海面の死刑囚より

エリー.ファー

海面の死刑囚より

 海を歩いていた。

 鴎が三羽、こちらを見ていた。何か話したそうな表情をしていたが、諦めるように飛んで行った。

 風が吹いたが、砂が目に入ることはない。

 見渡す限りの波。

 私は海面を歩いていた。

 両手を広げると、余すことなく風が通っていく。寂しさすら感じる。

 息を吐くと、白く曇った。感情を視認したような気がした。自分を信じてみたくなった。

 南東には、亜暮島がある。しかし、このままのペースでは十分以上かかる。

 息を切らして海面を走る。

 なんと、情緒がない。

 海面は歩くべきだ。

 とくに、冬の海。

 これはもう、時間を満杯にして使わねば礼儀知らずというものである。

「あ」

 声が漏れた。

 雪だ。

 小さくて、柔らかくて、厳かな存在。

 昔の人は、天使と呼んだそうだ。どこからどう見ても意思など持っていなさそうな存在をそのように名付けるのは、ロマンがあると思った。いや、ロマンというより情緒だろうか。

 好きな言葉だ。

 情緒。

 何度だって使いたくなる。

 情緒。

 この言葉のおかげで、私は海賊になった。

 この言葉のおかげで、私は海賊に執着しなくなった。

 この言葉のおかげで、私は海賊よりも大切なものを知った。

 知性は、きっと情緒のようなものである。

 私たちは余りにも無知であり、それを理解するために幾らでも学ぶ必要がある。それは教育のようなものではなく、学びでなければならない。

 誰かに手を引かれるようなことがあってはならない。

 自分の足で進むべきだ。

「もしもし」

 イルカが海面から顔を出していた。

「なんだい、イルカさん」

「どうして、海面を歩いているんですか」

「死刑宣告を受けたんだ」

「死刑囚なんですか」

「まぁね、冤罪だけど。で、その影響で海を泳げなくなってしまったんだ」

「それは、凄く重い罰ですね。えぇと、でも、ここにいるってことは」

「そ、脱走したんだ。八年前にね」

「ずっと逃げているんですね」

「正確には八年と十一か月かな」

「もうすぐ、九年なんですね」

「そう」

「そんな長い期間、こんな気持ちの良い海を泳ぐことができないなんて」

「筈見 千一梅太郎」

「え。なんですか、その、はずみ、せ、せんいち」

「筈見 千一梅太郎って言ってね、詩人だよ。確か去年亡くなったんだ。癌だったかな。加倉大学って知ってる」

「あの、柊街の北側にある大学ですよね」

「そう。そこに通っていた時、お世話になったんだ」

「学生さんだったんですね」

「お墓参りをしようと思ってね。今、ゆっくりと歩いて向かってるんだ」

「柊街は遠いですよ」

「うん、知ってるよ」

「でも、行くんですか」

「筈見さんは、死刑囚ではなかったけれど、生まれつき海に入れなかった。いや、海を歩くことができたと言うべきかな。特異な体質だったんだ。まさか、筈見さんと同じ特徴を持つようになるとは思わなかったけど」

 イルカは一度海に潜ると、何かを咥えて戻って来た。

 表は桃色、裏は藍色の貝だった。

「藍色のところは自分で塗ったんです。綺麗でしょ」

「あぁ、すごく綺麗だ」

「これを、筈見 千一梅太郎さんのお墓に供えてくれませんか」

 私は受け取る。

「え、あぁ。構わないけれど」

「旅は一人がいい。君の影すら置き去りにしたほうがいい」

 それは、筈見さんの辞世の詩。

 私の口から言葉が出る瞬間に、海面が揺れた。

 咄嗟に海面を掴む。

 顔を上げる。

 私は気が付くと、凍てついた海面に立っていた。

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