第8話 初めての迷宮探索(前編)

 迷宮内に足を踏み入れると、そこはもはや別世界であった。

 ゴツゴツとした地面とひんやりとした空気が、壮馬から日常の安息を奪った。

 ここはもう、殺戮の世界。仲間以外の生物はすべて敵か赤の他人に振り分けられる。

 地上の甘えた認識は一切許されない。

 そのことをなんとなくだが、本能で感じ取ったのである。

 例えるなら、この時の壮馬は、厳しい大自然の世界に、剣一本で放り出されたような気分であったのだ。

 その例えは、文字通り正しい表現なのだが。


「お前ら、この空気に今の内に慣れとけよ。ビビってたら本当に死ぬぞ」


 健太は慣れた様子でそう忠告した。

 壮馬がふと奏斗を見ると、その口元は緊張で引き結ばれ、額には汗をかいていた。

 他の面々も似たような緊張感に心を縛られているのが見て取れた。

 

 そんな様子のまま、壮馬達は迷宮を歩いていく。

 しかし、薄暗くて狭苦しい迷宮内は、それだけで精神を圧迫し、でこぼこと隆起してどこまでも続く地面は、そこを歩くだけで集中力を確実に奪い去っていった。

 時々遠くから聞こえる魔物の遠吠えが、精神の余裕を蝕み、歩き慣れない地面を歩くことで上がった吐息がうっとうしく耳にへばりつく。


 そんな状態に普通の人間が長いこと耐えられるわけがない。

 小一時間迷宮内を歩いただけで、壮馬達はへとへとになっていた。

 そろそろ限界だ。休憩したい。これ以上は無理。

 そう思い始めた壮馬達に、しかし迷宮は彼らの甘えを一切許さなかった。


 「ッ‼ 健太さん。前方右手、20メートル地点に魔物の群れです‼」


 余裕を失い表情を硬くした大輔が、索敵スキルに引っかかった敵の存在を静かに告げる。

 壮馬達の顔には一瞬にして緊張と衝撃が走った。

 健太がそれを聞いて、冷静に指示を出す。


 「数は?」

 「3匹です。大きさからして……おそらくゴブリンです。」

 「よし、全員武器を構えろ。戦闘はせず、警戒しつつ会敵しない道を進む。万が一戦闘になったら、お前らは攻撃ではなく防御に専念して自分の身を守ることだけ考えろ。それじゃ、俺が先頭を行くからついてこい」

 「「「了解‼」」」

 

 新人達はなけなしの集中力を振り絞って、己に与えられた命令を遂行しようと行動を始めた。

 素人だけで迷宮に潜ると、そのあまりの精神的負荷からパーティーとしての体裁を保てなくなる場合も多くあると言われている。

 彼らが未だに部隊の形を保っているのは、余裕な姿を見せている頼もしい先輩の存在があるからであった。


 やがて、健太達が枝分かれした道のうち、左側の通路を進み始めると、入れ違いに魔物達が先ほどまで健太達のいた場所へと現れた。

 警戒するために振り返った壮馬達はその魔物の姿を視界に捉えた。


「グギャ! グギャギャ?」

「グギャ! グギャ!」

「ギャー! ギャギャグギャー!」


 その姿は小さな醜い人間のようで……壮馬達新人は思わず身震いした。

 あの人間みたいな生物と殺し合いをすることを想像したら、胸の内にむかむかと不快感が沸き上がってきたのである。

 その緑色の肌をした小人たちは、辺りの匂いをしばらく嗅ぎまわってから、やがて壮馬達のいる場所とは反対の方向に向かって歩き始めた。

 

 その様子を見て、壮馬達は思わずホッと息を吐いた。

 しかし、その安堵こそが迷宮では命取りとなるのである。

 最後尾にいた壮馬は、ゴブリンたちが消えた方向から突然聞こえた風切り音に、ハッとして、瞬時に緩めた意識を研ぎ澄ました。


 直後、ガキン、と金属の激しくぶつかる音が響いた。

 その時になってようやく奏斗達も異常事態に気付き、何が起きたのかと心配になりつつ周囲を警戒し始めた。


「先ほどのゴブリンが魔弾を撃ってきました‼ 奴ら、殺る気です‼」

 

