珈琲に溶ける恋砂糖
紫月音湖*竜騎士さま~コミカライズ配信中
第1話 先生
「先生、風邪を引きますよ」
呼びかけても、先生は起きる気配がない。少し残った珈琲はすっかり冷めていて、白いカップの内側に茶色の線をくっきりと残している。
あとひとくち分くらい飲み干してくれても良かったのに。そう思ったものの、机の上に置かれた原稿を見れば、そんな不満などあっという間に消え失せて。私はソファーの上で横になっている先生を起こさないように、そっと「お疲れ様です」と口にした。
先生は、女性に人気の恋愛作家だ。若い女性が好むものから、ほんのり背徳感漂う大人向けのものまで、恋愛ものと言ったら一番に名前が挙がるほど有名な作家だ。
けれども公には写真も公開していないので、その姿は謎に包まれている。男女どちらにも使われる名を筆名としているので、性別すら曖昧なのだ。
そんな先生の本当の姿を知っている。それは私の密かな優越感となった。
『お手伝いさんを探しているんです』
先生と昔から付き合いのある父が相談を受けたのは、今から一年ほど前のことになる。素性を明らかにしていないため、できれば知り合いか口の硬い人物を探していたようだ。そんな先生に「家の娘がいる」と紹介された時は、心の中で父に感謝したものだ。
先生のことはよく知っている。
父の知り合いでもあり、家が近いこともあって、幼い頃から良く顔を合わせていた。ひとり暮らしで身なりには少し無頓着。不揃いに伸びた髪は後ろで括って、長い前髪は銀縁の眼鏡にかかるほどだ。細い顎に生える無精髭は、締め切り間近の証でもある。
上背もあるので、身なりをちゃんと整えれば目を引く美男子であるのに。もったいないと思う反面、安堵している自分がいるのも確かだ。
先生の良さを知っているのは私だけでいい。少し猫背なところも、男を感じる無精髭も。あんなに甘くとろけるような物語を生み出す細い指先も。本当はたまらなく素敵なのだと知っているのは、私だけがいい。
閉じた瞼の睫毛の長さ。鼻筋の通った横顔の輪郭。薄く開いた唇から無精髭の生える顎を通って、男らしい喉仏へ。ゆっくり視線を滑らせて、想像の中で先生の肌をなぞる。それだけで体の芯があまく疼いた。
触れてみたい。けれど、一線を越えてしまえば、私はもうここにいられない。だから私は先生が眠っている間、その傍らに置かれた銀縁眼鏡をそっとかけることで先生の肌に触れた気になっている。
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