第22話 消えない記憶1
窓の外を見ると、昨日の快晴とは一転して遠くの空には灰色の分厚い雲が浮かんでいる。このままいけば、昼前には雨が降り出しそうだ。
イヴが起こしに来るよりも先に目が覚めたエオノラは、カーテンを開いて窓の外を眺めていた。
(今日は早く屋敷に戻った方がよさそうね。濡れた姿で帰ったらイヴが心配して大騒ぎしそうだし、そうなるとなかなか自由にさせてもらえないから)
きっと風邪をひいたら大変だと騒いで熱々のお風呂に入れられた挙げ句、暖炉の前の肘掛け椅子に座らされて、苦い薬を飲まされるだろう。
過保護な彼女の行動を想像して苦笑していると、当の本人がお茶を乗せた銀盆を持って部屋の中に入ってきた。
「おはようございます、お嬢様。今日は雨が降りそうなので気分が良くなるハーブティーをお持ちしました」
「いつもありがとう」
長年仕えてくれているとあって、イヴはエオノラの体調や気分を熟知しており、それに合わせて毎朝種類の違うお茶を用意してくれる。
その何気ない気遣いと優しさが心に染み渡り、エオノラの心を温かくした。
淹れ立てのハーブティーを飲んだエオノラは、早速着替えを手伝ってもらった。
今日の装いは小さな花束がプリントされたブラウスに膨らみが少ない瑠璃色のスカートだ。
「いつ見ても我が家のお嬢様は大変麗しいです! あ、そうでした。修理に出していた柘榴石のペンダントが今朝届きましたよ」
イヴが銀盆の上に載せていた箱持ってきて蓋を開けてくれた。
チェーンは一新されて柘榴石のペンダントが収まっている。柘榴石はクリーニングのお陰でくすみが取れ、本来の輝きを放っていた。
「やっと戻ってきたのね。嬉しいわ!」
その言葉に応えるように、柘榴石が音を鳴らした。柘榴石も戻って来られて嬉しいと言っているようだ。
エオノラは音を耳にして目を細める。
「すぐお付けになりますか?」
「ううん。自分で付けられるから大丈夫よ」
「かしこまりました。では朝食の準備をして参りますので時間になったら降りてきてください」
イヴは扉の前で一礼するとティーカップを乗せた銀盆を手にして部屋から出て行った。
一人になったエオノラはテーブルの上にある宝石箱の蓋の上に柘榴石のペンダントを置いてみることにした。
心臓がドクドクと脈打ち、緊張が走る。
これで駄目だったらまた振り出しに戻ることになる。不安と期待が入り交じる中、固唾を飲んで見守っているとカチリ、と箱の中から音がした。
その途端、興奮して全身に鳥肌が立つのを感じた。
「ひ、開いたわ!!」
息を弾ませながら震える手で蓋を開け、中に入っていたものを取り出した。
それは一冊の小さな帳面だった。パラパラと頁を捲りながらエオノラは中身を確認する。
「……手帖? いいえ、これはお祖母様の日記帳だわ」
頁の上には日付が書かれていて、最初の方には彼女が初めて社交界デビューした日のことが書かれている。初めて舞踏会で踊った相手やどんな気持ちだったかが赤裸々に語られていて、そこには若かりし祖母の姿があった。
祖母が必要になるかもしれないと手紙に書いていたのは、社交界の心得をエオノラに伝えるためだったのかもしれない。
祖母のアドバイスは絶対に役に立つ。この日記帳は、社交界で置かれているエオノラの悪い状況を助けてくれる救世主になるかもしれない。
「ありがとうございます、お祖母様」
エオノラは亡き祖母を思い浮かべて日記帳を抱き締める。
「……そろそろ朝食を食べに行かないといけないわ。それに雨も降りそうだから早く死神屋敷へ行かないと。日記帳は気になるけど、帰ってからじっくり読むことにしましょう。ええっと施錠の仕方は確か……」
魔術師に関する資料によると蓋の上に再度鍵となる品を置くと施錠ができると書いてあった。日記帳を箱に戻して柘榴石のペンダントを蓋の上に置いてみると、先程と同様にカチリという音が鳴る。試しに蓋を開けようとしたが、ビクともしなかった。
エオノラは柘榴石のペンダントを自分の首に付けると、食堂へと向かったのだった。
食事を済ませたエオノラは早速外へと出かけていく。
使用人たちには毎回散歩だと伝えているので皆それを信じてくれている。今日はジョンに雨が降りそうなので早く戻るよう言われたくらいだ。
散歩は健康にも良く、お転婆な令嬢のように乗馬や釣りを嗜むわけでもないので小言を言われることもなかった。
(クリス様に会ったら、真っ先に宝石箱が開いたことを報告しないと!)
きちんとお礼を言って、それからいつもよりうんと美味しいお茶を淹れよう。
いそいそと通りを歩いていると背後から馬車の音が聞こえてきて、突然声を掛けられた。
「エオノラ!」
その声を聞いて思わず足が止まり、エオノラの心臓が大きく跳ねた。
馬車が隣で停車すると、中からあどけなさが残る可愛らしい令嬢――アリアが満面の笑みを浮かべて下りてくる。
「嗚呼、エオノラ! やっとあなたに会えて嬉しい!」
アリアは息を弾ませながら、エオノラに駆け寄ってきた。
橙色のワンピースで、裾にはレースの縁飾りがついている。愛らしさを強調するように腰には小ぶりなリボンがついていた。風がそよぐ度にリボンのレースがひらひらと揺れ、彼女をたおやかで可憐な妖精のように引き立てる。
その服は、アリアに頼まれてエオノラがアドバイスをしたドレスの一つだった。エオノラの胸がちくりと痛む。
アリアは眉尻を下げると自身の胸の上で手を重ねた。
「私、あなたが心配でたまらなかったの。どうしているかなってずっと気になって。だけどお屋敷に何度伺っても追い返されるし……もっと早くに会いたかったわ」
アリアはエオノラに縋るように抱きついてきた。彼女から、ふわりと男性向けの香水の匂いがする。その匂いはリックが普段使っている香りと同じだった。
「ア、リア……」
たちまちエオノラの身体が硬直する。
アリアはリックと会っていたのだろうか。こんな風に抱き合っていたのだろうか。時間はまだ朝なのにアリアからリックの香りがするのはどうしてだろう。
考えたって答えは出ないし、野暮なことを聞く勇気もない。
今の自分がどんな顔をしているのか想像できない。幸い、抱きつくアリアからは自分の表情が見えないことに安心感を覚えた。
エオノラは声を絞り出した。
「……私なら大丈夫だから。アリアこそ……アリアこそ、あの後状況を把握するのが大変だったでしょう?」
何故なら、エオノラがリックの婚約者だと知らなかったのだから。
するとアリアは小さく頷いた。
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