第13話 サルベージ・ログ ツワモノどもが|現《うつつ》の|蹟《あと》

 光輝と天候は一台のMT車両に乗り、ギア・チェンジとブレーキをーー教習所の車と同じ仕様で、助手席にもブレーキがあるーー助手席の天候に任せて、光輝はクラッチとアクセル、そしてハンドル操作を行う。


 光輝は左手でハンドルを左右に動かしながら、窓を全開にして右腕を車外へ露出させ、天使と悪魔の攻撃を打ち払っていた。


 反対側の天候も右手でギアのレバーを時折動かしつつ、左手の短剣で二人の攻撃を捌く。


 対する天使と悪魔はレース用のカートに乗り、執拗に一斗缶やドラム缶を端末機から取り出しては不法投棄し、障害物で車両の進行妨害をしてくる上、短機関銃と機関拳銃で中距離射撃と近接射撃を行う。


 しばらく銃弾と気弾の応酬が続くも、辺り一面はドラム缶等が散乱していた。


 天使が低摩擦の対物剤をMT車両の進行方向に投げ、ブレーキを効かないようにしてくる。


 低摩擦の対物剤とは機動Mobility阻止DenialシステムSystemの一つであり、車両等の行動を奪う為の非殺傷兵器。摩擦係数0・00五、氷より滑るので、ブレーキやハンドル操作は効かない。


 すると、光輝と天候はドア付近に取り付けた小さなハンドルを回す。これは運転席側が前輪、助手席側が後輪を独立して動かせるように、追加した操作装置である。前後輪を八の字にして、ひし形を描くようにタイヤを動かすと、スキーのように減速していき、やがて停止するようになるのだ。


 前後輪をひし形にするのは、片方だけでは不安定だからで、ひし形にしておけば前後左右にはまず動かない。


 これならブレーキが効かなかったり、壊れていてもタイヤの溝が磨り減るのを気にしなければ、減速や停止が何時でも出来る。


 全能兵器の特性をオンにしたままなら、タイヤの溝も磨り減る事は無いのだが、それでは面白くないので、特性はオフのままなのは言うまでも無い。


 タイヤをバーストさせるべく、悪魔が機関拳銃マシン・ピストルを撃つが、標的は慣性で動いている為か、中々当たらない。


 というのも、後輪タイヤの位置をスイッチ一つで元に戻し、前輪にてブレーキを掛けつつ後輪を空転させ、摩擦熱でジェル膜の水分を蒸発させて接地後、後輪を前輪のように斜めにし、旋回する事で光輝達は辛くも回避していたのだ。


 続け様に前輪を元に戻し、スピンしてMDSの領域から出ると、後輪を八の字にしてブレーキを掛け、ドラム缶をかわす。今度は前輪を八の字にしてブレーキを掛けつつ、後輪を元に戻すと言うトリッキーな運転で天使達の銃撃を掻い潜る。


 天使の短機関銃から出る銃弾が、流れ弾となって一斗缶を撃ち抜くと、中身が漏れ出てきた。立ち込める臭いから察するに、どうやら菜種油のようだ。


 次に悪魔が漏れ出た菜種油に向かって、火の玉を放つと、天使がそれとなく車両を狙いつつも、一斗缶を撃ち抜いていたので、一面が火の海となる。


 が、天候がギアを変えると、車両はほとんどその場で旋回し、火の手が無い後方へと進む。そう、左右のタイヤを互いに逆回転させることで、超信地旋回をしたのだ。普通の車両では前後輪が駆動したり、四つのタイヤが個別に動かせたり、左右のタイヤが互い違いに回転したりはしない。先入観を持って相対すると、相手はその動きに翻弄されてしまうだろう。


