第十章「うつろな仮面」-004

 正直、何か変化があるとは思ってもいなかった。なにしろグラウンドに文字を書いてから大して時間は経過していないのだ。


 もし変化があるとしたら、俺のメッセージに答えている何者かは、よほどの暇人と思える。


 だから何も変化が無い、あるいは誰かが勝手に消してない事を確認して、校舎へ戻るつもりだったのだ。もちろん誰かが消していれば、また新しいメッセージを書くだけだ。


 メッセージのある場所へ近づくにつれて、違和感に気づいた。徐々に足を速める。


 そんな馬鹿な!


 グラウンドのメッセージには変化があったのだ。


『ヒトなのか?』


 俺はグラウンドにそんなメッセージを残した。前回、メッセージを残した時は、俺が残した文字の一部を消して、何者かが新たに書き加えていた。


 今回も同じだ。


 俺が残したメッセージの後半が消されて書き足されていた。


『ヒトではない』


 なんだ、こりゃ? ヒトでは無い? 文字通りに解釈すると、これを書いた何者かは、『貴方は人間なのか?』という俺の質問に、『私は人間では無い』と答えた事になる。


 もっとも俺の質問を向こうが適切に受け取り、真面目に解答したという保証も無い。なんとなくからかわれているような雰囲気も受け取れる。


 俺があれこれ質問してくるものだから、受け狙いの解答を書いてみたというのも充分にありそうな事だ。


 そういえば……。


 マグリットの作品に『パイプの絵が描いてあり、その下に「これはパイプではない」という文章が書かれた』ものがあった。


 絵はどう見てもパイプなのに、文字でパイプではないと説明されているのだ。


 色々な解釈が出来る。


 絵に描かれたパイプは、文字で書かれたようにパイプではないのかも知れない。


 あるいは、絵のパイプと「これはパイプではない」と書かれた文章は、まったく別のもので、たまたま一枚の画面に収まっているだけなのかも知れない。


 また『これは現実のパイプで無くあくまで絵で有り、それ故に「これはパイプではない」』のかも知れない。


 俺が美術好きだから、マグリットとの連想で深読みしすぎているのだろうけど、何か似たような問題点を感じる。


 ヒトなのかという問いに、ヒトでは無いと答えるのは、ヒトでは無いと無理そうだ。ではヒトがヒトではないと返答する状態はどういう事なのかという点だ。


 やはり『人間扱いされていない』というが一番ありそうだ。しかし人間扱いされていない、自由がないというのなら、俺のメッセージにこまめに反応したりするだろうか。


 もう一つ、人間は人間なのだが、なにかしら有り様が違う。そんな状態は考えられないだろうか。


 つまり『見捨てられた町』の『学園』に居たのような存在だ。


 おそらくはそこに居るにも拘わらず、俺たちは見る事も触る事も、認識する事すら出来ない存在。


『見捨てられた町』の『学園』ではどうなっていたのか分からないが、もしかする山の中の『学園』にも、と同じような存在が居るとして。ここのには、俺たちの存在が見える、確認できる。そしてチャンスがあればコミュニケーションを取りたいと考えているのかも知れない。


 つまり俺たちと似て異なる存在だからこそ、『ヒトなのか?』という俺の問いに対して『ヒトではない』と答えたのかも知れない。


 要するに俺たちとは違うという事だ。


 いやいや、待て待て。そこまで考えるのは早計というものだ。誰かの悪戯というのも考えられるけど……。


 俺は慎重に周囲を見回した。悪戯ならそれをやった張本人がいるはずだ。どこかに隠れて、俺が困惑しているのを見て楽しんでいるのかも知れない。

 もしかすると、そろそろ俺の死角から誰かがそしらぬ顔で出て来て「なに考え込んでいるんだよ」と声を掛けてくるかも知れない。そして「これは俺が書いたんだ」と種明かしして、がっかり俺の顔を楽しもうとしているのかも知れない。

 悪戯というのはそう言うものだ。ただ何かをやるだけでは終わらない。種明かしをして、相手の反応を見るまでが悪戯だ。


 しかしそんな気配はない。遠くでサッカーをやっている生徒も俺に気づいている様子はないし、植え込みや校舎の影から俺に近寄ってくる生徒も居そうに無い。

 例の『赤い気球』のところにも生徒は居ない。


 悪戯だとしても中途半端だ。


 俺はスニーカーの先で、グラウンドに残っていたメッセージを消した。


 消した後で、また何か書くかどうか考え込む。書くにしても何を書いたらいいんだ。


 これまで向こうは、俺のメッセージを修正するだけで、長文の返答はしていない。出来ないのか、やらないのか。俺のメッセージを読んで書き足す事は出来るのだから、もっと積極的に発言する事も可能なはずだ。


 そうした方が向こうの手がかりを得られるかも知れない。向こうの発言を引き出すような問いか。それに余り長い問いにも出来ない。グラウンドの砂をどかして書くのだから、長い文章は書けない。


 そうか!


 俺は一つ思い浮かんだ。これならいいだろう。ここでメッセージをやりとりしているのだから向こうにも俺の真意は伝わるはずだし、それ以外の誰かがこれを見てもそれほど変だと思わない。わざわざ消したりしないはずだ。


 俺はそう考えて、その文字をグラウンドに書いた。


『Q.』


 それだけだ。『Q』は言うまでも無い。「Questionクエスチョン」の頭文字だ。『問い』という訳だ。


 何か俺に訊きたい事があれば書けとも受け取れるし、俺からの問いで自由に返答しろとも捉えるのも自由だ。


 いずれにせよ、向こうに下駄を預けた格好になるのだが、要するに好きに書いてくれという意味だ。


 あとはそのニュアンスを的確に受け取ってくれるといいのだけれども。


 それを書いた後も、俺はしばらくそこに残った。俺の目の前でメッセージに何か変化が起きないかと期待したのだ。


 しかししばらく待っても何の変化もない。やはり見られてると駄目なのかも知れない。


 俺は校舎の方へ戻る事にした。途中、サッカーをやってる生徒たちの方へ歩み寄り声を掛けた。


「なぁ、グラウンドのあの辺りに誰かいなかったか?」


 念の為にそう訊ねてみた。


 サッカーをやっていた困惑したように顔を見合わせてから答えた。


「さぁなぁ」


「気づかなかったよ。誰か居たのか?」


 まったく関心が無かったようだ。そうは言うものの、生徒しかいない『学園』だ。見慣れぬ風体の人間が居たら即座に誰かが気づいたはずだ。


 そうなると少なくとも、明らかに生徒とは違う存在が、俺のメッセージに返答したという可能性は排除しても良いだろう。


「いや、何でも無いんだ。有り難う」


 なまじメッセージを書いた事を伝えると、それこそ悪戯される可能性がある。俺はその件は伏せて、礼を言うと校舎へ戻った。


 さて、次は管理委員選挙の件だ。


 メッセージの件を解決しようとなると、やはり管理委員になる事が一番手っ取り早い。1103ヒトミからは反対されたけど、やはり俺は自分で解決する手段が欲しい。


「よし!」


 口に出してそう言い、決心を固めた。あとは決心の鈍らぬうちに、現管理委員長の4761を捜して選挙に出る意向を伝えるだけだ。

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