第15話 裏山にて

 七海たちがいるペンションのすぐ近くに小高い山があった。玄関の反対側にあったので、裏山とみんな呼んでいた。その裏山の中腹あたりに、一人の男が切り株に座ったまま眠っている。その男は仮面をつけている。そう、彼はスペインの使者だ。

 旧神居古潭駅まで七海と行き、蛇の機嫌を損ねた。蛇の力で蒸気機関車に乗せらせ、運命に導かれるように、この裏山に来た。その道中のことは覚えていない。気づいたら裏山の切り株に座って眠っていたのだ。あたりは暗くなっている。七海たちがペンションでジンギスカンをしている頃だ。そろそろ彼は目を覚ます。

「なあ、あんたこっち来て空を見てみろよ。緑の星が二つ並んでいるぞ」野太い声が仮面男に注がれる。仮面男は目を開けて、声の方に顔を向ける。そこには大きな熊がいる。大きな熊が夜空を見上げながら、仮面男に話しかけていた。彼はもちろん驚いた。ただ既に白い蛇に話しかけられている。そのときより冷静でいられる。そして黙っていたら、また何をされるか分からない。あの白い蛇を怒らせたように。

「どれどれ、どこだい?」仮面男は切り株から立ち上がり、熊の横まで歩いて行った。

「あれだよ、ついに緑の星が二つになったんだ!」熊は嬉しそうだった。熊が指さす方向には、言葉通り緑色の星が二つ大きく輝いている。周りにも星はあるが、それよりも一段と大きく光っている。そして緑色の星というものは他にはない。みんな白か淡い青だ。仮面男もすぐにわかった。緑色の星が二つ仲良く並んでキラキラ輝きながら、こちらに何か合図を送っているようだった。

「何がそんなに嬉しいんだい?そんなに珍しい星なのか?」仮面男は熊の方をチラリと見て尋ねる。どこをどう見ても熊そのものだった。俺よりも倍以上の図体をしている。

「ああ、珍しいなんてもんじゃない。奇跡だよ。何百年に一度起こる奇跡だよ。昨日まで緑の星と赤い星が並んでいたんだ。その赤い星が緑になった。なぜだか分かるか?」

「いや、分からない」赤い星が緑になる?仮面男は首をひねる。

「赤い星が宝石を地上に落としたんだ。だから赤い星は緑に変わった」

「宝石?」

「ああ、この世のものとは思えないほど綺麗な赤い宝石だ。あの女ついに見つけ出したんだ!俺の見る目は狂ってなかった。たっぷり褒めてやらねえと」熊はクックっと笑いを噛みしめる。この場所に立ち望遠鏡で星を観察していた赤松のことを熊は思い出していた。赤松に宝石を見つけるよう託したことを。そして赤松が宝石を手に入れたのだと思い込んだ。

「女?誰のことだ?」

「そんなことよりも、これからすげえことが起こるぞ」

「何だ?何が起こるんだ?」

「舞踏会が開かれるんだ」そう言って熊はヒッヒッと高い声で笑った。


 七海や仮面男が生きていた十七世紀のヨーロッパでは、宮廷儀式として舞踏会がさかんに行われていた。宮廷に仕えている七海も仮面男も、もちろん参加したことがある。ただ、その中でも特に人気があるのが仮面舞踏会だった。イタリアの都市国家ヴェネツィアで行われていた伝統的な舞踏会で、スペインやポルトガルでも宮廷で頻繁に仮面舞踏会が執り行われた。仮面男が身に着けている仮面も舞踏会用に特注で作られたものだ。彼は「舞踏会」という言葉を聞いて、とても懐かしい気持ちになった。


「舞踏会?そんなもの珍しくもないじゃないか」仮面男が言う。

「お前たち人間がやっているような、ただの暇つぶしと一緒にするな。この舞踏会には天上の世界を司る者たちが参加する。つまり、神だ。この舞踏会に行けば、神に会えるんだよ」熊は興奮したように両目を大きく開いて言った。

「お前の話が本当だとして、神にお会いしてどうする?」仮面男はカトリック信者だ。神という言葉にピクリと脳が動く。

「そんなの決まってるだろ。願いを叶えてもらうんだよ。神にしか叶えられない大きな願いを」熊はまたヒッヒッと高い声で笑い、言葉を続ける。「俺も参加できることになっているんだ。俺も舞踏会に参加して、人間の姿に戻してもらうのさ。そう、お願いしに行くんだ」熊は下を向いて言った。

「お前、人間だったのか?」仮面男は熊を見つめながら言った。

「ああ、とても昔に悪いことをしてしまってな、熊に変えられたんだ。そしてこの山から出られなくなってしまった。そして『神が参加する舞踏会がある。その舞踏会に参加して、人間に戻してもらえるよう神にお願いするしかない』そう教えられた。だから俺は舞踏会が開かれるのをずっとここで待っていた。もう何百年も時が過ぎてしまった」

 

