ハイヒール
宇月朋花
第1話 仕事と年頃
生まれてから死ぬまで、靴を履かない人生を送る人はいない。
そんな必要不可欠な商品を、見た目の可愛らしさや美しさだけでなく、歩きやすさや履き心地もプラスして、消費者に届ける事がつぐみの生きがいであり、使命である。
足元が綺麗だと、それだけで気分が上がる。
お気に入りの靴を履くと、良いことがある。
そんな小さな幸せを生み出せる、シューズデザインの仕事を、心から誇りに思っている。
さして運動神経が良いわけでもないのに、無駄に伸びた170センチの背中を無意識に丸めて歩く癖のせいもあって、街を歩いていても、つい見てしまうのは行き交う人々の足元。
店の商品を履いて颯爽とアーケード街を闊歩する女性たちを見るたびに、思わず頬が緩んでしまう。
異性の顔を見るより、履いている靴を見ることに夢中になっている間に、仕事で知り合うめぼしい年頃の男性は綺麗に売り切れになっていた。
そんなわけで、結婚適齢期ど真ん中の今も、仕事が恋人と豪語して、日々たくましく生きている。
もし神様が、日々まじめに慎ましく生きている自分にご褒美として、願い事を何でも叶えてくれるといったら、間違いなく、身長を10センチ低くしてもらう。
もう一つ贅沢をいえるなら、八月一日(ほうづみ)なんていう、奇天烈極まりない苗字を即座に田中か佐藤に変えてもらう。
これまで、この身長と、名前のせいで何度も嫌な目に合ってきた。
学生時代は《あのおっきい変わった名前の子》としてすぐに教師陣にも覚えられてしまい、何かとこき使われたし、就職してからは、名刺交換のたびに、ハチガツ~じゃないですよね、と苦笑いされた。
このふたつが、つぐみのコンプレックスだ。
だが、身長に関しては悪いことばかりでもなかった。
悪目立ちするだけの無駄な高さのおかげで、おしゃれでカラフルなフラットシューズのデザインを幾つも提案出来たし、売れ行きも好調で、社長の信頼も得られた。
おかけで寿退社が続出中の女子メインの職場でも、なんとか肩身の狭い思いをせずにとどまっていられる。
いまだに《大きい人》という響きにはグサグサ胸が痛むけれど、負けるもんかと踏ん張るだけの経験は積んできた。
そこそこ順風満帆に思えた仕事一辺倒の毎日が、急に荒波に飲まれたのは先月のことだ。
★★★
「つぐみさーん、あれ、まだ不調ですか?」
「心からすまないと思ってるのよ、かなちゃん」
現社長が、先代である父親から卸専門の紳士靴会社を譲り受けたときに、女性向けオリジナル商品を扱う会社に路線変更した古いビルは、立ち上げスタッフだったつぐみも意見を出して、内装をカントリー風の造りに改装している。
古い板張りの床はギシギシ鳴って五月蠅いが、ペンキの剥げたデザインの木枠の窓と合わせた、ナチュラルカントリー風の調度品で調えられたオフィスは、お洒落な雰囲気を醸し出していた。
朝日を浴びて仕事が出来るようにと、窓際一面に備え付けられた木目調のデスクに、唯一不似合いなメッシュ張りのリクライニングチェアの上で長い足を窮屈そうに折り曲げて、膝を抱えたままでつぐみは後輩デザイナーをしょげた目で見つめた。
すでにデザイン案提出の期日は過ぎていた。
五年前に再出発した
他社品も扱いつつ、ゆくゆくはオリジナル商品のみを取り扱う店舗として成功することが目標だ。
自宅のマンションに居るより、この仕事部屋にいるほうがずっと落ち着く。
それくらい気に入っている空間なのに、今日はどんよりと空気が重い。
原因はスランプ中の自分のモヤモヤにある。
気遣わしげにこちらを見つめる後輩に、コーヒー入れて、とお願いして、身体を起こす。
愛用のスケッチブックと、馴染みの色鉛筆を手に取ればいつだって心は浮き立って来たのに。
「そんなに気にすること無いですよ?つぐみさん、背高いけど華奢だし」
ポーションをセットして、いい匂いのするコーヒーが注がれる様子を眺めながら、金原がもう飽きるほど聞いてきた慰めの言葉を口にする。