 火はやがて天使達を含めて車両を囲み、火砕流となって焼き尽くす。


 しかし、天候による極低温の台風によって、次の瞬間には全てが凍てついてしまう。


 車両もカートも急激な温度変化に堪えられず、完全に停止してしまった。


 地形や気象等の外因は、天候の意識がある限り、ほとんど無効とされてしまうのだ。


 単純なようで奥深い格闘や運転技術をもってして、上位の能力者同士の対決に勝敗は決まる。でなければ、足を着けているこの惑星が幾つあっても足りない。


 その気になれば簡単に惑星を砕くのが、原初の世界にいる上位陣。そうならないよう被害を抑えるのも、上位の能力者くらいしか出来ない。


 天使の近距離射撃に、天候が短剣で挑み、悪魔の近接射撃を光輝が体捌きでかわす。


 接近しつつ命中弾のみ切り裂く天候を見て、天使は灯の技を盗んだのかと、胸の裡で嘆息する。が、どんなに速くとも天使に剣撃は当てられない。




 合気道とは天地の気に合する道の意だ。


 合理的な体の運用により体格・体力によらず、小よく大を制することが、可能であるとしている点が特徴である。


 技の稽古を通して心身を練成し、自然との調和、世界平和への貢献を行う等を主な理念とする。


 精神的な境地が技に現れるとされており、他武道に比べ精神性が重視される。これは神道・大本教との関係など、精神世界への志向性が強かった盛平自身の性格の反映といえる。 このように創始者個人の思想や生い立ちが個々の修行者に及ぼすカリスマ的な影響力は、他武道に比して強い。その背景には、小兵でありながら老齢に達しても無類の強さを発揮するなど、盛平に関しての超人的なエピソードが幾つも伝わっており、それが多くの合気道家に事実として信じられ、伝説的な武術の達人として半ば神格化されていることも大きな理由の一つである。


 武術をベースにしながらも、理念としては、武力によって勝ち負けを争うことを否定し、合気道の技を通して敵との対立を解消し、自然宇宙との和合や万有愛護を実現するような境地に至ることを理想としている。主流会派である合気会が試合に否定的であるのもこの理念による。和の武道、争わない武道、愛の武道などとも形容され、欧米では動く禅とも評される。


 近代以降、武道の多くが剣道柔道投・極空手と技術的に特化していったのに対し、合気道では投・極・当身・剣・杖・座技を修し、攻撃の形態を問わず自在に対応し、たとえ多数の敵に対した場合でも、技が自然に次々と湧き出る段階まで達することを求める。この境地を盛平は武産合気、無限なる技を産み出す合気と表現し、自分と相手との和合、自分と宇宙との和合により可能になるとしている。


 武術とは一見相反する愛や和合という概念を中心理念として明確に打ち出した合気道の独自性は、第二次世界大戦後・東西冷戦や南北対立下で平和を渇望する世界各国民に、実戦的な護身武術としてと同時に、求道的な平和哲学として広く受け容れられた。またこのような精神性は、盛平の神秘的な言動や晩年の羽織袴に白髯という仙人を思わせる風貌と相まって、盛平のカリスマ性を高める要因ともなった。


 技は体術武器術を含み、対多人数の場合も想定した総合武術である。ただし実際には武器術を指導する師範の割合は多くなく、体術のみを指導する稽古が大半である。


 技の形態として、無駄な力を使わず効率良く相手を制する合気道独特の力の使い方や感覚を呼吸力、合気などと表現し、これを会得することにより、また同時に合理的な体の運用・体捌きを用いて相手の力と争わずに相手の攻撃を無力化し、年齢や性別・体格体力に関係なく小よく大を制すことが可能になるとしている。


 合気道の技は一般的に、相手の攻撃に対する防御技・返し技の形をとる。


 相手の攻撃線をかわすと同時に、相手の死角に直線的に踏み込んで行く入身いりみや、相手の攻撃を円く捌き同方向へ導き流し、無力化する転換など、合気道独特の体捌きによって、自分有利の位置と体勢を確保する。


 主に手刀を用いた接触点を通して、相手に呼吸を合わせて接触点が離れぬよう保ちつつ、円の動き・螺旋らせんの動きなど円転の理をもって、相手の重心・体勢を崩れる方向に導いて行く。このとき無駄な力が入っていると、相手の反射的な抵抗を誘発し、接触点が外れる、力がぶつかって動きを止められる等の不具合が生じ、技の流れを阻害する。そのため、脱力ということが特に推奨される。また脱力により、リラックスして動ける自由性や、技中に体の重さを効果的に使うことが可能になる。


 また相手の側背面などの死角から相手に正対し、かつ自分の正中線上正面に相手を補足することにより、最小の力で相手の重心中心軸・体勢を容易にコントロールし導き崩す。


 体勢の崩れた相手に対し投げ技や固め技を掛ける。崩しを行わずに技を掛けようとしても技は容易に掛からない。崩しは厳しく、投げはやさしくなどと言い、崩しを重視する。


 このように相手との接触点を通じ技を掛ける機微と一連のプロセスを結び・導き・崩しと言い、合気道の技の大切な要素として、また精神理念に通じるものとしても強調することがある。


 稽古の形態としては、二人一組の約束組手形式--何の技を使うか合意の元に行う--の稽古が中心であり、取り捕り--相手の攻撃を捌いて技を掛ける側--と、受け--相手に攻撃を仕掛けて技を受ける側--の役を互いに交代しながら繰り返し行う。


