エニール・ミーンその3

 例え昨日いつもより夜更かしをしていても、習慣というものは体に染みついているのだ。

 だから、あたしは今日も、誰よりも早く起きたのだった。

 時計なんてないから、時間なんてわからないけど。空を見上げれば、なんとなく時間はわかる。

 それに、テントの外を見渡せば、誰もいないのだから、あたしが一番早起きしたってわかるのだ。

 

 そう思ったのに、水場には先客がいた。


「ラエイン?どうしたの?いつもより早起きじゃない」


 そこにいたのはラエインだ。

 こんなに早くに起きているのを見るのは初めてかもしれない。


「やあ、エニールおはよう。実は寝付けなくてね」


 なるほど。だから酷い顔をしているのか。


「もう!倒れないでよ?」

「それは大丈夫さ。むしろ元気いっぱいなくらいだよ」


 ラエインの顔には説得力がない。

 なんというか、無理をしている人の顔だ。目の下にはクマが出来ているのに、目だけは見開いている。

 でも、ラエインは若いから大丈夫だろう。


 あたしは、水場で顔を洗うと、ラエインを置いて、いつも通りにみんなを起こしに行くのだった。

 

 

     ♦



 今日も畑仕事をする。変わらない日常だ。

 昨日の事は夢だったとしか思えない。国の外に人がいるなんて。

 ここいら一帯は魔王領だし、外にはモンスターがうじゃうじゃいるんだ。外は人が生きていけるところじゃないのだ。

 そう考えると、やはり昨日の事は夢だったのだろう。

 うん、夢だった。


 夢の話より、ラエインの方が心配だ。寝れなかったって言っていたし、朝から様子がおかしかった。

 ラエインの方をふと見ると、特に何事もなさそうに働いている。

 ラエインはあたしの視線に気づいたのか、手を振って来た。

 馬鹿。見つかったら鞭打ちだぞ。

 

 咄嗟に辺りを見回すと、幸いなことに魔族はそっぽを向いていて、見つからなかったようだ。

 ホッと、胸をなでおろす。

 その時だった。


「おい!」


 魔族が大きな声を上げた。

 "どきん"と心臓が跳ねる。

 やっぱりバレていたのだろうか?


「12番はいるか?」


 12番と言うと、ベナミスさんのことだ。良かった。バレてないみたいだ。


「はい。私です」

「こっちにこい」


 ベナミスさんは、たまに魔族に呼び出される。

 本人が言うには、一番体が大きいから、力仕事をやらされているそうだ。

 そもそもベナミスさんは、大人なのになんで畑仕事をしているのだろうか?

 それは魔族側の理由なのだろうから、あたしが考えても仕方がないか。


 結局、ベナミスさんは少しすると、すぐに帰って来たし、ラエインも最後まで問題なく仕事は出来たようだ。

 

 

     ♦



 夜になってテントに戻ると、あたしは早速、壁の外を目指す。

 いつもは何日も続いて、奴隷場を抜け出すことなんてしないのだけど……。

 今日はそう――念のためだ。


 昨日の事は夢だけど。

 念のため確認しないと。


 昨日の川に出て、辺りをグルグルと回って、"彼"を探し回る。

 

 うん。いないな。


 やっぱり夢だ。


「さっきから、いったい誰を探しているんだい?」


 心臓が飛び出るくらい驚いた。昼に魔族が声を出した時より驚いた。

 振り向くと、彼がいた。


 夢ではなかった。


「どこから来たの!」

「いったい僕らはどこから来たのかって?それは哲学かな?」


 あからさまに、はぐらかしている。

 大変怪しい。


「そうじゃなくて!どこに住んでいるの?」

「住処なんてあるわけないじゃないか。まだ、ここに来たばかりなのだし」


 ここと言うのは、この国の事だろうか?


「じゃあ、どこで寝ているの?」

「その辺でだね」


 胡散臭い。


「だってモンスターが寄って来るでしょう?」

「ああ、なるほど。それがあんまり寄り付かないんだよね。この体のせいかな?」


 まるで"他人の体"のように言う。

 

 勢いに任せて色々聞いてしまったけど、あたしはこんなことが聞きたかったのだろうか?