「ありがとうかなちゃん。いいのよ、おっきいのは事実だから。おっきいもんはおっきいのよ」
どれだけ猫背になったところで縮めるのは1、2センチのもんだ。
俯いたって小さくなれない事は知っていた。
それでも小さい女の子に憧れるのだ。
皆と同じように華奢なヒールの素敵な靴を履きたいと思った。
思えば大好きなシンデレラのガラスの靴だって、優美な曲線を描いたヒールだったじゃないか。
仕事場のお馴染みメンバーも、取引先の人間も、つぐみが背が高い事を気にしているのを知っている。
だから、つい、油断していたのだ。
★★★★★
念願の駅前アーケード街への出店が決まった。
社長の次郎丸から話を聞いたときには、泣きそうになった。
地道に出店数を伸ばしてはいたものの、大型店には足元も及ばず、それでもいつか、平日でも人が絶えず行き交う大通りに、お店を出したいと話をしていたのだ。
それと同時に、これまでのカジュアル路線と平行して、アーケード街を通るOL向けのヒールラインナップを新展開しようと提案を受けた。
スニーカーや、サンダルやフラットシューズがメインの売り場の一角に、新規開拓した女性客を呼び込めるきれいめのヒールを並べる。
仕事にも履けて、歩きやすくて、華やかさもあるデザインのパンプスを求めてやってきた女性客が、となりの棚に飾られているフラットシューズやスニーカーを、休日用に購入してくれる可能性もある。
売り上げ拡大も大いに望める。
何より嬉しかったのは、シューズにつけるロゴも含めてシリーズの命名権を貰えたことだ。
現社長の次郎丸とは、立ち上げから二人三脚で歩いてきた信頼がある。
加えて、つぐみの採用を決めた前社長からの期待もある。
絶対に転けるわけにはいかない。
これまで生んできたいくつものデザインの上を行く最高のシリーズを作りたい。
気負えば気負うほど、デザインは浮かばなくなった。
曖昧な新シリーズのイメージだけを金原に伝えて、無理にデザイン案を起こして貰った。
本来なら、コンセプトをきちんと提示して、各々のデザイン作成に移るのが普通だ。
金原は文句ひとつ言わずに、10代から、20代前半に向けた可愛いらしいデザインを上げてきた。
すでに社長のチェックも済んでおり、素材確認の段階まで進んでいる。
先陣を切って走り出すべきつぐみは、デスクの上に開かれたスケッチブックに、色鉛筆で意味のない絵を描くだけの体たらく。
「本気で許さない・・・あの男!」
歯噛みする思いで罵れば、金原が淹れたてのコーヒーにミルクをたっぷり淹れながら苦笑いした。
「確かに、あの言い方はないですよねぇ。あんな不機嫌なつぐみさん、初めて見ました」
「あたしも、あんなに苛立ったのは久しぶりよ」
今思い出しても腸が煮えくり返る。
これまで仕事をしてきた中で、一番腹が立った。
「みんな、カッコいいって騒いでたけど、あんなの大したことないわよ!カッコいいってゆーのは、悸醍(きだい)先生みたいな落ち着いた大人の男にしか使っちゃだめなのよ!かなちゃんまで、店舗スタッフのみんなみたいにキャーキャー言ったりしないでね!?」
人の好みはそれぞれだと思うのだが、どうしてもあの男だけは許せない。
懇願に近い気持ちで告げれば、コーヒーの入ったカップを手にした金原が戻ってきた。
「つぐみさん、サイン会決まってからますます悸醍先生熱上がってますね」
「だってほんとに素敵なのよ!推理小説家なのに、信じられないくらい爽やかで、でもちょっとミステリアスで!」
「アリスの新刊で初めて著者近影見ましたけど、ほんとにモデルみたいにイケメンでしたねー!」
いつもは自作のキャラクターが載っている著者近影に、初めて本人が顔を出した。
担当編集との賭けに負けて嫌々写真を撮ったと、あとがきに書いてあった。
むしろ担当編集を褒め称えたい。
作家デビュー10年を記念して、初めて行われるサイン会は、整理券が30分で無くなるという異例の人気ぶりだった。
