父親殺しのマグノリア

天上ひばり

父親殺しのマグノリア


マグノリアは父親を殺そうと思った。


その理由はいとも簡単であった。

洗面台で歯を磨いていた彼女の張りのある白い頬に父親が手を洗った水がぴちゃりと跳ね飛んだからだ。


しかし、それは一人の人間の命を殺めるにはあまりに衝動的かつ短絡的な感情であることを彼女自身も理解していた。だがそれを客観的に顧みて、それでも「殺せ」とサインを出すほどに彼女の我慢は限界に達していたのだった。


母親が蒸発したのは、マグノリアがまだ五歳の時だ。五歳の誕生日に、彼女は自分の背丈ほどある大きなテディベアと引き換えに母親を失った。

至る所がおんぼろになった小さなログハウスに残されたのは、幼い赤髪の少女と、でっぷり肥えた酒癖の悪い父親と、可愛くて大きなぬいぐるみだけった。


マグノリアは最初、自身の父親のことを愛していた。――否、それは今思い返せば、それしか世界を知らなかったからとも言える。彼女は彼以外の存在を知らなかった。故に、自分に向けられるあらゆる憎悪も暴力も、愛だと信じて疑わなかった。なぜなら彼女の母親は、とうの昔に消えてしまったから。愛情というものの本質を、もう思い出せぬほど、母親の面影は、砂漠の中の一抹の砂粒として消えてしまったから。


彼女がそれを愛ではないと悟ったのは、彼女が十四になる時だった。

それはまるで、天啓のように、樹木を切り裂く落雷のように、突然彼女の中に降って湧いた。いや、もしかしたら現在のように、押し込めていた感情の蓋が、ぱかりと簡単に開いてしまっだけのことなのかもしれない。とにかく彼女は、今まで幾度受けたことかわからない彼の平手をその真っ赤に腫れた頬で受け止め、すっかり軋むようになったぼろの壁に打ち付けられた時に悟ったのだった。


これは愛でもなんでもないのだと。


そう思った瞬間、彼女の心は風に舞う羽のように軽くなった。しかしそれと同時に今まで感じてきた違和感や不安感が、すべてどす黒い憎悪に変色していくのがわかった。その時彼女は思ったのだ。このままでは私はこいつを殺してしまう。と。


その確信は時を経て今、現実になろうとしていた。マグノリアは苛立つ心で、父親のいる洗面所から出て、階段を上った。ベッドと小さな机だけがある簡素な彼女の部屋の、引き出しにそっとしまい込んである母親の銃――彼女の母親は奇しくも彼女にこのぬらぬらと黒光りする銃と、巨大なテディベアをプレゼントして消えたのだ――を手に取り、階下へと急ぐ。


思い返せば、いつだって我慢してきたのだと思う。いつも陰気に濡れたウィスキーの匂い、父親のあまりに無様な赤ら顔。ここ数年は足を壊して、ほとんど家の中をのたうち回るだけの命。何年こいつは外に出ていないのだろう。

だのに、この薄ら汚い生命は、マグノリアのささやかな給料で酒を飲み、飯を食い、女を抱いた。それをさも当然の権利だというように。思えばマグノリアはずっと、この男に全てを奪われてばかりだった。自分を置いて出ていった母親も、友人と遊ぶ権利も、家の外を砂まみれになって走り回る自由も、知らないままここまで来た。

その限界がたった今、父親の汚い手を洗った水が頬にぴちゃりと跳ねた時、訪れたのだ。

だから、きっかけは些細なことだった。

ただ、水桶に溜まった水が溢れ出るのに、必要なあと一滴がこの瞬間だっただけであった。


マグノリアが階段を下りた先、洗面台の前に、男はまだいたままだった。足をずったまま、手をゆっくりとふき、うまく後ろを向けないでいるのだ。洗面台にまるまる太った指を起き、ぜぇぜぇと息を乱しながら、ゆっくりと後ろを振り返ろうとした。

彼女は置き土産の銃を構え、引き金に指をかける。その瞬間、「可哀想」と思う。


それは果たして、彼女に殺されるこのくだらない男への憐れみなのか、それともこのくだらない人間に振り回されてきた自分への可哀想、なのか。瞬時に判断することができなかった。いや、もうそんなこともどうでも良かった。


