私を姉と呼ばないで~煙の向こうで微笑む君はまだ恋を知らない~
桜枕
第1話
「大きくなったらお姉ちゃんと結婚して、いっしょに幸せになろうね」
そんな可愛いことを言っていた時期もあったな、と思いにふける彼女は口をすぼめて長めに息を吐いた。
紫煙は真っ直ぐに昇り、やがて夜空に溶け込む。
そんな光景をボーッと眺めながら吸いたくもないタバコを灰皿に押しつけて火を消した。
仕事終わりの一本が美味いと言う愛煙家も居るが、そんな風に感じた事は一度もない。
「そろそろかな」
ベランダから室内に戻り、フレグランスオイルの霧をくぐり抜けるとタイミング良くチャイムが鳴った。
この家には月に一度、第三金曜日の夜には必ず訪問者がやって来る。それは彼女――
「お邪魔しまーす」
「遅かったね」
「卒論やってた」
まがいなりにも女性の部屋だというのにズカズカと入ってきた彼は道すがら買って来たであろう、酒やスナック菓子を袋から取り出す。その表情は昔から何も変わらない。
今年、大学を卒業する彼は「姉ちゃんのマンションから近い会社」という条件で就活を行っていたが、そんなふざけた志望動機でありながらも大手企業から内定を貰ってしまうのだから、やはり持っている男なのだろう。
「姉ちゃん、何飲む?」
一回――。
雪綺は心の奥で密かにカウントを始めた。
「じゃあ…」
一人で住むには広すぎるマンションの一室に置かれたテーブルに向かい合って座り、好みの酒へと手を伸ばす。
この家に招き入れる男性は二人だけだ。一人は父親、もう一人は彼。
程良くアルコールが回り、饒舌になっていく彼はどんどん雪綺を呼ぶ。
十回――。
二人の関係性は幼馴染みに相当するが、そう表現するには年がかけ離れ過ぎている。
八つも年が離れているせいか、気付くと『姉』と呼ばれるようになってしまい、当時小学生だった雪綺はそれを受け入れてしまった。
しかし、互いに成長していく中で『姉』という肩書きは雪綺の気持ちや行動を妨げる手枷、足枷となり苦しめられ続けている。
それに気付いたのは24歳の時で高校生になった彼を見て、不覚にも胸をときめかせてしまった。あの時の感情は今でもはっきりと覚えている。
「姉ちゃんに話を聞いて貰うのが一番のストレス発散だな」
「それなら良かった」
この笑顔が見られて、二人だけの時間を過ごせるのなら『姉』という役割を甘んじて受け入れよう。毎月、そうやって自分を納得させるのだ。
(十三回か。多いな…。)
どんなに時間が遅くなっても必ず部屋の片付けをしてから帰宅する姿は賞賛に値する。
そうやって褒めると目尻にしわを作りながら笑うのだ。
(この緩みきった笑顔はわたしだけに、『姉』だけに向けられるもので他の女性には見せないのかな。きっと、そうであって欲しいな。)
毎月、この時間になると乙女のような事を思いながら、靴を履く彼の背中を見つめる。
「夜に一人で歩かせる訳にはいかないから、見送りはここまでで良い」と背中越しに呟く姿がカッコイイ。
またおいで、と背中に語りかけながら閉じる扉を眺めていると、ガンッと雑に扉が開き、彼が顔を出した。
「あ、そうだ。姉ちゃん、たばこやめた?」
「…ううん。明日から十四本吸おうかなって思ってるよ」
「なんだよそれ」
「大人には色々あるんだよ」
今度こそ閉ざされた扉に鍵を掛けて、何気なくドアスコープを覗き込むとエレベーターに乗り込む彼が手を振っていた。
「なんだ、あの可愛い生き物は…!」と身悶えるが、それは一瞬だけで一人になるとただでさえ広いリビングは静寂に包まれて、寂しさが押し寄せてきた。
少しでも気持ちを紛らわせる為にテレビを付けて、部屋着に着替える。
クローゼットの中から取り出した箱から明日からの一ヶ月間で吸うべき十四本のタバコを長年愛用しているシガレットケースに詰め込んだ。
* * *
昼休憩の途中、私服に着替えて喫煙所へ出向き、紫煙をくゆらせる。
日本における死因第一位は癌、次いで心疾患、脳血管疾患、肺炎となっているが、どれも喫煙が大きく関わっていると言って過言ではないだろう。
それでも私がタバコを吸う理由はなんだろう――。
男性受けは良くないし、身体にも害があるのだから、吸いたくないなら止めれば良い…。
それでも雪綺は残りの十三本を一ヶ月で吸う。
今月は仕事が忙しかった上に気分が乗らず、彼が来ているのに最後の一本が残っていた。
スマホゲームに夢中になっているし大丈夫だろう、とベランダに出ようとした時、腕を掴まれた。
「姉ちゃん。いい加減、禁煙しろよ。医者なのにたばこ吸ってて良いのかよ」
「…医者だからリスクは承知の上で吸ってるんだよ」
スマホから視線を離さずに説教するなんて、随分と舐めた真似をしてくれる。
