第14話 サルベージ・ログ つわものどもがユメの跡

 恒星と虚無、アートと聖痕が対峙している。


 最初は竜形態のアートに乗った恒星が、人力で駆る雪車に乗った虚無達を攻撃していた。


 後方にて四つん這いになり、足でブレーキを掛ける役に虚無。前方にて足で左右へと、方向を変える役に聖痕が就き、雪山のゲレンデな下り坂を滑走して行く。


 時折仕掛けてくる火球や落石、木々を避けつつ段差を利用して飛び上がり、聖痕が魔法で作った風の刃を放ち反撃する。下り坂も終盤となる頃に二組は最後の勝負をして、虚無達は雪車をアートに突っ込ませる暴挙に出た。が、雪車型のホーミング・ミサイルは、恒星を囮に使う事で、アートは亜光速移動にて後方へ逃れてしまう。灯の真似では無いが、恒星は分割した巨大手裏剣の双刃の一振りを用いて、雪車をなかばから両断し、推進部と先端を斬り分かつ。




 着地した恒星の隣に、戻って来たアートが降り立ち人型へ戻ると、虚無達が止まって体勢を整えるのは同時だった。


 特に怨みは無いが恒星はアートに、合図くらいくれ、と苦言を言う。アートは軽く謝り、恒星と共に虚無達へと爪を振るった。


 虚無は魔法の長剣で恒星の双刃から再び分割した大剣を受け止め、聖痕のナックルガード付きショートソードがアートの五指の爪を受け止める。


 アートの爪は属性が個別なので、属性調和による同時発現では、タイミングが合わないと受け止めるのが難しい。




 属性調和とは、別々の属性魔力を纏わせ、魔力は刀剣の芯金を通して流れ、刻々と剣身の属性が変わり、切っ先に複数の属性が集中し相互強化し合い、最終的には属性の相性による一瞬のすくみが発生し、衝撃波で武器もろとも自壊してしまう技法である。込める属性の数に比例して衝撃波は大きく、蓄積魔力の量に比例して強まる上、普通の武器は必ず破損、ないしは全壊するのだ。魔力の伝導率も高く無ければ失敗する。


 その属性調和に、いや、同素材上にて部分的属性の展開を多重させ、爪の一つ一つを剣身とナックルガード部分で受け止めたのだ。剣身とナックルガードは同じ素材により鋳型か何かで造られているようだが、普通は属性同士が打ち消し合うので、火の隣に水、水の隣に土等の属性を同士に展開する事は魔力の浪費以外の何物でもない。が、聖痕は分子一つ分の間を空ける事で、属性を個別に纏わせ、対消滅や三竦み等も起こさせなかった。


 魔力の扱いに長けている事の証左に、ショートソードの諸々な強化までしているようで、刃零れすらしていない。




 アートは両脚の足刀を繰り出し、一回転しては翼を生やすと地面に着け、器用に動かして後退する。


 飛行手段の器官であり、六本肢を変則的に動かす為には、翼を飾りでは無く手足の様に扱えるイメージをしておかなければ、日常生活の動作だけでなく実戦においても邪魔となるものだ。


 魔力を更に纏わせ、ショートソードをロングソードに嵩ましする聖痕。同時に微小な魔力障壁を、無数に辺りへ展開し、通過率ほぼ百パーセントなその障壁を円錐形に変化させていく。つまり、針ボテで中身は無いのだが、存在している故に中身や外殻を固めるのは何時でも出来、盾にも矛にも使えるようにしてある。


 アートは掌と口から属性を込めた球体を連続で放つも、円錐形の障壁に逸らされてしまう。やはり遠距離攻撃に対する防御と、近距離攻撃にて手数を用いる事に重きを措いた、攻防一体型の魔法と見た。


