『極道の嗜(たしな)み』
石燕の筆(影絵草子)
第1話
任侠の世界に身を置く八木沢は鷺沼組の中でも温厚で義理堅くそれゆえに慕われている存在だ。
しかし少々変わったところがあり、拘りすぎる面があるのだ。
たかが珈琲の銘柄や淹れかたにしても自分で気に入ったものでなければ飲まないし、服のファッションもヤクザのくせにアメカジにしか興味はない。
ただし、喧嘩はめっぽう強く負けたことがないという噂だ。
子分の安本、通称ヤスを連れて買い物に行く。
マグカップを買いに来たのである。
ヤスに八木沢はたらたらとマグカップについて自分がいかに拘りを持っているかを延々と語って聞かせる。
マグカップの材質、形状、色、そしてなんといっても唇をつけたときの感触や手触りまですべてが彼の拘りにマッチングしたマグカップだけが彼の愛用品になれるのだ。
(男は拘る生き物。それが男)
それが男八木沢の信条である。
男、男としつこいようだが、彼は男であることにも拘りを持っている。
男足るもの女にはやさしくあるべき。
男足るもの一度決めたことは曲げないこと。
様々な拘りを持っている八木沢は自分を拘りのアマゾネスなどと訳のわからないふたつ名でヤスに呼ばせていた。
「いいか、ヤス、男はな、拘れなくなったり拘りを捨てたらその時点でもう男じゃねえ、ただの人間だ」
などと毎度のことながら要領の得ない理解不能なことを言いながらマーケットの中を歩いていく。
結局彼の拘りにマッチングするマグカップは見つからなかったようでその日は手ぶらで帰った。
ある日八木沢はとんでもないものに拘り出す。
それは花の世界。
つまりはフラワーアレンジメントだ。
花を生けてしかもそれをアレンジしちゃう。
ヤクザには到底似つかわしくはないが、彼は本気だった。
どこまでこの人は行くんだとヤスは半ば呆れながら彼の拘りぶりを冷ややかにそして穏やかに見守ることにした。
だが、フラワーアレンジメントの世界は3日と持たず拘り飽きたらしい。
ヤスが気づいたときにはもうべつの拘りを見つけてそっちに鞍替えをしたようだ。
瞑想への拘りときて次に安眠の拘り、掃除の拘り。
世界は拘りだらけで満ちていると思わせる彼の拘りぶりは様々な分野に彼を誘わせた。
いつしか彼はノーベル賞をもらった。
テレビの中にトロフィーを手にした八木沢が嬉しそうにインタビューにこたえる様子が映る。
「この28年間ただ拘り続けた人生です。それがただこういう形で結果になっただけです。ありがとう」
ヤスは、どこに行くんだろうこの人はと思った。
やがて八木沢はヤクザから足を洗うと冒険家に転身し、今はアマゾンの秘境を探して探検隊を組みいまだ見ぬロマンを日夜追いかけている。
ヤスがアパートで八木沢からの手紙を読んでいる。
同封された写真には、笑顔の八木沢がアマゾンの密林の中でピースをしている。
その顔は、ヤクザでいた頃よりむしろ充実感と幸せに満ち溢れている。
『極道の嗜(たしな)み』 石燕の筆(影絵草子) @masingan
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