第53話 新婚気分はまだ早過ぎる
「んあ……。ふあ〜ああ……。」
「……ようやくお目覚めになりましたか?
レオンハルトさま。」
私はハア……とため息をついた。
「ん?ああ。……おはよう。」
直視するには危険な気がする甘やかな微笑みで、目を軽く細めつつ朝の挨拶を呑気にしてくるレオンハルトさま。
「そろそろ腕をほどいていただけませんか?
目覚めたらずっとこの状態だったのです。
何もなかったとは言え、男女がこの状態で同衾するなど由々しき事態ですわ。」
私は身を捩りつつ振り返ってそう言った。
「ん?なにか問題があるか?」
そう言って微笑むレオンハルトさま。
「おおありです!……こんな……。ずっと抱きしめられて寝ていただなんて……。」
私は赤面しつつ前を向いてそう言った。
「だが、おかげで暖かかっただろう?なにせキッチンと風呂と冷蔵庫に金をかけてしまったせいで、暖房器具がなくてな。こちらもおかげで暖かく眠ることが出来たよ。」
「わ……私は暖房器具の代わりですか!?
そんな極端なことをなさるからです。冬に暖房器具がないまま過ごすだなんて、最悪室内でも死ぬことだってあるんですよ?」
「なに、風呂でしっかり温まってから布団に潜り込めば、布団の中に熱がたまるから、そう困ったもんでもないさ。だが昨日は思いの外寒かったからな。ついついぬくもりを欲しちまったんだ。すまなかったな。」
少しもすまなそうじゃない雰囲気で言う。
「勘弁してください。……眠気が先にきていましたから、それに抗えず眠ることが出来ましたけど、目が覚めた状態でされていたら、寝られなくなることころでしたよ。」
「ん?なんでだ?」
しれっと抱きしめたままでそう言う。
「当たり前じゃないですか!こんな……男の方に抱きしめられたまま眠れません!」
それも、レオンハルトさまのような、魅力的な男性に抱きしめられてなんて……。一晩中寝られなくて、起きている可能性だってあったわ。ううん、絶対そうなったと思うもの。
「いいから離してくださいな。もう目が覚められたのでしょう?ベッドから出て朝食にしましょう。いつまでもこんな風に、2人でベッドにいるなんて不健康ですよ。」
「そうか?俺としては、もう少しこうさせてもらいたいもんだがな。」
そう言って、スリッと私の頭頂部に頬を擦り寄せてくる。ちょ、ちょっと……!
「あんた、抱き心地がいいし、凄くいい香りがして、なんとも落ち着くんだ。
ぐっすり寝られたのはそれでだろうな。」
「わ、私は抱き枕じゃありませんよ……!」
「うん、そうだな。確かに、こんなに質のいい抱き枕は巡り合ったことがない。お嬢ちゃんを抱き枕扱いするのは、お嬢ちゃんに失礼ってもんだ。ほら、ここなんか……。」
そう言って、お腹に手を移動させて、軽く抱きしめてくる。お腹の中が何故かキュッと締まったような、不思議な感覚がした。
「ちょ、ちょっと……!レオンハルトさま!