 一般的な合気会の道場では、まず指導者が取り・その補助者が受けとなり課題である技の形を示演し、これにならって稽古生各々二人一組となり技を掛け合う。取り・受けは平等に同数回交代しながら行う。片方が十回投げればもう片方も十回投げる。技は表とも呼ばれる右左と、入身で相手の死角に踏み込む裏--転換で相手の背後に回りこむ--をやはり同数回行う。


 柔道のような乱取り稽古は通常は行われない。基本的に相手の手首・肘・肩関節を制する幾つかの形から始まり、稽古を重ねる中で多様な応用技・変化技--投げ技・固め技など--を学んで行く。立ち技と正座で行う座り技が中心で、寝技は殆ど行われない。打撃当身は牽制程度に用いることが多く、打撃中心の稽古は行われない。蹴り技・脚を使った絞め技などは基本的には行わない。


 この他に、一人の取りに複数の受けが掛かって行く多人数掛けや、剣・杖・短刀取りなど武器術・対武器術の稽古も行われる。


 基本的な技。一教、相手の腕を取り肘関節を可動限界まで伸展させ相手を腹這いにさせ抑える。


 四方投げ、相手の手首を持ち、入身・転換によって相手を崩し、両腕を振りかぶりつつ百八十度背転し、刀を斬るように腕を振り下ろすことにより、相手の肘を頭の後ろに屈曲させ脇を伸ばし仰け反らせて倒す。


 入身投げ、相手の側背に入身して背後から首を制し、転換しつつ相手を前方へ導き崩し、反動で起き上がった相手の頭を肩口に引き寄せ、引き寄せた側の手刀を下方から大きく円を描くように差し上げて斬りおろし相手を仰向けに倒す。


 小手返し、相手の手首を取り、入身・転換で体を捌きつつ崩し、反対の手を相手の手の甲にかぶせ、手首を返して肘関節を屈曲させ仰向けに倒す。


 体の転換、相手に片手を掴まれた状態から掴まれた手と同じ半身の足で、相手の足の外側に半歩入身し、更にその足を軸に水平方向に百八十度背転し、相手と同方向を向き力を丸く捌いて前方へ導き流し崩す。技と言うよりも入身・転換という基本的な体捌きを身に付けるための鍛錬法である。体の変更、入身転換とも言う。


 座技呼吸法、向かい合って正座した状態から相手に両手首を強い力で掴ませ、指先を上に向けながら手刀を振り上げることで相手の体を浮かせ、そのまま後ろに押して相手の体勢を崩す。大東流の座捕合気上げに似ているが、合気道では呼吸力の養成法--呼吸法の名称はその略である--として指導されている。


 その他の主な技として、二教、三教、四教、五教、天地投げ、回転投げ、呼吸投げ、腰投げ、隅落し、合気投げ等。以上の技は最大公約数的なものであり、流派や道場によって細部は異なる。同じ技が別の名で呼ばれること、別の技が同じ名で呼ばれることも少なくない。


 合気会系の道場では、稽古は体の転換から始まり、座技呼吸法を行って終わることが多い。これは怪我を防ぐために体の変更で身体をほぐし、徐々に激しい投げ技を行うよう盛平が制定したからである。


 合気道の技は相手の攻撃に対して投げ技・もしくは固め技にて応じるのが基本である。技の呼び方は技開始時の受け・取りの位置的関係、または技開始時の受けの攻撃形態に、上記の固有技名を組み合わせる。


 例えば、受けが右手で取りの左手首を掴んだ状態を片手取り、または逆半身片手取りという。受けが手刀を正面から振り下ろす攻撃形態を正面打ち、斜め横から振り下ろすのを横面打ちといい、それぞれの状態から上記いずれの技も派生し得る。


 合気と呼吸力は合気道技法の原理であると同時に、合気道の重要な理念とされる概念。


 大東流合気柔術では、相手の力に力で対抗せず、相手の気--攻撃の意志、タイミング、力のベクトルなどを含む--に自らの気を合わせ相手の攻撃を無力化させるような技法群やその原理を指す。


 合気道においては上記の意味合いも踏まえ、そこから更に推し進めて、他者と争わず、自然や宇宙の法則--気--に和合することによって理想の境地を実現する、といった精神理念を含むものになった。


 大東流における合気の技的なものから、合気道の体捌きである入身・転換、技に入るタイミング、相手に掴まれた部分を脱力して相手と一体化する感覚など、相手や自然の物理法則との調和・また宗教的な意味合いでの宇宙の法則と和合を図ろうとすることなど、技法から理念まで全てを広く合気と表現する傾向がある。