普段は胸の奥底に隠している本心がざわめきだし、雪綺の喉を通過して口から飛び出した。
「誰のせいでタバコを吸ってると思ってるの?」
「はぁ…?なんだよ、それ――」
ハッとして口を押さえる。
声に出すつもりなんてなかったのに、ついイラッとして口走ってしまった。
口は災いの元と言うが、いつになく険悪な雰囲気が部屋中を包み込む。
ここで謝ってしまえばそれで終わる。しかし、雪綺の口から謝罪の言葉は出てこなかった。
「…なんで分かってくれないの」
そんな小さな呟きと不満は彼に届かずに消え去る。
腕を放した彼は立ち上がり、上着を持って玄関の方へ向かって歩き出した。
行かないで――。
こんな別れ方をしてしまったら、来月のこの一時が訪れないかもしれない。
しかし、そんな弱々しい事を言えるような性格ではない雪綺は後を追うことしかできず、いつものように靴を履く彼をみつめた。
「俺は姉ちゃんの身体が心配なんだよ。何かあるから言えよ。また来月な」
言いたい事だけを言って扉を閉める彼の悲しげな表情に胸が締め付けられた。
こんな筈じゃなかったのに…。
しかし、後悔しても遅い。一度口に出してしまった言葉は二度と呑み込めないのだから。
「やめたいよ。やめさせてよ」
雪綺の心の叫びは誰にも届かない。
こんなにも苦しみを抱くなら、こんなルールを設けなければよかった。
誰かに縛られている訳ではない。自分の首を絞めているのは雪綺自身だ。
見えない紐を解く事は簡単な筈だが、自分で解きたくない、彼に解いて欲しいという強い願望と自分に負けたくないというプライドが邪魔してどんどん首筋に食い込んでいく。
そして、またルールに従ってタバコを吸う。
* * *
「綱島先生、今日は終わりそうですか?」
「えぇ。勿論です」
外来診療と入院患者に対する指示出しと書類業務を終え、いつもより早く病院を後にする。
正直、行きたくない外食だが先輩の誘いとあっては断れない。
人に見られても恥ずかしくない格好で待ち合わせ場所に着くと、想像していたよりも豪華な料亭に案内された。
(完全個室か。変な話題を振られないといいけど…。)
雪綺は小難しい仕事の話を振られるのではないかと警戒していたが、それは杞憂に終わり、プライベートな話題ばかりだった。
こういう雰囲気の店にも女性の扱いにも慣れているのか、退屈しなかったが、特にときめく事はなかった。
「綱島先生は恋人いる?」
「いいえ。いません」
「そうか…。だったら立候補しても良いかな」
そう来たか、と気を引き締め直した。
ここで言葉選びを誤っては明日からの業務に差し支えるかもしれない。
面倒な事になってしまったと思いながら、やんわりとお断りの意思を伝えようとしても上手く躱されて、一向に話が進まない。
「わたしはまだ専門医として未熟なので特に恋人は考えていません」
「謙遜する事はないだろう。患者からも看護師からも評判が良いし、指示も的確だ。実にセオリー通りの診療だと思うよ」
「ありがとうございます。ですが、まだまだやりたい事がありますので、このお話は無かった事にして下さい」
「…では、結婚を前提に恋人になってくれないだろうか」
人の話を聞いていたのかな、と心配になると同時に不快感が募り始める。
「妙齢の美人な先生を幸せにしたい。俺は今後を期待されているし、何も不自由はさせない。約束する。少し考えては貰えないか」
「…分かりました」
これ以上は不毛だと判断し、引き下がる事にした雪綺はスマートに会計を終わらせた先輩医師と共に料亭を後にして、タクシー乗り場へと向かった。
時間帯的にも距離的にも電車で帰れるのだが、タクシー代まで握らされてしまっては仕方ない。
タクシーに乗り、見えなくなるまで頭を下げ続けた雪綺はスマートフォンを取り出して、過去最速のフリック入力でメッセージを送った。
『今日はゴメンね。どうしても外せない用事があって。また来月待ってるから』
すぐに既読は付いたがいくら待っても彼からの返信は来なかった。
* * *
初めて彼と合わなかった第三金曜日から来月の第三金曜日まで雪綺の禁煙が確定して数日後。
オンコールの日だが口寂しさを紛らわせる手段としてウィンドウショッピングに出かけたのだが、絶対に見たくないものを見てしまった。
雪綺の視線の先には仲睦まじく同年代の女の子と歩く彼の姿があった。
(そうだよね。もう大学生だもんね。これまでに彼女の一人や二人いてもおかしくないか。でもさ、何それ…。そんな顔、わたし知らない)
一足先に冬が訪れたように心が凍えそうになる。
追いかけて声をかける事も、見て見ぬ振りをして立ち去る事もできない雪綺は頭の中が真っ白になり、その場に立ち尽くした。
動け――!
