第16話 ペンションにて2

 七海はさっき座っていた椅子に戻る。そして「蛇に会いにきたことは酒井さんから聞いていますか?」と美月に尋ねる。

「ええ、聞いているわ。願いを叶えてくれる蛇がいるらしいわね」

「私はさっきまでその蛇に会っていました。でも、蛇は願いを叶えてはくれませんでした。赤い石が必要だと言われました。赤い石がないと、自分の力を発動することはできない」

「赤い石?」美月は驚いて、鞄の中から宝石箱を取り出す。それをテーブルの上で開けて赤い宝石を七海に見せた。「赤い石ってこれのこと?」

 七海は蛇の言葉を思い出す。「小さな赤く光る石だよ。赤い宝石と言った方がいいね。とても綺麗に輝いているよ。見ればすぐに分かる。あんな石はこの世界のどこにもないからね」その言葉通りの石が目の前に現れた。まるで星がそのまま地上で落ちてきたような輝きの赤い宝石だった。

「これは、どこで手に入れたのですか?」七海は驚いて美月に尋ねる。

「友達から地図をもらったの。その地図に記された場所に行ったら、赤い星が私のところに落ちてきたの」

「落ちてきた…蛇も言っていました。『さっき赤い石が地上に向かって落ちていくのが見えたんだ』と。まさか美月さんのことだったなんて」

「これで間違いないみたいね。これを蛇のところに持っていけば、蛇は願いを叶えてくれる。ポルトガルは救われるのね」

「はい」そう言って七海は顔を両手で覆った。こんなに早く赤い石を持った人が見つかるなんて想像していなかった。これで祖国を救うことができる。自分の使命を果たすことができる。しかも羅針盤も戻ってきた。これでポルトガルに帰れる。七海は大きな不安から解放され、大きな安堵感の中にいた。

「明日の朝、一緒に蛇のところへ行きましょう。今日はゆっくり休んでね」美月にそう言われると、七海は眠気を感じていることに気づく。抗えないほどの巨大な眠気だ。必死にあくびが出るのを我慢した。「では先に休ませていただきます」七海はそう言って二階の部屋に戻っていく。

「あなたにポルトガルを救ってもらわなくてはなりません。そして、あなたを舞踏会へ連れていく」ベッドの上で、蛇に向けて言った自分の言葉を思い出す。「舞踏会」…その単語だけが、なぜか頭の片隅から消えなかった。


 美月はその後、電話をかける。一人目は遥香だった。

「今日のホテル、キャンセルしてほしいの。今夜はここに泊ることにする。明日七海さんを連れて行かなくてはならないから」遥香はただ「わかりました」と答える。遥香もそう言われる気がしていた。ここに来て七海さんと再会することができたときから。

 美月はすぐに違う相手に電話をかける。その相手は七回目のコールで出た。

「もしもし、元気にしているかしら?赤松さん」美月がそう言うと、「珍しいわね、電話をかけてくるなんて」と赤松は言った。

「あなたが言った通り宝石を手に入れたの。とても綺麗よ。早くあなたにも見せたい」

「それは良かった。でも私は見なくていい。あなたのような人がその宝石にふさわしい」

「ねえ、赤松さん。あなたに尋ねたいことがある。あなたが教えてくれた「空気が変わった。そのとき自身の心に従うべきだ。そこに進むべき道があるから」という言葉。あなたは誰からこの言葉を教わったのかしら?」羅針盤は七海が部屋に持って行っていたから、堂々と呪文を言葉に出す。