半休使って店舗前に並んだ甲斐があった。
才能にあふれる先生をイケメンともてはやすならともかく、見た目はチャラくて、中身は非常識な男だなんて評価するなんて最低最悪だ。
きれいなキャラメル色のコーヒーの表面的を睨みつけていると、ぼんやりと最低最悪男の顔が浮かんだ。
「むかつく!」
つぐみは、気持ちそのままを口にして、勢いよくコーヒーを口に運んだ。
この世界には、二通りの人間がいると思う。
好きになれる人間と、どう頑張っても好きになれない人間。
努力次第で相容れる人間と、天地がひっくり返っても相容れない人間。
相性、とはよく言ったもので、たった一言でピンときて好感を持てるタイプもいれば、顔を見た瞬間から、絶対無理、と確定するタイプもいる。
悲しいかなつぐみは、これまでの人生で”嫌い”が”好き”に変換された事は一度もない。
だから、あの男とは、これから先何があっても一生相容れないと思うし、出来れば二度と一緒の仕事はしたくない。
それが、お互いの為になるとさえ思っている。
次郎丸が新店の設計プランナーに選んだのは、これまでも何店舗か依頼をしてきた馴染みの設計会社だった。
いつもは、特に担当は決めずに店の雰囲気を伝えて後はおまかせにしてある。
が、今回は違った。
次郎丸が行き着けの美容室をプランニングした設計士に、直々に依頼をかけたというのだ。
店の内装も、家具の配置も絶妙で、最高の空間演出だったと、彼を紹介する前から絶賛していた。
次郎丸は、仕事に対する情熱を非常に大切にする人間だ。
そんな彼が期待をかける設計士なら、きっと自分とも気が合うはずだ、そんな風に思って挑んだ新店舗のスタッフとの飲み会で、つぐみの期待は綺麗に裏切られた。
次郎丸夫妻が二次会をした、馴染みのカフェバーの入り口で、出迎えた女性スタッフたちに囲まれている男が挨拶もそこそこに、カウンターテーブルの前で、ドリンクを運んでいるつぐみと金原に目を止める。
「凸凹コンビ」
つぐみの長身と、小柄な金原を見比べて動いた唇の形を、的確に読み取ってしまって後悔する。
「あれ?ヒールラインナップって聞いてたのに、デザイナーさんは、ヒール履かないんですね」
ヒールの金原と並んで、挨拶に向かったつぐみの足元を見るなり、意外そうに彼はそう言った。
ヒールを履いて170センチだと思っていたらしい彼が、タータンチェックのバレエシューズの足元を値踏みするように眺める。
デカい女だな。
その顔に書いてあるのが正確に読み取れた。
もう慣れた視線だけれど、やっぱりいい気はしない。
というか不愉快極まりない。
1センチあるかないかのローヒールで悪かったわね!
これがあたしの標準装備よ!
仕事では可愛いデザインのヒールを生み出せても、どうしても足を入れる事に抵抗があるのだ。
それよりも!!
ヒール云々じゃなく、靴のデザイン誉めろよ!
「この通り大きいんで。初対面からヒール履いて見下ろすのも失礼ですし。初めまして、八月一日と申します」
つっけんどんに言って、名刺を差し出す。
この身長なので、出会った異性の身長が瞬時にだいたいわかってしまう。
目の前の失礼男の身長は目算175センチ程度。
7センチヒールであっさり抜き去る高さだ。
男性は上から目線を嫌う。
思い切り10センチヒールに果敢に挑んで見下してやれば良かった。
そして、同じように名刺を差し出した彼の名前を見た瞬間、即座に勝ったと思った。
物凄く下らないけれど。
「女性から見下ろされることってそうそう無いんで、それも貴重ですよ、初めまして、六車です。
へーえ。これでほうづみって読むんですか。背も高くて、名前も珍しいと、色々目立って大変ですね」
さらりと言われた一言に、青筋が浮かんだ。
なんなの、ほんとにこの男!
「六車って名字も、珍しいと思いますけど!?」
六車壱成。
八月一日もだが、なかなかお目にかからない名前だ。
でも、六より八の方が末広がりで縁起もいいし!!
