赤ちゃんあそび / もくふー。

追手門学院大学文芸部

第1話

 おしゃぶりだ。

 起きると、何かを口に咥えていた。普通は、そんな口内の異物など咄嗟に吐き出そうとするだろうが、なぜだか妙に落ち着いた。しばらく前歯で噛み、舌の感覚を頼りに導いた答え。それが、それだ。二十数年ぶりに咥えたせいか口輪筋は驚いているが、不思議と違和感はなく、幼少期の感覚が身体に残っているかしらと寝ぼけた頭で理解した。

 いや、理は解したが違和感しかない。ガバリと布団から起き上がって、私は周囲を確認した。いつものワンルーム。いつもの匂い。いつもの緩いワンピース。いつものおしゃぶり。待て、おしゃぶりはいつもしてない。


「起きた?」

 キッチンに通じる扉が開かれてエプロンを着た女性がひとり入ってくる。

「おはよう。っていっても、もう夕方だけど。よく寝たねえ。はいこれ。まんま食べましょうね」

 女性はプラスチックのプレートとフォークを差し出す。中には粥というには煮詰められすぎな米粒が光っていた。

「ほえあ?」

「これ? 離乳食」

 おしゃぶりを咥えたまま間抜けな声を出す私に、当たり前のように彼女は答えた。

はて、私は数日前に乳離れをしただろうか。自分の手は明らかに成人済みの手だ。たった今、おしゃぶりも外したのだから、立派な大人であることは疑う余地もない。ならば、疑うべきはこの目の前の。

 見覚えは、あった。笑った時に少し下がる眉とか、白い肌とか。隅々まで観察した後、足下に転がっていたキャンバスに目をやる。私が描いた作品。二週間ほど前に描き始めたその絵には、彼女そっくりの女性が佇んでいた。そうだ、これ私の作品だ。作品が話しかけてきた。

「幻覚。夢? まだ、寝てる?」

「え、やだなあ。忘れちゃったの? あたしだよ、あたし」

「私の、作品。それ」

「え? あ。ほんとだ。これあたしがモデル?」

「違うけど」

「あ、そう。いや違うって。昨日の夜、覚えてない?」

 昨日の夜。あれ、何してたんだっけ。キッチンの奥に並んだ缶ビールから、部屋のハンガーにぶら下がったコートから、遮音性の高いイヤホンから、記憶を探した。




「昨日は昨日、今日は今日っていうじゃん」

 少し赤らんだ頬をそのままに、友人は酒をもう一口飲んだ。それを見て自分も一口、お酒と枝豆。仲の良い大学時代の友人数名の飲み会は、定期開催だ。私が何もしなくても日程が決まって、お店が決まるのでありがたく便乗させてもらっている。毎回、何もせずに楽しみだけを啜るのが申し訳ないという顔をしていくのだが、友人はさしてそんなことは気にしていないようだ。今日も、私の世間話という名の悩み相談に耳を傾けてくれた。


「でも何とか普通の生活できてるんでしょ。じゃあいいじゃんね」

「いや、ほんと、それはね。何とか。あ、これハズレ」

 私は中身の入ってない枝豆を掴んで見せる。

「そんなもんでしょ。あんた別に贅沢しないし、家族もいるし友達もいるでしょ。そんくらいで、ゆるゆる生きてけばいいじゃん」

「ゆるゆるでね。仕方ないか」

 ゆるゆるの生活。大学に入って意気揚々と都会に出てきたが、実際は日々淡々とした毎日が続いていた。親からのお恵みと少しの自分の働きで何とか生活はやっていける。仕事だって、給料や生活より精神の安定を選んだものだ。人より努力をしなくて済むような、何もかもの水準が低めに設定されたもの。幸せな生活でゆるゆると生きているのだ。悩みを持つなんて、贅沢な悩みなんだろう。

 世の中には大変な人がたくさんいて、私には凄惨な過去も現実に横たわる困難もない。恵まれているのだ。ただ当たり前の日常があって、それをゆるゆると生きれば良い。簡単なことだった。