「さあ、どうだったかしら?どこかの本に書いてあったのを、たまたま覚えていただけのような気がするけど」

「あなたらしくないわ。どんな些細なことも、ちゃんと覚えているのに。この言葉だけ曖昧なのね」

「ねえ、いつかあなたに教えた『天使の天窓』のことを覚えている?」

「もちろん覚えている」秋の夜空に現れる四角い星座。そこから天使が一瞬だけ顔を出した。美月ははっきりと覚えている。

「そこにいた天使が教えてくれの。この言葉を必要としている人に教えてあげなさいと言われたの。だからあなたに言葉を教えた」

「私にはその言葉が必要だと、なぜ分かったの?」

「あなたを見ていれば分かるのよ。この言葉を使って、あなたは特別なことを成し遂げる人だと、私には分かるの」

「そう、それは光栄だわ」そして美月は言葉を続ける。「最後に教えて。どうしてあなたは私に宝石のことを探すように言ったの?」

 赤松は少しだけ笑って答える。「同じことよ。あなたに特別なものを感じているからよ。天使ミハエルが聖母マリアに受胎告知したようにね」

「何それ?」と美月が言うと、「幸運を祈っている」と声が聞こえて電話が切れた。

「幸運を祈っていて」と電話に向かって美月は言った。

 久しぶりの静寂がペンションの中にやってきていた。


 美月からの電話を受けた時、遥香は酒井の部屋にいた。ペンションの二階で最も奥にある四畳ほどの小さな部屋だった。狭すぎて、ここにお客を案内することはほとんどない。他の部屋には独立したトイレとシャワールームがあったが、ここには設置されていない。トイレとシャワーは一階の共用のものを使わなくてはいけない。女主人も使用するから少しだけ注意する必要がある。テレビが置かれた机と、シングルベッドと、小さな窓があるだけのシンプルな部屋だった。遥香と酒井は二メートルほど離れてベッドの上に座っている。シーツからは干したての匂いがした。女主人が晴れた日に干してくれているのだ。

「酒井さん、今夜ここに二人泊まれますか?急で申し訳ないです」美月からの電話を切ると、遥香は酒井に尋ねた。

「ああ、大丈夫だと思います。今週は誰もお客さん来ないと言っていたので。ちょうど二人部屋が空いているので、そこ使ってください」

「ありがとうございます」遥香はそう言って、今日泊まる予定だったホテルにキャンセルの電話をかけた。それが済むと遥香はベッドの上に腰を下ろし、ふうっと息を吐いた。

「もしよかったら、これどうぞ。ほうじ茶です」酒井は部屋にある電機ポットからお湯を出して、パックのほうじ茶をマグカップに淹れる。それを遥香に手渡した。遥香はそれを一口飲んで、またふうっと息を吐く。心が少しずつ落ち着いてくる。

「この部屋にいると、実家を思い出します。実家の私の部屋とよく似てる。シングルベッドとテレビが置いてある勉強机に、小さな窓。そして白い壁」遥香は部屋を見回しながら懐かしそうに言った。

「遥香さんはどちら出身なんですか?」

「私は栃木の宇都宮出身です。宇都宮と言っても郊外だから、何もない田舎です。家の周りは畑しかない」そう言って遥香は笑みを浮かべる。

「いつ東京に?」

「山岡銀行に就職が決まって上京しました」

「じゃあ大学は実家から通われたんですね」

「はい、栃木の大学でした。でも適当に単位だけ取って、ほとんど自室に籠って絵ばかり描いてましたね」

「だからソラ猫が生まれたんだ」酒井は自分が使っているクレジットカードを思い出す。そこには遥香がデザインしたソラ猫というキャラクターが描かれている。そうかもしれませんと言って遥香は笑った。

「どうして山岡銀行に?好きな絵を存分に描ける仕事は他にもたくさんあるのに」

「そうですね…どうしてだろう?きっと、真っ赤な紅葉に導かれたんだと思います」遥香は窓の外に目をやる。夜空の下に、一本の木が立っているのが見えた。


 遥香が絵を描くようになったのは、小学五年生の頃からだった。ちょうど父の転勤の都合で大阪から栃木に引っ越したときだった。関西と北関東の文化の違いもあったのか、新しい学校に馴染むことができなかった。冗談で悪口を言われたりもした。自分の居場所がない居心地の悪さを感じる。そのため遥香は不登校気味になる。たまたまテレビに映っていたアニメのキャラクターをノートに描いた。もちろん上手じゃない。でも、自分の手で新しい世界を作り出せたような気がした。この絵だけは私のものだ。私が作り出した世界なのだ。その事実がとても嬉しかった。その嬉しさが遥香の心を救った。

