第三噺 側溝から
これはAさんという男性から聞いた話だ。
彼はすでに四十年勤め上げた職場も退職し、子供たちも立派に巣立ったらしく今は余生を楽しんでいるらしい。
そんな彼の楽しみは地域の散歩だという。
今までは車や電車で移動していたが、そこをあえて歩く事によっていつもとは違った景色を見る事ができるらしい。
見落としていた道端の花や、新しい店。
新しい発見に加えて、健康にもいい。まさに彼にとっては一石二鳥というわけだった。
Aさんは晴れの日の散歩も好きだったが、とりわけ雨の日の散歩が好きだった。
傘を差して、雨音を聞きながらゆっくりと歩く時間は彼にとって最高の時間だった。
「じゃあ行ってくるよ」
「はいはい、気をつけてくださいね」
その日もいつものように妻に声をかけ、家を出た。
本降りとまではいかないちょうどいい雨だ、彼はお気に入りの緑色の傘を差して歩き出した。
時刻はだいたい14時ごろ、当然だが外を出歩いている人間はほとんどいなかった。
時折車が水飛沫を上げて走り去っていくくらいで、それはそれは静かな昼下がりだった。
静かだなぁ、静寂を楽しみながらAさんは道をぶらぶらと歩く。
この日は妙に気分が乗った事もあり、いつもよりも少し長めに歩く事にした。
住宅地を抜け、人気の少ない田舎道を歩く。
草むらに挟まれた車が一台通れるかどうかの道、足元は舗装されているとは工事をしてからずいぶんと時間が経っているせいか、綺麗なものとはいえなかった。
バラバラと雨粒が傘を叩く、どうやら少し雨の勢いが増して来たらしい。
ふと彼の視線は道路脇の側溝に向いた。
朝から降っている雨のせいで、側溝を流れる水の量は目に見えて増えている。
ずいぶん流れているな、そんな風に呑気に考えてから彼は側溝から目を離した。
ごと。
何か重い物が動いたような音を聞き、彼は後ろを振り向いた。
だがそこには何もない、あるとすれば草むらと汚い道と側溝ぐらいなものだ。
気のせいだろう、そう思って彼は再び歩き出した。
ごと。
また聞こえた。
何か重い物を動かそうとしたような、重く乾いた音。
振り返ってみるがやはり何もない。
誰もいない道のはずだ、自分一人しかいないはずだ。こんな雨の日に外を歩くような物好きは、自分しかいないはずだ。
最近は腰の調子も少し悪かった、年を取ったからあちこちガタもくるもんだ。
Aさんはそう自分に言い聞かせて歩きだす、背中に感じたひやりとした感覚。なるべくそれを意識しないように歩く、彼の歩くスピードは先ほどよりも速くなっていた。
ごと。
まただ、また聞こえた。
彼は今度は振り返らなかった。
一体この道でなにが動くのか。
あの重く乾いた音、それを出す可能性が一番高いのはあの側溝の上にある蓋だろう。
コンクリートでできたあの蓋だ。
側溝の掃除を昔やった時、あれを持ち上げて下ろした時に同じような音を聞いた。
そう、蓋だ。
あの蓋が動いたんだ、Aさんはそう結論づけた。
音の出所は分かった、だがそれは彼の不安を消してはくれなかった。
それはなぜか?
音の出所は分かった、だが謎はまだ残っている。
誰があの蓋を動かしたのか、という事だ。
側溝の蓋の詳しい重さは分からないが、以前もった感覚から二十キロはある。
大の男でも一人で動かすのには難儀する物だ。
それにそもそも滅多に動かすような物ではないはずだ。
側溝の掃除だとか、それか何かを落としたとか、そういった理由があって初めて動かすような物だ。
それをわざわざこんな雨の日に、誰が持ち上げるというのか。
ごと。
ふざけるな、ふざけるな、なんだっていうんだ!
Aさんは心の中で、無理矢理に怒鳴りながら走りだしていた。
早歩きに毛の生えたようなスピードだったが、それでも彼にとっては全力だった。
ごと、ごと。
やがて彼は道を抜けた。
草むらが無くなり、見知った交通量の多い道に出た。
音はもうしない。
思い切って後ろを見てみたが、何もない。
途端に彼の肩から力が抜けた。
一体なににあそこまでビクついていたのか。
馬鹿みたいだなと笑い、彼は家に帰ろうと歩き出した。
ごと。
おい、嘘だろう? おい。
振り返らなくてもよかった。
だがその時の彼には、振り返る以外の選択肢がなぜか無かった。
「あ」
Aさんの視線の先、距離でいうと大体二メートルくらいだろうか。
側溝の蓋と蓋の繋ぎ目にある穴、そこから指が生えていた。
五本の白い指、水をずいぶん吸ったのかブヨブヨの牛脂で作ったような指が何かを探すように蠢いている。
それがぐぐっと力が入ったように震え、わずかに蓋を持ち上げた。
ごと。
蓋の重さに負け、持ち上げる事ができずに蓋は元にの位置に戻ってしまう。
音の正体はあれだった。
側溝にいる何か、それが蓋を持ち上げて這い出てこようとしていた音だった。
指はぐねぐねと動き、宙を掻いている。
Aさんはその場から走り出した、叫ぶことすら忘れて走り出した。
傘は開いたままでひどく邪魔だったが、そんな事はどうでも良かった。
ただ一刻も早くここから離れなければならない、ただその考えが頭と体を支配していた。
それほどまでに、あの指は恐ろしかったのだ。
「本当はちゃんと確認しなきゃいけなかったのかもしれません。もしあれが万が一にも子供だったら事ですからね、でもそれは今だからそう言えるんですよ。あの時は本当に恐ろしかった、ただただ逃げ出したかった」
Aさんはそう言ってテーブルの上に置いた手をさする、今でもあの時の事を思い出すと寒気がするらしい。
「でも……ですね、実はこの話には続きがあるんです」
彼はそう言って少し言い淀んだが、意を決したように口を開いた。
「あれから音がするんですよ、時々ですけどね。夜に電気を消して瞼を閉じる、すると音がするんですよ。ごと、ごと、ってね」
彼の目元をよく見ると、目の下にうっすらとクマができている。
どうやらあまり眠れていないらしい。
「参りましたよねえ、付いてきてしまったのかな? 全くなんだってこんな目に……あうんでしょうかねえ。私、何かしたんでしょうかねえ」
彼はそう言って乾いた木のように笑う、それは聞いているこちらが薄気味悪くなるような笑いだった。
「妻には聞こえてないみたいでしてね、私の事をおかしくなったと思ってるみたいなんですよ。おかげで朝も喧嘩してしまいました」
話が終わり、Aさんは頼りない足で帰っていった。
また何か進展があったら連絡をすると彼は言っていたが、彼からの連絡はまだない。
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