 合気道で使う呼吸力は、盛平が自らの武道を確立する過程で生み出した造語であり、合気を盛平独自の主観を通して表現したものである。


 合気道における合気が主に理念的な意味で広く用いられるのに対し、呼吸力は主に技法の源になる力という意味合いで用いられる。ただし理念面でも呼吸、呼吸力は用いられることがあり、両者の違いは必ずしも明確ではない。


 この呼吸力が具体的に何の力を指しているかについては、様々な言説がある。盛平は弟子達に合気道の理念、理合を説明する際、古事記の引用や神道用語の使用が多く、難解・抽象的な表現であったため後代様々な解釈が奔出することになる。


 合気・呼吸力を具体的な技法原理として解明するために、脱力・体重利用・重心移動・腹腰部深層筋・梃子の原理・錯覚や反射の利用・心理操作など様々な側面から説明が試みられている。


 ただし、脱力が合気や呼吸力を発揮する条件であること、姿勢や呼吸の重視、臍下丹田の意識を重視する、などの点において、各派の意見に共通性が見られる。


 合気道では武器術も行われている。合気道の稽古で使用される武器は木剣・杖・短刀--木製・ゴム製など--の三種類である。ただしこのうち短刀は、短刀の攻撃を捌く技、短刀取りの習得のためのみに用いられるものであり、短刀術を目的とするものではない。したがって合気道の武器術と言う場合は、剣・杖を意味するのが普通である。


 剣は剣取り--剣による攻撃を素手で捌く、または剣を取りに来た相手に投げ技などをかける--と、合気剣--剣対剣、またそれを想定した単独の形--で、杖は杖取り--杖による攻撃を素手で捌く、または杖を取りに来た相手に投げ技などをかける--と、合気杖--杖対剣、またそれを想定した単独形--がある。


 盛平は合気道は剣の理合であると言い、剣・杖を重要なものとして語った。徒手技は剣・杖の術理を体術の形で現したものであるとされ、たとえば徒手の投げ技などにおいては、腕を振り下ろす動作を斬る、斬り下ろすなどと表現する。また体術・剣術・杖術に共通する半身の構えは相手の突きを躱しつつ前方の相手を突くための槍術の構えを反映したものである。他に重い剣を速く振り上げる体の動きと呼吸力との関連を指摘する師範もいる。




 では何故、濃淡にはほとんど通用しなかったのかという疑問が出るだろう。関節を妖精達の擬態した服で固めていようと、例え動かない大木であろうと、達人ならば機会を失わずに攻め立てて動かせるものだ。しかし、濃淡はただの大木ではなく、世界樹という九つの世界へと通じる巨木だった。


 つまり、幾つもの世界そのものが相手であり、天使自身が宇宙との和合をしていようとそれは一つの世界でしかなく、異なる宇宙を宿した妖精達の乱舞は、絶対に避けられないので敗北を喫したのである。妖精を守る為ならば、銀河一つ分の魔力を個別に用意するとか、反則的過ぎるのだ。


 だが、今回の相手は光速移動を得意とする天候。この世界線の宇宙と和合、もとい同調した天使は重力から流星までを己の意のままに操れる。もう、何も怖くない。


 天候はその短剣に宿る呪いを圧縮し、彩への秘めたる想い--と言っても愛なのだが--や、義理の兄である虹への思い--友愛に近い感情--を注入していき、呪いを凌駕したチカラに変えていく。光速はマッハで換算すると約八十八万強もの数値になり、その三倍速い群速度で動く業たるブラディオンにて、超光速斬撃を放つ。


 しかし、次元を置き去りに引き裂く斬撃にも関わらず、天使は天候の両手首を掴んで、勢いそのままに投げ飛ばす。


 宇宙と和合しているので、その宇宙を切り裂かれようと、合気道と短剣の異種格闘による相性までは覆せないのだ。そもそも、合気道は剣の理合であり、精神性の強い武術である。そこに愛や情を用いたごうの深いわざを繰り出そうと、合気道の使い手にはあまり通用しない。いや、それどころか、利用されて返されかねないだろう。


 天候が投げ飛ばされた先には、光輝によって殴り飛ばされた悪魔がいて、受け身を取ろうとして互いに揉み合いつつ地面へと激突する。



 悪魔が天使に師事を受けた柔術で光輝と対峙するも、呆気なく技量の差を見せつけられてしまう。


 柔術とは、徒手あるいは短い武器による攻防の技法を中心とした日本の武術である。相手を殺傷せずに捕らえたり、身を護ることを重視する流儀の多さは、他国の武術と比較して大きな特徴であろう。このような技法は広く研究され、流派が多数存在した。


