吐息の『愛の物語短編集』

紅色吐息(べにいろといき)

由香里さん

 

僕の住む学生寮は相部屋食事付きで6万円だ。安くて良いのだが、シャワーがめちゃしょぼい。


週に1回は巣鴨駅前近くに有る銭湯に行く。終湯は12時なのだが夜型人間の僕には少し早過ぎる。せめて1時ぐらいまで開けてて欲しいところだ。


今日も0時の営業終了時間ギリギリに銭湯の外に出た。

「こんばんは!」と後ろから声を掛ける人がいた。

振り向くと、この銭湯フロアで時々見かける30代ぐらいの女性だ。僕は愛想笑いしながら

「こんばんは。」と返した。

「よく会いますね、学生さん?」と人懐っこい雰囲気で話して来る。

「ええ、この近くの学生寮です、シャワーしか無いもんで、、」と僕が答えると、

「シャワーだけですか、それはちょっとね・・」と言い、

「それじゃあ、お休みなさい。」と素敵な笑顔を見せて去って行った。


短い会話だったが何故か心が安らぐ気がした。

東京に来てからというもの、校内の人以外で一般の人と話をしたのは初めてだったのだ。それにしても 笑顔の印象的な人だ。素敵な笑顔が目に焼き付いてしまった。


東京で知らない人に話しかけられたら気をつけた方が良い、とくに田舎から出て来た学生は狙われ易いから・・ 先輩の忠告がふと頭に浮かんだ。



それから暫く経った日の事だった。

12月に入り東京にも寒波が来て、その日の夜はかなり冷え込んだ。

僕は体をしっかり温めてから帰ろうと、終湯ギリギリまでねばってから銭湯を出た。

「今日は寒いわね!」と声をかけられ振り向くと、例の女性が笑顔で立っていた。

「寒いですね、冷えないようにギリギリまで長湯しました。」と言うと

「あら、私と同じだ!」と言って笑った。

「こっちでしょう?」

「ええ、同じ方向です。」

「私ねそこの・・ほら、このラーメン屋の横のね・・ここから上がった所なの」と言う。見るとラーメン屋の横に狭い階段が付いていた。

言われなければ見落としてしまいそうな細い階段だった。


彼女は素敵な笑顔で僕を見て

「ちょっと寄って、お茶でも飲んでいかない?」と言った。

一瞬迷ったが、彼女の笑顔に負けて言った。

「じゃあ、ちょっとだけ。」


鉄板の階段を上がると細い廊下が有り、2つのドアがあった。彼女の部屋は奥のドアの方だった。中に入ると6畳部屋で続きの部屋が台所になっている。

彼女はガスストーブに火をつけると

「立ってないで、炬燵に入りなさいよ。」と言った。

「コーヒーが良い?  それとも紅茶?」そう言って笑顔を作る。

「紅茶がいいです。」と言うと

「良かった、私も紅茶党なの、、」と言って笑顔を見せる。


この人は何かを言うたびに素敵な笑顔を作ってこちらを見る。営業系の人なんだろうか・・炬燵の上にはノートパソコン、テレビ台の横には本棚があり40冊ぐらいの本が並んでいる。

「読書されるんですね。」

「ミステリーが好きなんです、あなたも本を読まれます?」

「僕は古い本が好きで・・レマルクの西部戦線異状なしとか、フェミングウエイの老人と海なんかが好きです。」

「若いのに随分古典的なんですね・・」

「僕からすれば古典的と言うよりファンタジーみたいな感覚なんです。」

「レマルクをファンタジーとして読むんですか?」と彼女は笑った。


彼女は僕の田舎の事とか学校の事とかいろいろ聞いてくる。

「そうなのね、国家資格を取るために頑張ってるんだね・・」

「僕のクラスには沖縄から来てる奴もいるんです。田舎者ばかりですよ。」

「若い時に頑張るって素敵なことなのよ。私ぐらいの年になると良く分かるの。」


郷里を離れて東京で暮らしているとこんな何気ない会話が心にしみる。このお姉さんといつまでも話していたい誘惑にかられたが、1時を回ってしまったのでそうもいかなかった。


「あ、こんな時間になってしまった。そろそろ帰ります。ご馳走様でした。」

そう言って僕は立ち上がった。彼女はドアのところまで着いて来て、

「今日は楽しかったわ、また来て下さいな。夜はいつも居ますから、本当に来て下さいね。」と言い、僕の手をそっと握った。

「また寄せてもらいます・・」

僕はそう言って部屋を出たが、彼女が握った手の感触がいつまでも残っていた。


それから彼女と出会う事もなく、ひと月ほど経ったある日のことだった。僕は彼女の事が気になってラーメン屋の横の階段を上がってみた。彼女の部屋のドアをノックしようとした時、中で声がした。

