第6話 帰路と

 扉が閉まると、竜司の足はひさびさに踏むアスファルトの感触を脳に伝えてくる。奇跡屋の床とはかけ離れたその踏み心地は懐かしく思うがしかし、日常へ帰って来たことを実感させるには少しだけ足りなかった。


 けれどその不足感も通りに出てしまえば消え去る。いつも目にしているシャッターまみれの商店街の風景がこうも感慨深いものになるだなんて、昨日までの竜司では考えられなかったことだった。


「ふう」と一息吐くと落ち着いたせいかあることに思い至り、竜司の顔は青ざめる。

「やべえ! いま何時だ!?」


 あれだけたくさんの品物を見て、ゼロと会話をして、多くの時間をあの店で過ごしたとあれば、帰りが遅いことを心配した親が連絡していたかもしれない。


 そう考えながら酷く慌てた様子でポケットからスマホを取り出し、画面に映し出される時間を凝視する。

「あ?」

 すると今度は訝しげな表情へと変わり、首を傾げた。


 たった十数秒の間に安心し、戦慄し、そして疑問を抱きはてなマークを浮かべる彼の様子は、はたから見ればとても面白いものではあっただろうけれど、今の竜司にはそんなことを気にしている余裕はなかった。


 なぜなら。

(時間が……経ってねえ……?)

 そう、彼が見たスマホの時間は普段の下校途中の時間と全く変わらなかった。


 ましてやあれだけゼロと話し、商品を見ていたのだ。まず間違いなく二時間以上は経過しているはずだったのだが。


 何度見直しても時間が変わることはなく、まるであの店にいる間は時が止まってしまっていたかのようだった。

 と、そこまで考えてから竜司ははたと思いつく。


 いや、あるいはその通りなのかもしれない。と。


 なにせ奇跡屋は「言語の壁をなかったこと」にするような常識はずれの店だ。時間の経過もなかったことにできると金髪の店主に言われれば納得もできそうだし、なによりもそれ以外は思いつかない。


 まあもしかしたら時間が止まっているとかではなく、今まで見たものが全て夢だったという可能性もないわけではないが、あそこまで五感全てを圧迫するかのような存在感を持つ夢など見たことがないし、そこはありえないと断じてもいいだろう。


 そうして自分自身を納得させた竜司は、寂れた商店街を抜けいつもの帰宅ルートを辿る。視界の開けたところに出ると日の光を浴びることができたので、先程の時間が止まっているという結論を後付けることができた。


 奇跡屋を出てからも、こうしてあの店の非常識さに驚かされるだなんて予想もしていなかったが、この驚きすらも面白いと思ってしまうのだから困ったものだ。




 そんなふうに考えながら道を歩いていると、不意に背後から近づいてくる霊気を感じ取る。

 類稀たぐいまれなる霊眼を持って生まれ、霊に対して敏感な竜司の感覚がその何かに対して警鐘をかき鳴らしてくることから、それが良くない者であることが容易に理解できた。


 背筋に走る悪寒、体ではなく魂で感じる言いようのない不快感。

 悪意によって膨らんだ霊気が、空気までにごらせているかのようだ。


 間違うはずもない。悪霊の気配だ。

 悪霊というものに遭遇するのはこれが初めてというわけでもないが、いつまで経ってもこの感覚には慣れそうにない。


 とはいえこうして邪悪な霊気を感じた竜司がとる行動は一つ。

「ま、さっさと片付けるかぁ……」

 そう呟いてから、背後から近づいているであろう悪霊と対峙すべく振り返る。


 するとそこには黒い影が立っていた。比喩的な表現だとかではなく、悪霊はほぼ例外なく人の形をした黒い影として現れる。見た目には恐ろしいかもしれないが普通の霊とは異なり真っ黒な姿だから、竜司としては分かりやすくありがたいことですらあった。


 しかし問題はそんなことではない。かの者を視認したその瞬間、竜司はどっと汗をかき、体はいつでも動き出せるように腰を落とした。肩にかけていたバッグはどさっと音を立てて足元に落下する。

 そして霊を見られる特異な瞳は、その悪霊の一挙手一投足を見逃さぬように、いや、瞬きすら禁じられてしまったかのように見開いている。


 何が彼をそうさせているのか。

 その答えは単純明快。

(なんだ、この……霊力は……!?)


 黒いなどという生温い表現では足りない。まさにどす黒いと言うべきその霊気に、竜司の体は萎縮してしまう。


 今までの悪霊ではここまでの存在感を放つ者は誰一人としていなかった。否、いるはずがなかった。

 なぜなら、霊体にとっての霊力とは肉体にとっての血液に等しい。個々の差は当然あるにせよ、異常なまでに血液量が多い人がいないように、異常なほどの霊力を持つ者もいない。


 それが摂理。しかし眼前のはそんな法則を無視するかの如く、悠然とその場に立っている。

 その不自然さがより一層竜司の心に波風を立てる。


 あまりにも膨大な霊力は周囲へ無差別に撒き散らされ、まるで質量でも伴っているのかと錯覚してしまうほどで、竜司の体に重圧をかける。


 重すぎるプレッシャーに耐えるのが精一杯で、冷や汗を抑えることさえできない竜司を嘲笑うかのように。


 影が、動いた。


(……っ!)