 講道館の創始者嘉納治五郎は、無手或は短き武器をもって、無手或は武器を持って居る敵を攻撃し、または防御するの術である。と柔術を定義した。


 投げ、固めの技法から、当身技や武器術も含む技法を網羅した武道を目指したものが柔道であったが、乱取が競技化したことにより、組み付いた状態での投げ技と寝技の乱取稽古に特化し、当身や対武器の技術は形稽古のみで行われ後に禁じ手・反則技とされてしまい形稽古自体さえも全く行われなくなった。


 直接柔術と関連がないが、柔道で廃れていった当身技の稽古のために生まれたのが日本拳法である。柔道をもとに当身と当身から投げ技への変化の技法を専門化した武道として編み出した。


 軍隊格闘技としては、近年のCQCを重視する各国軍隊の近接格闘術に柔術の技が採り入れられていることもある。ただし、柔術に限らず伝統武術に共通する欠点である、習熟に時間がかかる割りに、現代の戦闘では役に立ちにくい非実戦的な技も多い点により、伝統流派自体の採用ではなく、一部の技の採用や、各国で独自に近代化した柔術技法などが採用されている。


 柔術は概ね、江戸時代までに興された徒手武術をさす。武術としての柔術には、現代柔道、合気道、ブラジリアン柔術等は含まれないが、より明確に分けるために古流柔術と呼ぶこともある。また、上記のものは柔術の流れを汲むため、広義では柔術に含まれる。またその古流柔術にもどの時代に発達した柔術かにより技術体系が違う。戦国時代特有の条件がある場合の柔術もあり、そういった柔術は自ら甲冑を着込んで、甲冑を着た相手という特殊な条件があり甲冑兵法や甲冑柔術と呼ぶ場合がある。


 甲冑を着用しない柔術。概ね江戸時代に発達した柔術である。甲冑を着込んで、甲冑を着た相手と戦うことを想定していない場合が多い。しかし例外とする流派もある。


 甲冑兵法・甲冑柔術。概ね戦国時代までに発達した甲冑を着込んでの柔術である。戦国時代の合戦場や戦場で柔術を使うことを念頭においている。武器を用いて、または武器が無い状態や、なんらかの理由で武器を紛失した状態での柔術である。甲冑を着込まない柔術との違いは相手も甲冑を着込んでいるために突きや蹴りはあまり有効技ではないために突きや蹴りより関節技や投げ技や武器技が主体となっている。甲冑を纏うために身軽さや身体の自由自在さを維持するためにより少ない動作や少ない体力の消費で最大の効果を得る様に技が作られている。また戦場では一対多数が当たり前のために一対一の戦いでも常に周囲に気を張り、多数相手に動けるようにしておくという点にもさらに比重が置かれる。実際に甲冑を着込み練習もする。口伝や書物にだけ残っている場合もある。


 現存する甲冑柔術には東北に伝播した中で柳生心眼流甲冑柔術が存在する。実際に甲冑を着込んでの技の練習もしていた。


 また古い流派の一つの柔道秘録によれば、甲冑を実際に身に着けて行なう組討の形が五つあり、相手を組み敷き短刀で首を取る形や組み敷かれた時に短刀で反撃する方法の伝承もあるとされている。




 光輝は柔術から空手に切り替える事も出来るし、中国拳法と柔術の複合技も編み出しているので、達人の中でも中位に位置する悪魔相手には、まず遅れを取る事は無い。


 とは言え、能力を使って来られたら分からなくなる。


 能力的には正の宇宙と量子操作なので、やや光輝が有利だが、量子系は悪魔に通用しない為、影分身や残像が効かない分搦め手は封じられていた。


 故に正攻法である、真っ向からの殴り合いとなってしまう。



 悪魔を天候に任せ、光輝は天使と向かい合った。企業戦士より神道の巫女が、男性と違って同じ女性なので、遠慮がいらないのだ。


 天使は宇宙と和合しているとは言え、光輝の思考や気に同調は出来ない。よって、純粋な技量と技術による肉弾戦が始まる。


 後の先や先の先、相手の動きにどう対処するかの読み合いは勿論、古武道の見切りや見切り返しにどう対処するかも、想定して動かなければ、直ぐにきょを突かれかねない。




 剣道の技に無刀取りというものがある。斬りかかる相手の剣を避けるだけでなく、素手で受け止めるというのだ。僅かでもタイミングがズレたら斬られてしまうし、早すぎれば相手にこちらの意図を悟られてしまう。だから相手が行動を起こすその瞬間に、剣の軌道と速度を読み、絶妙なポイントとタイミングで相手の剣を両の掌で挟みつけ、捻って奪い取る。もしくは軌道を変えてやり、床や地面に向かって突き刺さらせる。


