『シャコンヌ』

『シャコンヌ』


荘厳で落ち着きのある楽曲は、ゆるやかさの中にも強さがある。

今回の”お別れビデオ”に使用された楽曲は故人指定のものだった。


J.S.バッハ

『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番二短調 シャコンヌ』のブラームス編曲版だ。


今回の葬儀でゆきは担当である坂元から ”お別れビデオ”の作成・編集全てを任された。

今までも土台的な手伝いはしていたがビデオ製作全てを担当するのが初めての事。

それもあり気合が入っていたのは勿論だが、作業を進める内に両親との不思議な繋がりがいくつかある事に気付く。

葬儀の際に制服姿の学生が多くいた事にも懐かしさを覚え、両親との思い出が沢山浮かぶ不思議な時間を過ごす事になった。


 ***


故人である斎藤実さんは千歳市の市立高校教諭だった。

斎藤氏が美術教諭というのもあるのだろうか。

同じく高校教師であったゆきの父親の雰囲気は違い、写真に映る実さんの姿は父よりもずっと芸術家然としている。

奥様も感性豊かな方らしく、陶芸が趣味だと聞いた。

生前のエピソードを聞く為に自宅へ伺った際に驚いた事がある。

自宅内に池があったのだ。庭にではなく室内に。

何故そこに池があるのかという質問は未だに出来ていないが、夫婦どちらかの希望だったのだろう。


応接間の奥には共用のアトリエがあり、間に仕切りが付けられている。

ここで実さんは絵を、奥様は陶芸を嗜んでいたという。

それぞれに適した温度や湿度があり、その調整の為に仕切りを付けてあるらしかった。


打ち合わせの際、もともと画家を志していた実さんが教師を目指すきっかけとなったという1枚の絵の話を聞く。

その絵はある1人の高校教師が描いたもので、コンテストで優秀賞を受賞したものらしい。

そのコンテストには当時高校3年生だった実さんも出展していたのだが、惜しくも彼は準優勝だった。

「教師をしていたからこそ、描く事の出来た作品です」

悔しい気持ちで臨んだ受賞式。

その高校教師が話す姿に実さんは心を打たれた。

「生徒達との日常で得られた人間としての深み、又、生徒達から聞く率直な感想が自分の絵を更なる高みに連れて行ってくれました」

この言葉を、後に彼自身も体感する事になる。


学生時代の実さんは、人の意見をあまり聞き入れないプライドの高い人物であったらしい。

芸術家としての個性としては長所にもなり得るのだろうが、ある時期で伸びが止まってしまったりただの自己満足で終わってしまう危険性もある。

学生対象のコンテストで連続して上位賞を受賞した頃、自信に満ち溢れた実さんは一般のコンテストにも応募を重ねるようになったのだがそこで突如スランプに陥った。

何を描いても納得がいかず、その内に自分が何の為に絵を描いているのかもわからない。

そんな時に参加したのが先の授賞式である。

急な進路変更にはなったが教師の道を目指す事に決め、そして見事それを実現させた。

美術教諭となった彼は、それからの人生がどんなに素晴らしいものであったかを自伝に綴っている。

そう、彼は自伝の出版もしていたのだ。


それからの彼の絵は大きく変わっていったのだと言う。

自己を追い込み他者を拒絶し、心の奥底で自問自答して生まれる今までのスタイル。

それが、相手に想いを伝える為の開かれた絵画へと変わった。

その変化は絵の雰囲気が暗い・明るいという単純な違いではない。

数枚の作品を見せて貰ったが、昔も今も共通して斎藤氏の作品にはどこか影がある。

それが彼の持つ強烈な個性なのだろう。

影を陰として孤独や苦しみを表現していた作風から、光を知る人だからこそ見る事の出来る影を描くという変化。

その変化は確実に作品の深みになっている。

絵画について造詣がないゆきにもわかる程、その違いは歴然だった。



実さんがここ数年の製作時に聴いていた音楽がシャコンヌだったようだ。

彼は昔から絵を描く時にクラシック音楽をかけていた。

「無音の中では良いアイデアが浮かばない」というのが彼の持論である。

作品へのアイデアが浮かぶと、急にまるで何の音もしていないように感じる時があるという。

それこそが作品に集中出来ている証明になるのだそうだ。

そして彼が音楽を聴くのにはもう一つの理由がある。

作品に没頭した後にふと我にかえった時、そこが無音だと恐怖を感じるというのだ。

このまま誰に認められる事もなく、自分だけが世界にただ1人取り残されるのではないかという恐怖。

そこから救ってくれるのが音楽だった。


奥様との出会いは学生時代。

とは言え当時は交際していたわけでも友人だったわけでもない。

学内で少し変わり者扱いされていた実さんは、学校の誰とも特別親しい関係では無かった。

高校の美術教諭として人生をスタートさせた彼に偶然再会した時に、その変わりように驚いたと言う。

「今だから言うけれど…少し近寄り難いような当時の彼も、再開した時の穏やかな彼も、どちらも魅力的でしたよ」

懐かしむような笑顔でそう話してくれた奥様はとても幸せそうだ。

昔を知っていたからこそ彼の変化に気付いたのだろう。

彼女はこれからもあのアトリエで 作品を創り続ける。


 ***


斎場の大きなモニターに実さんが描いた壮大な絵が映し出される。

家族も、生徒たちも、優しく穏やかな表情でそれを見つめている。



その様子を眺めながら、ゆきは両親の葬儀の事を思い浮かべた。

あの日の自分はまだ動揺の渦中で、参列してくれた生徒達の表情も彼等と交わした言葉も何も覚えていない。

あの時参列してくれた生徒達もこんな風に父を送ってくれていたならいいな。

今更ながらそんな事を思う。



後日、奥様の作ったお抹茶用の茶碗を2つ購入した。

ひとつは自分に、もうひとつは姉に。

引越しの際に茶器は全て持って来ていたのだが、なかなか落ち着いてお茶をたてる時間がなかった。

次の休みには姉を招待して久しぶりにお抹茶をたてよう。

茶道と華道の先生をしていた母は、私達 娘2人にお茶をたてるのも好きだった。

おおまかな作法は2人とも習ったが、せっかちな性格のこのみはさっさとお菓子を食べては一気に飲み干し母を困らせていた。

ゆきもまた、そんなやり取りが面白いと思う程度で真剣に学ばなかった事を残念に思う。


出来る内に出来る事を。

後からいくら望んでも、叶わない事があるのだから。

シャコンヌを聴きながらそう誓った。

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