あとはただ、引き金を引きさえすればいいのだ。


引き金を引く、ただそれだけの行為がやけに長く感じられた。一思いに引いたはずなのに、時間だけが無闇矢鱈に引き伸ばされるかのようだった。

薄暗い電燈の下で輝く金色の物体が、彼の柔らかな肌に吸い込まれる。まるで最初からそこに行き着くべくして吸い寄せられるかのように。


ずちゅ、という水音がした、気がした。


びくりと男は体を震わせた。言葉に満たない低い唸りが聞こえた。その時、マグノリアは更に引き金を引いた。一発、二発。それでは足らずに三発と。

金色に輝く弾丸が打ち込まれる度、男は体をびくりと痙攣させた。しかし叫び声も上がらなかった。ドン、ドン、と肉を裂いて弾が打ち込まれる音と、低い唸りが聞こえただけだった。

やがて男はビタンと洗面台に顔から突っ込み、ずるずると床に落ちていく。そしてその身体を彩るように、黒くも見える鮮血がまあるく水溜まりを作っていく。


手にした銃の先から、僅かに煙が上がっていた。


いとも簡単な終わりだった。

あんなに自分を苦しめたというのに、最後はこんなに呆気なく肉塊と化すのだから。

マグノリアの頭の中に、父親のさまざまな醜悪が思い起こされた。

せっかく作った料理を皿ごと頭の上にぶつけられて血が溢れ出たこと。初めて稼いだ金があいつの酒代と女代に消えたこと。殴られすぎて鼻の形が変形したこと。殴られてさえいなければもっとすっと通った鼻筋だったはずだ。

ヘルパーと称して、まるまる太った女を部屋に呼び、毎夜猿のように性行為をしていたこと。おかげで毎日寝不足で発狂しそうだったこと。

薄い壁の向こうから聞こえるくぐもった嬌声に、目が冴えて、殺したくて、殺したくて、仕方がなかったこと。こんな人間の為だけに自分の時間も命も金も若さも何もかもを搾取されていくこと。こんなくだらない人間が、同じくくだらない女とくだらない性行為を動物のように繰り返すこと。


その全てが今、こいつと共に消え去ったのだと思うと、ふっと肩の荷が下りたような感覚と、同時に激しい徒労感が押し寄せた。

こんなに簡単なことならば、どうしてもっと早くしておかなかったのだろう。

マグノリアはまだ煙を上げる銃口にふっと息を吹きかけた。


とにかくここから逃げなければならない。もっともこんな辺境の地に訪ねてくるものなど皆無に等しいが、明日の夜にはこいつの下の世話をしていたヘルパーが来てしまうだろう。

それまでには遠くに行かなければならない。こいつを殺したことをバレても、咎められても構わないが、そのせいでこれからの人生を棒に振るのだけはいけない。

マグノリアは確かな足取りで自分の部屋へと赴き、小さな鞄に僅かに残っていた金と煙草と、たった今役に立った銃を携え、部屋を後にする。

もうすっかり小さくなってしまったテディベアは、ここに置いていくことにした。


黴臭いおんぼろの家の扉を、半ば蹴るように開けると、がらりと心地いい音がする。暗く陰気な室内から一歩足を踏み出せば、太陽はマグノリアの真上を煌々と輝き、灼熱の砂漠が遥か先まで続くだけ。マグノリアは胸の奥まで息を吸い込んだ。熱い風が体の中に吹き込んでいった。


生まれ育ったくそったれてしみったれた家を捨て、彼女はさらさらと風に靡く砂の道を往く。

振り返るとそこに、自分の小さな足跡が幾つも続いていた。やがてそれは風に攫われ、ゆっくりと痕跡を消していく。マグノリアは前を向いた。まだ足跡もつかぬまっさらな道を、今はただ町を目指し歩いていった。



それから半日ほどが立ち、二つ隣の街へついた。太陽は傾きかけ、空は茜に染まっていた。ここまで来れば、彼女のことも、彼女の父親を知るひとも、まずいないだろう。とりあえずはこれでいい。明日はもっと遠くまで逃げる必要がある。しかし、今日はここに泊まる必要があるだろう。