 その相手の行動を先読みする技が見切りだ。


 不可能と思われるかもしれないが、ある程度訓練すれば、誰にだって簡単な見切りは出来る。人間はある動作をしようとする時、必ずその動作の予兆が身体に現れる。例えば、落ちている物を拾おうとする時、まず最初に目が目的物へ焦点を合わせるよう動き、次いで前屈みになるための重心移動が起こる。そして前方に腕を伸ばすための、背中と腕の筋肉の収縮と弛緩が起こり、最後に目的物を拾うための掌の運動か起こる。


 この一連の予兆を細大漏らさず正確に観察できるようになれば、相手の行動を先読みする事もおのずと可能になる。


 見切りが出来れば銃弾だって避けられるのだ。


 標的を目で捉え、重心を落とし、銃口を向け、引き金を引く。この一連の射撃動作の途中で、銃弾の軌道を先読みし、引き金が引かれると同時にその位置を変え、命中軌道から頭や身体を退かす。


 問題は引き金を引くタイミングだが、プロの射手ほど無駄な動きはしないものだ。従って、プロの銃弾は素人の射撃より遥かに避けやすい。


 オマケに剣や拳による曲の動きに比べ、一直線にしか移動しない銃弾の軌跡は、なおの事先読みしやすい。


 見切り返しは、相手の動きや見切りの技を見切っている事である。相手は此方の次の動きを見切っているので、此方が動くと同時に、その逆方向へと逃げるが、此方にはその動きが、相手が動く前からすでに分かっている。


 つまり、フェイクだ。此方の動きは見せかけで、最初から攻撃ポイントを決め、そこへ見せかけの動きで相手を誘い込む。が、フェイクや見切りだけでは防御や回避は出来ても、攻撃は絶対に当たらない。


 それでも攻撃を当てる為に、武術の技は磨かれて来た。


 その一つに無拍子打ちというモノがある。


 無拍子とはその名の通りリズムの無い、無連続・無法則な動作の事だ。


 錯覚の応用でもある。古武道ではヌケとも言う。


 相手の見切りを使えなくするため、予兆として現れる連続動作の一部を、意図的に抜く技の事だ。


 これを目の前で行われると、人間の脳は予期せぬ動きに、動揺して反応が遅れ、そのタイムラグがあたかも相手が目にも留まらぬ速さで動いたと、錯覚を起こす。


 このヌケを連続して行う事で、相手の脳に強烈な動揺を引き起こさせ、己が凄まじい速度で揺れ動いているように、見せかける事も可能となる。


 そのヌケの動作を可能にさせるのが無拍子打ち。


 人間の動作には、必ず予兆としての連続動作がつきまとう。目の動き、重心移動、胸から始まり関節を支点として伝わる筋肉の動き。これらを順に行っていては、意図も容易く相手に、その行動目的を見抜かれてしまう。


 だから、攻撃・移動に関わる全ての動作を瞬時にして同時に行う。それが無拍子打ちだ。


 ちなみに脚だけの場合は縮地と呼ばれ、神速の居合斬りでもしなければ仕留められない。


 見切りと違って無拍子打ちは、かなり鍛えなければ使いこなせない。


 まずは指先の動き、手首、さらに腕から肩へと、その筋肉と関節を自在に操り、最後には全身の肉と骨を、多方向異速度で同時に動かせるようにする。これが出来た時、初めて古武道における奥義が一つ、無拍子打ちは完成する。


 これは喩え気付けたとしても、攻撃が避けられない。


 また、無拍子打ち、もしくは無拍子の動きを極めた時、無我の一撃が会得可能となる。


 動きの起こり、動きにあるリズムを消し去る事で正面から不意を突く無拍子、それを更に上回る、意図すらしないのが無我の一撃。


 これは達人の中でも一握り、本当に才能がある者にしか会得が不可能な業だ。


 が、仮初めながらも扱える者は存在する。濃淡であり、濃淡の衣服に擬態している妖精達は、濃淡の意思とは別に行動を起こすからだ。


 レプリカの技でなら、濃淡のように衣服へ妖精を擬態させておく等の方法がある。また、灯もそう。後ろ腰に差したフェアリー・ダガーには、弟子のダガーが居る。彩や恒星も、事前に口寄せして潜ませて置けばいい。