こんなしょうもないことで自尊心を守ってどうする、とチラリと思うが仕方ない。
好きで大きくなったわけじゃないし、好きで珍しい名字に生まれたわけじゃない。
思春期の真っ只中に、こんなへんな名字は嫌だと母親に泣きついたら、自信たっぷりに
「大丈夫!女の子は結婚すれば名字が変わるから!」
と力説されたが、この調子だとそんな明るい未来は望めそうもない。
この二大コンプレックスの地雷をド派手に踏んだ六車壱成は、完全に敵認識された。
「そうですね、おかけですぐ覚えて貰えて助かってます。そんなに嫌ですか?その名字」
「ええ、いやですね!物凄く!」
ケンカ口調で言い放ったつぐみの不穏な気配を察知したのか、金原が急いで名刺を差し出す。
「私は普通の名字で申しわけないんですが、金原です」
後輩に気を使わせてしまった。
慌ててつぐみは表情を改める。
「申しわけなくないから!かなちゃん!」
「頂戴します。六車です」
六車が笑顔で名刺交換に応じる。
「うちの会社は、社長から名字が独特なんです」
「確かに、次郎丸って珍しいですよね。社長さんが、うちのつぐみってずっと話してたんで、てっきりつぐみってあだ名の方かと思ってました」
「違います!」
鳥好きの父親が鶫から取って付けたこの名前も、余り好きではない。
どうしてこうもこの男はドカドカ地雷を踏み荒らすのか。
少しも心穏やかでいられない。
「つぐみって可愛い名前ですよね!私、響きが好きです!」
必死になって取りなす金原の手前、これ以上不機嫌になるわけにいかない。
つぐみだから黙ってろー!とからかわれた小学生時代が蘇って苦い気持ちが胸に広がる。
「やっと来たか、六車ー待ってたぞー」
生ビール片手に奥のプライベートスペースでマスターと談笑していた次郎丸が、豪快な笑顔と共に、190センチ近い逞しい身体を揺らして歩いてくる。
靴屋の社長だとはどう考えても思えない。
屈強な戦士を彷彿とさせる日に焼けた笑顔は、多少の難題をあっさり飲み込んでしまう懐の広さを伺わせる。
実際、彼のその豪胆で快活な性格のおかげで何度も助けられてきた。
頼りがいにかけては、彼の右に出る者はいないと思う。
つぐみが素直に見上げる事の出来る数少ない異性の一人だ。
愛妻いわく、暑苦しいと称される薄い皺の刻まれた笑顔を向けて六車を迎えた次郎丸は、細身の彼の肩をバンバン遠慮なく叩いた。
現在の本社ビルの改装時から世話になっている設計事務所なので、六車とも旧知の仲らしい。
分厚い掌で叩かれると、大抵の人間はぎょっとなるのだが、六車は苦笑いに留めた。
次郎丸の扱いに慣れている証拠だ。
そのことが、さらにつぐみの苛立ちを募らせる。
「次郎丸さん、本日はお招きありがとうございます」
涼やかな面に、柔和な笑みを浮かべる六車を、斜め前から見つめながら、冷ややかな視線を向ける。
もうここにいる必要はないだろう。
名刺交換も終わったし、必要最低限の礼儀は尽くしたはずだ。
馴染みのスタッフたちの元へ取って帰そうとしたつぐみの腕を、次郎丸の太い腕が捕まえた。
「ラフデザインな、見せて貰った」
「頂いた意見は出来るだけ組み込んだつもりなんですが」
「俺としては及第点だが、なんせ今回の店づくりはつぐみに一任するつもりなんでな。
うちの女王様の意見を訊かんことにはGOサインが出せねぇんだよ」
神戸から始まった店舗は、大阪、京都に加え、名古屋と福岡にも
出店している。
新店舗を開店させるたび、各店の店長に店の内装イメージを一任してきた。
だが、今回は新シリーズのお披露目も兼ねた新店オープンだ。
場所は神戸一の繁華街。
次郎丸は、長年片腕として尽力してきたつぐみに、今回の店の内装も全て任せてくれた。
それだけ信頼されているのだと思うと、一瞬だけ背筋が伸びる。
が、長身を少しでも小さく見せようと、猫背がすっかり板についており、すぐに背中が丸くなる。
それにしたって、その呼び方はいかがなものか。
「社長、その呼び方やめてください、それに、デザイン案なんて何も聞いてませんけど?」
出荷業務を担当している、先代の頃から勤めている古株の浅野は、名目上部長、という役職だが、殆ど倉庫に引きこもっているので、その職務を半分も全うしていない。
パソコンもメールも使えない、旧世代の重鎮だが、靴に関する知識と、在庫把握能力は天下一品だ。