マグノリアは地平線に沈みゆく巨大な太陽を眺めた。それは先程の血溜まりとは似ても似つかない、茜に染った美しい光であった。


街ゆく人々がみな、頭を垂らし足早に去ってゆく。家路を急いでいるのだろうか。ぽつぽつと、通りに隣接する家々に灯りが灯ってゆく。自分より頭一つ分ほどある商人の男たちが、背には籠を、手にはずた袋を携え、マグノリアを追い越していった。彼らには帰る場所があった。しかしマグノリアにはない。だがそれを悲しいとも寂しいとも思わない。


ぐぎゅるるるるる、とすごい音を立てて腹が鳴った。さて、今日の宿はどうしようかと考えていた最中だった。マグノリアは宿より先に、腹の虫の心配をしなければならないらしかった。


彼女の進行方向の反対からカウボーイ風の男が二人歩いてきた。そして彼らはマグノリアの目の前で、からからと音のしそうなスイング扉を開けた。二人が吸い込まれた後、ぱたりと扉が閉まり、かたかたと両方の扉が擦れた。

見上げるとそこには、椅子やテーブルが並べられたバルコニーが付いており、さらにその上には「SALOON(サルーン)」と書かれた看板が取り付けられていた。

どうやらこの建物はこの街の酒場であるらしかった。マグノリアはきゅるきゅると鳴く腹を抱え、目の前の扉を押し開けた。


中には橙色の電燈が幾つも灯っており、色とりどりに輝く幾つもの酒瓶に、酒樽。

その宝石のような色彩の前には一人の男が立ち、カウンターが並ぶ。そしてそこから少し離れていくつかの丸テーブルが置かれている。椅子はない。


マグノリアはそのうち、カウンター側の空いていたテーブルについた。日が落ちてまだ間もないからか、店は混みあっておらず、先程の男二人組と、昼から飲んでいたのか赤ら顔の男の数人組、更には保安官風情の男がカウンターに居るのみであった。


マグノリアがテーブルに付くと、カウンターの後ろにいた店主のような男が目を細め、中から給仕の女が出てきた。マグノリアよりもいくつか年上に見える給仕の女は、マグノリアを見ると途端に怪訝そうな顔をした。

自分よりも若い女が一人で酒場に来たことを怪訝に思ったのか、それとも薄汚れた衣服と、やせ細った体躯の若い女が来たことに慄いたのか。どちらかなのかはわからなかった。マグノリアは女の視線に狼狽えることなくウィスキーを注文する。すると、女もマグノリアに何かを尋ねることもできず、僅かに頬を引き攣らせたままカウンターの裏へと下がった。それを見ていた店主は、まるで最初からマグノリアなどいなかったかのように、先程と変わらずグラスを磨き続けた。ひどく緩慢な仕草に見えた。

やがてウィスキーが運ばれ、足早に給仕が下がっていく。マグノリアはグラスを手に取り、氷に煌めく琥珀色の液体を眺めた。父親が飲んでいたと思うと、匂いだけで反吐が出そうになるのに、酒場の電燈の下で見る酒は、ひどく甘美な色彩に見える。


マグノリアはグラスを傾け、一息にそれを飲み干す。ごくごくごく、とまだ夜も始まらぬ店内にマグノリアの喉の音が響いた。白く滑らかな喉元が上下する。すると、男たちの視線がマグノリアに集まった。まるで化け物を見るかのような瞳、それと同時に若い女が酒を飲んでいることに対する下卑た視線、その両方を受け止めながら、マグノリアは薄く目を閉じて、顔を上向かせる。続けて背が反り、手にしたジョッキに電燈の灯りが反射する。

誰かが息を飲む、音が聞こえた気がした。

マグノリアは空になったグラスをテーブルに叩きつけ、こちらをにやけ眼で見ていた男たちをキッと睨みつける。すると途端に男たちはマグノリアなど見ていなかったかのように目を逸らし、各々の話の話題に戻って行った。