 己の剣が届く範囲に相手を誘い込む、それが聖痕の狙いだろう。


 アートは戦場刀を召喚し、亜光速での刺突を繰り出す。が、聖痕は障壁を幾重にも連結して展開させたのか、アートの動く軌道を、光が屈折する様に逸らした。障壁を円錐形にしているのは、衝突角度を傾斜させ避弾経始の如く、障壁の側面を滑らせる為でもある。半分透けて見えるのも障壁がそこにあると視認させ、完全に透明な障壁も配置させている事を悟らせないよう、先入観を植え付ける為だけに、障壁に色を着けてあった。


 振り返って一息吐くと、アートは踏み込みと同時に刀を投げつけ、摺り足移動にて間合いを詰める。聖痕の障壁はそのほとんどが刺突にて粉砕されたので、投げつけられた刀を剣にて弾く。


 その最中に肉薄したアートは、拳の連打を叩き込む。だが、連打を浴びながらも聖痕は怯む事無く一歩を踏み出し、相撲の突っ張りをアートのへそ辺りに打ち込んだ。


 打撃はポイントを外されただけで効果を失う。当てるなら額の真ん中、鼻、顎、首、鳩尾、股間といった人体で急所の並んだ正中線を、正確に当てなければならない。


 吹き飛んだアートは空中で身を捻り、着地すると同時に新しい刀を再度召喚する。



 聖痕とアートは互いに構えるも、アートは刀の鋒を向けていた。刀とは刃を向けていれば一本の線、鋒を向けていれば点となり、更に判別しづらくなり長さも掴み難い。闘う相手の視界を理解して刃を振るえば、刀というのはとても見え難い武器である。だから、刀は極力相手に向けたまま旋回させるのだ。そばから見れば派手に振り回しているように見えても、闘っている相手は刃を視認し難い。側面の輝きを見せつけるなど、愚の骨頂だと言えよう。が、敢えて刀を目立たせ、囮に使うと言う応用技もある。




 灯に続いてアートも刀を使うので、聖痕は物凄くやり難い。達人級の灯に師事を受けたのは、先程の摺り足移動で解ると言うものだ。


 間近で見ている上に、刀の扱いすら教え込まれているとすれば、必然的にアートも使い手となっているだろうとは、想像だに難くない。


 とは言え、達人にもピンキリがあり、アートは灯に遠く及ばなかった。


 聖痕のロングソードと、アートの戦場刀が接触し、しのぎを削る様に鍔迫り合いが始まる。


 男と女では膂力に差が出るも、短時間なら拮抗する事は可能だ。


 受け流して後退する両者。聖痕は能力でアートの身体能力を推し計り、普段通りなら全てにおいてまさっているにも関わらず、アートは自分の剣を止めたという事に、内心で驚いてしまう。


 三メートルも離れていなかったが、聖痕が全力の打ち込みにアートは着いてきた。これはおかしな事に思える。


 速度や腕力でも普段のアートには勝るのに、追いついて来られると言う事は、瞬間的な能力の行使しか、身体能力の差を補う術は無いはずだ。身体強化魔法や魔力特性での強化も無かったので、やはり能力の行使が妥当だろう。


 亜光速移動が可能なのだ、そう考えてみれば瞬間的な能力の行使は不可能でもない。


 しかし、聖痕は読み違えていた。




 アートは定まった範囲で、十メートル四方に限れば、相手の移動速度より素早く動ける。真っ直ぐ一目散に距離を取られると、アートは聖痕の速度に対して、体力的に追いつけない。


 素早く動ける原理を簡単に言うなら、歩行法と先読みだ。歩みの無駄を限り無く削り、相手の先を取って行動すれば、速度の差は埋められる。素早く動き、相手より優位に立てば、相手の剣が威力の乗る前に打ち込んでしまえば、腕力等もさほど意味を成さない。崩れた、もしくは崩された体勢や型では、どんなに力を入れても発揮される事がないのだ。


 更に、人間の移動は二足歩行による重心移動である。どんな人間、または生物であれ、二足歩行をしている状態ならその物理法則は超えられない。だから体を限り無く浮かない様に心掛けて進む。それが摺り足移動で、足の上下運動を極力はいし歩幅で稼ぐ。無駄をはいすれば必然的にそうなっていく。


