第20話 閑話…ぼっちのウサギ


 ◇◆◇



 彼女──はぐれ苔ウサギは苛立っていた。



(何なの!? もう、何なのよ!)



 ──グギャォオオオオオゥ……



 谷の奥から、今までよりも一際大きなの咆哮が聞こえる。



(いい加減諦めて、この谷を出て行きなさいよ!!)



 苛立ちの原因は、もう暫く味わっていなかった『狩られる』ことに対する恐怖だ。


 もう何日も、彼女はまともに眠れていなかった。



 彼女は随分と前からこの谷底に住んでいるが、こんな恐怖を味わったのはに出会って以来のことだ。ウサギは蛇から逃げつつ、その時のことを思い出すのであった。



 ◇◇◇




 ──その人間はある日突然彼女等の棲家へと現れて、彼女と仲間の苔ウサギ達を連れ去ると、黒い大きな岩と一緒にこの地の裂け目へと放り込んだ。


 苔ウサギは基本的に自我の薄い生き物である。その性質は動物というより植物に近い。

 唯一あるものといえば僅かな食欲と、繁殖期に高まる性欲のみだ。


 

 強烈な死への恐怖──それが、彼女に初めて芽生えたであった。



 暗い地の裂け目へと落ちていく時間の中、彼女は死を強く意識した。きっと自分はここで死ぬのだと、本能的にそう思った。



 しかし、その直感は誤りであった。



 苔ウサギの中でも一握りのが強く死の危険を感じた時、それは稀に上位種はぐれ苔ウサギに進化することがある。

 

 谷底で目を覚ました時、既に彼女は《はぐれ苔ウサギ》へ進化を果たしていた。



(……あれ? なんで、私……)



 頭の霧が晴れたかの様に、意識がはっきりしている。自分が何か別の生き物に変容していることを、彼女はおぼろげに理解した。



 顔を上げれば空は高く、両側にそびえる切り立った崖は、どう考えても苔ウサギ達かのじょたちがこの谷底から抜け出すことを許してくれそうにない。



(どこよ……ここ?)



 大地を何か強大な力で引き裂いた跡のようにも見えるこの狭谷は、日当たりは悪いが地熱のせいで少し蒸し暑く、彼女等以外に生き物の影は見当たらない。


 所々からガスが噴き出している様は、さながら《死の谷》とでも表現すればいいのだろうか。



 だが、それは苔ウサギ達にとってむしろ好都合であった。


 彼女達の主食である苔は、幸いにもこうした環境でもしっかりと自生していたからである。



 それ以来、彼女はこの谷で一度も天敵と呼べる存在に出会ったことがない。



 あの人間さえ、再びここに顔を現したことはなかった。



 しかし彼女は、他の苔ウサギ達が目覚めることのなかった感情──恐怖を忘れることだけは出来なかった。



 彼女の胸中には、いつまでも消えないある疑問が残る。



(あの人間はどうして私達をここへ放り込んだの? いったいここに、何があるというの?)



 いくら考えても、その答えはわからなかった。



 アイツが目の前に現れるまでは……



 ◇◇◇



 その夜、彼女は何かが弾け飛ぶような、大きな爆発音を聴いた。

 不吉な予感が、彼女の胸を締め付ける。



(ッ!? 何よ今の音はッ!?)



 いったい何の音だろうか? またあの人間が帰ってきたのだろうか? 逡巡が、判断を遅らせた。


 慌てて《聴覚強化》を発動させ耳を研ぎ澄ませるも、既に音は何度も壁で反響し、発生源はわからない。



 …………



 ……



 しばらくすると峡谷はいつもの通り、静寂と闇に包まれていた。



 どこかの崖が崩れたのだろうか? 今までにないほどの大きな音ではあったが、彼女は意識的に何事もないと思うことにした。

 そうしないと、怖くてどうにかなってしまいそうだったからだ。



 しかし、不吉な予感は的中した。



 翌朝、岩陰で苔を食んでいた彼女は、背後から異様な雰囲気を感じとる。



 振り返れば、そこに居たのは漆黒の大蛇であった。それはこちらを値踏みするかの様に、じっと彼女を見つめていた。



(は……はは。こんにちは〜〜)



 ──ッバ!!



