第一章「選ばれた場所」-004

 少しずつ生徒たちの会話が耳に入ってくる距離になっていた。話しているのは日本語のようだ。頭のどこかに、そもそもここが本当に日本なのかも分からないという不安があったのは確かだ。


 話している内容は、ごくありきたりの学生の会話。


「なにふざけてんの!」

「やばいって、やばいやばい……!!」

「あー、腹減った」

「飯食いに行く?」

「あはははは!」


 ごく普通の、中学生か高校生くらいの会話だ。


 話しかけてみようかとちょっと迷った。しかし止めにした。そもそも何て話しかける? 


『すいません、俺、ちょっと記憶喪失なんですけど。ここどこですか?』


 そんな事をいきなり言われたら、さすがに相手も気味悪がるだろう。じゃあ他に話のきっかけは……。


 うん、つかめない。何から切り出したものかも分からない。


 この学校、山の中にあるけど、どうして? 学校から出たいんだけど、校門はどこ?


 不自然だ。不自然すぎる……! 警察を呼ばれかねない。


 取りあえず俺は他の生徒たちをスルーする事にした。向こうから話しかけてくるならともかく、今は無視した方が良さそうだ。


 ようやく校舎に取り付けられた時計の時刻が見える位置まで来た。時刻は4時45分……、いや46分くらいか。今は夕方だから16時46分になるはずだ。


 俺は一旦、立ち止まると振り返って夕日の方を見た。あまり日が落ちた印象は無い。最初に門扉の前で気づいてからどれくらい経っただろう。まだ30分は経っていないはずだ。スマホはもちろん、腕時計もないので、時間がさっぱり分からないのは困りものだな。


 夕方、16時46分となると、もうじき暗くなってしまうだろう。それまで自宅へ帰る手段か、あるいはどこか泊まれる場所を確保しておかないと、下手すれば野宿だ。


 校舎は時計の真下に大きな入り口がある。その手前には階段とスロープ。そこから生徒たちは校舎に出入りしていた。ここまで近づいて初めて分かったのだが、生徒たちは男女共に首からIDカードのようなものを下げていた。それが紙にも書いてあった身分証明書なのだろう。


 それがロッカーに入っているという事か。それがないと色々と不都合があるのだろうな。


 俺はそう考え、紙に書いてあった通り、校舎に入った。記憶を失う前の俺が書いた紙に寄ると、校舎に入ると左右にロッカールームがある。向かって左側のロッカールームに入り、まずは自分の生徒番号と同じロッカーを探せと言うことだ。


 校舎の中には当然、外よりも生徒たちがいる。しかし生徒でごった返しているという風でも無い。閑散としていない程度にいるという感じだ。


 そして俺もそろそろそれに気づかざる得なかった。


 まず第一に数字以外の文字がほとんど使われていない。ここまで来る間、道の左右にあった建物には、その用途を示すような看板は無かった。そりゃあ生徒や教師なら看板が無くても支障はないだろうが、部外者が来たら迷う事は必至だ。


 そしてその教師! そうだ、教師らしき大人の姿もまったく見ない。まだ日が残っている時間帯だ。教師だって生徒がいる間に帰宅したりはしないだろう。

 まったく姿が見えないのも不自然だ。


 紙に書かれた通り、向かって左側のロッカールームに入っても、教師や大人の姿はなかった。


 ロッカールールといってもかなり広い。レジャープールや大きめの体育館の更衣室といった方が印象は近い。そして各ロッカーの前にはカーテンで仕切れるようになっており、ずらりと試着室が並んでいるような感じだ。


 向かって左側は男子生徒用なのか、中には男子しかいないようだ。俺は紙に書かれた通り、自分の番号『0696』のロッカーを探したが、これがかなり手間取った。


 ロッカー本体やカーテンにも大きく番号が書いてあるけど、これがまたなぜか順不同なのだ。『0581』の次が『7898』だったりと、まったく脈絡の無い並び方で、俺は自分の『0696』を見つけるのに、ずいぶんと時間を食ってしまった。