マグノリアが給仕を呼びつけ、次の酒を頼もうとした時、からりと音を立てて扉が開いた。

その時、マグノリアは思わずそれを眺めた。眺めた、というよりは見蕩れた、という方が近いだろう。

マグノリアの視線の先――スイング扉を開けて入ってきたのは、長身の女だった。

顔まで覆ってしまうような被りのついた滑らかな白いマントで身体を隠しているものの、その野暮ったいシルエットの上からでも彼女が美しいことが見て取れた。顔は上手く見えなかったが、髪は長く、それを背中に流して被りで隠していた。女は口元に微かな笑みを称えながら、ゆったりとした足取りでまっすぐにカウンターの方へと向かった。

……はずだった。しかし彼女は気まぐれな蝶のようにふわりと翻り、マグノリアのいるテーブルについた。

「ひとりで飲んでいるの?」

か細いように思えるのに、芯の通った、けれど優しさを帯びた声だった。マグノリアは頬杖をついて、女を挑発的に眺めた。

「そうだけど」

しかし女の表情はよく見えない。

「ご一緒しても?」

「どうぞご自由に」

マグノリアがそうとも思っていないような声で伝えると、女は被りの下でにこりと笑って、顔を覆っていた被りをさらりと取ってしまった。


美しい顔だった。


もっともマグノリアは母親とあのヘルパー以外の女の顔をきちんと見たことがなかったが、それでも美しいと思えるほどに、整った顔であるのがわかった。白く透き通った肌には、青にも見える瞳がよく映えていた。被りを取ってしまうと、長い髪が背中まで流れ落ちていくのがわかった。金色に輝いているのに、さらさらと、まるで砂漠の砂のように流れる美しい髪だった。マグノリアのウェーブがかった剛毛の赤毛とは大違いだ。

女はマグノリアより少し目線が高かった。その差は、約15センチほど。マントの下で隠れているものの、やせ細ったマグノリアより、恰幅がかなりいいのだとわかる。

「あたし、お金はあまり持っていないのだけど」

女の美しさに気圧されて、マグノリアは思わずそう口走っていた。女はくすりと目を細めて笑った。

「そう? じゃあお金の心配はしなくていいわ。私が出すもの。見たことがない顔だけれど、遠くから来たのかしら」

女が給仕を呼びながら、マグノリアに尋ねた。マグノリアは一瞬背中の凍るような思いがしたが、気にせず続けた。

「遠くの街から」

「そう、ひとりで?」

マグノリアは頷いた。

「この街には知り合いが?」

マグノリアは首を振った。ちょうどその時、給仕が二人のテーブルについた。女がビールを注文する。あなたはどうする? とマグノリアに尋ねるので、あたしもビール、と返した。

「じゃあ、今夜はどうするの?」

女が頬杖を付きながらマグノリアを眺める。マグノリアは鞄の中に入った紙切れと、銃と、そして少しの煙草のことを思った。女の質問に、何も答えることができず黙り込む。

「わかったわ」

と、ただそれだけ。女が言った。その言葉の意味がわからず、マグノリアは口を開こうとした。ちょうどその時、給仕が二つのビールを運んできた。

ひとつは女の前に、もうひとつはマグノリアの前に置かれた。女がいると、給仕はもう嫌そうな顔をしなかった。女はジョッキに手をかけ、マグノリアを眺める。

「それじゃあ、乾杯」と、女のひどく甘美な声が耳を擽った気がした。マグノリアはジョッキを手にして、目の前のジョッキと合わせた。ガチャリと音を立てると、中のビールが少し零れた。女は笑った。


それから二人で何を話したのか、正直マグノリアは覚えていなかった。自分が十九の娘であること、街から遠く離れた砂漠の家に住んでいたこと。


母親が早くに蒸発し、父親から逃げてきたこと――殺してしまったわけだが、概ねこの言い分で間違ってはいないだろう――を、話したような気がする。


どれだけ酒を煽ったのか定かではない。それに、マグノリアは女が誰で、何者かということを知りたかったのに、彼女はそんなことひとつも教えてはくれなかった。ただ、マグノリアにとって彼女と話している時間はとても甘美で、おまけに素敵だった。


透き通るような金髪の髪も、僅かに染まった赤い頬も、笑うとできる目尻の皺も、素敵に思えていた。マグノリアばかりが話をしていたように思う。彼女に尋ねようと思ったことを、やんわりかわされ、「あなたはどうなの?」と投げ返される。そのキャッチボールがあまりに上手いものだから、自分だけが話しすぎていることに気づいたのは夜も更けてからだった。それにそれを自覚するには、彼女にはいささか酒が入りすぎていた。