進むにしても後退るにしても動かなければ始まらない。
しかし、どんなに脳が命令しても接地した足は持ち上がらなかった。
「ッ!?」
唐突に鞄が震え始め、大きめに設定した着信音が鳴り響いた。
真っ白だった頭が冴え渡る。
瞬時に仕事モードへと切り替わった雪綺はカツカツと足音を立てながら歩き出し、スマートフォンを取り出して耳に当てた。
「もしもし」
「お疲れ様です。綱島先生、すぐ来れます?」
「うん。行くよ」
普段はオンコールの日にスマートフォンが鳴る事は嬉しくない。
しかし、今日ばかりは呼び出しに救われた。
車道を挟んで彼らと反対側に向かって歩いて行く雪綺の視線は前だけを見つめていた。
「あれ…?」
「ん、どしたん?」
「…いや、何でもない」
一括りにした髪を振り乱して歩く後ろ姿を見つめる彼ーー
喧嘩別れのようになってしまった挙げ句、先月は向こうの都合で会えず、謝罪の機会すら与えて貰っていない。
(見られた――?いや、大丈夫だよな。)
あの人にだけは自分が『姉』以外の女性と接している様子を見られたくない。
いつも彼女の家には堂々と入っていく癖に目の前にすると素直に言葉を伝えられない。
そんな中学二年生で成長が止まっているような自分が嫌になる。
今日だってそうだ。隣を歩いている同期の女子とは気兼ねなく話せて、相談事もできるのに…。
どうして、あの人の前ではダメなんだろう。
春貴はその答えを知っている。産まれた時から『姉』と『弟』という関係に縛られる彼はこの関係性を崩す事を恐れて、一歩を踏み出せずにいた。
「じゃ、行こっか」
「うん」
後ろ髪を引かれる思いを胸の奥に隠し、春貴は同期の後を追った。
* * *
救急外来へ到着した雪綺はキリッとした面持ちで搬送されて処置されている患者の元へ歩み寄った。
「エコー見せて。あぁ…カテ室行こうか。同意書ある?」
彼には絶対に見せない仕事中の顔。そこには冷静沈着な女医がいた。
『綱島先生が心臓カテーテル室に入ると室温が下がる』、と看護師や技師に言われる雪綺はさっさとカテーテル治療を終え、集中治療室で安静にしている患者の元へ出向いた。
「早く救急車を呼んで正解でしたね。今のところ問題はありません。明日からリハビリテーションを行って、退院を目指しましょう」
手短に現状を患者に伝え、立ち去ろうとした雪綺が足を止めて振り向く。
「あ、再発予防の為に禁煙は必須ですから、絶対にタバコは止めて下さいね」
「本数を少なくすれば良いですか?」
「ダメです」
「一本とか…」
「ダメです」
ピチャリと言い捨てた雪綺は医局に戻りカルテ記載を終え、一息ついた。
禁煙か…。
「患者には禁煙を厳しく言いつける綱島先生が喫煙者とは誰も思わないだろうな」
「病院から一歩出れば、ただの女です」
「違いない。そのただの女をただの男が口説いてるんだ。返事を聞かせて貰えるかな?」
「ここは病院です。プライベートな話は控えさせていただきます」
またしてもピチャリと言い捨てる雪綺は少しでも距離を取る為に医局を後にした。
町中で彼を見かけて数時間も経っている。
こんな時間に連絡するのは迷惑だろうか、なんて考えながらスマートフォンを握り締め、サンドイッチを購入しているとメッセージ通知を知らせる電子音が鳴った。
『仕事、お疲れ』
たった一言の労いの言葉。それだけでも疲れが一気に吹き飛んだ気がした。
「まったく。…声、少し、聞きたいな」
右手で白衣のポケットの中をまさぐるも、いつも入れてあるシガレットケースが見当たらない。
今月が禁煙月だという事をすっかり忘れていた雪綺は改めてタバコの依存度の強さを実感させられた。
* * *
第三金曜日になり、二ヶ月振りに会った春貴は少し大人びたように感じた。
いつもならソファに座りながら、缶ビールを開けるのにいつになく真剣な表情で雪綺を見つめる。
「あの男、誰だよ」
「…ん?」
一瞬にして頭がフル回転を始める。
――まさか、あの日の会食を見られていた!?