 だが、その十メートル四方という範囲外に出れば、相手も剣である以上此方を倒す事は出来ない。


 その一定の条件内であれば、女のアートが男の聖痕に拮抗する事も、可能だというだけの話である。




 詰まる所、能力ではなく古流剣術という、積み重ねられた歴史ある武術だ。


 魔法より能力、能力より武術、武術より魔法。この三竦みを知る者は多いが、実際に経験する者は少ない。


 故に聖痕でも見抜けない為、アートは正々堂々と打ち合い、聖痕の護剣術すら読み切って、剣を彼方へと飛ばし首筋に刃を突き付ける。


 灯の弔い合戦--死んでないけど--はアートの勝ちに終わった。伊達や酔狂で灯の隣に立ってはいない。




 恒星は三十二人の影分身を使って、分裂魔法によって発生した虚無を包囲すると、本人を含めた精鋭ともいうべき八人の影分身で、聖属性と闇属性の精霊二体と同化した虚無を相手している。


 魔法による影分身は、精霊等の霊的な存在に自身の姿を似せるだけだったり、簡単な動作しか出来ないので、戦闘能力が低いモノしか作り出せ無い。また、忍術と違って魔力を外部から身体に取り込み、一度自分の魔力と混ぜ合わせてから使う。とは言うものの、それは自前で用意出来る魔力量が少ないからで、魔力の保有量が多いと忍術に似た分身が作れる。


 虚無の分身は忍術と魔法の二つを組み合わせたかんか法を用いて、そのバージョン・アップの状態を全属性の精霊達が融合体に宿らせ、魔法剣とマスケット銃を持たせたモノだ。本人も二体の精霊と同化しているので、霊的にも見分けが着かない。


 一方、恒星の三十二人が影分身は、干支と黄道十二星座、別世界にて捕獲した妖怪八体をそれぞれ憑依させ、苦無や手裏剣を装備している。精鋭には四方を守る獣と龍の霊体を憑依させており、大剣や長剣、小刀や針等を装備していた。此方も本物と偽者の見分けが着かないよう、気配や出せる実力も統一され、銃を持つ兵士の如く戦闘能力の均一化がされている。


 それは憑依したモノの違いすら克服した、通常の影分身以上の普遍性を持つ。


 これは虚無の分身以上に整っており、且つ、一人一人の影分身を直接恒星が操るような、不気味な統率を持つ集団だった。




 影分身で数を増やしても、戦闘能力は数に比例して本人より落ちる。体内のチャクラも分散してしまうので、余程チャクラの総量に自信が無いと、直ぐにチャクラが無くなってしまう。更に本人の実力に近づけると、通常のチャクラ消費よりも多くチャクラが消費される。


 それを二人は恐れていない。虚無はたった一人だが、その分身には己の実力が九割も発揮出来るだけの、綿密なチャクラと魔力、精霊達の配合が成されていた。恒星は数で勝るも、一対一で闘うと本人以外では負けてしまう。実力が一定のレベルしか無いので、包囲戦からの波状攻撃で足止めするしか無い。飽和攻撃は虚無の先天的能力を知る以上、全く意味が無い上、そもそもが飽和しないのだ。




 では、何故人数が片寄っているのか。


 どちらが虚無で、どちらが分身なのか分からないので、どちらかを先に片付けるしか無く、その為には二人を合流させ背後を直接守らせるより、常に背後を取っておく他に分身の深層心理を揺さぶる手段が無いからである。


 これは虚無もどれが本物の恒星なのか分からないので、なるべく包囲網を早く崩し、分身と合流しなければ、極限の緊張感と攻撃に晒されるストレスから、精霊達が狂気に染まり抑えるのが難しくなってしまう。


 能力を全開にしても、恒星達の何人かは刀を持つので、破魔を使われてしまうと能力を断たれ、致命傷は避けられない。


 一対一ではリスクが大きい為、一対多により戦力を分散させる事で、少しでも刀を持つ恒星を減らしたかったのだ。




 結果として、虚無にとっては最悪な事に、本物の虚無へ刀を持つ恒星が全員やって来た。これで本物の恒星も混じっていれば、ひとまずは御の字だが、向こうに居た場合はどちらかが先に片付ける以外、戦況の打開はないだろう。