「まってその枝豆、うちが食べたヤツ。あんたのこっちだってほら」

 友人は笑いながら最後の枝豆を私に譲った。

「あ、ありがとう」

 最後の一口、優しさの塊を遠慮がちに口に放った。


 柔らかくて真綿みたいな善意が全身に巻き付いたまま、帰路につく。遠回りして、人通りの多い地下道を通った。百貨店が併設された道には、キラキラしたショーウインドウに目もくれない人々が歩いていた。たくさんの話し声や足音が大きな天井や壁に反響して、一つの大きなざわめきになって鼓膜を揺らした。ついでに、アルコールで茹だった自分自身も溶かしたようで、どろり。自分の足からでる音も、その轟音の一部に溶けて混ざった。

「あー」

 少しだけ、声を出す。出さないと溶け出してしまった自分の輪郭が保てない。足から手から溶けて混ざってしまう。

「あー。あー」

 大丈夫。聴こえる。自分の声帯の震えは鼓膜に響いて、自分を証明してくれた。ここにいる。でも、「ここにいていい」と応える声はなくて。

「あー」

 少しだけ大きな声が出てしまった。ハッと顔を上げると若い女性と目が合った。他数人がこちらを見ている気がして、早足でその場を去った。

 また、だ。またこんなことをしてしまった。普通にしていたはずなのに。帰ってもう一杯だけ飲んで寝よう。早く。そうして、さらに歩くスピードをあげた時だった。


「ねえ、待ってよ」

 何者かに腕を掴まれ驚いて振り返ると、先程目が合った女性が立っていた。

「ほら、やっぱり。久しぶり」

 この時間のこの通路、ナンパかマルチかエステの勧誘か。そう身構えたが、女性の名乗った名前には心当たりがあった。

「あ、中学の時の」

「そう。良かった。覚えててくれた」

「久しぶり。ほんとうに久しぶり」

 何年も経っていたから顔を見ただけでは分からなかった。中学の時は、あんなに一緒にいたのに。

 それから、人が行き交う場所を避けて立ち話をした。近況を語るには離れていた期間が長すぎて、終電までの時間は短すぎた。

「家、この近くなんだけど、来る?」

 気が付けば、まるで中学生の時に戻ったかのように彼女を家に招いていた。



 そして現在。私の誘いに乗った彼女はキッチンで何やら作業をして、こちらに話かけている。

「そうだよ。君が誘ってくれたんじゃん。やっと思い出した?」

「あのあと、お家で酒開けて、何本か飲んで。あれ、なに話したっけ。いつのまに寝てた?」

「えー。中学卒業してからのこととか、近況とか話してたのに」

「近況?」

「そうそう。君、県の有名な高校いって、頭良い大学進んだんでしょ。こっちの大学とか倍率すごいじゃん。ほんと優秀だよね」

「そんなことないけど」

「あたしなんてほんと普通の高校でさ。まあ楽しかったけど。でも、働き出して会えるなんて。しかもおんなじような職種でさ。びっくりしちゃった。また一緒になれて嬉しいな」

「……そうだね」

「なんか変な感じ。いつもどっちかというと、君に世話される側っていうか面倒みてもらってたでしょ」

「そうだっけ」

 彼女は鍋で何かを温めながら言葉を続ける。一方、私はこのおかしな状況をやっと把握しはじめていた。

 溜まっていた洗濯物も食器も片付けられていた。床に散らばっていた書類と髪の毛も同様に。動かされていないのは大きな家具と絵描き道具くらいだった。フローリングが顔を出している。それに、久々の換気だ。少し空いた窓に、他人の二酸化炭素。それだけで、こんなに湿気は吹き飛ぶのか。私は、改めて昨日の夜のことを恥じた。きっとひどい状態の部屋に彼女を招いたのだろう。


