同じ写真のアルバムを

権俵権助(ごんだわら ごんすけ)

「同じ写真のアルバムを」

「紺野さん、また明日ね」


 手を振って出ていく友人たちに「うん、またね」と手を振り返し、ひとり夕刻の教室に残る。彼女たちはこれから部活なので、帰宅部の私はいつも一人で帰る。


 私にはやりたいことがない。


 三年間の高校生活を帰宅部で過ごしたこともそうだし、進学を希望しているのだって、大学で何かを学びたいからではなく、単にモラトリアムの延長を申し出たに過ぎない。


 ためらわずに人生を賭けられるものがある人が羨ましい。ううん、そんな大げさなことじゃなくてもいい。遊びでも勉強でも、毎日ただそれだけに夢中になれるものが欲しかった。何かに興味を持つと、私はいつも一歩引いてしまう。これは本当に私がやりたいこと? それとも、誰かに影響されてその気になっているだけ? そう考えた時点で夢中になることなんてできなかった。


 そんなだから友達との仲も一定以上は深まらない。私が心を開いていないのだから当然だ。学校の中ではそれなりにみんなと仲良く笑って過ごしていたけれど、私のスマホには放課後の写真はほとんど無かったし、クラスのLINEグループでも発言したことはない。


 そんな上っ面だけの高校生活もあと三ヶ月で終わってしまう。果たして大学へ行けば何かが変わるのだろうか。そういう受け身の姿勢がよくないのだとわかってはいるのだけれど。


(……もう帰ろう)


 椅子から立ち上がった時、視界の端で何かが動いた。窓の外。立入禁止のロープを跨いで旧校舎に侵入する女生徒の後ろ姿が見えた。二つ結びのおさげが風にふわりと揺れた。ちらりと見えたセーラー服のスカーフの色は……緑。つまり、私と同じ三年生だ。


(何してるんだろう……?)


 その好奇心は間違いなく私の心から生まれたものだった。だから私は彼女を追った。


※ ※ ※


 戦前に建てられた木造建築の旧校舎。二十年以上前から教室としては使われていない。


「ん……」


 スカートの裾を持ち上げ、立入禁止のロープを乗り越える。空っぽの下駄箱に靴を入れ、持ち込んだ上履きに履き替えて中へ入ると、木製の床がギシリと不安な音を立てた。


「あの子、どこ行ったのかな……」


 一階の教室を覗き込んだ私は……突然、海に落ちた。そう錯覚した。クジラ、ヒトデ、サメ、カニ、マンボウ……壁いっぱいに描かれた海の生き物たち。床には、舞い上がる砂の中に貝や海藻が実物よりも色鮮やかに描かれている。その巨大なアートに境界線は無く、黒板や窓ガラスまでをもキャンバスにして、ついには廊下……そして隣の教室、その隣の教室にまでずっと続いていた。


「すごい……」


 二階へ続く階段には紅く美しいサンゴの絵が敷き詰められていて、一段上がるごとにその色彩は明るくなっていった。まるで太陽の光を浴びて地上へと続く大陸棚のように思える。そして実際、二階に描かれていたのは太古の地上の光景だった。廊下は壁から天井まで精緻に描かれたシダ植物の緑に包まれ、薄暗いジャングルを思わせた。


「誰かいますか……?」


 一番手前の教室を覗くと、大小さまざまな恐竜たちが闊歩する迫力の白亜紀が描かれていたが、そこに彼女の姿は無かった。隣の教室では哺乳類たちが姿を現し、さらに隣ではついに人類が誕生していた。絵はまだまだ先に続いている。旧校舎は生徒の多かった時代に作られたこともあり、一つのフロアに十もの教室があった。そしてこの壮大なアートはそれらすべてをキャンバスとして描かれていた。


「あれは……」


 三つ先の教室の入口に、セーラー服を着せたハンガーが掛けられていた。音を立てないように、扉を少しだけ開いて隙間から中を覗く。


「わぁ……!」


 空まで届く高層ビル群。その隙間を縫うようにせわしなく歩く人々。行き交う車は色彩豊かな筆遣いで流れるように表現されている。私は一瞬そこに本当に人の営みを見たが、それが絵画だと認識できたのは、今まさに世界を創り出している最中の”神”がそこに立っていたからだ。ペンキだらけのジャージを着た彼女は軽やかにハケを踊らせ、その軌跡で新たな歴史を紡いでいく。神は次の一筆のためにクルリと身を翻し……傍観者の私と目が合った。