 恒星は脳裏にピアノの鍵盤を思い描き、濃淡が好きだったボカロ曲を引きながら、影分身達と自分の身体を、まるで他人事の様に操っていた。


 恒星としては、どちらの虚無が本物でも構わない。問題は分身との連係を阻止する事だ。


 攻撃と防御、その二つを同時に切り換えながら、仲間達を補佐しつつ、装備や魔力の消耗を極力抑え、更に決定打を二重三重、四重と用意するのが魔法使いや神官といった後衛職の、より広い視野での戦況分析を行う者の仕事だ。


 自分自身とその分身なら、互いを補佐する事で、その戦況の打開策を練る。これらは阿吽の呼吸と言えるモノだ。


 戦術で考えた場合、少数を多数で攻める際は包囲殲滅というさ作戦が正しい。四十対二の戦力比なら、能力の有る無しを加味せずともそう判断するべきだが、恒星は敢えて三十二対一と八対一というように、影分身達を分配して二分した。


 前述の通り、コンビネーションを取られると非常に厄介な事となるので、相手の戦力を過大評価し、たとえ少数であっても、二分して各個撃破、ないしは消耗にあたる。


 セオリーを無視してでも、これなら潰し合いになろうと、此方が有利に動ける。


 影分身に溶け込んでいる以上、倒されてもヤられた振りをすれば、虚無の影に身を潜める事は可能だ。それが本物か偽者かの違いしか無い。


 片方では波状攻撃を行いつつ、いつでも混戦可能な距離を保って攻撃する。もう片方では、接近戦と中距離戦の追尾にて円運動を強制させていた。近づくなら無拍子による剣術で、斬り込む瞬間すら読ませず切りつけていくだけである。



 しばらく経つと、片方の虚無は影分身を二十人も倒していた。が、数が減っても影分身達に動揺は無い。それどころか数は減っているにも関わらず、一向に包囲網は崩れない。いや、崩せないと言い変える事が出来る。


 対して精鋭の恒星達は、変わらず虚無を包囲している。いく筋も太刀を入れ、負傷はさせたものの、ケガすると同時に再生するので、いまだに健在だ。


 破魔の欠点として、能力を斬ったかどうかが分からない点がある。相手が能力者であろうと、首をはねてしまえば大抵が死体となり、不死身でも無い限り能力者だったのかは、後で調べなければ分からないのだ。




 故に、恒星と影分身達は後の後に打って出る。


 灯曰く、剣術指南書の奥義には、灯でもまったく理解出来ない業が存在する。それは大概、技術とかではないものに行き当たるそうだ。簡単に言うと、やれこう斬り込めば必ず相手を倒せるとか、これを繰り出せば無敵であるとかの、精神論に行き着いた様な形であり、そのほとんどは自分の流派をお高く見せようとするハッタリとしか思えない様なものである。勿論、その中にはいまだ道半ばで極めた訳でもない灯に理解出来ないだけで、実戦で使える本物もあるかも知れない。


 そこで、そんなあるかどうかも分からない、信頼性に欠ける必殺技に頼らず、一番確率が高く、己が理解出来る奥義を使う。剣術が究極まで行き着く一つの理想形。


 己を死人しびとと化し生への執着を捨て、相手の攻撃を極限まで引き付け、刃の下から逃れられない攻撃範囲に呼び込む。その奥義の名は相討ちだ。向こうの攻撃が恒星に届く範囲に居れば、必然的に恒星の攻撃は当たる。