「ごめん」

 私の小さな呟きと同時に、彼女は火を止めた。

「え、なにが?」

「洗濯物、食器も、掃除も」

「ああ、別にそんなの。気になってやっちゃっただけ。むしろ勝手に部屋いじったんだから怒られるかと思った。謝んなくても」

「できなかったから。あと情けなくて恥ずかしくて」

「現代人、忙しいし仕方ないでしょ」

「ううん、他の人より休みもあるし、することも少ないし。休みの日も、休みの日も、早く帰ってきても、できなかっただけ。いや、しなかっただけだよ。面倒で」

 洗濯物が溜まっていたのは知っていた。数少ないやるべきことが溜まっているのも知っていた。1つずつ片付ければなんてことはないのに、増えれば増えるほど何から手をつけたらいいかわからなかった。ただの家事なのにね。人より努力しなくて済むような、何もかもの水準が低めに設定された生活の水準を、満たすことすら精一杯。それでも、幸せな普通の生活にしがみついて、なんとか外には出ている。昨日だって外に出て遊んでいた。そうすると、逆に帰りたくなくなってしまったのだ。だから彼女を巻き込んで現実を誤魔化そうとした。


「ごめん」

「だから、もういいって」

「いや、これは、中学の時の私みたいじゃなくて、ごめんってこと」

「人は変わるもんでしょ。今は少し疲れてるだけで、またできるようになるって」

「ならないよ」

 せっかく擁護してくれたのに、また私はそれを否定する。助けてくれる手を、自分から拒んでしまう。

「ほら、この絵だって素敵」

 そういって彼女が手に取ったのは、先程足下に転がっていたキャンバスだった。彼女が横に掲げると、本当にモデルにして描いたかのようにそっくりだった。

「うん、その絵、絵画教室の先生も褒めてくれて、みんなにも褒められた。なんとなく描いただけだったんだけど、いつのまにかあなたになってたみたい。別にモデルにしたわけじゃないけど、なんかごめん」

「うれしいなあ。ほんとうに上手。色とか、綺麗。また描いてよ」

「みんな褒めてくれるけど、もう描きたくない。それは落描き、どこにもだせないくらいの」

「いらないならもらって良い?」

「いいよ」

「ほんと? あたしこれ好きだよ」

 彼女は本当に嬉しそうに目を細めて、その絵を眺めた。こちらも嬉しくなる。どんな作品だって認められると嬉しいのだ。自分を全て肯定されたような気持ちになる。でもダメだ。

「だめだよ、こんなの。私の作品なんてどれも、死にたいの婉曲表現なんだから。それにしかならないの。だから、だれかに押しつけるものじゃない。」

 静まりかえる。ダメだ。死にたいも生きたいも、悩みも、軽々と口に出すようなことじゃない。こんなな風に空気を壊してしまうから。でも、今の私に人に気を遣えるほどの余裕はない。そして余裕がないことを理由にして、人に気を遣わずにものを言って彼女を困らせている。ああ。

「私、面倒でしょ」

「うん、正直ちょっとだけ」

「だから、褒めても良いことないよ。受け取れないから。馬鹿だって言って」

「馬鹿じゃないよ」

「やめてよ。できたのは過去の話で、いつのまにかこんなになってた」

「できてるよ」

「ちがうの。期待しないで、馬鹿だって言って。普通だと思われて後から失望される方がよっぽどしんどい」

「それ、昨日も言ってた。赤ちゃんになりたいっていってた」

「え」

「あ、すごいドン引きみたいな目で見てるけど、これ言ってたの君だからね」

 昨晩の記憶を掘り返したが、確かに言ったような。言っていないような。全く都合の良い頭だ。

「だからこれ。はい。さすがに哺乳瓶はなかったから、普通のホットミルクになっちゃった。ふーふーしようか?」

 彼女は机にカップを置いた。反射的にお礼の言葉を返す。このお礼は言えるのにな。小さい頃から、お礼も言えたし人に感謝して生きてきたし、育ちはよかった。よく育ててもらったのに、どうしてこうなったんだろう。

「どうしてだろ。馬鹿でも赤ちゃんでもなんでもいいから、そう思われたいの。期待されたくなくて、多分許されたいんだと思う。泣いてもぐずっても許されたい」

 結局の所、免罪符がほしいのだ。何も出来ない罪を許してほしい。生きていることを許して欲しい。こんなにも優しくしてもらえているのに、差し伸べてくれた手を掴むことができない私を、それでも許して欲しいとほざいている。

「だからそれ、昨日同じこと言ってたって。

そんでね、こっちが馬鹿じゃない、大丈夫だ、違うよっていっても聞いてくれなかった。だけど、赤ちゃんになりたいってのは願いだったし、叶えられそうだったからやってみたんだけど、どうかな」