泥酔したマグノリアが目を覚ましたのは、温かな背中の上だった。とんとん、とまるで子供をあやすかのようなリズム感で、身体が揺れていた。最初彼女はそれを揺りかごだと思った。しかしそうではなかった。女の首に手を回し、マグノリアは彼女の大きな背におぶられていた。

マグノリアは痛む頭を必死に持ち上げ口を開く。

「……ごめん、あたし寝てたみたい」

「ああ、起きたの? 気にしないで」

もうすぐ着くから、と彼女は言った。どこに着くの? とは口にする気力がなかった。今はただこの温かで優しい背に甘えていたかった。とんとん、と安らかな音と温度で、女は進む。体に触れる温かな背と、頬を撫でていく風の冷たさが心地いい。マグノリアは薄く目を閉じた。その時女の声がした。

「着いたわよ」

自分で歩ける? と尋ねながら、女がマグノリアを下ろす。マグノリアはよたつきながら、女の腕を掴んだ。

「大丈夫」

マグノリアの浮ついた声に、女が笑う。

女に肩を支えられながら、マグノリアはスイング扉を開けた。中には、質の良さそうなカウンターと、ぼうっと輝く黄色がかったランプ。カウンターの前のロビーと思しき場所には、深い赤色のソファと、光沢のあるローテーブルが並んでいた。ソファの後ろには、ぼやけた朝焼けのような風景画が飾られている。夜を、青、黒、緑、紫、あらゆる色を混ぜて絵の具の質感が残るように塗られてあった。その左上にぼうっと輝く朝焼けだけが、一色の茜色で塗りつぶされている。

こんな豪勢なところ、会計待ちでわざわざ座るんだろうか。

そんなことを考えていたマグノリアをよそ目に、女はまっすぐにカウンターに歩いていった。マグノリアも肩を引かれたまま、着いていく。

まだ空いてる? ――ええ、まあ。お泊まりですか?――そうね――では、階段を上がって一番右の部屋を――そんなやり取りが聞こえたが、マグノリアの頭はガンガンと割れるように痛むだけだ。


女の温かな手がマグノリアの肩を抱いた時、マグノリアはうっすらと目を開けた。女の長い髪が、カウンターの上に落ちているのがわかった。女は片方の髪を耳にかけ、男に差し出された紙になにかを綴っていた。マグノリアは横からじっとそれを眺める。

今日の日付の下に、サインの欄があった。

女は右の手でペンを持ち、そこに「Dahlia」と綴った。Dahlia――ダリア。そうか、彼女の名は、ダリアと言うのか。マグノリアは納得した。彼女に似合の美しい名だと思った。


女の美しい金の髪に、淑やかな青い瞳。それに透き通った白い肌、芯のある声と、柔らかな優しさは、白いダリアの花にそっくりだった。

そんなことをにこにこしながら考えていると、目が合った女が優しそうに笑った。女は紙を男に差し出し、その引き換えに鍵を受け取り、「行きましょう」とマグノリアの手を引いて、階段を上っていく。


ダリアに案内されたのは、シンプルな二つのベッドが並ぶだけの部屋だった。ホテルというよりも、モーテルに近い。夜を明かせればそれだけでいいような部屋だ。ダリアはよたつくマグノリアをベッドに座らせた。ダリアはマントを脱ぎ、それをドアの横のハンガーにかけた。

ダリアは質のいいドレスを着ていた。白いドレスから伸びる柔らかな二の腕が露わになる。ドレスの首元はVの字になっており、がっしりした骨の浮いたデコルテが艶めいていた。胸元の凹凸の上に飾られた緑色の宝石のネックレスが綺麗だった。身体のラインを美しく包んでしまうようなドレスの裾を翻し、ダリアはベッドに座り込み、とろりとした目のマグノリアを引き寄せて向かい合った。