「バカやろう・・お前なん・・・・んだ!」男が罵る声が途切れ途切れに聞こえる。

何を言っているのか聞き取ろうと 僕はドアに 耳を近かづけた。

その時、男が出て来る気配を感じて僕は慌てて階段を駆け下りた。続いて降りて来た男に背を向けてやり過ごすと、振り返って男の後姿を見た。刈り上げた頭と大柄な肩が印象に残った。男が行ってしまうと僕は急いで階段を駆け上がった。


そっとドアを開け中に入ると 彼女がベッドの端に座って泣いていた。

「こんばんは・・」と声を掛けた。僕に気が付くと 彼女は立ち上り 僕の首に 両手をまわすように抱きついてきた。そして 泣きながら激しくキスをした。

僕はキスをした事がなく、彼女のするがままに合わせるしか無かった。顔を離すと彼女の目の横に殴られた痕があった。彼女は僕の手を引いてベッドの方に誘った。ベッドの横で立ち止まりもう一度僕にキスをした。そしてそのままベッドに倒れ込んだ。


僕はセックスの経験は無かったが、彼女の妖艶な誘いに拒むすべは無かった。僕は彼女の乳房に唇を寄せ、彼女の手が僕をまさぐる。興奮した彼女の吐息が僕を興奮させる。僕は誘われるまま彼女の中に入いる。経験の無い僕は直ぐに興奮がMAXになり彼女の中で果ててしまった。


「あなたの名前  知らなかったわね。私は由香里って名前なの・・」

「ユカリさんですか、僕は海人です。」

「海人君  お願いが有るんだけど、このまま今夜 一緒に居てくれる?!」と言う。

「いいですよ、明日は日曜日ですし・・」と僕が答えると、

「良かった!  今夜は独りで居たくないから・・」と悲しそうに微笑んだ。


僕は さっきのチンピラ風の男の事が気にかかった。またやって来ないだろうか・・ユカリさんとはどんな関係なんだろう・・僕はスポーツ系では無いから喧嘩は苦手だ・・何かあってもユカリさんを守って上げられない・・そう思うとだんだん不安になってくる。


その僕の気待ちを見透かすようにユカリさんが言った

「あの男は元ダンなの、ああ見えても他人に暴力をふるう人では無いから心配しないでね。」

「でも、その顔の痕は・・」

「DVなのよ、他人には優しい人だから大丈夫・・」と言う。


その日から僕は、土曜日になるとユカリさんの部屋で過ごすようになった。僕は19才でユカリさんは30才だった。


ある日のこと、ラーメン屋の向かいのコンビニで買い物をした。買い物が済んで外に出ると男に声を掛けられた。見るとユカリさんの元ダンだった。

「この間は見苦しい所を見せて済みませんでした。ユカリにあなたの事は聞いています。ちょっとお願いがあるんですが・・ 今から少しいいですかね。」

あの日の印象とは違い、とても礼儀正しく温厚な感じがした。

「それじゃ、そこのカフェに入りますか・・」と僕が誘って店に入った。


「私達は、相性が悪いというか・・ユカリは たまにメンタルをやられましてね。時々キレるんです、 そうなると私も対応が出来なくなって、バーンとやってしまうんです。そんな事を何度か繰り返しましてね。それで別れたんですよ。でも腐れ縁と言いますか、今でも何かある度に電話をし合ってます。あれからも電話がありましてね、あなたの事も聞きました。ユカリはあなたに惚れてますよ。」

「僕はまだ学生ですし、何も出来なくて・・」


「福岡で仕事がありましてね、数日中に九州に経ちます。もうユカリと連絡を取るのは止めようと思いまして。スマホを替えて電話番号も変えました。その事はユカリに言ってません。で、お願いがあるんですが・・私の新しい電話番号をあなたに知っておいて欲しいんです。 もしもの為にです。 今あなたが居て ユカリは幸せそうです。これを機に私も前に進みます。」そう言って彼は電話番号を書いた紙を僕に渡した。

「もうお会いする事は無いと思います、ユカリのことはお願いしますね。」そう言うと彼は「それではお先に・・」と言って先に席を立った。


僕は渡された紙を見た。手書きの携帯番号の下に 吉田と書かれていた。

・・手に負えない時は放置しないで 連絡をくれ・・という意味だろうと思った。


その事があってしばらくして僕は学生寮を出てユカリさんの部屋に移った。ユカリさんはよく働いて僕の学生生活を支えてくれた。3年後、僕が卒業した年にユカリさんと結婚した。ユカリさんが僕より11才年上の年の差婚だ。

結婚してからも彼女は僕の事を海人君と呼び、僕は彼女をユカリさんと呼んでいる。


元ダンが言った通りユカリさんは周期的にメンタルが壊れる。そんな時は、僕は彼女を抱きしめる。彼女が落ち着くまで抱きしめて「愛してる・・僕がついてるから・・」と繰り返し言うのだ。

だいたいそんな事でユカリさんのメンタルは落ち着いてくる。 ユカリさんは それほど難しい人ではない。

でもそんな時、僕はふと思い出す。 元ダンから預かった あの電話番号のことを。

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