なので、次の役職であるマネージャーを担っているつぐみが、実質上のナンバー2ということになる。
商談やら、地元の振興会めぐりでほぼ終日不在になる次郎丸に変わって、各店舗との連絡係とビル内の雑務も纏めて引き受けているつぐみは、確かに女王様で間違いなかった。
が、胸を張れるほど立派な女ではない。
険のある物言いを承知で言い返せるのは、気心知れた次郎丸相手だからだ。
社長相手にここまでズケズケものを言う社員も珍しいだろう。
次郎丸が目に入れても痛くない程に溺愛している愛妻の”うちのこーちゃん、つぐみちゃんにはほんとに頭上がらないから”の口癖のせいもあって、最近入って来た新人スタッフには、本物の女王様と思われている節もあった。
いちいち訂正するのも面倒なので、流しているが。
「いやー、悪い悪い。俺のカバンの中だ」
「何日前から入りっぱなしなんですか!?」
老舗高級ブランドのカバンを、ずた袋のようにぞんざいに扱う次郎丸の生態は、ズボラの一言に尽きる。
入籍前には、当時はまだ恋人だった愛妻から受け取った婚姻届けを三か月間カバンに入れっぱなしだったという逸話まであった。
やっぱり、企画会議と新人面接は延期にして、最初の打ち合わせに顔を出せばよかった!!
立て込んでいたスケジュールを変更することが出来ずに、馴染みの設計事務所だし、と次郎丸に任せてしまった事を今さらながらに後悔する。
これまでの、アメリカンカントリーをメインにした、温かみのある木目調のインテリアで統一された店内とは、少しイメージを変えて、生成りの柔らかさをプラスした、女性らしいイメージが良い、とだけ次郎丸に伝えていた。
実際、どんな提案がなされたのかまだ確認できていない。
いちから手を加える、まっさらな初めての店舗。
期待しないわけがない。
物凄く楽しみでもあるが、目の前の六車の発案と思うと、少しだけ気持ちが暗くなった。
これから新店オープンに向けて、力を合わせてやっていかなくてはいけない相手。
けれど、どう好意的に見ても、気が合いそうにない。
「いやーすまんすまん!メールはな、ちゃんとプリントアウトしたんだよ。お前が会議やら店舗手伝いやらでいない事が多いから、どっかで会ったタイミングで打ち合わせしたくて、持ち歩いてたんだ」
どうだ、偉いだろ!?と胸を張る次郎丸に、情けないやら呆れるやらで複雑な視線を向けつつ、つぐみはそれにしたってとぼやいた。
「でも、肝心のあたしに見せてないと意味ないでしょ・・・転送しといてくださいよ。もー・・ほんっとにズボラなんだから、社長は」
「そうカッカするな!怒ると眉間の皺が増えるぞー?真美子が通販で買ってたアンチエイジングのなんとかクリーム今度持ってきてやるから!」
な、機嫌直せ!とにこにこと悪びれない笑みを向けてくる次郎丸。
「余計なお世話です!!」
「そういうなよー。二十代の頃にもっと色々やっとけば!ってこないだ必死になって深夜通販見てたぞ、あいつ」
「真美子さんはいくつになっても可愛いから、そんなの不要って言ってあげてください」
「ああ、もう言ってる」
「・・・失礼しました」
平然と惚気られてつぐみは、げっそりと肩を落とした。
彼の良いところは、心底人が良いところだ。
この笑顔と、温厚な人柄に触れれば、大抵の事は大目に見てしまう。
入社したばかりの頃は、二代目修行を終えたばかりの次郎丸の破天荒さに辟易したものだったが、もう慣れた。
今回は、彼の性格を理解していながら的確にフォローしていなかった自分が悪い。
これまでも、新店オープンの際は、社長と設計士と店長が主体となって動いていた。
今回も同じように、任せていればよい、なんて能天気な事を考えていた自分の甘さに腹が立つ。
新シリーズのイメージはまだ何も固まっていない。
それを決める事が、店のオープンに向けた第一歩だと、それ以外の内容を社長に任せきりにしていた自分の責任だ。
ふたりのやり取りを黙って見ていた六車が、殆ど変らない目線でつぐみを見つめた。
「後で、つぐみさんのアドレスにもデータを送らせて貰いますね」
「はい・・・っは、名前!?」
それはすごく助かると頷きかけた頭が、違和感を覚えて止まる。
「次郎丸さんと打ち合わせの時は、そう呼ばせて貰ってたんで、マズイですか?八月一日って、呼びにくいし」
呼びにくくてもなんでも呼べよ!