 仮面男は自分がここに来た目的を思い出そうとしていた。祖国スペインがポルトガルに侵攻しようとしている。今度こそイベリア半島を統一し、スペイン帝国をさらに強固なものにしたい。数百年前に後一歩のところで失敗した。そこにはポルトガルの一人の石工職人が関わっていた。石工職人の子孫である女を追っていたら、こんな辺鄙なところに来てしまった。俺はスペイン帝国のためにここに来た。ポルトガルを陥落させるためにここに来た。あの七海とかいう女、もしかしたら蛇の力でポルトガルを救ってしまったのか?前のようにスペイン侵攻は失敗に終わったのかもしれない。そうなると、熊が言っている舞踏会に行って、神の力でポルトガルを陥落させるしかあるまい。神の教えを広げるために、世界中をカトリック教国にするために、スペイン帝国は領土を広げている。私の願いを叶えてもらうことは、神のご意思でもある。きっと願いを聞き入れてくださるはずだ。

「なあ、私もその舞踏会に連れて行ってはくれまいか?」仮面男は熊に膝まずいて懇願した。壮大な目的のために、己のプライドは完全に捨て去っていた。

 熊は少し考えてから、「高くつくぜ」と言った。仮面男は一枚の銀貨を差し出した。スペイン帝国が鋳造した「ピース・オブ・エイト」と呼ばれる最高の銀貨だった。その中でも最高に輝いている一枚を熊に差し出した。

「こんなに綺麗な銀貨は初めて見た。一緒に行こう舞踏会へ」熊はそう言って、空を見上げる。「二つの赤い星が地上に降りた時、舞踏会の幕は開かれる」かつて天使が言った言葉を思い出す。「もうすぐだ」熊はそう言って、またヒッヒッと高い声で笑った。

 夜空では、二つの緑の星が輝きを増していた。舞踏会の準備が整ってきていた。


 二つの緑の星の下で仮面男は、子供の頃に参加したある仮面舞踏会のことを思い出していた。仮面男はまだ子供だったことあり素顔で参加していた。仮面舞踏会とは言え、そこで行われる大人たちのダンスやおしゃべりは、子供にとってとても退屈なものだ。彼は会場であった王宮を隅から隅まで探検することにした。王宮で働いている大人たちはみんな舞踏会の準備に追われ、どこも誰もいなかった。

 子供は廊下の奥にまだ開けていないドアを発見する。廊下から何段か下がったところにドアがある。下がったところに導かれるように子供はドアを開ける。水が低い場所を求めて流れるように、それは自然な流れだった。

 部屋の中は天井が高く広々としていた。だけど、どの部屋とも違うことはすぐに分かる。壁中に絵画が飾ってある。絵画に使われる塗料独特に匂いが充満している。そして部屋の奥では誰かが何かを描いていた。それはこの王宮に雇われた宮廷画家だった。彼らは王宮内にアトリエを持ち、そこで雇われ主からの注文絵画を制作した。主に自画像や宮廷内での儀式などだった。

「すいません、一体何を描いているのでしょうか?」子供は好奇心から宮廷画家に尋ねる。画家は子供が入ってきたことに気づいていないようだった。熱心に何かを描いている。画家が子供の方を向くと、子供の顔をじっと見つめた。そして「今日行われている仮面舞踏会の様子を描いているのですよ」と言って、絵の方に向き直った。

 子供は製作中の絵を見る。ドレスや燕尾服で着飾った大人たちがダンスしているシーンのようだったが、誰も仮面をしていなかった。今日は仮面舞踏会だ。大人たちはみんな仮面をしている。大きな罰を恐れているかのように、みんな仮面で素顔を覆い隠している。

「どうして仮面をしていないのですか?今日は仮面舞踏会です」子供は画家に尋ねる。

「仮面などつけていても、私には見えるのです。その下に隠された人間の素顔が。そしてその人間が何を考えているかも。悪いことを考えていれば、すぐに分かります。邪悪な心が仮面に映し出されるのです。仮面に隠された人間の本当の姿を、私は絵にしたいのです」画家は絵を描く手を止めずに言った。絵の中の大人たちは素顔を晒し、そして心の中を晒していた。それぞれの人物が何を考えているか手に取るように分かる。人間という生き物の邪悪なものが絵の中に渦巻いていた。

「どうすれば、心の中を隠すことができるのでしょう?」子供はだんだん怖くなってきた。この画家にはすべてが見えているのだ。自分という人間ですら、全てお見通しなのだ。自分が透明人間のように、そして暖炉の中の炎のようにも思えた。

 画家は手を止め、子供の方を向く。「では今から印をつけてもよろしいかな?この印を顔につけていれば、あなたの心の中を完全に隠すことができる」

 子供は何も考えずに頷く。印がどういうものかは分からない。けど、早くこの恐怖から自分を救ってほしかった。

「では、じっとしていてください」画家はそう言って、赤い塗料を自分の指につけ、それを子供の目の下に塗った。子供の両目の下に赤い線が引かれた。

「これで、あなたの心の中は完全に隠すことができた。やがて赤い線は消えるでしょう。それでも赤い線の力は消えません。力が消えない限り、あなたの心はあなた自身のものだ」画家はそう言って、また絵の方に向き直った。

 子供は黙ってアトリエを出ていく。やがて大人になり、仮面男となる。仮面男の心の中は、彼だけのものだった。あの赤い線の力は今でも続いている。

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