 剣で魔弾を受け止めた壮馬が、部隊の全員に聞こえるように鋭い声音で警告を発した。

 その声に瞬時に応えたのは、もちろん健太であった。


「全員戦闘態勢‼ 迂回は失敗だ‼ 攻撃することは考えなくていい‼ 敵から自分の身を守ることを優先しろ‼」

「「「りょ、了解‼」」」


 そのやり取りが終わるころには、先ほどのゴブリン達が道を戻って壮馬達のいる道へと突撃を始めていた。

 ゴブリン達は、知能は低いがバカではない。単純な戦法ならば運用するだけの頭脳があるし、ましてや実際の戦闘センスに関しては、野生の勘がある分、彼らの方が有利な側面もある。

 そんなゴブリン達は、奇襲が失敗したことを悟ると、それによって態勢を崩された敵の隙を逃さずに次の一手を打とうと考えて、素早く突撃を開始したのである。

 

 3匹のゴブリン達の突撃に対して、壮馬は剣を両手で構えて応戦の姿勢を見せた。

 ここで奴らの突撃を止めなければ隊列は崩壊する。部隊の一員として、意地でも彼らの突進を抑えなければならないと、壮馬は瞬時に覚悟した。

 その様子を見て、健太は場違いにも感心した。

 

(この状況で体を張る選択ができるのか。こいつ、思っていた以上に戦い慣れてるな。)


 健太は壮馬への評価を一段階上昇させた。

 そして、壮馬が剣を持った最初の一匹の斬撃を受け止めるのを確認すると、続く後続の2匹の対処に向かった。


「フッ‼」


 地面を踏み込んだ健太は、人間離れした速さで壮馬の脇を通り過ぎてゆく。

 そして、背中に背負った大剣を抜刀すると、ゴブリンめがけて振り下ろした。

 巨大な質量と圧倒的な膂力が合わさった一撃を受けて、ゴブリンの体はぐしゃりと嫌な音を立てて潰れた。

 敵があっけなくその命を散らしたことを確認すると、健太はすぐに足を回転させて、次のゴブリンへと一撃を入れるべく駆けだした。


 半ばパニックになった奏斗達を襲おうとしていたゴブリンは、健太の中段蹴りによって、横腹を蹴られて吹っ飛び、壁に叩きつけられて瀕死の状態になった。

 すかさず健太が大剣を突き刺して止めを刺すと、わずかに動いていたゴブリンの体が一度痙攣し、その後はピクリとも動かなくなった。


 健太が敵を倒して壮馬の方を振り返ると、壮馬は相手にしていたゴブリンの胸に剣を突き刺して止めを刺したところであった。

 その剣を引き抜いた壮馬は、肩で大きく息をしており、初の魔物との戦闘で非常に緊張していたことが伺えた。


(初めての探索で人型の魔物を殺めたか。さすがにストレスがかかりすぎているかもしれんな。少しケアが必要か。それにしても、大した胆力だ。)


 健太は壮馬のことを心配しつつ、その精神力の高さに驚いていた。

 普通はこういった戦闘への参加は3カ月ほどかけて徐々にならしていくものなのだが、壮馬はそれをたった1日で越えてしまったのである。

 その精神力には数年の探索者としてのキャリアがある健太でも脱帽するしかなかった。


 壮馬は今まで人型の生物を殺したことはない。そのため、たとえ魔物といえども、人のような生物を殺す感覚に、ひどい忌避感と吐き気、そして、めまいを覚えていたのは確かであった。それでも、壮馬はその感覚から逃げることなく、しっかり受け止めることが出来た。

 いや、正確には、無理にでも受け止めねばならないと思ったのだ。


(……ここで屈してたまるかよ。俺は母さんが死んだあの日、誓ったはずだ。どんな理不尽に見舞われようとも、妹を助けるって。この程度のことで動揺してちゃ、妹を助けるなんて出来っこない……)


 黒瀬壮馬の人生は、理不尽の連続だった。そんな中で鍛えられた忍耐力はどんな鋼よりも固く、そして柔軟であった。

 だからこそ、壮馬は生き物の殺害という感覚にも素早く適応できた。

 壮馬の精神は、素早く一度解体され、そして再び再構築されて生まれ変わったのだ。



 俺は今がした、ゴブリンを殺した。だが、それは間違っているだろうか?