 生者せいじゃは死人に勝てぬという理屈で、葉隠はがくれにある死ぬ事と見つけたり、だ。


 二つ二つの場にて早く死ぬはうに片付くばかりなり、別に仔細なし、胸すわって進むなり。


 簡単に言うなら、生きる方法と死ぬ方法の二択を迫られた時は、迷わず死ぬ方法を選べば問題など無い、という解釈である。


 武士というものが死と向かい合って生きていた一つの証拠だ。恒星は忍者だが、前世に師事を受けた灯は、真の剣豪であり、最高峰の能力者に対して刀一本で渡り合った実力を持つ。




 相手は虚無で、実演者は恒星となるが、マスケット銃の銃弾がなんちゃってバンカー・クラスターだろうと、恒星には当たらないので、虚無はどうしても接近せざるを得ない。


 本来なら武器を使うのではなく、手刀でもって切りつけるのが忍空流となるも、虚無の能力はほとんど全てを跳ね返すので、破魔を発揮しなければ一撃を入れるのも難しいのだ。


 喩え本物であれ、偽物であれ、影分身と本人の纏う雰囲気すら同じである以上、虚無は怪しんだとしても勝負に乗る他無い。


 相討ち覚悟は通常ではあり得ない後の後、振りかざした刃を痛みすら彼方へと捨て、無我の境地に辿り着く。自我への妄執から解放された、静かなる悟りの境地。とある剣術の流派では空の剣とも呼ばれ、死の間際に無拍子にて接近し、相手を両断する極意でもある。


 虚無は恒星の腹部に突きを繰り出し、直ぐ様別の恒星に斬りかかろうとするも、突いた恒星に斬られてしまう。


 別の虚無も恒星を斬るが、返す刃にて最後の力で斬られる。


 影分身達と分身が消え、立っているのは本物の恒星だけだった。


 影分身が行ったとはいえ、一歩間違えれば本物の恒星が行っていた事に変わりなく、命懸けの相討ちも辞さない破壊神の使徒は、上位陣の鑑と言えよう。




 使徒達は片付けを終えると、自分達が居た世界へと帰っていく。戦場となった世界にとっては堪ったものでは無いが、使徒を敵に回すと外敵に乗っ取られかねないので、泣き寝入りして控えておく他ない。





 数多ある格闘技の中には、剣術にも採り入れられたモノがある。また、体捌きだけなら銃の使い手も、近接射撃に対する回避の応用に組み込んだ。


 その一つに、合気道と剣術を合わせた様な、刀で行う合気がある。そくひ付けと呼ばれ、馬庭念流まにわねんりゅうの技として知られる。


 押せば引かれる、引かれれば押す。刀同士を常に密着させる必要がある為、鍔迫り合いの対処法として使われる。


 が、極めれば打ち合う一瞬でも、相手の体勢を崩す事が可能となる。経験を積むだけでなく、更に才能があれば、動物の牙や爪、槍や棒といった刀以外でも発揮出来るようになる。


 似たようなものとして西洋では、相手の剣技を受け止めるのではなく、受け流す護剣術がある。


 また、受け止めて刃や剣身を折る武器は、一般的に名が広く知られている。


 銃では、ガン・プレイに東洋武術の型を取り入れ、より合理的な戦闘スタイルとして考案されたガン=カタがある。


 中、遠距離では、自分に向けられる銃口の数、角度等を見切り、発射される前に射手や銃を潰して、被弾を極力避ける。


 近接戦闘では拳銃を持つ手首を弾いていく事で、銃を大きくブレさせ、弾道の外へと身体を持っていく。


 故にガン=カタは、早撃ちや従来の銃撃戦とは違う。


 無論、型は元々武術のものなので、剣や槍を持っても戦える。


 ただし、自動拳銃や小銃の多くが右手で扱う事を前提に造られている為、右手を怪我すると戦闘力はどうしても落ちる。


 徒手空拳は柔や剛、合気や気功に至る迄を、身体一つで行う。


 柔術を極めれば、気当たりだけで相手に触れずとも投げ飛ばせる。また、人体の構造上、緩衝材でもある関節をほとんど機能させなければ、ボーリングの球を砕く事も可能だ。


 筋肉を瞬時に縮めれば、拳銃弾をも通さなく出来るし、手刀でビール瓶を真っ二つにする事も可能である。




 ならば人間がその身一つで鍛え上げ、歴史と研鑽を積んだ拳闘こそが最も強いのか?