「うーん、情けなくて恥ずかしい。みっともない。それでも、期待されるプレッシャーよりよっぽどいい」

「そか。真面目な話さ、君以外の人が君を馬鹿だと言っても、きっとその悩みは消えないでしょ。だって、君が期待してるのは君自身だから。自分で自分に期待してる。やめなよ、自分で自分苦しめるの」

 合ってる。返す言葉もなくてミルクを口にする。温かい。


「君さ、どうしてそうなっちゃったの?」

「ずっと、いつのまにかこうなってた。なんかきっかけがあったわけじゃないよ。病気になったわけでも、大切な人を亡くしたわけでも、なにか理不尽なことに巻き込まれたわけでもない。ただ、こうなってた」

「今は少し疲れてるんだよ。もう少し休んだら、きっと普通に生活できるようになるよ」

 普通に、できるだろうか。今は目の前に彼女がいるから、少しできる気がした。でも、いなくなって、またしんどくなって、同じ事を繰り返す気がする。

「できないよ」

「大丈夫だよ。ゆっくりして、焦らずにいけばさ、普通に学校に行って普通に働ける人みたいに戻れる。ゆっくり治していこうね」

「治す? なにを。」

「元々の君に、治そうってこと」

 この言葉は彼女の優しさだ。善意。それがまた、真綿のように巻き付く。優しくしてもらえているのに、何もできない自分が苦しい。

 そんな私がなにを言おうが、彼女は面倒くさがらずに会話してくれる。私がいま赤ちゃんだからだろうか。それが救いに感じて少し恐い。このミルクがなくなって、赤ちゃんじゃなくなったら、また冷たい牛乳を流し込む日々だ。カップは数日放って、洗うときに泣く。


「どうして、そういってくれるの」

 気になって尋ねると、彼女は絵を眺めていた目をこちらに向ける。

「それ、知りたい?」

「うん」

「わかった。あのね」

 少し微笑んだ。


「ねえ、待ってよ。久しぶり。ほんと優秀だよね。また一緒になれて嬉しいな。仕方ないでしょ。もういいって。今は少し疲れてるだけで、またできるようになるって。この絵だって素敵。ほんとうに上手。色とか、綺麗。また描いてよ。あたしこれ好き。馬鹿じゃないよ。できてるよ。やめなよ、自分で自分苦しめるの。どうしてそうなっちゃったの? 今は少し疲れてるんだよ。もう少し休んだら、きっと普通に生活できるようになるよ。大丈夫だよ。ゆっくりして、焦らずにいけばさ、また普通に学校にいって普通に働ける人になれる。戻れる。ゆっくり治していこうね。元々の君に、治そうってこと。知りたい? わかった」

 一気に、でもゆっくり、言い聞かせるように彼女は口を動かした。


「あのね、これ全部、中学の時に君があたしに言った言葉だよ」


 彼女がいなくなったのはいつだっけ。確か、中学の卒業ではない。その前、少し前だった。どうして、彼女は学校に来なくなったんだっけ。どうして、高校の進路も教えてくれなかったんだっけ。

「ずっと、君が憧れだった。君のとなりに並びたかった。」

 私の脳内の質問の答え合わせをするように彼女は話しだす。

「学校にいかなくなっても遊びに来てくれるのは君だけだった。だから、頑張ったの。君の言う言葉ひとつひとつ、叶えていけば並べると信じてた。できるよ、大丈夫、戻ろうって。暗い部屋で、普通の子ができるような勉強も何もできないけど、大丈夫だって。頑張って、でも、できなかった」

 彼女は、愛おしそうにキャンバスをなでる。

「でも、中学の時ね、絵だけは君に勝てる唯一のものだった。それなのに、君は純粋に私の絵を見て喜んで、褒めた。その度に、自分が恥ずかしくて浅ましくてどうしようもなくなった」

 今度は、その目を私に向ける。

「君の隣は楽しくて、辛かった。だから中学卒業して逃げたの。結局高校でも上手く生きていけなくて、途中で辞めちゃったけど。ねえ、ずっと君の言葉に蝕まれ続けてたんだ。」