冗談はやめてください……!」
私は自由になった両腕で、体を捻ってレオンハルトさまを押し戻そうとした。
「つれないな。せっかく感触を楽しんでたってのに。はは。まあ、遊んでないでそろそろ起きるか。お嬢ちゃんの言う通り、朝飯にしよう。──服を着替えるだろ?」
そう言って、何事もなかったかのように、スッと私から離れると、ベッドの端に椅子のように座ってから立ち上がった。
「え、ええ。パジャマ姿なので……。」
「着替えている間に、朝食を作っておくよ。
リクエストはあるか?」
「特には……。」
「なんでもいいぜ?だいたいのモンは作れるからな。せっかくだから言ったほうがいい。
頭に浮かんだものを言ってみろ。」
「……でしたら、チーズとベーコンの入ったオムレツが食べたいです。コンソメスープとサラダもあると嬉しいです。あとパンも……。」
「了解だ。それくらいなら、家にあるモンでいける。──ああ、そうだ。俺もこれから服を着替えるが、……覗きにくるか?」
タンスの中から着替えを取り出しつつ、私を振り返ってニヤリと笑った。
「な、何をおっしゃってるんですか!からかうのはやめてください!もう……!」
「はは、じゃあまた後でな。着替えたらダイニングキッチンまで降りて来てくれ。」
そう言って、レオンハルトさまは着替えを手に部屋を出て行った。──そう思っていたら、私が着替えの入った袋を、枕元寄りのベッドの脇から拾い、服のボタンに手をかけようとした瞬間、再び部屋のドアが開いて、
「──俺が覗くって手もあるな。」
と言ってニヤリと笑ってきた。
私がまだ着替えていないことを見越してのことだろうけど、なんてことするのかしら。
「もう!からかわないで下さい!レオンハルトさまはいちいち冗談をおっしゃらないと死ぬんですか!?早く着替えて、朝ごはんの準備をしてらして下さい!私も着替えたら、すぐに降りて手伝いに伺いますから!」
「ははは。怒った顔も可愛いな。」
またそんな冗談を言いつつ、レオンハルトさまは今度こそ部屋を出て行った。
枕でも投げつけてやればよかったかしら。
でも、抱きしめられていた恥ずかしさが、今のやり取りで薄れたのも事実だ。
……ひょっとして、その気まずさをどうにかする為だった、とか?
よくわからない方だわ。
でも、少なくとも嫌な感じが少しもしなかったのは、レオンハルトさまの人徳なのかしら。それとも私が……レオンハルトさまを好もしく思っているから……とか?まさかね。
私はまだ恋をしている場合じゃないもの。
そんな気にはなれないわ。イザークとの離婚が落ち着くまでは、浮ついた気持ちになっていたら駄目よ。冷静にならなくちゃね。
パジャマを脱いで服を着替えると、1階に降りてダイニングキッチンへと向かう。キッチンからはいい香りが漂っていた。
「よう、来たか。サラダを作るのを手伝ってくれるか?そこに材料は並べてある。」
言われて見ると、テーブルの上に何種類かの新鮮な野菜と、ボウルが置かれていた。
けれど、よく見ると、包丁もまな板も置いていなかった。これでどうしろと?
「あの……、包丁は?」
「ああ、すまない。使ってたもんでな。だがレタスなんかは、手でちぎったほうがうまいぜ?包丁を使い終わるまで、レタスをちぎってボウルの中に入れておいてくれないか。」
「わかりました。」
キッチンで手を洗わせていただいて、言われるがままに手でレタスをちぎって、ボウルの中に入れていく。しばらくすると、包丁を使い終えたレオンハルトさまが、包丁の持ち手をこちらに向けて、ほら、と差し出した。
包丁で、トマト、キュウリ、玉ねぎ、ハムを切っていき、ボウルの中で、砂糖、塩、お酢、オリーブオイルを入れ、フォークとスプーンでざっくりとあえていく。
こうして夫婦2人で料理を作るというのもいいわね。願わくば、いずれは2人で並んで料理の出来る、大きなキッチンがほしいわ。
……待って。私今、それに似たことをしていないかしら?レオンハルトさまに抱きしめられたまま、ベッドで目が覚めて。そのまま2人で朝ごはんを作っているだなんて。
いやだ、そう考えたら、なんだか恥ずかしくなってきてしまったわ。私、何をしているのかしら。レオンハルトさまの家で朝食なんて食べずに、そのまま帰れば良かったのに。
そうよ、お礼にレオンハルトさまの家を掃除するつもりだったじゃない。それだけして帰れば良かったんだわ。何を図々しく食事をいただこうとしてしまったのかしら。
「どうした?1人で百面相なんかして。」
出来たてのオムレツをテーブルに運びながら、混乱している私に微笑むレオンハルトさま。私がサラダを作り終えたのを見て、取り皿とナイフとフォークを持って来る。
「いえ……。なんでもありません。」
「なんでもないって顔じゃなかったがな。せっかく新婚夫婦みたいに2人でこうして朝食を作っているんだ。もっと楽しめばいい。」
「な……!」
心の内を言い当てられたようで、思わず言葉が出てこない。レオンハルトさまも、私たちのしていることが、新婚夫婦のようだと思っていらっしゃったということなのかしら。
だとしたら、嬉しいような、恥ずかしいような、なんだか複雑な気分だわ……。
イザークと新婚の時は、こんなことは当然しなかったし、これが新婚夫婦のやることなのかと言われると、正直わからないけれど。
でもメッゲンドルファー子爵家のような貧乏貴族や、平民であったなら、自分たちで食事を作ることになるから、新婚であれば2人で一緒に作っても、おかしくはないわよね?