「はじめて?」

ダリアが呟いた気がした。焦点の上手く結ばれない目で必死にダリアを見るが、ダリアの顔には変わらぬ微笑みが称えられているだけだった。

なにが、と一瞬思う。思ったあとで、妙に納得する。

こくん、とマグノリアが頷くと、ダリアは微かに声を漏らして笑う。楽しそうに。

「父親がヘルパーの女とセックスしてるのはたくさん見てきた。でもあたしは経験がない」

ダリアが、ベッドにごろんと頬杖をついてマグノリアを見上げた。ドレスの胸元から覗く、たゆんと揺れた真っ白な乳房に、マグノリアはぎょっとすると同時にどきりとした。

「女とも?」

と、ダリアが楽しそうに尋ねた。「男とも女とも」と、マグノリアは返した。

「それじゃあきっと、もう男には戻れないわね」

そう言って微笑むと、ダリアの手がマグノリアへと伸びてくる。何を想像したのか、マグノリアは一瞬慄いたが、ダリアの柔らかな手がマグノリアの頭を撫で、引き寄せ、抱きしめる。温かで、柔らかなものが、ふわりと身体の中心に触れるのがわかった。自分も曲がりなりにも同じものを持っているはずなのに、ダリアの柔らかさと温かさだけが体に染み込んでいくようだった。


抱きしめられたことに、不思議と恐怖は感じなかった。それよりも、安堵と妙な安心感が胸を満たしていた。思えば、誰かに抱きしめられたことなど、この記憶にはまるでなかったかもしれない。


ダリアは咲いたばかりの花を慈しむかのように、マグノリアに触れた。絡まりあった赤毛をほぐすように指で梳かしながら、もう片方の手がマグノリアの頬を撫でる。マグノリアはずっと、不思議な心地がしていた。もう、母の記憶など忘れてしまったはずなのに、まるで小さい頃母親にされたかのように、ダリアはマグノリアを撫でる。

そばかすのある頬を、二つに束ねていた髪を解き、丁寧に指で梳かしていく。まるで、母親が幼い子供の髪を結わえるかのごとく。肌に触れるダリアの指は、温かな指だった。

マグノリアはじっ、とダリアを眺める。目が合うと、ダリアがにっこり笑う。それは先程までの微笑みとは違う、可愛らしい笑みだった。まるで少女のような。

幼い子供を宥めるように、耳を、首を、頬を、ふくよかで柔らかな指がなぞっていく。やがて、親が子供に施すような柔らかなキスが、マグノリアのこめかみに降ってきた。マグノリアは目を見開いた。揺れる視界の中心で、女は微笑む。


マグノリアの頬や、額に、たくさんの口付けを降らす。その間、マグノリアはずっとされるがままになりながら、困惑と、同じくらいの安堵を感じていた。このまま眠りについてしまって、許されるのだろうかという一抹の恐怖が彼女の胸をつく。

やがて、ダリアの温かな指先が、マグノリアの胸に触れた。途端、マグノリアは自分を恥じた。恥ずかしくて仕方がなくなった。自分でも、とても生育が良い方とは思えなかったからだ。他の女を知らないけれど、鏡で毎日見る浮いたあばらや、お飾り程度の胸は、貧相、と形容するには似合のように思えていたのだ。

「触れるのは、嫌?」

ダリアの手が、胸を離れマグノリアの頬を撫でた。マグノリアは目を逸らした。

「……嫌、というより、ダリアよりも貧相だってわかるから、恥ずかしいんだ」

そう言うと、ダリアは目を丸くして笑った。あたしの名前、いつわかったの? と呟きながら。

「そんなことがいやだったの?」

「そんなこと、って言われても、あたしはよくわからないから」

「いいのよ。わたしは男じゃないから、そのままのあなたの身体が、心がすきよ」

ダリアが、マグノリアを見下ろして微笑んだ。その時、マグノリアの瞳から、涙が零れた。何故かはよく、わからなかった。いや、きっと、はじめて自分自身を誰かに肯定されたからだろう。


マグノリアの瞳から零れる涙を、ダリアの指先が拭った。マグノリアは鼻を啜らせながら、ダリアを見上げる。信じていい、と思う。今だけは。この温かさに縋っても、こんな自分でも、許される気がした。