 だが、本当の意味での無我の一撃は、無拍子打ちよりも速く、かつ鋭く、正確に急所を突き、無意識故に、無我の一撃を放った方も、放ったとは気付かないのだ。



 幾重にも組み合い、投げては殴られ、押さえては蹴られるの果て、光輝と天使は互いに満身創痍となる。


 合気道と柔術を基本として、光輝の多彩な格闘に対抗する天使は、対の使徒というだけあって実に強い。


 どんな格闘技であろうと、殴る蹴るが主体となるから剛となり、それに対抗する合気道や柔術はまさに柔である。


 柔よく剛を制す、という言葉が当てはまるも、剛よく柔を断つ、という言葉もあるので分からない。


 だが、カウンターを主軸に立ち回る以上、天使は後手に回らずを得ないものである。


 ところで、カウンターという技なら、空手にも存在する。空王--釈迦の異名--の色即是空が教えであり、相手の因果を受け入れて呑み込み、流れるようにかわしつつ反撃する。それが空手道の奥義だ。


 光輝は天使に向けて連打を繰り出し、その拳が一つである、伸びきった部分を見抜き、その地点に至るまで腕を屈伸させ、掌にて優しく包むように掴む。


 掌には掌なりの役目があり、打撃のみでは天使は敗れない。


 光輝の牙は決して届かないのだが、受け止めるられた瞬間に身体ごと近付き、続けて梁山泊流の無拍子を、ノー・モーションのアッパー気味に解き放ち、天使の顎へ当たると真上にカチ上げてしまう。


 空中コンボをキメに跳躍するも、光輝は何もせずに着地して、気絶した天使をお姫様抱っこで受け止めた。


 会得した流派の多さは手数の多さではないが、柔術や合気道も会得している光輝を、奥義を使わせるまで追い込んだ天使は、やはり相当な実力者であり、流石は対の使徒であった。


 これがもし同じ土俵で闘っていたとしたら、光輝の勝ち目は薄かったと思われる。





 互いに立ったまま、天候は悪魔の柔術で手首を掴まれ、自分の首に短剣を押さえつけられていた。


 如何に速くとも、リーチが短剣ほどしか無い以上、対象には肉薄せざるを得ない。ならば後は斬撃か刺突が基本となる為、軌道は見切りやすく--それでも至難な事に違いは無いが--手首を掴んで、天候に引き摺られるよう動けば、悪魔も亜光速で移動する。が、光速の対価は大きく、ビジネス・スーツの後ろが焼き失せてしまう。


 後ろ半分が全裸だが、誰得のサービス・ショットなのかは分からない。


 しかし、お互いに気にはしないので膠着状態となる。


 天候は握力を解き、短剣二振りを取り落とすと、腕に力を入れて悪魔の腕ごと振るい、わざと投げ飛ばされておく。


 悪魔が着地の瞬間を蹴るも、天候は羽毛の如く、悪魔の繰り出した脚の上へと着地した。乗っかられているにも関わらず、悪魔は天候の重さを感じない。


 更に天候は繰り出された拳の上へと移り、徐々に悪魔の肩へと向かう。


 そう、接近戦ではなく密接戦に切り替えたのだ。


 ベリーダンスに似た民族舞踏をするかのような流線動作にて、近距離、いや、密接戦というべき距離感での戦い方を、仙術と舞踏術を併用させ、まるで蛇がうねるかのように、寄り添う風の如く、素早く流動的に悪魔へと絡み付き妖しく密接していく。


 が、悪魔も黙ってはいない。AK-47を召喚して取り出すと、引き金を引き絞り、フルオートでぶっ放す。




 名銃AK-47は、優れた設計で古くから世界の東西を問わず使われていた。その優れている理由は、巧妙と言っていいレベルで素晴らしく雑に作り込まれている事だ。土埃を被ろうと泥にまみれようと、どんな悪条件でも確実に弾丸を発射できる。かっちりと精密に組み立てられた銃では、作動不良を起こしてしまう。そして、単純で安価。それらが世界中の戦地で使われている主な理由と言っていい。


 一秒間に十発もの弾丸が瞬時に発射され、全弾三秒で撃ち切ってしまう。また、その雑な作り故に引き代の誤差が一定で無く、使い込まれた、もしくは新品のAK-47であろうと発射軌道は一定でない。そして、精度にバラつきがある以上、どんな射手ですら意図せぬ場所へと弾丸が飛んでしまう。そこに人の意思が働かぬ以上、殺気を感じて避ける事はできない。ましてや、秒速七百三十メートルの弾速を、間近で見切る事は不可能である。




 短剣は魔力の念動力で回収したとはいえ、装備していないのでは身体強化しても、光速ではなく亜音速でしか動けない状態である天候は、なかば運任せに動き残像を作りつつ回避した。