 竜司は咄嗟とっさに霊力を纏わせた腕を体の前でクロスさせ、防御の体勢を整える。それは恵まれた反応速度を持つおかげか、あるいは悪霊の動きを見逃さなかった霊眼を褒めるべきか。


 いや、仮にどちらか一方でも欠けていたのなら。


 その刹那の後に、竜司の命は失われていただろう。


 轟。

 まるで稲妻でも落ちてきたかと思うほどの音が響いた瞬間、竜司の体は後方へと吹き飛ばされていた。


「は?」

 理解するよりも早く、己の体を浮遊感が包み、眼前にいたはずの悪霊の姿が遠のいてゆく景色を見た。


 空気を切り裂く自らの体を止める術など持ち合わせてはいなかった竜司は、樹木に背を打ち付けることで停止することが叶った。

 衝撃によって肺の空気が押し出され苦しげな声を漏らしながらも、動きが止まったことで状況を理解することに成功する。


(殴ったのか……? 俺を……!?)


 眼前にいたはずの黒い影は今は遠くに居て、右の拳を振り抜いた体勢で止まっていた。

 一時停止されたテレビ画面でも見ているかのようで、動かないことがより不気味さを加速させる。


 ここが人のいない街外れの道でよかった。もしここが森に面した場所ではなく街の中心に近い場所だったら、周囲に誰かいたらと思うとゾッとする。


 しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。脅威は依然として竜司を襲わんと首をもたげているのだから。


 殴られた両腕と打ちつけた背の痛みに耐えながら、両の拳を握りしめて戦闘の構えをとる。

 一体どのような手段で、質量を持たないはずの悪霊が竜司を殴り飛ばすことができたのか。それは分からぬままだけど。


「やられっぱなしじゃ、いられねえんだよ!」

 その咆哮に応えるように、黒い影が動き出す。


 瞬きをする隙など一切ない攻撃。電光石火の如き黒い左拳を、今度こそは完全に捉え、竜司は体をかがめて迫り来る剛腕をくぐり抜けた。


 背後にあった樹木がへし折れる音を聞きながら、竜司が繰り出した除霊の術。


 それは陰陽術でも呪術でも祓魔術ふつまじゅつでもなく。


「オラァ!」

 ただただ愚直な、右拳だった。


 霊穿れいせん。霊力を纏わせただけのシンプルな打撃。

 しかし竜司のそれは数多の悪霊を一撃のもとに除霊してきた必勝の拳であった。


 低い姿勢から打ち上げるように繰り出された竜司の拳は、狙いあやまたず霊体の核が存在する胸のあたりに直撃する。


 瞬間、手に残るは確かな感触。

 しかしその事実とは裏腹に、竜司の表情は強張ってゆく。


「なんだ、コイツ……!?」

 理由は至極簡単。右拳に居座る感触が、あまりにも重すぎたから。


 竜司の違和感を裏付けるように、悪霊は未だ形を保ったまま竜司を見下ろしてくる。

 必勝の一撃を喰らってもなお祓えぬ底知れない存在に恐れを隠しきれなかった竜司は、一度距離を取ることにした。


「どうなってんだよ……!?」

 そう愚痴りながら竜司は両目に神経を集中させる。理由は当然、眼前のイレギュラーな存在を詳しく知るため。


 ただ漫然と見るのではなく、注目することによって竜司の霊眼は真価を発揮するのだ。


 人の形を模している黒い霊力のその奥。

 ゼロをして最高純度と言わしめた竜司の霊眼が捉えたものとは。


「おいおい、お前……いや、まさか……」


 続く言葉は、出てこなかった。


 なぜなら、いつの間にか黒い影が至近距離に佇んでいたから。

(やべ……っ!)


 間に合わない。今からでは腕の動きがコイツの速度にはついてこれない。

 迫り来る拳は竜司の顔面を砕く寸前。

 明確な死の気配が竜司の心に這い寄ってくるせいか、時間の流れが遅く感じる。


 風を切り、あわや音すらも置き去りにするかと錯覚するほどの速度で近付いてくる脅威に対して、竜司ができることといえばせいぜいが頭部を霊力で覆うくらい。


 引き伸ばされた一瞬の中で精一杯の足掻きを試みるが、万全の体勢で受け止めた時ですらあれほどの威力を誇っていたのだと思うと焼け石に水だろう。


 迫る拳を見て死を覚悟し、瞼を閉じる。


 その刹那。


 チリーン。

 小さな鈴の音が鳴り響くと同時に鼓膜に届いた声があった。

「リュウジ様、ご無事ですか?」


 それに反応して恐る恐る瞼を上げてみると、そこには。

「ゼロさん!?」


 美麗にして力強い背を見せつける奇跡屋の店主が立っていた。

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