なんで初対面のあんたに名前呼ばれなきゃなんないのよ!
仕事場のメンバーがつぐみさん、と呼ぶのは構わないが、仕事で関わる異性から、唐突に呼ばれたのは初めてで、困惑もあった。
思い切り眉根を寄せたつぐみのパーマを当てた肩までの髪を遠慮なく撫でて、次郎丸がにかっと笑って見せた。
「なんだー思春期の子供みたいな顔して。六車が噂通りのいい男だから緊張してんのか、つぐみー」
がしがしと分厚い掌で頭を撫でられるのは、今に始まった事じゃない。
28歳のいい年した大人の女にする仕草ではないと思うが、これが定番なのだ。
新入社員の頃の初々しいつぐみを知っているからこそできる所作だった。
これをされると、噛みつくのも逆に子供みたいで、何も言い返せなくなってしまう。
ここに、彼の妻、真美子がいると、女の子に乱暴しないの!と顔を顰めて、すぐにつぐみの髪を綺麗に直してくれる。
「緊張なんて別にしてませんし、仕事するのに顔なんて関係ありません。欲しいのは能力だけですから!!名前は、好きに呼んでくださって結構です」
捲し立てる様に言い切って、襲撃の去った髪を手櫛で整える。
パーマを当てたのは、手入れが楽だから。
おかげでこうして乱れてもさして気にならない。
じわじわと押し寄せてくる、居心地の悪さに視線を逸らした。
いつになく喧嘩腰のつぐみに、次郎丸が怪訝な顔になる。
が、口を開く前に、次郎丸の旧友であり会社の経理関係の補助を依頼している会計事務所の中島が、店の入り口に顔を覗かせた。
「おおい、中島!」
手を上げた次郎丸がその場を離れる。
これ以上気まずい空気になりたくはない。
それじゃあ、とつぐみも彼の後を追おうと足を踏み出した。
「思った事がぜーんぶ、顔に出てますよ」
すれ違いざま、楽しそうに六車が言った。
ぎろりと視線を返せば、目を細めて微笑む彼と視線がぶつかる。
「おっきいのに、子供みたいですね、あんた」
「っ!」
煩い!と怒鳴らなかったのは、視界の端に中島と次郎丸の姿が入ったからだ。
メール確認して下さいね、と念押しする彼の背中を振り切るように、つぐみは店の入口へと足早に向かった。
★★★★★
そんな最悪の出会いからこちら、ただでさえ進んでいなかったデザイン作成は、さらに進捗を遅めている。
可愛いデザインを思い描こうとする度に、あのムカつく男の顔が浮かぶのだ。
「おっきいってなによ!おっきいって!」
第一印象は変えられない。
どう頑張ったって背を縮める事は出来ないのだから。
ならば、せめて少しでも華奢に見える様に努力しようと、細身に見える洋服を選んで、暴飲暴食を控えて必死になってスリムになろうと努力しているのだ。
モデルのようにとまではいわない。
ただの”大きい人”というイメージだけは、植えつけたくなかった。
つぐみが憧れる女性は、標準体型の、どこにでもいる普通の女の子だ。
人込みにあっさり紛れてしまうような、平凡な女性に憧れる。
女の子はつま先立ちになって、頑張って物を取る位のかわいらしさが望ましい。
思わず隣から手を差し伸べたくなるような、華奢で小さな存在であるべきなのだ。
そういう外見をしていたなら、きっともっと別の視点で物事が見られたはず。
素敵な出会いだって、今の数倍はあっただろう。
こんなあたしを小さい子扱いしてくれるのなんて、社長と中島さんと、部活仲間位もんよ・・・
青春時代を共に過ごしたバレー仲間は、半分がつぐみと同じ位か、少し背が高かった。