「…………!」


 彼女の手からハケが落ちると、何か憑き物が落ちたように、その瞳に人間らしい揺らぎが戻った。


※ ※ ※


 教室はペンキの臭いがすごいので、私達はベランダに出て話すことにした。


「えっと……」


「ウチ、三組の姉崎です。よろしく〜」


 少しおっとりした喋り方。背も私よりちょっと低くて可愛らしい。この子があんなダイナミックな絵を描いているなんて、なかなか信じがたいものがある。


「一組の紺野です。あの……これ、全部ひとりで?」


「うん。一年の頃から、こっそりね」


 姉崎さんは屈託のない笑顔で言った。大変なことをやっているのに、その言葉に重さは感じられなかった。


「すごい……!」 


「別にすごくなんてないよ。好きでやってるだけだし」


「そんなことない! こんなの描いちゃうなんて普通はできないよ!」


 思わず前のめりで否定する。自分が好きなものを謙遜されるのはなんだか嫌だ。


「そう言われると照れるなぁ。うーん、けど卒業までに仕上げられるかどうか……。あと三ヶ月しかないし。でも納得いかないものを描くのはもっと嫌だし」


 完成しないかもしれない? この大作が? そんなのだめだ。……このままじゃ、三年間ずっと凪いでいた私の心にようやく吹いた風がまた止んでしまう。そう思うと、私は自然とその言葉を口にしていた。


「……だったら私、手伝いたい」


「えっ」


「だって、これは姉崎さんの高校生活を費やして描いた作品でしょ! 絶対に完成させなきゃ!」


「う、うん……」


 私の勢いに姉崎さんは若干引き気味だったが、すぐにその目に闘志の炎が宿った。


「そ、そうだよね! ……うん、やらなきゃ! 紺野さん、よろしくお願いします!」


「こちらこそ!」


「よおし、やる気出てきた〜! それじゃ、明日は二人分の道具を用意しとくから、また放課後ね!」


「うん! ……あっ、とりあえず連絡先交換しとこっか」


 とスマホを取り出すと、姉崎さんは少し困った顔をした。


「ウチ、スマホ持ってないんだ」


「そうなの?」


「なんか、目と目が合わないところで人と繋がるのが苦手で……。でも、放課後は毎日ここにいるから連絡しなくても大丈夫だよ!」


「わかった。じゃあ明日からよろしくね!」


 こうして私と姉崎さんの秘密の卒業制作が始まった。


※ ※ ※


「こっちのビル、グレーで塗ってもいい?」


「うーん……赤系にしたいかな。その方が生きてる感じがするから」


「オッケー」


 筆さばき、色遣い一つとっても姉崎さんのセンスは非凡だった。だから、彼女が主線を描き、私は彼女の指示通りに着色した。それがこの作品にとって一番いい作り方だと私から提案したのだ。