 中学生になって近くの席の女の子にバスケ部に誘われた。「あなた背高いからバスケ合うと思ったんだ」と彼女は言った。彼女はその後、バスケ部のキャプテンになる。遥香は言われるがままバスケ部に入った。練習は走ってばかりで、とてもきつかった。でも、厳しい練習を重ねるほど、他の部員との連帯感が強まる気がした。だから、どんどん同じ学年の子たちと仲良くなった。そのうち登下校を一緒にするようになる。朝、自転車で待ち合わせして、学校までの畦道を一緒に走った。バスケ部の仲間がいたから、もう不登校になることはなかった。

 高校生になると、その仲間たちとバラバラになった。でも高校でもバスケは続けるつもりだった。仮入部届を出しに顧問のところに行った。顧問に出身中学とポジションを言うと、顧問は「ふーん、あっそ」と気のない返事をした。遥香の出身中学のバスケ部はそれほど強くない。総体で二回戦に行くのがやっとだった。だから顧問は興味なさそうな態度を取ったのだと思う。顧問の返事を聞いて、遥香はバスケ部に入るのを辞める。私は必要とされていないと思ったから。遥香は別の部活を探した。ダンス部に少しだけ入る。だけど、そこでも居場所を見つけられなかった。半年も経たずに帰宅部になった。高校はちゃんと毎日行った。授業が終わったらすぐに帰る。自室で毎日絵を描いた。絵は自分を必要としてくれた。絵だけが自分を救ってくれた。絵を描くことで心のバランスを取っていた。

 そんな遥香に転機が訪れたのは、大学三年の秋だった。そろそろ就職活動が始まりつつあった。意識の高い大学の友人たちは企業の説明会に通っている。それを横目に遥香は相変わらず部屋で絵を描いていた。インターネットで企業のことを調べる暇があれば、好きなアニメや漫画を見て、ファンアートやオリジナルの絵をたくさん描いていた。そんな時、部屋の窓から外の風が吹き込んできた。少し冷たい秋の風。その風に乗って、一枚の葉が部屋に入ってくる。その葉を手に取ると、様々な色が付いていることがわかる。黄色、オレンジ、赤、茶色などが葉の上に広がっている。遥香はハッとして、窓の外を見る。窓の外には一本の木が立っている。何の変哲もない広葉樹。夏になるとセミが鳴いてうるさかった。私が生きていく上で全く必要のない存在。その木が綺麗に紅葉している。水色の空の下で目がチカチカしてくるほどの彩りがそこにある。

 遥香は思わず部屋を出る。階段を下りて玄関を開けて外に出た。木に向かって全力で走る。肺の中に秋の空気が流れてくる。部屋の中の生温かなものではない。自然の冷たさが細胞にまとわりつく。その冷気で細胞が起き上がったようだ。もっと走れ、もっと走れと体の中で誰かが叫んでいた。息を整えながら、自分の足で大地に立って、目の前で見上げたその木は、不気味なまでに黒々と色づいていた。

 遥香が部屋に戻ると、さっきの一枚の葉は鞄の上にいた。遥香が大学に行くとき、いつも使っているリュックサック。その葉に導かれるように、鞄を開けると、中にパンフレットが一枚入っていた。キャンパスを歩いているときに、友達とノリで手にしたある企業のパンフレットだった。山岡銀行と大きく記載されていた。遥香が初めて山岡銀行のことを意識した瞬間だった。