ちょうど一ヶ月前の今日、雪綺は春貴との月課を断り、先輩医師と食事に出かけている。
絶対に見られたくない相手に見られていたというのか。しかし、雪綺は表情を変えずに淡々と語った。
「先月の話?あれは後期研修からお世話になってる先輩の医者だよ。どうしても断れなくて…ゴメンね」
「そんな事はいいんだよ。それなら、ちゃんと言えよ」
「…恋人でもないのにいちいち誰とどこに行くのか報告しないといけないわけ?」
違う。言いたい事はそんなことじゃない。でも、言葉が止まらない。
ダメ、これ以上は嫌われちゃう。
しかし、ストレス指数が振り切り、自制心が低下している雪綺は溢れ出す想いをコントロールできなかった。
「そんなこと言ったら、この前、女の子と二人で出かけてた」
「あれはただの同期だろ」
「それと同じだよ。まだ、ただの先輩」
「…まだ――?」
更なる失言に気付き、自己嫌悪に陥る。
食い下がる春貴に全てを話し終えた雪綺は顔を背けながら、速すぎる心拍数を抑える為に密かに深呼吸を繰り返した。
「で、姉ちゃんはどうするんだよ」
「来週、返事する」
「あっそ。じゃあ、帰るわ」
それだけ――?
久しぶりに会えたのに、たったこれだけの会話で終わってしまうなんて…。
すれ違いを繰り返す二人は長年、
正しくは雪綺の性格を真似ているのが、春貴だ。
互いに本心を隠し続ける事で今の関係性と自分自身の心を守ってきた。
彼らはまだ恋を知らない――。
(今日、たばこの臭いがしなかった。分かったよ、姉ちゃん。俺が気をつければ良いんだな。)
(今日、一回しか呼ばれなかった。なんで?まさか、気付いたの――?)
* * *
「ここでなら、返事を聞かせてくれるかな?」
前回とは異なり、お洒落なレストランに誘われた雪綺はその場に相応しい服装で臨んだ。
「申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
「そうか。後悔するかもしれないぞ」
「…それでも、自分にだけは嘘をつくのを止めようって決めたんです」
「誰か良い人が居るのか」
「ずっと片思いをしている人がいます。先生は『君を幸せにしたい』と言ってくれましたが、彼は『一緒に幸せになろう』って言ってくれたんです。わたしは自立した一人の女で、誰かに幸せにして貰うつもりはありません」
「敵わないな。本当に綱島先生の片思いなのか?」
「多分…いえ。違うかもしれません。それを確かめます。彼がそう言ってくれたのはまだ5歳の時でしたから、気持ちが変わってないと良いのですが…」
「それは…本当に敵わないな。行ってこい」
「え――。でも…」
「こんな所で俺と飯を食ってる時間があったら、答え合わせをしてこい。妙齢の美人な君には時間が惜しいだろ?」
「その言葉、あまり良い印象を与えませんよ。…失礼します。ありがとうございました!」
この先生の下で働けて良かった。このような形になったが、明日からもいつも通りに仕事ができると自信を持って言える。
雪綺はスマートフォンを耳にあてがい、タクシーを止めた。
運転手に行き先を告げながら長いコールを聞き続ける。
「はい?」
「もしもし、わたし!今から家に行くから、待ってて」
「はぁ!?ちょっ――」
通話をブチ切りした雪綺はスマートフォンを胸に抱きながら、呼吸を整えた。
車が多くてなかなか前に進まない。そんなもどかしさはタクシー運転手にも伝わったのだろう。
しかし、申し訳なさそうにする訳でも、同情する訳でもなく、にっこりと微笑んだ。
「お嬢さん、恋をしているね」
「…恋。そう…ですね。恋を知りました」
「もう少しですから、待って下さいね」
素敵な紳士に送り届けられた雪綺がアパートの階段を昇りきると扉の前で春貴が待ち構えていた。
どのくらい待っていたのだろう。
きっと寒かった筈だ。鼻の頭を真っ赤にした彼はぶっきらぼうに呟いた。
「いきなり来るなよな」
