第8話 羨望〜after story

 冷たい風が頬を刺す。

「さむっ」

 同僚の大西くんがブルっと震えた。

「もう年末だもんね」

 そろそろ雪でも降るかしら? なんて話しながら社へ戻った。


 年末の前には、クリスマスという憂鬱なイベントがあり、今年はそれが土日という最悪な日程なのだ。会いたい人に会えないのだから。せめて平日ならば顔だけでも見られるのにな。


 憂鬱な気分のままデスクへ戻ると、周りが騒ついていた。

「どうしたんですか?」

「週末に出張案件だって」

 後輩の浅井ちゃんが教えてくれた。

「あ、俺絶対無理っす」

 大西くんは最近彼女が出来たって張り切ってたもんなぁ。

「急だし、クリスマスだし、みんな予定あるんじゃないかな? 先方も、よりに寄ってそんな日に呼びつけるなんて」

 浅井ちゃんも可愛い顔をして厳しい意見を言う。

「年内にどうしても片付けたいってことよね? 部長、私行きますよ」

 私が軽く挙手をすると、また騒めきが起こった。


「「えぇ?」」

「葵さん、いいんですか?」

「はい、特に予定もないですし」

「ありがとうございます、恩にきます」

 部長はホッとした表情だったが、他の人たちは驚いていて。

「葵さんって、今フリーなんですか?」

「まぁ、そうですね」

「信じられないなぁ。いつも飲み会に来てくれないから、絶対彼氏いるって思ってた」

「いないよ、彼氏なんて」

「あれだ、素敵すぎて男が近寄れないパターン?」

「そんなことないって」

 チラリと志保さんの方を見れば、何も聞こえていないようにパソコンに向かっていた。




「ん……志保さん?」

「あ、起きたのね」

 少しの間、微睡んでいたようだ。

 志保さんは帰り支度をしていた。


 今日は、いつものホテルの、いつもとは違う部屋だった。急遽会うことになったから。

「今日はーー」

 激しかったですね、と言いそうになったが寸前で止めた。

「ーー嬉しかったです」

「そう、それは良かった」


 私たちが不倫こういう関係になって、そろそろ2年が経とうとしていた。

 最近は逢瀬の間隔が空くこともあり、会っても淡白な行為になることもしばしば。もう飽きられちゃったのだろうか、関係解消されるのだろうか、そんな事を思っていたから、今日の触れ合いはとても、本気で嬉しかったのだ。


「最後だからですか?」

「え?」

 いつも冷静な志保さんにしては珍しく、驚いた顔をしていた。

「今年はもう、会えないですよね?」

「あぁ、そうね。出張に立候補してたものね」

 私は、週明けに代休を取れば、そのままお正月休みに入る。


「あんなこと言って、大丈夫なの?」

 そういえば、と思い出したように聞かれた。

「あんなこと?」

「葵がフリーだって言った時、騒ついてたでしょ、狙ってるひといっぱいいるのよ」

 気をつけないと変なのに引っかかるわよ、なんて言う。

 もしかして、妬いてくれてる?

 だから、今日激しかったの?

 もしそうなら、凄く嬉しい。

「大丈夫ですよ、誰にもなびかない自信ありますから」

 貴女以外には。


「そんな自信、ない方がいいのに」

 小さな声で呟いて、そっと口付けをしてくれる。

 行かないでーー心の中で叫びながら、私からもキスを返す。

「もう少し一緒にいたい」

 しばらく会えない寂しさに、つい、口が滑った。

「わかったわ、最後だしね」

 再び唇が合わさり、深くなっていくキスに頭がボーっとなった。


 そんな中、志保さんのスマホの通知音が鳴った。

「ちょっと待って」

 確認した志保さんは、眉間を狭めて言った。

「ごめん、帰らなきゃ」


 わかっていた。

 そういう関係だって割り切っていたーーはずなのに。


 その夜は、昂る熱を一人で鎮めた。




 翌々日、クリスマスイブ、土曜日。

 気温は低いが、澄んだ青空が綺麗だ。

 私は一人、社の玄関前で同行する部長を待っていた。社用車で行くという話だった。


 しばらくして、一台の赤いクーペが停まった。

 運転席から降りてきたのはーー

「志保さん?」

「お待たせ、寒いわよね。乗って!」

 え、なんで?