 何も言えない。私はそれを言ったことすら覚えていない。それほど小さな優しさの言葉だったんだろう。

「やっと、この気持ちがわかってくれたんだね」


 これ、彼女の復讐だったんだ。



 彼女の視線に耐えられなくて、家を飛び出した。雨が降っていた。

 雨も、水たまりも気にせず走った。雨が降る夜のアスファルトは鏡になって自分を映し出す。ワンピースの中を覗き込んで、君の心の中は真っ黒だと見せてくる。自分の罪状を読まれている気分だ。

 一心不乱で走って、大通りに出る。そこでやっと傘を持ってきていないことに気がついた。

「一人で行っちゃだめでしょう」

 その声の方を見ると、彼女も傘を持たずに立っていた。近づこうとした彼女を睨んで止める。

「ごめんなさい。あのとき、なにも分からずに傷つけて。でも、やめて。

 今の私は、赤ちゃんじゃない。外にいるから。まだ、私は外なら普通でいられる」

「自分は自分でしょ」

「それも、私が言ったの? 言ったんだろうな。そうだよ。自分は自分だって分かってる。でも分からない夜があって、それを見失う帰路があるの」

「それで、赤ちゃんになりたいとか言ったの?」

「分かってるよ、これが甘えだって。みんな頑張ってるんだって知ってる。私がしてないだけ」

 少しだけ大きな声が出てしまった。少しの人数がこちらを振り返ったのを感じた。見ていないけれど、感じた。涙が溢れてきてしまう。早くここから離れないと。

 「帰る」と、一言告げて足を進めようとした。あれ、できなかった。泣いたせいか、しゃくりあげてしまい二の句が継げない。呼吸が、定まらない。嗚咽というには、あまりにも。上手く、空気が、入らない、出ない。

 みんなが遠巻きに見る。奇異のもの、かわいそうなもの、珍しいものとして見てくる。見てないけれど、見える。私の中のたくさんの目が見てる。

 また、だ。

 またこんなことをしてしまった。普通にしていたはずなのに。しがみついていたのに、できなかった。

 普通の日常、普通の生活、それすらままならない。でも、それは甘えだ。頑張ればできることだから。みんな頑張ってるんだから。甘えんな、恥ずかしい。誰もが乗り越えたら忘れてしまうようなしょうもない理由では、死ぬ理由にもならない。

 涙を止めないと、嗚咽を、呼吸を、止めないと。ごめんなさい。

 差し伸べた手も掴めない、それすら下手くそなんだ。

 でも、お願い。気づいたら手を延ばしていた。苦しくて地面に着きそうになった手は、寸前で彼女に掬われた。

 自分にはない温かさが染みこんでくる。顔を上げないまま数分たっても彼女はなにも言わなかった。


 涙も尽きて、吸う息も吐く息もなくなって、やっと安定した呼吸ができるようになった。でも、身体の震えが止まらないし顔も上げられない。

「最初から、そうすればいいのに」

 何か返してやろうと思った。でも、また同じようになるのが恐くて、彼女の言葉を震えて待った。

「どうして、あたしの気持ち分かるようになっちゃったんだろうね。1回折れたら、戻らないんだよ。骨折ってくっつけるみたいにはいかないの。ただ、進むしかなくなるの。分かってくれた?」

 彼女は私と同じようにしゃがみこむ。目線を合わせるように。

「でも、救いだったんだよ。君が。どんな言葉をかけられても、それに苦しめられても、躁鬱の躁の中で君といる時間は楽しくて、鬱の中では支えだった。ほら、息ちゃんと吐いて」

 やっとの思いで深呼吸を繰り返す。彼女は私が落ち着いたのを見計らって、頭をなでた。

「それでね、人って、案外一人になれないんだって気づいた。分かってくれた?」

 その声を頼りに顔を上げると、彼女が苦しそうに笑っていた。恐る恐る周りを見渡すと、人々はこちらを見向きもせず進んで、水たまりは信号機や店の明かりを跳ね返すだけだった。