ダリアはマグノリアの手を取り、その手を彼女の胸に当てた。服の上から触れるだけで、豊かな胸であることがわかる。なんだか泣きそうになる。

「それとも女とするのは嫌?」

「嫌だと思ってないと思う。わからないけれど。男とするよりマシなんじゃないかな? あたしは猿みたいなあのセックスが嫌いだったから」

泣きながらそう呟くと、ダリアがマグノリアを眺めた。

「あたしも」

ダリアが笑う。目を閉じて微笑みながら、ダリアが美しいあのドレスをさらりと脱ぐ。柔らかで豊かな二つの乳房が露わになる。触れるのが、躊躇われた。あまりに美しかったからだ。あばらの浮き出た自分とは、飾りのような胸の自分とは、大違いだからだ。マグノリアは泣きながら、ダリアの肌に触れる。そのひやりとした首に触れては胸に触れる。恐ろしかった。壊すのが。

「泣いているの?」

泣いてる、怖いから。綺麗な貴方に触れるのが怖いから。とは、言えなかった。その代わりに嗚咽ばかりが口から漏れた。

「もう、やめる?」

ダリアが優しく、マグノリアの頭を撫でた。マグノリアは必死に唇を噛んで首を振った。

「あたしを触って、ダリア。こんなに醜いけど、化け物みたいだけど、貴女がいいならあたしを触って欲しい」

そう言うと、ダリアは目を丸くして、その後に悲しそうに瞳を歪めて、両の手でマグノリアの頬を掴んだ。

「どうして馬鹿なことをいうの? こんなに天使みたいなのに」

悪魔のようだと、散々罵られてきた。あの男に、頭を殴られて、鼻を殴られて、マグノリアの鼻はすこし変形してしまった。ほんとうはもっとすっと通った鼻筋のはずだった。あの男ばかりが食事をするから、いつも少しのパンと水しか得られなかった。時々ありつけるのは、皿に残った野菜くらいだった。ひょろりと細長く、痩せ細っているのは、骸骨のようにあばらが浮いて、胸に肉がつかなかったのは、あの男があたしから女も若さも成長も、吸い取って肥えすぎたせいだ。


それを貴女は、天使だと言ってくれるのか。


マグノリアは嗚咽を漏らして泣いてしまった。まるで子供のように。自分より、軽く十は上であろう女の胸に抱かれながら、さんざっぱら泣いたのだ。


ダリアは何も言うことなく、狼狽えることなく、ただマグノリアを抱きしめて、頭を撫でてくれた。ぽんぽんと、優しいリズムで、骨ばかりのマグノリアの背をなでる。マグノリアはそうしているうちに、自分の全てが彼女の前で許されているような、そんな気になった。


やがて、マグノリアとダリアは口付けをかわす。雨のように優しいキスが、どんどん熱っぽくなっていくのがわかった。ダリアの肌は、まるで全てを飲み込んでしまう迷宮のように謎めいていて、なのに、とても安心できるから不思議だった。

ダリアの指先が、身体のうちに触れていく。自分でも知らないような場所が、知らない女に抱かれている。なのにそれを、安堵と幸福で以て受け入れられる自分がいることに、マグノリアは気づいた。

甘く砕けるような、鮮烈な電流のようなものが全身に駆け巡っていく。甘い痛みの中で、マグノリアは泣き疲れて眠った。ダリアの温かな乳房が、頬に微かに当たったのがわかった。


目が覚めた時、外は俄に日が昇り始めていた。


隣に眠るダリアは、豊かな胸をさらけ出したまま、すうすうと息を立てている。マグノリアは彼女に向き直り、その美しい顔を眺めた。こうやって見てみると、目元や口元に、微かに線が入っているのがわかる。一体、いくつなんだろう。マグノリアはダリアの年齢がわからない。自分より軽く十は年上だということはわかるが、あるいはもっと年上なのかもしれない。


マグノリアは目が覚めたダリアと共にモーテルを後にした。薄汚れたマグノリアの服を、ダリアが必死に擦り合わせて汚れを取ろうとしているのがおかしかった。

マグノリアとダリアはモーテルの前で向き合った。これが別れになるのだろうと、マグノリアは思った。感傷に浸りそうになるのを必死に抑え、キッと前を向く。その時だった。ダリアが言ったのは。

