたら、真っ先に怪しい人物としてリストアップされるくらいには目立つ行動だったそうだ。
奥さん、この辺で怪しい人物を見ませんでしたか?いました!アバターを纏わずにうろついていた男がいたんです!きっとアイツが犯人です……
「知らなかったよ。なんかごめん。」
「先輩が謝ることは無いですよ。でも、簡単だから設定しておきましょう。遺伝子情報からの自動生成で、現実の世界と同じ姿のアバターがすぐに出来ますから。慣れてきたらそれをベースにいじって、おしゃれしてくださいね。」
そう言って、ウィリーは操作方法を教えてくれた。アバターの表示はORCAシステムの機能のごく一部に過ぎず、決済や個人認証など、既にこの世界の生活に必須のシステムだ。ORCAシステムに物理的な端末は存在しない。
「メニュー出ろ!と思えば出ます。」
「出ろ!」
「うふふ、別に口に出さなくても良いですよ。まずはORCAシステムをアクティブモードにしましょう。先輩はまだパッシブモードですから他人や空間からのAR表示は作動してますけど、相手の視覚情報を上書きして自分のアバターを見せるためにはアクティブモードにする必要があります。アクティブモードの有効化は初回だけID情報による認証が必要なんです。」
「そのIDって僕も持ってるの?作った覚えはないけど。」
「はい。ORCAシステムのIDは戸籍情報と遺伝子情報から生成されて登録されます。インプラント埋め込み時に自動で行われますよ。ID認証は非正規IDで他人に干渉出来ないようにするためのものです。まあ、ORCAシステムのID管理機能は特にセキュリティが厳重なので、非正規のIDなんてまず作れないんですけどね。」
何回か目のトライでようやく脳波コントロールのコツをつかみ、視界に四角いウィンドウを表示させることが出来た。ウィンドウの中央にORCAシステムのロゴが表示されている。 ORCAは、「Over-Ride Communication Assistant」の略のようだ。上書きコミュニケーション支援システム、といったところだろうか?続けてメッセージが表示される。
〈ORCAシステムへようこそ アクティブモードへの切り替えを行いますか? 続けるには『はい』を選択してください〉
視線を動かすと、パソコンのマウスを動かすように視界で矢印が動いた。クリックはどうするのかというと、押そう、と思えば良いとのことだ。
「『はい』に動かして、えい!」
「先輩、なんかかわいいですね。そのうち慣れますよ。」
80年前、スマートフォンのタッチパネルを不必要に力強く押す祖父の姿を見てなんだかほほえましく感じていたものだが、今ではすっかり僕がおじいちゃん。すぐに慣れるさ。心は19歳だ。
〈ID情報を読み込んでいます〉
視界に浮かぶウィンドウにメッセージに続いて、僕のID情報が表示される。生年月日は99年前になっている。ただし、年齢のところはちゃんと19歳になっていた。年齢は生体情報から肉体の老化を取得することになっているらしい。僕のような冷凍睡眠から目覚めた人のケースに対応するためだろうか。
その時、ピン!という電子音が脳内に響き、メッセージが表示された。
〈コードVを認識 ORCAシステム管理局規定によりログデータを自動送信します〉
「うん?なんだこれ?」
「先輩どうしました?というか、なんか時間がかかってますね。普通数秒で終わるのに。」
「コードVを認識って出てるけど。」
「V?うーん、なんでだろう。わかんないです。」
「ウィリーがわからないなら、僕がわかるわけないよ。あ、終わったみたい。」
〈Willkommen zurück, Verwalter.〉
「えっ?」
〈アクティブモードを有効にしました〉
一瞬、日本語ではないメッセージが現れたが、すぐに日本語のメッセージが表示された。
「うーん、とりあえずアクティブモードにはなったみたい。」
「なんだろ?まあ、とにかくアバターの自動生成をしてみましょうか。」
ウィリーの案内に従い、操作をする。公共アバター設定、初期設定、自動生成、とメニューの階層を進むと、視界にメッセージが表示された。
〈遺伝子情報と生体情報から自動生成を開始しますか?〉
おお、便利。これではい、を押せば今の自分そっくりのアバターがあっという間に生成——されなかった。
「あれ、なんかエラー?が出てる。」
「えっ、なんて書いてありますか?」
「『自動生成範囲オーバー、手動で設定してください』、だってさ。」
「えー、聞いたこと無いなぁ。」
「なんかヘルプとか無いの?」
僕もパソコンなどはそこそこ詳しかったほうだったと自負しているが、さすがに80年後のテクノロジーは知識が無さ過ぎてお手上げだ。
「後で私の職場で確認してみましょう。とりあえず手動で設定しましょうか。」
「えーと、手動はここだな……え、これは…設定項目多すぎ。素人じゃ無理じゃないか?」
「んー?公共アバターは本人からかけ離れた設定は出来ないはずなんで、そんなにいじれないはずですよ。生体情報からベースを読み込んですらいない?画面をミラーリングさせてください。」
僕の視界に映っている画面をウィリーも見られるようにする、ということらしい。視界に小さなウィンドウがポップアップし、「ウィリェシアヴィシウスェさんからのミラーリング申請」という文字が表示された。他人の名前にケチを付けるのは失礼この上ないが、相変わらず「リェシア」のあたりの発音の想像がつかない奇怪な文字列である。一番最後の「シウスェ」とか、意味が分からない。
「先輩、許可してもらえますか?」
「あ、ごめん、ごめん。」
「OK」の所に視界を動かし、心の中でアイコンを押す。今度は声に出さなくても反応してくれた。我ながら、なかなかの適応力じゃないか。
「そんな……」
僕の画面を見たウィリーは明らかに困惑している。僕の適応力に驚いているわけではなさそうだ。
「どうしたの?」
「なぜか先輩のアバターの設定可能範囲が完全無制限になってます。先輩、美少女だろうとおじいさんだろうと、変装し放題ですよ。」
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