「よし……これでこの階は完成っと! 紺野さんのおかげで予定よりずっと早く進んだよ! ありがと〜」


 姉崎さんのまっすぐな笑顔で見つめられると、なんだか照れくさくなってつい目を逸らしてしまう。


「うん。……えっと、上の階は何を描くの?」


「三階のテーマはね……未来だよ」


「未来?」


「未来ってわからないし、自分で選べるでしょ。だから、ここには自分の好きなものを描くんだ」


 好きなもの。そう言う彼女の頭の中には、きっともう描きたいものがたくさん浮かんでいるのだろう。


「よし! 時間まだあるし、今から描こうよ!」


 言うが早いか、彼女は階段を駆け上がっていった。創作意欲が増した時の姉崎さんは、普段ののんびりした彼女ではなくなるのだ。


 旧校舎の最上階である三階はまだ手つかずのキャンバスだ。まず一組に駆け込んだ姉崎さんは、早速バケツの中からハケを取り出し、下書きも無しにその絵筆を走らせた。


「紺野さんも描こうよ!」


「えっ」


「好きなもの、なんでも描いていいんだよ!」


「私の好きなもの……」


 思考が止まった。好きなもの。私自身の意志。……そんなもの、あったっけ。手にしたハケを持ち上げられず、垂れ落ちたペンキが木目の床を黒く染めた。


※ ※ ※


「姉崎さん、もう来てるかな」


 ホームルームが長引き、私は少し遅れて旧校舎へ走った。卒業まであと一週間。昨日ついに三階を完成させて、残すは屋上だけだ。姉崎さんの構想によると、屋上いっぱいに青空を描くことで本物の空と鏡写しにするらしい。きっと壮大で美しい景色になるに違いない。急いで階段へ向かい、姉崎さんの待つ上階を見上げて……初めてそれに気が付いた。


 階段の周囲は円形の吹き抜け構造になっており、その壁面は三階まで繋がっている。そのため一階から見上げると、海底から地上、地上から大空と、これまで描いてきた世界がすべて繋がって見えたのだ。それはまるで地球の断面図だった。私は本能的にスマホを取り出し、その景色を切り取っていた。それは私が高校生活で初めて残したいと思った景色だった。


※ ※ ※


「ごめん、遅くなった」


 謝ると、姉崎さんは「いいよ。……ほら」と窓の外へ視線をやった。外が明るいせいで気が付かなかったが、シトシトと雨が降っていた。


「今日は屋上、使えないね」


 私達は教室の真ん中に椅子を並べて座り、外を眺めた。


「私、今日傘持ってきてない」


「狐の嫁入りだし、すぐに止むんじゃない?」


「……ほんとだ。ほら」


 私がスマホアプリで雨雲の予報を表示して姉崎さんに見せると、そこにちょうどLINEの通知が重なった。クラスの誰かがグループに写真を共有したのだ。


"みんなでカラオケ!"


"青春まっさいちゅう!"


 そんな手書き文字が加えられた楽しそうな集合写真。それに触発されてか、他のグループ参加者たちも、スイーツを食べている写真や部活中の写真を競うように共有しはじめた。


「紺野さんは参加しないの?」


 その質問に私は沈黙で答えた。


「あはは。ウチもこういうのちょっと違うなって思ってて」


 雨音が少し強くなった。


「なんだか、青春ノルマみたいじゃない?」


「青春ノルマ?」


「友達と遊びに行きました、おいしいものを食べました、部活を頑張りました……あらかじめ、そういう題名が付けられた青春アルバムに、その通りの写真を撮って貼り付けていく感じ。それって、私の意志じゃないなって思っちゃう」


「……うん」


「みんなセイシュンセイシュンって言うけど、青春って自覚した瞬間に終わっちゃうと思うんだ」


 そう言うと、姉崎さんは勢いをつけて椅子から立ち上がった。


「よし、今日は帰るね!」


「えっ、まだ雨降ってるから濡れちゃうよ?」


「濡れてみるのも面白いかも! じゃあね!」


 そう言って出ていった姉崎さんは雨の中でも笑顔だった。みんなとは別の道を選んだ私と姉崎さんだけど、二人の本質は違う。私は止むとわかっている雨の中に飛び込むことはできなかった。


※ ※ ※


「これで…………おわりっ!」


 最後の一筆を走らせ、姉崎さんが叫んだ。すべての力を出し切った彼女は仰向けに倒れ込み、屋上から青空を見上げた。


「おつかれさま」


 見下ろした彼女は、本物の青空と屋上いっぱいに描かれた青空に挟まれて宙に浮かんでいるみたいだった。


「うん。これで高校生活に思い残すことなし! ありがとうね、紺野さん」


「私こそ」


 何もなかった高校生活。最後に思い出を残せたのは姉崎さんのおかげだ。私たちが卒業した後も、新入生たちがきっとこの旧校舎を見つけて何かを感じてくれることだろう。私達がここにいた証は、そうやって受け継がれていく。