 己の生存のために、他者を殺める。それが、この迷宮での生き方だ。

 ここには地上の法は存在せず、代わりに迷宮の作法が存在する。

 俺の行った殺戮は、迷宮によって許されたのだ。


 だが、迷宮の作法だけを守っていればいいわけではない。

 迷宮の作った法にのみ従う者を、人は魔物と呼ぶ。

 そして、俺は迷宮探索者。地上に住む人間だ。

 決して、人間を辞めるつもりはない。


 では、探索者とはどうあるべきか?

 迷宮と地上、二つの世界を行き来し、その精神のバランスを保つ者。

 それこそが探索者だろう。

 ならば、その二つの世界での生き方を矛盾なく同時に取り入れる必要がある。

 そのためには、どうするか。その答えは、決まっている。

 人間性を捨てず、その人間性を守るために、人でないものを殺すのだ。

 そう。まさに、悪魔と戦う力天使りきてんし達の精神。それこそが、俺の理想の姿だ。

 悪魔は殺す。このゴブリンは悪魔。

 たとえこのゴブリンが、もし生物学上ヒトと呼ばれる生物に置き換わったとしても、この理屈は揺るがない。

 なぜなら、何が人であるかを決めるのは、遺伝子ではなくそいつの本性だからだ。

 それこそが、迷宮と地上で共通する唯一の真理だったのだ。



 そこまで考えた壮馬は、ニヤリと笑った。先ほどまでは不快な感情に苛まれていたというのに、今はむしろ、喜びが沸き上がっていたからだ。

 悪魔を殺してやった。俺は生き残った。大切な者達を守り抜いた。

 その喜びに満ち溢れたのである。

 

 この瞬間をもって、壮馬は完全に覚醒した。

 その本性に人間性を残しつつ、人間の奥底に眠る残虐で無機質な野生の感覚を呼び覚ますことに成功したのである。


 これぞまさに狩人の姿。迷宮の洗礼を越えし、現代のハンターである。

 そう思わせるだけの風格を壮馬はこの瞬間に手に入れた。


(壮馬。お前……そうか。これが、これこそが探索者なのか。……なんて恐ろしくて、かっこいんだ。)


 奏斗はそんな壮馬の姿を見て、そう思った。

 だが同時に、客観的に見ているからこそ、なんとなく、その危うさにも気付いていた。


(……けど、あのニヤケ面、まるで魔物みたいなだな。)


 奏斗は先ほどのゴブリン達の表情を思い出してそう思った。

 そう、まだ完全に奏斗が気付いたわけではないが、今の壮馬は、紙一重のバランスで人間性を保っているに過ぎない。

 もし、悪魔と思って殺した人間にも自分を殺さなければならない事情があったら。そのことに壮馬が気付いた時、自分もまた彼らにとっては悪魔だと思ってしまうのではないか。

 結局自分たちも、自分にとって大切な何かを守るために、善良な人々を殺して回る悪魔なのではないか。

 迷宮犯罪に日々立ち向かう探索者の中にはそう考える者も少なくない。

 悪魔と戦う力天使りきてんし達が天使の中で最も堕天しやすいように。探索者達の中にも悪魔に堕ちてしまう者がいる。

 だから、迷宮犯罪はなくならないのだが……それはまた別の話であろう。


 何はともあれ、壮馬達の初の遭遇戦が終了した。

 壮馬は生き残るために、悪魔を殺す選択をした。そして、諸刃の剣(探索者の精神)を手に入れた。

 そう。壮馬が手に入れたのは、諸刃の剣。

 今後それを振るう度、彼は何かを犠牲にしていく。

 何を代償にするのかは……今後の壮馬の選択次第である。

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