 回答としては否と応えよう。




 剣術の奥義が一つには、相手へ反撃する間を与えないよう、高速でわざと受けさせ続ければ、単調な打ち込みでも何故か相手は受け止める事が出来ない業がある。


 端的に言うと、脳内で量子的な確率の変動が起こり、受け損なうのだ。


 紙に同じ文字を大量に、より早く書こうとすると失敗する事がある。これが脳のスリップ現象である。


 幾百、幾千と愚直に降り下ろす事が出来れば、相手は必ず倒れ伏す。


 精神論のような奥義だが、発見した者は何度もトライアル&エラーを積み重ね、気が狂うほどに剣を振り続けたのだろう。


 これは、人間と同じ二本の手足を持つ状態であれば、どんな存在であれ斬りすてる事が可能と言える。


 ただ、奥義を繰り出す者も同じ条件下にあるが、身体に覚え込ませたモノであり、脳という高性能で精密な部分を通していないので、脳のスリップ現象が起こり難いのだ。


 例え天才と言われても、積み重ねたモノが無い以上、努力した凡人に負ける。この奥義に限って言えば、知能指数や単純な身体能力の差は無意味。脳の誤作動は本人にも止めようが無いのだから。


 数百年前に、脳のスリップ効果を利用した剣術があるなんて、ちょっとオーパーツじみているとは言え、本当にあるのだから仕方ない。




 更に言うと破魔の使い手ならば、刀の間合いの中では、魔法や超能力といった類いにも勝てる。


 破壊神の使徒である、コードネーム・ライトの刃は、異能力者の頂点にも届き、唯一神の使徒達を半殺しにまで追いやった。


 最高峰の能力者といえど、当時はその頂点にて胡座をかいていた為、脳のスリップ現象は止めようが無かったのだ。


 しかしながら、刀という武器に弱点がない訳ではない。


 間合いの外から襲い来る銃弾や、間合いの更に内側へと踏み込む格闘技の前では、剣技に威力が乗らなくなる。


 刀身は横からの衝撃に滅法弱く、散弾等の広範囲に散らばる銃撃にも対処が難しい。


 故に狙撃銃や散弾銃を扱う射手は勿論、空手や柔術、合気道の使い手も苦手である。


 また、槍や薙刀といったリーチがある武器にも弱い。


 何故なら、刀とは本来、護身用の武器だからだ。防御こそが本領を発揮する。


 攻撃を受けても、防ぐ技が幾つもあるが故に、研鑽を積み重ねた事で攻めへと転じる技が生まれた。


 剣術の奥義がハッタリや精神論の延長線上的なモノなのは、元々防御の意味合いが強い武器だからとも言える。


 防御専用の武器を、無理矢理攻撃用として扱うのだから、型も流派もそれぞれで違う。その各奥義もまた、複雑怪奇となるのは当然であろう。


 数ある中でも、示現流は攻撃的な技が多いが、攻撃こそ最大の防御ともいうので、防御専用の武器としては高い殺傷能力を叩き出せる。


 防御、つまり攻撃を受けても生き残るには、そもそも攻撃される前に相手を潰してしまえば良いのだ。


 蜻蛉切りは叫びながら大上段より降り下ろす。叫ぶ事で相手の気勢を削ぎ、自身に気合いを入れ、単純かつ明確な降り下ろすという基本的動作を持って、一刀の下に相手を斬る。命中率の意味でも高いし、降り下ろすだけなので玄人のみならず、素人でも刀を扱い易いという利点がある。


 ただし、動作が単調過ぎるので見切られやすい。



 ところで、木刀と日本刀のどちらが実用的か?