単に私がそういうことを、次に結婚する人とはしてみたい、と考えていたというのもあるけれど、レオンハルトさまも、結婚したらお相手の方と、一緒に料理を楽しみたいと思っていらっしゃる方ということかしら……。
だとしたら、レオンハルトさまと結婚される方は幸せでしょうね。料理はお得意のようだし、一緒に何かを夫婦でしようとしてくれる男性というのは、とても魅力的だわ。
まあ、ちょっと。いえ、かなり。掃除だけは苦手なようだけれど、それはお互い得意なほうがやればいいというだけのことだわ。
私は別に掃除が苦ではないものね。
……何を言っているのかしら。まるで私がレオンハルトさまと結婚して、この家の掃除がしたいとでも言っているかのようじゃない。馬鹿ね、変なことを考えてしまったわ。
自分の想像が物凄く恥ずかしくなる。まるでレオンハルトさまとの新婚生活の妄想を、1人で楽しんでいたかのようで。私は思わず両手で熱くなる頬をおさえたのだった。
「クックック。さっきから百面相がおさまりそうにないな。コロコロと表情が変わって、見てて飽きないなあ、お嬢ちゃんは。
一緒にいて楽しいよ、凄くな。」
「そ、それはありがとうございます……。」
私はそう答える以外出来なかった。
いやだ、どんな顔をしていたのかしら。
それを知るのが恥ずかしいわ。
「さあ、コンソメスープも出来たぜ。パンも焼きたてのものがある。冷めないうちに食べようじゃないか。サラダはその取り皿に、好きなだけとって食べてくれ。」
そう言って、昨日の夜、お風呂上がりに出してくれた、イチゴのフルーツティーを冷やしたものも、テーブルに置いてくれる。
「昨日ずいぶんとこいつがお気に召したみたいだからな。また作ってみた。飲んでくれ。
ほら、イチゴを潰すスプーンだ。」
そう言って柄の長いスプーンをくれる。
「あ、ありがとうございます……。」
私がイチゴのフルーツティーを気に入ったことに、ちゃんと気付いてくださっていたのね。人のことをちゃんと見てる方なんだわ。
これもイザークとの間にはなかったことのひとつね。……イザークは、食べるのが苦しい料理を、急いで飲み込むことだけに、必死だったからかも知れないけれど。
目の前の私のことなんて、まるで見てはいなかったもの。──イザークの思いや過去のトラウマを知って、イザークの考えや、苦しい旨の内もわかったけれど、私が彼のしてきたことで寂しかったり辛かったのも事実だ。
イザークは私とやり直したいと言った。
……だけど、ふとこうした瞬間にも、辛かった思いを思い出してしまう。
イザークに対する情はある。やり直せたらそれが1番だという気持ちもある。なんどもやり倒したいと思った過去の自分が、本当にそれでいいのかと囁いている気がする。
でも、こうして他の男性と、楽しい時間を過ごしていると、トラウマを乗り越える為にイザークと向き合うことが、私に出来るのだろうか、という考えが浮かんでくるのだ。
そうよ私は前を向いているのだもの。目の前にいないイザークのことを考えるのはやめよう。私の未来にいる人は、きっと他の誰かの筈だ。例えばレオンハルトさまのような。
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