4-2 逃亡と真実の断片

 どうしよう、起こしてしまっただろうか。眠っていたところを邪魔されるのは不快でしかない。怒られるかもしれない。

 ぐるぐると焦って思考を巡らせるリーリャの目の前で、アヴェルティールの瞼がわずかに持ち上げられた。


「……フィーユ……?」


 わずかにかすれた声がリーリャの鼓膜を震わせた。

 呼ばれた名前は聞き覚えのないもので、リーリャがこれまで生きてきた中でも耳にしたことのない響きだ。

 けれど、その名前がアヴェルティールにとって特別なものであることは簡単に予想ができた。


「フィーユ、どうした……眠れないのか……?」


 名前を呼ぶアヴェルティールの声がとても柔らかいから。

 リーリャに向ける声よりもはるかに柔らかく、巡礼騎士のふりをしているときに発する声よりも自然な響きがある声は、アヴェルティールと行動をともにする中で一度も耳にしたことのない声だ。

 この声は、彼が本当に親しい相手にしか発さない声なのだと直感するには十分すぎる。

 ぎゅうと胸が強く締めつけられ、くらくらしそうなほどの強いショックがリーリャを襲った。


「え、と……その……」


 こちらを見るアヴェルティールの目は眠たげにとろけており、はじめて出会った日のような冷たさは一切感じられない。

 寝ぼけて誰かと――フィーユという名前の誰かとリーリャを勘違いしている。


「あの、アヴェルティールさん……私は、その……」


 この場にいるのはフィーユではない。リーリャだ。

 そのことを伝えたくても、先ほどの強いショックがまだ残っているからか、なかなか声が出てこない。

 意味を持たない短い言葉を数回発するだけで、自分はリーリャだと主張する言葉が喉から出てこなかった。


「……ん」

「!?」


 ぐんっと強く腕を引っ張られ、リーリャの身体が大きく傾いた。

 とっさに手をついて身体を支えようにも、片腕はアヴェルティールに掴まれている。残された手をつく場所もすぐには見当たらない。

 このままではアヴェルティールの上に倒れ込んでしまう――そう思った瞬間、アヴェルティールがもう片方の手もリーリャへ向けて伸ばし、バランスを崩したリーリャの身体を優しく受け止めた。

 ふわり。わずかな石鹸の香りがリーリャの鼻孔をくすぐり、優しいぬくもりが身体を包み込む。

 視界にはアヴェルティールが身にまとう寝衣がいっぱいに映り込んでおり、彼の腕の中にいるのだと数秒遅れて頭が理解した。


(!?)


 ぼっと顔に熱が集まるのを感じる。

 慌ててアヴェルティールの腕の中から逃げ出そうにも、わずかに身じろぎをした瞬間、強く抱きしめられてしまえばもう動けなかった。

 アヴェルティールの手が背へ回され、ぽんぽんとリーリャの背中を優しく叩くようにさすってくる。


「……怖い夢でも見たのか……? なら、こうしといてやるから……」


 ぽん、ぽん。


「だから……フィーユも、ちゃんと……寝ろ、よ……」


 一定のリズムで優しく背中をさすってきていたが、途中で動きが止まった。

 ちらりと見上げてみると、眠たげなとろりとした目は再び閉ざされ、小さな寝息をたてているアヴェルティールの顔が視界に映る。

 誰かと間違えて寝かしつけようとするうちに、彼のほうが眠気に負けてしまったらしい。より近くで見る彼の寝顔はどこか幼く見えた。


(寝ちゃった……)


 結局、リーリャを誰かと勘違いしたまま再び眠ってしまった。

 起きてから否定するのも考えたが、寝ぼけているときの行動と言葉だ。朝日が昇る頃には他の誰かとリーリャを勘違いしていたこともすっかり忘れてしまっているだろう。

 ばくばくとうるさい心臓を押さえ、大きく深呼吸をする。

 心臓はうるさいまま。顔にも熱が集まっているため、火照ったような感覚がする。

 けれど、リーリャの胸の奥だけはわずかな鈍い痛みを訴えていた。


(……誰なんだろう。フィーユって)


 フィーユ。その名を口にしていたアヴェルティールの様子がリーリャの頭に浮かんだ。

 あんなに優しい声で呼ぶのだ、深い仲か特別な仲であるのは間違いない。

 怖い夢を見たのかと考えてこうして抱きしめてくれるのだから、フィーユという人物はアヴェルティールにとって一等大事な誰かであるのも間違いなさそうだ。

 つきん。再び胸の奥が鈍く痛み、リーリャは顔をしかめる。


(……アヴェルティールさんに特別な人がいてもおかしくない。なんでショックを受けてるの。それに、今はこんな思いを抱えてる場合じゃない)


 心の中で自分自身に言い聞かせるも、胸の奥は鈍い痛みを訴えたままだ。

 ふるふると首を左右に振り、リーリャはぎゅっと目を閉じる。


(寝よう)


 そうだ、寝よう。

 きっと不安になる夢を見たあとだからだ。彼が死んでしまう夢を見たあとに優しくしてもらったから、こんなにも心が揺れ動いているに違いない。

 だから、こんなの。こんなの気のせいだ。それこそ勘違いしているだけだ。


(……私とアヴェルティールさんには、やらないといけないことがある。こんな思いにうつつを抜かしている余裕はないんだから……)


 明日は次の神殿に向かわないといけない。きちんと寝ないと移動で体力を使い果たしてしまうかもしれない。

 何度も繰り返し自分自身へ言い聞かせながら、リーリャもゆっくりと目を閉じた。

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