「嘘。お姉ちゃんに会えて、本当は嬉しいくせに」
「俺が姉ちゃんって呼ぶ度に一本のたばこを吸ってた奴がよく言うよな。ちゃんと吸ったのかよ」
「ううん。まだ持ってる」
愛用のシガレットケースを見せつける雪綺はほくそ笑む。
ワンルームの部屋には無駄な物がなく、床に正座する二人。
どちらから話そうかと互いにタイミングをうかがっていたが、先に大きく息を吸ったのは春貴だった。
「この前はゴメン。俺が悪かった。でも俺は本当に身体を心配してるんだよ」
「…なんで吸っちゃいけないの?」
「何でって…。癌になりやすいって聞くし、依存の危険もあるし、妊娠もしにくくなるだろ。そんな事、ネットにいくらでも書いてるし。わざわざ現役の医者が聞くような事かよ」
「癌はともかく、まだ依存してないし。それに私が子供を産むと思ってるの?」
身を案じて叱ってくれるのは素直に嬉しい。
このルールを設けた時から雪綺は叱られたかったのかもしれない。
限界まで首筋に食い込んでいる見えない紐が遂に解かれる時を迎えようとしているが、雪綺は彼に解かせるのではなく、一緒に解く未来を選んだ。
「私の身体の心配をするならさ…」
両手を握る手に力が入ってしまう。こんなにも緊張するのは人生で初めてかもしれない。
「私を姉と呼ぶな――」
これが30年間、ずっと胸の内に仕舞い込んできた想いだ。
上目遣いに睨み付ける雪綺を見据え、茫然とする春貴は「えー、あー」と狼狽えている。
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
「名前で呼べば良いでしょ」
「ユキさん?…ユキちゃん?――雪綺…?」
心臓が波打ち、胸が熱を帯びる。耳まで真っ赤に染まった雪綺を見て、春貴は笑った。
「そんなに赤くなることあるぅ!?」
「あんたも人の事、言えないからね!」
二人は同時に吹き出し、涙を堪えて笑い合う。
おもむろに立ち上がった春貴は部屋の隅に置いてあった紙袋を持ち出し、雪綺に手渡した。
「この前はこれを買いに行ってたんだ。どんなのが良いか分からなくて、同期の子についてきて貰ってたんだよ」
「…そっか。そうなんだ」
小さな紙袋の中身はインスタントアロマだった。
箱越しでも香る匂いに心が落ち着く。
これを選ぶためにわざわざ出かけていたのに誤解して、嫉妬して、年上として恥ずかしい。
「もうたばこを吸わないなら必要ないかもしれないけど」
「ううん。毎日使う。…え?」
「だって、俺が姉ちゃんって呼ばなかったら禁煙できるんだろ、雪綺」
「う~~」っと紙袋で顔を隠す雪綺と気恥ずかしそうに顔を背ける春貴の手が重なり合い、二人の距離が近付く。
迷いながらも本心を伝えた二人はこの手の温もりを独り占めしたいという想いを抱き、絡めて握り締めた指先を解かなかった。
そして、やがて唇が触れる。
「寒い部屋」
「部屋のせいじゃない。雪綺なんて名前だからだろ」
「なら、春貴が温めて。わたしの心は凍えているわ」
冷ややかな細長い指先が身体中を触れる。
それは『姉弟』では踏み入れる事のできなかった未開の境地だった。
* * *
あの日を境に雪綺の部屋からライターと灰皿が消え、化粧台の上に置かれたシガレットケースの中にはあの日、火をつけなかったタバコが残されていた。
「長生きしてずっと隣で話を聞いてあげるからね」
傷付く事を恐れずに一歩を踏み出した事で『姉』という肩書きは『恋人』へ格上げされ、二人の関係性は一気に進展した。
雪綺と春貴の繋いだ手が悠久に離れないのなら長年の回り道も悪くなかったとポジティブに捉え、もう二度と自分にも恋人にも嘘はつかないと、似た者同士はお揃いの笑顔で約束を誓い合うのだった。
私を姉と呼ばないで~煙の向こうで微笑む君はまだ恋を知らない~ 桜枕 @sakuramakura
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