小さいもん順にならぶと、前から数えた方が早い部活内整列が好きだったあの頃が懐かしい。
頬杖を突いて、ミントグリーンで塗られた窓枠に嵌めこまれたガラスの上で揺れるひまわりを見つめる。
つぐみにとっての禁句である”おっきい”を平然と言い放った六車の、無差別攻撃にささくれだった心をほんわかさせてくれた、次郎丸の旧友である中島が、お土産にと持ってきた窓用のインテリアシールだ。
雑居ビルの立ち並ぶ古びた通りの一角に本社があるせいで、あまり眺めが良くないデザイン室。
少しでも彩りを添えられれば、という中島の優しい気遣いが胸に沁みる。
思えば、中島は新入社員のつぐみと最初に会った時から、一度もつぐみの身長について触れた事が無い。
いつも猫背で歩く姿を見ていたせいもあるのだろうが、次郎丸ほどではないが、180センチはある長身のせいで、つぐみの大きさが気にならなかっただけかもしれない。
どんな理由であれ、大きいという自覚を持たずにいられる彼の前では、次郎丸の前と同様に縮こまらずに居られる。
”アメリア”に入社した新人は、仕事を覚えるのと同様に、つぐみの前で身長と苗字の話はタブーという事を先輩から教えられるので、今回の奇襲は本当に堪えた。
そんな事で、さらに描けなくなる自分にも。
何が悔しいって、あの男がもう少し背が低かったら遠慮なく見下ろして”チビ”と言ってやれたのに、僅かでも確実につぐみよりも背が高かったのだ。
だしぬけに見舞われたお子ちゃま発言に、ぐうのねも出ないほど痛めつけられて怒りと悔しさで沸騰しまくった頭は、その日の夜なかなか寝付けない位混沌としていた。
他の人にしたら、大した事なんて無いのかもしれない。
背が高い女性はこの世界にごまんといる。
なんならつぐみより大きい女性だって山ほどいるだろう。
苗字の事にしたって、然り。
それでも、つぐみはこの身長も苗字もどうしても好きになれない。
”えーっと、じゃあこれを誰かに・・・じゃあ、はちがつ!じゃなくて、八月一日”
と出席簿で頭一つ突き抜けている文字数のせいで、指名される事多々。
”はぐれそうになったら、つぐみちゃん目印ね!おっきくて目立つから!”
と乙女のハートを突き刺す言葉で有難くない役目を仰せつかること多々。
挙句の果てが気になる男子に
”だってなんか、八月一日って、デカいし逞しい感じするだろ?”
と言い切られる始末。
最近に至っては、娘の恋バナをとんと聞かない母親が心配して寄越した見合い相手が
”僕は小柄なので、背の高い子供がほしくて”
なんて切り出されて、情けなくて涙も出なかった。
声を大にして言おう。
大きくて得した事なんて、一度だってございません。
大は小を兼ねるっていうのは、女の子には当てはまらないのだ。
悲しい事に。
ええこの大きさのせいで、フレアスカートも、リボンもフリルも縁がありませんでしたよ。
膝丈スカートはミニスカになるし、パフスリーブはごつく見えるし。
この世の可愛いと思えるものは、全部手の届かない場所にあった。
それでも”おっきいねぇ”と言われなければ、気にせずには済む。
済んでいた、のに。
色鉛筆を箱に戻して、閉じていたノートパソコン開く。
デスクトップに保存していたPDFを開くと、つぐみはぎゅっと目を閉じた。
隣から画面を覗き込んだ金原が、素敵!と素直な感想を口にした。
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