 何人かの男子生徒からいぶかしげな視線を向けられたものの、ずいぶんと奥まった所で、俺はようやく自分の番号『0696』のロッカーを見つけた。


 ロッカーそのものは自分の身体の幅とほぼ同じか、ちょっと広いくらいか。まぁまぁ普通のサイズだろう。

 錠はかかっていたが、ポケットに入っていた鍵で簡単に開いた。


 中には教科書らしき本が十数冊、そして制服とワイシャツがかかっていた。上の棚には換えの下着や靴下。ハンカチ、ティッシュなど身の回りの品。室内履きも入っていたので、念のため、それに履き替えた。


 案の定、身分証明書もそこに置いてあった。『0696』の数字と、生徒手帳と同じ俺の顔写真。後はまた二次元バーコードのような、粗いドット模様が印刷されているだけ。裏面には何も書いていない。紐が付いているので、取りあえず他の生徒と同じように首から提げてみた。


 そしてロッカーの下の棚には、何か厚ぼったい布製の袋がたたまれて押し込まれていた。なんだ、こりゃ。寝袋か? しかしなんで他の生活用品と一緒に寝袋が……? 学校に泊まれという事か? いやいや、そんな社畜じゃあるまいし。大体、中高生を学校に泊まらせるのは、色々とまずいだろう。


 つり下げられている替えの制服やワイシャツの向こうに、何かが貼ってあるのが見えた。俺は服をどかしてそれを見えるようにした。

 大した事は書いていなかった。


『洗濯するものは、校舎入り口から左手奥のランドリー用リフトに入れてください。替えの服は服は洗濯済みリフトから取ってください。サイズ等の変更を希望する際は、リフト横のタグ入れから希望するタグを取って洗濯物と一緒に入れてください』


 手書きでは無い。昔のワープロのようなドットの粗い印刷だ。しかし校舎に入ってから初めて見る文字、文章だ。そしてこの張り紙もラミネート加工をした上で、ロッカーの奥に貼ってあった。


 そういえば入って左側、こちらのロッカールームには男子生徒の姿しか無い。こちらが男子用、反対側つまり入って右側が女子用という事になるのだろうが、考えてみれば入り口にも『男子』『女子』の表示は無かった。


 他に何か無いかとロッカーを探ってみたが、これ以上、有益な情報はなさそうだ。結局、ロッカーに寄らせたのは、身分証明書を受け取る為だけか。


 俺は自分のロッカーから離れたが、ロッカールームを出る前に『左手奥にあるランドリー用リフト』というのが気になり、そちらを覗いてみる事にした。


 奥には数人の男子生徒がおり、その前には業務用らしき小型エレベーターが二基あった。傍らにはプラスチック製の脱衣籠。どうやらこれに洗濯物を入れて小型エレベーター、つまりリフトに乗せてくれという事のようだ。


 何人かの生徒が衣類の入った脱衣籠をリフトに放り込む。

『リフトが一杯になったらボタンを押してリフトを動かしてください』。これも昔のワープロみたいなドットの粗い印刷物。


 扉の側にそんな張り紙がしてある所を見ると、専門の係員がいたり、あるいは自動で動くタイプではなさそうだ。


 もう一基の小型エレベーターの扉が開いた。どうやらそちらからは洗濯済みの衣服が戻ってくるらしい。衣服が入った脱衣籠には、生徒番号が記されたタグが付いており、生徒はそれを見て自分のものかどうかを判別するようだ。


 自分の衣服を探している生徒たちを見ながら、俺はふと疑問に思った。


 最初はあくまで学校がサービスでやってる事だと思っていた。運動部のユニフォームなどを洗濯してくれる程度だろうと。

 しかしどうも制服から下着まで全部洗濯してくれるようだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る