 彼女は一目散にその場から逃走した。



(やばいやつ居たやばいやつ居たやばいやつ居たやばいやつ居た絶ッッッ対にやばいやつ居た!! 何アレ本当に蛇!? めっちゃデカかったんですけど!?)

 

 

 彼女は岩陰から岩陰へと何度も移動を繰り返し、大蛇との距離を十分に取る。そして、どうやらうまく逃げ切れたことを確認してから、物陰に隠れてその動きを観察してみた。



 どうやら大蛇は彼女を探しているらしい。スルスルと地を這いながら辺りを徘徊している。



(もしかしなくても、あれって絶対私を探してるよね?)



 しばらくして大蛇は、辺りに転がる岩の中に、擬態した苔ウサギがいることに気がついた様だ。


 大蛇は口を開けてその一つに噛み付いた。……が、牙が折れてしまった。



 恨めしそうに苔ウサギ達を睨みつけた後、大蛇はスルスルとその場を去っていった。



(えッ!? えッ!? あんな小さな苔ウサギ、なんで飲み込まなかったの!? え、硬さを調べたかっただけ?? なになになに、わからない!? ひぇぇえええええ〜〜〜!! めっちゃ怖いいい〜〜〜〜!!)



 彼女には目の前で起きた光景が全く理解できなかった。


 だがその日から、大蛇から逃げ回る彼女の日々は始まった。



 ◇◇◇



 次に彼女が大蛇を見つけた時、蛇は苔ウサギ達を丸呑みにしていた。やはり、アイツは苔ウサギのことを餌だと思っているらしい。



 彼女は他の苔ウサギ達に対して既に仲間意識を感じていなかった。それもそのはずである。会話も出来ず、ただ食事と生殖行為にしか興味を示さない生き物モブウサギと、自我の芽生えた彼女は明らかに違っていたのだから。


 だが、アイツから見れば同じウサギだろう。 そんなことは、ウサギである自分が一番よくわかっていた。



(だけどそう簡単に、食べられてたまるもんですか!)



 生態が垣間見えたことで、彼女は改めて大蛇を敵であると認識した。



 ◇◇◇



 数日後、彼女はシュロロロロ……という物音を聞いた。

 止まないその音は、次第に彼女の元へと近づいているようだった。



(これ! 絶ッ対アイツじゃん! やっばい!)



 彼女は音から遠ざかる様に動き回るが、音は彼女の動きを正確に追いかけて、ずっと着いてくる。



(ひぇえええ〜!! これ完全に私狙いじゃない!?)



 そう思っていると、音の近づく速度が急激に速くなった。



(う、ウソでしょッ!? もう、いい加減にしてよ!)



 それから数時間、見えない相手との追いかけっこが繰り広げられた。



 ◇◇◇



 ゼェ……ゼェ……



 息も絶え絶えになりつつ、彼女は最初にあの大蛇と出会った暗がりまで逃げてきた。 


 大蛇と出会ってからというもの、本能的にそこを避けるようになっていた彼女は、そこで恐ろしいものを見つけてしまう。



 彼女達と一緒にこの地の底へと投げ入れられた、あの大岩が割れていたのだ。



 大岩の中心は空洞のようになっており、それが何かのであったのだということを、彼女はついに理解した。



(こ、これって……)




 それを目にした彼女は、思わず言葉を失った。

 一瞬、ガクリと膝から力が抜ける。




(苔ウサギは……いえ、は……)




 そう。最初から、彼女達はアイツの餌だったのだ。



 いつか産まれてくるあの大蛇のために、何年も前から彼女達はされていたのである。




(は、はは……)




 アイツは外からやって来たのではない。

 彼女達がここに投げ込まれた時からずっとそこにいて、この時を待っていたのだ。



(でも……、それでも……!!)




 彼女は再度、膝に力を入れて立ち上がる。




(私達は……いえ、私はアンタの餌にはならないッ!!)




 はぐれ苔ウサギの瞳には、闘志の炎が燃えていた。




 ◇◆◇

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る