「もし、貴女が良ければ、あたしも貴女について行っていいかしら」

目深に被った被りの中で、ダリアがにっこり笑った。

「え、いいの?」と、思わず目を輝かせたマグノリアに、ダリアが微笑む。

「ええ、どうせあたしもこの街にはいられないもの」

そう言って、ダリアがマグノリアの指を取った。マグノリアは彼女に引かれて、つんのめる。

ダリアが振り返る。朝日に照らされて、彼女の金色の髪がきらきらと輝いていた。

「そういえばあたし、貴女の名前を聞いていなかったわ」

マグノリアの胸を、温かで優しい感情が満たす。それは父親の元にいた頃では、感じえなかった感情だろう。逸る心を必死に抑え、マグノリアは口を開く。

「マグノリア」

と、伝えた。ダリアは、花が綻ぶように笑った。――ちょうどその時だった。マグノリアが視界の先に、よく見知った男の顔を見たのは。


すぐに見間違いだと思った。そんなことはありえないのだ。なぜならその男を、昨日マグノリアが殺したからだ。四発も身体に弾を撃ち込んで。そんなはずはない。だから、あれは、マグノリアの幻覚だ。そうだ。


しかし、幻覚は簡単には消えてくれなかった。挙句の果てに亡霊は、ゆっくりとマグノリアの方へ近づいてきた。

うそだ、と思う。そんな風に歩けるはずがない、生きているはずがない、だって、きのうあたしが、


そう思った時、男がぬらりと光る銃を構えたのがわかった。


……逃げろ、ダリア!!!!!!


そう、叫ぼうとした。しかし声が声になるより先に、ずちゅ、という水音がした、気がした。


薄く笑っていたダリアの腹に、穴が空いたのがわかった。真っ黒に空いた穴から、遅れて、赤黒い血液が流れ出した。栓を開けたワインのようだった。 ダリアの腹から、とめどなく血が溢れていた。

「ダ、リア」

マグノリアは呆然としながら、目の前の女を凝視した。マグノリアの両手の中に、ゆっくりとダリアが落ちてくる。

「ああ、すこし、遅かったか」

そんなダリアの諦めたような声が聞こえた。なんのこと、と聞く前に、ドンドンドン、と弾が打ち込まれた。一発、二発。それでは足らずに三発と。

「……なんだよ、どういうことだよ! ダリア!」

「ごめんね、マグノリア」

ダリアの手が、マグノリアの腕を掴んだ。ごめんなさい、と聞こえた気がした。マグノリアはダリアを見上げた。ダリアの目は、見開かれたまま、光を失った。骸のよう、否、もう骸だったのだ。


男は、銃を持ち、走り去る。そうだ、こんな風に走ることが出来る男が、あたしの父親なわけがないのだ。


ふざけるな、そう叫びたかった。けれど声にならなかった。不条理、そんな言葉が頭に浮かぶ。その後、どっちが? と思う。あんな父親の元ですごした自分が? 自分が殺した父親が? こんな風に死んだダリアが? 否、すべてだ。因果応報、なんて言葉が、脳裏に染み付いて離れない。許された、と思った。間違いだった? 許されるわけが、なかった? 父親を殺した自分が? それじゃあ、あたしは、どうすれば良かった?


腕の中で力を失っていくダリアを抱き抱えた。絶えず、その腹から水のように血が流れていた。

ダリアの美しい、あの肌を思い出す。透き通っていて、柔らかで、マグノリアごと抱きしめてくれる。あの美しく滑らかな身体を。天使だと言った、あの唇を。昨日見た映像に、今の姿が重なった。金色の髪、青い瞳。美しい体に聳える二つの豊かな乳房、なだらかな腹の上に、穴が空いた。あたしは既に血にまみれた手で、彼女の穴を塞いだ。どっちの血なのか、わからなくなる。彼女自身から漏れる血なのか、あたしが奪った血だったのか。けれど、これだけはわかる。あたしは今、ダリアを汚している。虚構になった彼女の瞳に、必死に縋り付くように穴を塞ぐ、その度に、あたしの手を、彼女の血が汚す。彼女の裸体を、あたしが汚す。真っ白なキャンバスを塗りつぶすみたいだ。


マグノリアの瞳から、涙が零れた。

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父親殺しのマグノリア 天上ひばり @tenjyou-hibari

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