第2話 歓迎してくれるかな
俺は祖父の家に訪れた。
卒業式を終え、中学生でも高校生でもない中途半端な時期。気候も、昼の日差しは春のように暖かくても夜になると冬みたいに冷えこむ。
祖父の家といっても祖父はもういない。一昨年前に亡くなった。それ以来、この家は持て余されている。
そこに俺が春から住むことになった。ここから高校に通うのだ。
入学することになった啓南高校は、実家から徒歩と電車で二時間半ほどの場所にある。通って通えないことはないが、始発に乗っても学校に着くのは始業時間ギリギリだし、毎日往復五時間はなかなかつらい。
そこで、高校から程近い立地にあるこの家を使ってはどうかと俺が提案したのだ。両親は寮に入るものとばかり思っていたらしく最初は難色を示したが、放置すれば維持費がかかり、かといって更地にするには思い出が深すぎるため、有効活用するという俺の案はわりとすんなり通った。
俺はほっとした。なぜなら莉桜と静樹が寮に入るからだ。
ふたりとは少し距離を置きたい。俺がいたら静樹は気兼ねするだろうし、莉桜は素直になれないだろう。それに、深い関係になっていくふたりを間近で見るのは、ちょっときつい。
だからいっそ不合格になればいいとさえ思っていた。しかし俺も離ればなれになりたいわけじゃない。なんだかんだ言って三人でいるのは最高に楽しいから。
俺は莉桜との心の距離が近づきすぎないよう細心の注意を払ってきた。ときに喧嘩友だちのように振る舞い、ときに本当の気持ちをジョークに包みこんで。
これからは物理的な距離も適度に離れる。きっとふたりの関係は急速に進展することだろう。俺はそれを少し遠くから見守る。ふたりが晴れて恋人関係になった暁には、友人として祝福してやればいい。
「よしっ」
気持ちを切りかえるために俺はわざと声に出した。
春からひとり暮らしだ。不安はあるが期待のほうが大きい。おじい――祖父のことだ――は「俺が死んだらこの家は橙也にやる」と言っていた。遺言どおり、この家を俺色に染めてやる。それがなによりの供養だ。
改めて家を眺める。形容するならば『某海産物の名前がついた一家の家をぎゅっと縮めたよう』だ。屋根が瓦ではなくトタン、縁側がないという違いはあるが、小さいながらも庭はある。
本日のミッションは掃除だ。とはいえ母が月一程度で掃除していたはずだからそこまでひどいことにはなっていないはず。手伝いに来ると言っていたが必要ないかもしれない。
預かった鍵で玄関の引き戸を開けると、木とカビと埃の匂いがもわっと這い出てきた。
――やりがいがありそうだな。
俺は掃除が嫌いだ。片付けてもどうせまた散らかるのだから、いちいちきれいにするのは無駄な労力だと感じる。
しかし今日の俺は意欲が高い。それはクラフト系ゲームで拠点を作る高揚感に似ていた。
この一歩が新たなスタートだ。
俺は意気揚々と家に足を踏みいれた。
◇
まず手始めに、玄関から茶の間へ伸びた廊下に雑巾がけをした。ぴかぴかと輝く床板を見渡す。
「うん」
俺は頷く。
「飽きた」
そして座りこんだ。
やっぱり掃除って非生産的だよな。汚れては掃除、汚れては掃除の繰りかえし。賽の河原の石積みかよ。
俺は真っ黒になった雑巾を広げた。
本当に月一で掃除してたのか? ずぼらな母のことだ、掃き掃除だけして終了、なんてことは充分あり得る。
手伝いに来るとは言っていたが、もしかすると忘れているかも。忘れていなくても遅刻は確実にするだろう。まあもともとそんなに当てにはしていないが。
廊下に座っていたら尻が痛くなってきた。茶の間に行けば座布団くらいはあるだろうと、俺は立ちあがる。
茶の間は畳敷きの八畳の部屋だ。中心にはちゃぶ台、隅には旧式の薄型テレビと空っぽの戸棚がある。
それらを目にしたとたん、おじいと過ごした記憶が溢れ出してきた。
あの戸棚から茶菓子を出して俺にくれた――なんて、そんな好々爺みたいな人物ではない。あそこに入っていたのは漫画やらグラビアアイドルの写真集、昔のゲーム機などだった。
まだ性に目覚めていない俺にとって『きれいな女のひとの写真がたくさん載っている本』でしかない写真集を眺めていると、おじいは俺を叱るどころか、
『いい女だろ? 見て見ろ、眉毛が濃い。こういう女は性欲が強いんだ』
などと嬉しそうに語り、ばあちゃんに叱られていた。
――イカれたじじいだったなあ……。
でもそんなおじいが大好きだった。俺を子供扱いしなかったし、なにより生きていて楽しそうだった。見習いたくないところのほうが多いが。
思い出に浸っていても部屋はきれいにならない。俺は重い腰を上げ、固くしぼった雑巾で畳を擦りはじめた。
と、玄関のチャイムが鳴った。現在の時刻は午後十二時四十五分。約束の時間は十三時。あの母が余裕をもってやって来るなんて珍しいこともあるものだ。
どたどたと玄関に向かい、鍵を開け、ドアを開く。
「早かっ――」
俺は固まった。玄関先にまったく予想していなかった人物が立っていたからだ。
長い黒髪、整った顔立ち、凛としたたたずまい。
それは莉桜だった。
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