 この問いに木刀と同じく、鍛練用でもある竹刀が含まれないのは、竹刀は木刀と違って複雑な造りをしているからだ。棒切れや板を削り出したシンプルな造りである木刀と違い、竹刀は竹の板を複数用いており、切っ先と峰にあたる糸状の部分を損壊してしまうと、竹刀として成り立たないばかりか、壊れたままだと煩いだけで、打ち込みの際に威力が激減してしまう。


 問いの正解は、鍛練用と思われがちな木刀に軍配が上がる。日本刀のようにきれいな一閃が相手を倒しやすいと思うかも知れないが、それは日本刀という武器の優位性が、それを十全に操れるだけの技量を持ち、引き出せる為に培われた努力に依存している事を忘れている故の素人考えだ。木刀は振り回して当たってしまえば、結構な損傷を相手に与えられる。


 剣豪の一人である宮本武蔵ですら、木刀を愛用し、幾つも自作していたという話もある。


 達人ですら木刀を愛用するのは、一太刀で即死もあり得る日本刀より、打撃に過ぎない木刀の方がまだ手加減しやすく、また、即席の武器として調達も容易であるからだ。


 違う流派同士の喧嘩に、わざわざ刀を持ち出していては、いらぬ恨みも生じやすくなる。木刀で打たれて、運悪く死んだとしても、相手の鍛練が足りないという見解で双方の流派は納得しやすい。


 さて、近距離の武器では日本刀に敵わないのか?


 棒術の一つに、六尺程の長い鉄ボルトを二本、捻れ絡ませ一本の棒に仕立てたモノを、扱う流派がある。


 達人の操る刀に対抗すべく研鑽を重ね、捻れた六尺棒を用いる事で対抗手段としたのだ。


 捻れているのは強度重視の目的の他に、操る時に手の中で滑らずグリップしやすいという実用性もある。


 刀と棒では、武器そのものの特性を鑑みた場合、棒の方が有利になる。鍔迫り合いにならずとも、ただ打ち合うだけで刀は折れ、刃は零れる。日本刀を扱う者と渡り合う事を考え研ぎ澄ました末の棒術。型は勿論のこと、棒の種類も多様化している。


 相手の剣士が素人か玄人かの判断として、どこを見るべきかというと、横薙ぎに最も現れやすい。よほどの腕がない限り、体幹はブレてしまうものだ。遠心力が横に働く為、素人や玄人に届かない腕前なら、間違いなく引きずられて体勢を崩す。鞘引きし、腰を落として放つ居合術でもこれは変わらない。




 棒術の打撃より遥かに重い威力を叩き出せる武器は、ハンマーだ。金槌や木槌でも良いだろう。それらには劣るが、拳での打撃も人体には効く。流石に刀と打ち合っては、拳が両断される。


 それでも武器を破壊したければ、太刀筋を流して地面に突き刺さらせる他ない。死んだ太刀の側面を殴るなり蹴るなりすれば、よほど非力でない限りは折れるか曲がる。


 また、マシンガンの連射を浴びれば、刀身はすぐに砕ける。良くて五、六の鉛玉を斬れる程度だ。


 従って、刀が最強の武器と言うのではなく、その使い手の技量と手札の数、そしてその時の勝負運等が関係してくる。


 能力者や銃士が剣を取り、剣士と同じ土俵で戦えば、当然ながら剣士が非常に有利だ。


 逆に剣士が武器を捨て、無手で格闘家に挑めば容易く沈む。


 しかし、刀と同程度の間合いを持つ武器なら、まさに勝負運次第にもなりかねない。


 刀を振るう以上、刀以外の武器を想定して、それと戦う事も教えとしてあり、それら刀以外の武器をある程度使える用にならなければ、長所短所を比較する事も儘ならない。


 必然、それは日本刀や木刀以外を手にしても、戦えるという事でもある。


 鎖鎌や棍、長巻き、薙刀、槍。その他諸々を扱い、その武器を相手にシミュレーションし、自然と身体が反応するまで、身体に覚えさせていくのだ。


 ただ、その武器を極めるという事まではしないので、予想外の攻撃には反応が遅れてしまう。


 灯が異能力や魔法が相手でも勝ちに行けるのは、入念な下調べと研鑽の賜物である。

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