 短剣を両手に持ち、魔力を纏わせて二振りの鎌を作り出すと、円を描くように手の中で振り回し、弾丸を切り飛ばす。


 鎌は円軌道を描くので必然的に、円運動的接近戦となる。しかも、大型の鎌は草刈り用にしか使われず、戦闘向きではない為、実戦で鎌を使う場合は小型の鎌に鎖付き分銅くらいが、戦闘面で一番現実的となるのだ。


 ただし、魔力で構築した鎌の場合は峰、というか表も裏も無いので、逆に振るっても斬れる。


 また、機動戦士でもないので、手首を何度も回転させる事が不可能であり、手の中で旋回させるのにも限度がある。更に片手ずつ持っているので、旋回中に相手の攻撃を受け止める事など絶対に出来ない。


 しかしながら、魔力で作った鎌は魔力の柄を支点に旋回させられる。元が魔力なので、形状や仕込みも自由自在に変えられるのだ。


 悪魔はAK-47を消し、長い銃剣を召喚して構え、連続的に鋭い突きを繰り出す。円運動的接近戦の鎌に負けず劣らずな、直線的接近戦で対抗していく。


 瞬間的加速で間合いを詰めると、円運動の内周に入り込み、三段突きを放つ。が、天候は影だけを残して悪魔の背後に回り込む。縦横の方向から来る鎌の刃を、悪魔は振り返る事無く走って、鎌の外周へ逃れる。


 悪魔は向きを変え、直線的だった銃剣を瞬時に円運動へと切り換えると、鎌の動きに合わせていく。天候が片方の鎌を八の字に弧を描かせると、剣は無限大字に切り返し、鎌の二つが円の交差する点に力を集中させる。


 その途端に鎌が弾かれ、持っていた腕ごと体勢が崩れた。尚も悪魔が突く、天候はそれをもう片方の鎌の腹で受け流す。


 悪魔の突きが鈍った瞬間に距離を取り、天候は二刀流の鎌を使って二重に八の字の軌跡を描いた。トリッキーに左右へ揺れ動きながら悪魔に接近する。二刀流の鎌が描く円運動には付け入る隙を無くすようにか、内周と外周に微妙なタイミングのズレがあり、リズムが取りづらくしてあった。迂闊に円軌道の中へ飛び込めば、かわし切れずに八つ裂きにされてしまうだろう。


 これは天候が光速移動・攻撃手段を手に入れる前の、武器を持った戦闘スタイルなので、今ではほとんどお目にかかる機会が無く、なかば天候自身も忘却していた。しかし、昔取った杵柄とは良く言ったモノで、鎌を構えると身体が戦闘スタイルを覚えていたのだ。




 悪魔は果敢に攻め込み、神速の突きを放つ。それでも、二本の鎌は瞬間に交差して、その中心に銃剣を完全に挟み込んでいた。


 銃剣が彼方へと飛ばされる最中、悪魔が再びAK-47を携えて肉薄する。二つの鎌は一回転の途中なので、形状を変化させても時間差により刃は届かない。


 近接射撃による無数のショック弾頭が天候を襲う。が、倒れ付した次の瞬間、無数の、いや、何千、何万という蝙蝠が舞い上がり、昼間だったにも関わらず、太陽が急速に沈み夜の闇が辺りを覆う。そして月が顔を出し、ゆっくりと上昇して夜空に煌々と輝く満月になった。風に流された雲がその月を横切り、一瞬の間だけ光度が落ちる。


 何処までもリアルな天体物だが、全て魔術による幻影。


 悪魔は銃剣を手元に召喚し、群がる蝙蝠を切り捨て、破魔による脱出を試みる。


 しかし、この夜に、悪魔へ襲い掛かる蝙蝠、満月すら偽りのもの。本当はもっと暗く、この場の地形すら何もなく、ただ深淵なる闇に支配されているのだ。


 破魔で切れるモノは一閃につき幾ばくか、多重に張り巡らされた魔術を前には、斬る端から修復されるので無意味に等しい。とは言え、それは灯以外の破魔の話しとなる。


 悪魔の能力による、破魔の連続行使でも破れない。


 そうするうちに、悪魔は蝙蝠が集合して形作った天候数人と対峙し、無数の鎌に切り刻まれた。更に、最後の一撃は亜光速での短剣を投擲され、死ぬ間際を何度もリプレイされられるというループ状態に陥る。


 決して悪魔が弱いのでは無く、相手が悪すぎたのだ。伊達に光輝の双子をしている訳では無いし、また、魔術も濃淡に引けを取らない。エリア魔法の魔術版を最大限に使って、尚且つ、最後の瞬間でも近寄らないという徹底ぶりであった。

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