 すぐに山岡銀行のことを調べる。あるサイトに社長の山岡美月のインタビューが載っていた。「私は中学、高校といじめられていた。朝学校に行くと、黒板に大きく悪口が書かれているなんて日常茶飯事だった。学校に私の居場所はどこにもなかった。彼らを見返そうなんて全く思っていない。むしろ逆だ。この場所にいたら私は駄目になってしまうと思った。この人たちみたいに何の想像力もない人間で終わってしまう。だから私は革命を起こした。一族の銀行のトップになり、青の革命を起こした。この世界に私の居場所を作り上げた。この世界に自分の居場所がなくて、もがいている人や悲しんでいる人に入社してほしい。山岡銀行はそんな人を求めている。学歴も実績も能力も問わない。ただ、この世界に自分の居場所を作りたい…そう思っている人はぜひ山岡銀行で革命を起こしましょう」

 このインタビュー記事を読んで遥香は決断した。この銀行に入社しよう。そして革命を起こそう。この世界に自分の居場所を作り上げようと。窓の外に目をやる。そこにはあの紅葉した木が遥香を見守っている。部屋に偶然入ってきた一枚の紅葉を、遥香は今でも御守りとして実家に飾っている。


「そう聞くと、確かにこの部屋は似ていますね。ちょうど窓から一本の木が見える」酒井も窓の外を見ながら言った。今は夏だから青々としている。そして「あの木も紅葉したら綺麗だろうな。その時期に来たことないからな」と独り言を言った。遥香は黙ってお茶をすすっているのを見ると、酒井は言葉を続けた。

「僕の大学キャンパスにはイチョウの木がたくさん植えられています。秋が深まってくると、それらが一斉に黄色く色づきます。それまでの白黒の世界が嘘のように、全てが黄色の世界に包まれてしまう。東京に帰ったら、ご案内します。きっと感動すると思います」

「じゃあ、秋になったら伺いますね」と遥香は笑顔で答えた。

「イチョウの実がたくさん落ちて、少し臭いかもしれませんが」と酒井は笑いながら付け加えた。


 しばらくすると、また美月から電話がかかってくる。もう下に降りてきていいという内容だった。遥香と酒井は一階に降りていく。美月が一人で座っている。

「明日の朝、七海さんと出かけてくる。車を借りるわね」美月は二人を見ると、きっぱりと言った。「もちろん蛇のところにね」と付け加える。

「え、私が運転しなくていいんですか?」遥香は驚いて尋ねる。

「私が運転していく。私と七海さんだけの二人旅」美月はそう言うと、遥香の方へ近づき遥香の両手を握る。「あなたはここに残って、私からの連絡を待っていて。緊急のことがあったら、酒井さんと協力して私を助けにきて」

「はい、わかりました。怪我だけはお気をつけて」遥香は夕方に美月の手に巻いた包帯をさする。「お土産、期待しています」と精一杯の冗談を言った。

「あなたの期待を越えてあげる」と美月はささやく。遥香は美月の目を見る。お互いに笑顔になった。


 酒井はそれを見届けて階段を上がった。そして固く閉じられたドアの前で立ち止まる。コンコンとノックしてから「七海さん、酒井です。お休みのところすいません。美月さんから聞きました。明日蛇に会えるんですね。よかったです。これで七海さんの願いが叶って、ポルトガルが救われる」とドアに向かって言葉を投げかけた。

 七海はベッドの中でその言葉を聞く。七海は仰向けになったまま顔だけドアに向けた。「酒井さん、一緒に旭川駅まで来てくださって、本当にありがとうございました。酒井さんがいなかったら、私はどこにも行けなかった」

「お礼を言うのはこちらの方です。一緒に過ごせてとても楽しかった。いつかまた東京にも来てください。今度はゆっくりご案内できるといいのですが」

「はい、ぜひお願いします」そして少し迷ってから、「いつかポルトガルにも来てください。海が見える丘で待っています」と七海は言った。

「七海さん、お元気で。無理だけはしないでくださいね」そして「また会いましょう」と言い残し、酒井は自分の部屋に向かった。

 七海は頷くように目を閉じた。瞼の裏に、バスから見えた丘陵地の景色が広がる。その景色は時間が経つにつれ、七海が育ったポルトガルの町へと変わっていった。

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