「いこ」

 手をひかれて進む。雨はますますひどくなって、家に着く頃には芯から冷え切っていた。


 バタリと玄関の扉を閉める。

「待ってて、タオル持ってくる」

 そう言ったのは彼女で、どちらが家主か分かりゃしない。まだ赤ちゃんごっこの最中なのかな。

「ねえ。復讐たのしかった?」

 差し出されたタオルを、今更受け取ってもいいものかと躊躇いつつ尋ねた。

「うん。もう十分。仕返しできた。ごめんね。意地悪して」

「こっちこそ。でも、私、あのとき悪気はなくて」

 そう言い出して止まる。言い訳だ。醜くて苦しいそれが口から出た。でも、それを押し殺して謝るのも、罪を許してもらうための言い訳に思えて。

 バサリとタオルが降ってくる。昨日洗濯してくれたのだろう。柔軟剤の香りがした。

「言い訳するなとも、言い訳していいよとも、あたし言えないの。辛いね、お互い。考えなければ楽なのに、できない。ほら、入って」

「ここ、私の家なんだけど」

「まぁまぁいいから」

 部屋に入ると、彼女は絵の道具を一式揃えてきた。


「描いてよ。きっと、今なら良いもの、描けるよ。

 制作するものには、作り手の悩みも苦しみも、生きづらさも、美化されずに反映される。君の全部が全部、良い素材」

「言ったでしょ。その分、自分を見つめなきゃいけない。辛いって」

「でも、やめられないでしょ」

 私は素直に頷いた。普通の生活ができなくても、絵はやめられなかった。何か表現することから逃げられなかった。

 自分の躁鬱の乱高下と普通の基準に振り回されながら、それでも生きていたかった。他人に身を削られていく人生を変えることも、白黒つけられないような世の中で生きることも、高い階段の上から飛んで死ぬことも、できない。自分で自分を認めて生きる強さが持てない。

 これからも、何も変わらない。何かが一歩間違えば、全て投げ出してしまうかもしれない。それでも、絵の具だけは手放せないだろう。


 普通にしがみついて落とされて、それでも大量の洗濯物の緩和剤で生き残ってしまった私は、筆をとってキャンバスに色を落とす。作るしかないのだ。

 絵を描くしかない、文字を書くしかない、音楽を作るしかない、作るしかない。道具は何だって良い。ただ、自分を認めてもらいたい。許してもらいたい。



 赤ちゃんなんだから、許してほしい。

 そういいながらも何とか這いつくばって生きている君へ。

 この作品を。




あとがき

 読んでいただいて、ありがとうございました。

 大学生活、最後の小説です。初めて、プロットもたてず、読む人の気持ちも考えずに自由に書きました。とっても楽しかった。でも好き勝手してるので、多分黒歴史です。あとがきも、いつもは自語りみたいになるのが恥ずかしくて三行で収めてたけど、いっぱい書きます。


 実は、今まで書いた自分の小説を全てひっくり返したくて書き始めました。今までのは「悩みながら自分勝手に生きていこう!」だったので、そんな諦めにも似たポジティブじゃなくて、終わりにも始まりにもならない超面倒なものが書きたかった。

 周りからの目を気にする話を書いたわりに、書ききった今は自分だけが読めたらいいかと満足しています。初めてこんなに自由に書けたので、とても楽しかった。

 大学生活とおして、話の構成や書き方は変わらず、あまり成長は見受けられないかもしれません。読点付けるの下手くそすぎるし表現使い回しだし。それでも、少しだけ言葉にする力がついていたらいいな。そのぶん、感情のモヤモヤに名前がついて、見えるようになってしまうのが難点。ほんと、考えることから逃げたら楽になることがいっぱいあるのに、どうしても自分は自分でいたいので考えてしまうし書いてしまうし作ってしまう。自己愛強すぎて面倒すぎる。小説からも作者のそのへんの嫌な部分が滲み出てる気がして、透けて見えてる気がして、恥ずかしいし心配。うわ、自己満とかいいつつ、周りからの評価気にしてるわ。穴があったら入りたいです。

 こんな面倒な作者なのに、家族がいて友人がいて、これを読んでくれる人がいて、感謝してもしきれません。ありがとう。これからも、書き続けるかどうか分かりません。でも、書いてしまうし、考え続けてしまいます。だから、多分また書くと思う。

そのときはまた、よろしくお願いします。

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