 志保さんは、驚きを隠せない私にクスッと微笑んで。

「部長が急用で、私が行くことになったから」と言った。

 ハンドルを握る志保さんを見つめ、ジワジワと嬉しさが込み上げてきた。

「この車は?」

「レンタカーよ、せっかくだからクリスマス気分味わいたいじゃない?」

 最高過ぎます、志保さん。

 クリスマスに一緒に過ごせるだけで感激なのに、ドライブとかもう泣きそうだ。

「あぁでも、お仕事はきちんと済ますわよ」

「はい」


 心配された渋滞もなく、時間通りに先方へ着いた。

 相変わらず、志保さんの手腕は凄い。

 相手の要求を受け入れながら、こちらの持っていきたい方向へ進めていく。

 最後は相手も笑顔で握手をする。

「わざわざおいで頂きありがとうございました。これで年を越せます」


 予定よりも早くスムーズに終わったので、食事を済ませてホテルへ入り、それぞれの部屋へ落ち着いた。

 まだ信じられない。最愛な人とイブを過ごせる奇跡。最初で最後かもしれないな。

 幸せな気分に浸っていたら、スマホから着信音が聞こえた。

 志保さんだ。

「少し休んだら、こっちに来ない?」

「行きます、すぐに!」

 被せるように叫んだなら、またクスクスと笑っていた。



「うわ、こっち広いんですね」

「そうみたいね、部長が部屋を取ったから」

 私の部屋の1.5倍程の広さで、ベッドもセミダブルだ。部長ったら自分だけいい思いしようとしたな? でも、そのおかげで志保さんとここに居られるわけで。

「こっちで寝ても?」

「いいわよ」

 やった。小さくガッツポーズをした。


「少し飲もう」

 志保さんはおつまみを取り出し、グラスにスパークリングワインを注いでくれた。

「乾杯」

「んん、美味し」

 私はワインで喉を潤す志保さんに見惚れ、この状況に浮かれていた。

 まるで恋人同士のようだと。


「お家の方は良いんですか?」

「ん?」

「ご主人、一人で寂しいんじゃないんですか?」

「向こうも仕事が入ったみたいだから」

 そう言った志保さんの視線は揺れていた。

「向こうも浮気してたりして?」

「も? って、こっちはれっきとした仕事よね」

 そう言いながら、私の腰をさすってくる。

「そう……ですね」

 志保さんの手が触れている場所がジンワリと熱を帯びる。

「じゃ、仮に。主人が浮気して、それを知った私が離婚したとしたら、葵はどうする?」

「即、志保さんにプロポーズしますよ」

 あ、はは。

 珍しく、声を出して笑っていた。

 あくまで仮定の話で、そんなことは決してないんだろう。

 真面目に答えた私は、少し虚しくなった。

 それでも、触れ合えば喜びの感情の方が勝り、溺れていく。

 目の前にいる愛しい人に。


 忘れられない、クリスマスイブ。




 週明け、私は代休をもらい家で過ごしていた。

 大西くんからメッセージが入ったのは、お昼過ぎのことだった。

 それが衝撃過ぎて、すぐに折り返し電話をした。

「もしもし、どういうこと? 課長が辞めるって」

「いや、それが突然のことで。さっき挨拶されて退職するって、荷物まとめてたから今日が最後かも」

 嘘でしょ、志保さんが辞める?

 もう会えなくなる?


 すぐに支度をして会社へ向かった。

 途中で思い出し、志保さんのスマホへ発信したが、繋がらなかった。


「あれ、葵さん? お休みのはずーー」

「課長は?」

 仕事中の大西くんを捕まえて聞いた。

「ちょっと前に帰られましたよ。これ噂なんですけど、どうやら課長、離婚したらしくて」

「え、何で?」

 そんな素振り、一切なかったのに。

 普段通りの志保さんだったのに。

 否、本当にそう?

 私が気付けなかっただけかもしれない。

 私は、ちゃんと志保さんを見ていただろうか。


「なんでも、旦那さんが浮気してたとかって」

「えっ?」

「ま、噂ですけどね。みんな下世話な話好きですからねぇ」


「志保さん……」

 もう一度電話してみるが、やはり繋がらない。


 何も言わずに、私の前から消えるつもり?

 そんなの嫌。


 こうなったら。

 

 私は人事課へと急いだ。




「葵……なんでいるのよ」

「志保さんを、待ってました」


 人事課に大学時代の後輩がいるのを思い出し、半ば脅して志保さんの連絡先を聞き出した。もちろん渋っていたけれど、絶対に迷惑をかけないと約束しーー私の必死さが伝わったんだと思うーー志保さんの新しい住所を教えてくれた。

 引越し先は単身用のアパートで、離婚したという噂が信憑性を増した。


 いつから?

 一人で悩んだり落ち込んだりしていたのだろうか。

 何も知らなかった。打ち明けてもらえなかった。その事が悔しい。


 一時間程待っていたら、志保さんが帰ってきた。初めて見る、デニムにパーカーというラフな格好で片手にスーパーの袋を持っていた。


「帰って」

「嫌です。何も言わずに消えるつもりだったんですか?」

 今にも泣き出しそうな志保さんに触れたくて、手を掴もうとしたが振り払われた。

「やめて」

 大きな声に、志保さん自身も驚いたようで周りを気にしていた。

「わかったわ、とにかく上がって」


「何もなくて、悪いんだけど」とお茶を出してくれた。

 お互いに、冷静になる時間が必要だった。


「会社辞めるって知らなくて」

「うん、誰にも言ってなかったから。貴女には特に……知られたくなかったな」

「どうして」

「葵は私の事をどう思ってた?」

「志保さんは、私の憧れの上司で……」

 上質なスーツを着こなし仕事もスマートにこなすし、部下思いな上に上司からの信頼も厚くて。

「幻滅したでしょ? こんな格好してこんな狭い部屋にスーパーの袋下げて帰ってきたのよ」

 貴女には、素敵な上司のままサヨナラしたかったのよ、と目を伏せた。

「もう私には何もないの」とも。


「幻滅なんてしませんよ、私はありのままの志保さんがーー何もなくても、いえ何もない方が良いです、一から二人で始めましょう。約束しましたよね、即プロポーズするって」

 私は志保さんの左手を取り、外されたばかりの指輪の跡に触れた。

「志保さん、愛してます」


 繋いだ手は今度こそ振り払われずに、きゅっと握り返された。



※ひばりのお話は【冷たい風が頬を刺す】で始まり【繋いだ手は今度こそ振り払われずに、きゅっと握り返された】で終わります。

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