「紺野さんのおかげでどうにか卒業までに間に合ってよかったよ〜。危うく完成前に壊されちゃうとこだった」


「……え?」


「この旧校舎、春休み中に取り壊されるんだよ。もしかして、知らなかった?」


「…………うん」


 それなら、どうして。


「どうしてここに描いたの」


「消えてなくなるものの方が綺麗だから。それに……」


 姉崎さんは迷いなく、あの屈託のない笑顔で言った。


「無くなったら、今度はもっとすごいものを創ろうって思えるでしょ!」


 その言葉は、私と姉崎さんとの心の断絶を確信させた。……いや、本当はもっと前から分かっていたことだった。


※ ※ ※


"無くなったら、今度はもっとすごいものを創ろうって思えるでしょ!"


 それはゼロから1を創り出せる人の考え方だ。せいぜい1を2にすることしかできない私にとって、あれは唯一つの作品だった。


 その夜、私は自室のベッドの上で初めてクラスのLINEグループに写真を共有した。


"えっ"


"これなに? すごい"


"共有したの誰だろ。このナナシって人、初めて見る"


"これ旧校舎? 今こんなことになってるの?"


"すげー"


"マジで感動した"


"あした見に行こ!"


 そう。私たちの作品はすごいんだ。あのアートが他の人の目に触れることなくこの世界から消えるなんてあってはならないんだ。集まる賞賛の言葉を目にして、私はようやく安心して眠ることができた。


※ ※ ※


 翌日の放課後は、もう旧校舎に入ることはできなかった。入口前に百人以上の生徒が押し寄せ、それを数人の男性教諭が必死に制止していた。


「ここは立入禁止だっつってんだろ! 早く帰れ帰れ!」


「先生〜! ちょっとだけ、一階の教室だけでいいから見せてくださいよ〜!」


「ダメだ!」


「ええ〜」


 朝起きてLINEの履歴を確認して驚いた。私が寝た後も旧校舎の話題は止まず、たちまち他のグループにも広がり、こっそり夜の学校に侵入する者まで現れ、次々と新しい写真がアップされていた。挙句の果てにそれらをニュースサイトに投稿した者が現れ、一晩でネット上の話題となっていたのだ。


「こんなことになるなんて……」


 人だかりの後ろから、私は遠くなった旧校舎を呆然と見つめた。


「紺野さん……」


 背中に声が刺さった。


「どうして……?」


 振り返ると、姉崎さんが震えて立ち尽くしていた。その表情から、もうすべてを知っているのだと分かった。


"青春を捧げた巨大校舎アート!"


 そのネットニュースの見出しは、彼女が忌み嫌った「題名のつけられた青春」そのものだった。


「あ…………」


 声をかける前に、姉崎さんは私に背を向けて駆け出した。空に一滴、光が舞うのが見えた。


 私が姉崎さんに会ったのはこれが最後だ。


※ ※ ※


 それから。


 私は普通に大学を出て、なんとなくOLをやっている。仕事にやりがいは感じるけれど、かつての姉崎さんとの日々に比べれば退屈な毎日だ。


 今や世界的なデザイナーになった彼女から見れば、あの旧校舎も数多くの作品の一つでしかないのかもしれない。けれど私にとっては、ただ一度、他のすべてを忘れて情熱を捧げられた作品だった。


 仕事帰りにふと立ち寄った本屋で、一冊のファッション雑誌が目に入った。表紙に姉崎さんの名前があった。自然と手が伸びた。これまでの半生を振り返るインタビュー記事。……自意識過剰だと自分でも思う。けれど、学生時代のことを尋ねられた彼女は私に話しかけていた。そう思うと涙を止められなかった。


"高校生の頃はほとんど友達も作らず、ひたすら作品を作っていました。だから思い出なんてほとんど無いんです。……ただ、ひとつだけ。今でも思い出すと胸がキュッと苦しくなる出来事があって。心に刻まれたままの傷。今、大人になって振り返ってやっとわかったんです。その傷が……そのほろ苦い気持ちが、私のアルバムに一枚だけ貼られた大切な青春の写真だったんだって。"


-おわり-

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同じ写真のアルバムを 権俵権助(ごんだわら ごんすけ) @GONDAWARA

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