 ううん、違う。


「あなたの名前は?」


 そう、名前を聞きそびれたから、名前を聞きたかったのだ。


「名前?そうか名前か……」


 彼は意外そうな顔をした後に、神妙な顔をしながら、あごに手を当てて考え出す。

 そういえば記憶喪失とも言っていた。

 それ自体も嘘くさいのだけど。


「名前が分からないの?」

「そういうわけではないのだけどね。どっちで名乗ればいいのかわからなくてね。と言っても、片方は知らないのだけど」


 意味ありげな事を言う。どっちという事は二つのうちどっちという意味だろうか。

 そして、その言い方から考えるに、二つのうちの片方は知っているのだろう。

 じゃあやっぱり記憶喪失なんかじゃないじゃないか。


「名前の件は保留にしといてもらっていいかな?」


 こんな不思議な台詞を吐く人間が、この世にいるのだろうか?

 だって自分の名前の事だよ?

 目の前にいるのだけれど。


「それじゃあ困るわ。これからなんて呼べばいいの?」


 言ってから、何を言っているんだあたしはと思った。

 この言い方じゃまるで――これからも会うみたいじゃないか。


「好きに呼べばいい。"君"とか"あなた"とか、どうせ二人しかいないんだ」


 なんだか、"ドキリ"とする言い方だ。

 卑怯だろう。


「じゃあ、あなたって呼ぶわね」

「そうだね。それで、君の名前は?」


 名前を聞いたら、名前を聞かれるのは当たり前の事だ。

 でも、なんだか名前を聞かれたことが、意外なことだと思ってしまった。

 なんでかはわからない。


「あたしはエニールよ。エニール・ミーンって言うの」

「へえ、いい名前じゃないか」


 社交辞令なのだろうけど、名前を褒められると嬉しい。"親が付けてくれた名前ではない"のだけど。だからこそ、自分のエニールという名前が好きなのだから。


「人の名前を褒める前に、自分の名前をどうにかしてよね!」

「ははっ、その通りだね」


 そこで会話が途切れてしまった。

 おかしい。

 皆とは会話が途切れる事なんてないのに。

 

 きっと彼が、この国の人間ではないからだ。

 少しの沈黙の後、あたしは何かを話そうとしたのだけど、あたしより先に彼が口を開いた。


「そういえば、果物をとって置いたんだ」

「えっ!?」


 なんだか急な話で焦ってしまった。


「言っていただろう?果物を取って帰るって」

「それって……くれるってこと?」

「もちろん。そのために取ったんだから」


 嬉しいけど。いいのだろうか?


「あなたの分は?」

「僕は食べて来たからね。それに、多分必要ないんだ」


 そう言った彼の顔は、なんだか寂しそうだった。

 でも、必要ないというのはどういうことだろう?

 果物が嫌いなのかな?


「でも、あたし、奴隷だから……返せるものなんてないよ?」

「別に構いやしないよ。ここで話しているだけで、僕は楽しいからね。それに――」


 彼はにっこりと笑って言った。


「友達だからね」


 まだ会って間もないけど……いいのだろうか?


「おや?僕たち友達ではなかったかい?」


 あたしが黙っているから、少し不安そうな顔で、彼はそう言った。


「ううん!あたしたち友達だよね!」


 会ったばかりだし、どこの誰かも知らない。名前だって知らない。

 そんな不思議な友達がいるのも悪くないかもしれない。


「でも、いい?お礼は必ずするから!」


 これだけは譲れない。

 そう、教えてこられたから。


「ははっ、じゃあ次会う時までに何か考えておくよ」


 そう言われると、次があるんだと思えて、嬉しくなったしまう。

 そして同時に、もう結構時間が経ったことに気づいてしまった。

 もう帰らないといけない時間だ。

 まだ、話したいことがあるのに。

 

 さっきまでは、話すことに困っていたのに。今度は話したいだなんて、少しおかしいだろう。

 でも、今の気持ちは"そう"なのだ。


 だけど、


「じゃあ帰るね」


 時間がないのだ。


「それじゃあ、気を付けて帰るといい。この辺りはモンスターも多いから」


 なんだかまるで、よく知っているような言い方だ。

 本当に外で暮らしているのだろうか?


 ……そんなわけはないと、あたしは苦笑いをした。


「またね!」


 昨日は向こうから、"また"と言われた。

 だから、今日はあたしから、"また"と言ったのだ。


「またね」


 彼が静かにそう言ったのが聞こえた。

 

 それを聞いて、あたしは、あたしのテントまで帰って行ったんだ。

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