嘘つきな私と

藤波 融

 『嘘つきな私と』

 夕焼けかと思った。カーテンを引いたら、光がなだれ込んできた。朝焼けだった。

 始まりを象徴するには、あまりにもあざやかで、あまりに美しかった。そういうものは終わりの特権で、始まりは持たざるものだと、思っていた。でも、この窓から光が射すのは朝だけだった。

 寝不足の頭は重い。よくこの時間に起きられたものだと思う。

 夜中まで、部屋で意味もなく、彼と映画を見ていたせいだ。内容は一片も残っていない。その時間はどうでもいいことを、大事に、少しずつ話すためのもので、映画は背景と、適度な理由と、初めの会話の糸口にしかなれなかった。

 

 途中から、私は馬鹿なことを言い、軽く喚いて、彼はその愚かな私の言葉を人間の当然として、私をかばった。それはいつものことだったし、私の愚かな台詞もいつもと似たようなものだった。

 私がおとなしくなって、映画にもエンドロールが流れた。黒一面に白く読めもしない外国語の羅列が流れて、

「むなしい」と、目で追いながら言ったら、

「むなしいね」と返ってきた。

「このエンドロールはいつ終わるんだろうね。終わりそうで、終わらない」と彼が言った。

 やがて、流れるべきものは尽きて。愚者たちはベッドにいって、体を重ねた。その非生産性は、私たちに似合っている気がした。

 結局、寝たのは夜中だったので、朝早くに目が覚めたことは嬉しくもない奇蹟だし、抱く倦怠も当然だった。

 

 少しして、先に起きていた彼が、声を掛けにやってきて、出かけると言った。まだ、外は薄暗さが残っているのに、もう仕事だと言った。

 私と暮らし始めてから、彼は仕事を変えた。収入は減ったし、楽しくはないが楽だと言っていた。私も彼と暮らし始めて、同じようになった。

 

 日が充分に昇って、体が起きた。予定もなかったので、欲しいものを買いに行くことにした。

 駅への道は、枝先から幹をたどるように、人々が同じ方向へ集まってくる。前の二人組から細かい笑い声がする。楽しそうに、二人だけが分かるように、言葉を交わして笑っている。とても幸せそうな他人の声が、耳に入る。

 駅の構内に入り、ホームへと一歩一歩経路を踏む。前から妊婦と父親となるであろう人が、ゆっくりと近づいてくる。彼らの未来について話していた。彼らの輝かしい、信じて疑わない未来は幸せが詰まっていた。 

 私が彼らに足を止めていると、五十絡みの女が乱暴に私を押しのけていった。よろめいた。そういえば、朝から何も食べていない。白の混じる髪、しわの多い肌、人間らしく老いた顔、歩き去る後ろ姿をただ見ていた。

 嫌になった。その女の所為でもなく、あの夫婦の所為でもなく、道を行く人々の所為でもない。自分が嫌になる。

 買い物は、諦めた。引き返そう。

 不意に、孤独が寄り添う。違う生き物の群れの中に一人、閉じ込められた気分になる。急に、周りが気になり出す。他人と他人との判別が難しくなる。視界は色を欠く。人を記号にしか捉えなくなる。

 孤独に飼われている。

 何かに対して、みだりに叫びたくなる。何かが吐出したがっている。私は今、きっと情けない。

 感じとれることが、狭まっていく。仮想のきれいな未来から遠い過去。来月を生きる私からこの頃の私。明日から昨日。今。

 何が残った。そこに何がある。

  

      *


 彼と出会ったのも、私がこんな調子の時だった。私たちは引きつけられるように互いを見つけ出し、関係性を決めないまま、依存を深めた。

 どっちにしても、その関係は世間によくあるものではなかったし、適した名前はなく、彼と私というそのままだった。

 最初は、心中でもしそうな二人だった。

 初めてどこかに行こうとなったとき、彼は廃ビルに私を誘った。私は自殺の名所に誘い返した。私たちはそういう悪趣味が好きだった。皮肉なことに、そういった悪趣味めいたことは、ある意味、心中ではなく一緒に生きようと誘うものだった。

 彼はよく、

「人間は、みんな、全員、幸せ。なんて願うけど、あり得ないことなんだ」と言った。「幸せは、比較で成り立つ」それが彼の持論だった。

「じゃあ、私たちは他人を幸せにしているんだね」と私が言うと、彼は笑って同意した。


  私は、よく嘘をついた。初めからそうだった。そうしなければ関係が変わってしまう、気がしていた。本当の意味では、彼すらも信じていなかった。関係を繋ぎとめるはずだったのに、却って距離は遠くなった。嘘のない私は、とても弱い。


      *


 目が覚めると、雨が降っていた。お昼頃を短針が指していた。細かい雨だったけれど、朝から降っていたようで、窓枠には水滴の玉が溜まっていた。

 冷めた食事を口に運ぶ。今日は起きたらすでに、ひとりだった。

 いい加減、物事をよく考えなければならない。ちょうどいい機会かもしれない。行きすぎたのかもしれない。どうせ長くは持たない関係だった。初めから嘘ばかりだった。

 

 外に出たくなって、雨の中を歩くことにする。傘にやわらかく雨音が響く。雨は嫌いじゃない。雨の中の人々には、いつもはない透明な壁がある。見ているような、いないような。気にしているような、してないような。曖昧さが雨にはある。

 飽きるまで歩いた後、通りかかったスーパーに入った。彼と私の数日間の食料を買う。自分の中に矛盾を見るようで、滑稽に思えた。

 外に出ると、傘がなくなっていた。盗まれたのだろう。そのまま、買い物袋を抱えたまま、歩き出した。家に帰るのではなく、河を見に行くことにした。

 

 目的もなく、あてもなく広い流れを前にして、高架下で雨を凌ぐ。雨で服が濡れ、全身につめたさが貼りついていた。  

 水はその場の形に従い、流れが規則性を持って重なり、河がそこにあった。

 雨は徐々に弱まり、暗雲は次第におとろえ、光が射した。濁った河の水が反射し、その部分の色が飛んだ。

 不意に、鳥の羽音がした。上の橋脚の方をみると、うす汚れた鳩が一羽、飛び立った。濡れた羽を震わせ、汚く飛んだが、やがて宙で真っ直ぐ線を描いた。

 雨宿りする理由すら失って、帰ろうとすると、彼が傘を持って立っていた。傘を持っているのに、なぜだか衣服が雨に濡れていた。すこしだけ可笑しかった。

 雨の中、一人きりでいた私たちは、雨の残り香に浸っていた。

 私は彼に買い物袋を持たせ、彼は私に傘を持たせ、歩き出した。

「何があったの?」私が訊くと、

「何があったの?」といつも通りの訊き方で彼が問う。私はいつも通り、嘘をつく。

 不健全な嘘が私たちには必要で、ふさわしかった。

 これから、互いの耳をふさいで話し合う。

 きっと、私たちは、私たちの嘘に浸って、生きている。

 

 いずれ、私は、幸せだって嘘を言う。

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