5話「牛丼」





   5話「牛丼」





 「はい、どうぞ」

 「これは、なんですか?」

 「花ちゃん、敬語になってるよ」

 「あ………、これはなに?」

 「お腹空いたでしょ?牛丼だよ」

 「こ、これが……牛丼」



 花が持ってきた宝石の瞳のテディベアを調べる前に、凛は「すぐ戻ってくるから待ってて」と店を出た。

 何か用事でもあるのだろうか?と花は不思議に思いつつも、すっかりお気に入りになったアイスティーのおかわりをいただきながら待つことにした。その間、店に来客が訪れたらどうしようと思ったが、そんな不安は早々になくなる。10分もしないうちに凛が店に戻って来たのだ。

 手には、プラスティックの容器の何かをビニール袋に入れて持っていた。

 それをすぐに花の目の前のテーブルの上に置いた。すると、食欲をそそる肉とタレの香が鼻に入ってくる。その香は、空腹を思い出させるのには十分なもので、相手には聞こえないほど小さなお腹の音がなりそうだった。



 「え、もしかして、牛丼食べた事ない?」

 「あ、えっと、その恥ずかしいけど、ない……」

 「そっか。勿体ないなー、こんなにおいしいのに。これから沢山食べてね。あ、大盛りの方がよかった?」

 「そんなに食べれない」

 「それもそうだね。こっちがみそ汁ね。腹が減っては戦も出来ぬ、だからね。調べものを始める前に腹ごしらえね」



 そう言うと凛は手を合わせて「いただきます」とあいさつをすると、すぐに牛丼を食べ始めた。湯気が出ているそれを、凛はとても美味しそうに食べ始める。それを見てしまえば、花も我慢することは出来ない。今は普段ならば夕食を食べている時間をとうに過ぎている。お腹は空いている。



 「い、いただきます」



 先程凛に話したように、花は牛丼を食べた事が1度もなかった。

 牛丼というものがこの世にあり、安価ですぐに食べられるというのはニュースやテレビのCMなどで見た事があった。けれど、家族の前で食べてみたいなど口が裂けても言えなかったし、だからと言って一人でこっそり店に行くのも恥ずかしかった。それに幼い頃の自分は牛丼を食べる人を小ばかにしていたように思う。そんな安い所で、会話も楽しまずにかきこむように食事をして何が楽しいのだろうか。おいしいわけがないじゃないか、と。

 けれど、今はそれが間違えだとわかる。

 安くても良いものはいいし、美味しいものはおいしいのだ。それは人それぞれの価値観もあるだろうし、好みもあるだろう。それに、仕事などで急いで食べなければいけない人だっている。疲れ果てて早く食べたい人だって。

 自分の当たり前で決めつけるのはよくない。それを知る事が出来たのはつい最近の事だ。自分でも、世間知らずだと恥ずかしい。


 牛丼ひとつで、そんな事まで考える人間などいるのだろうか。

 と、思いつつ、花は小さく口を開けて汁が沢山ついた牛肉と少量の白米を舌の上に乗せる。

 その瞬間に、「んッ」と小さな声が漏れてしまう。声が出そうになったが何とか堪えて全て飲み込んでから口を開ける。



 「おいしいです!牛丼、おいしいッ!」

 「そっか、それはよかったよ。おいしいよね、牛丼」

 「うん。これってどこにあるの?」

 「ふふふ、どこにでもあるけど、この店の近くにあるんだ」

 「私の家の近くにもあるかしら」

 「あるんじゃないかな。でも、まずは冷めないうちに召し上がれ」

 「そ、そうだね」



 「牛丼でこんなに喜んでくれるなんてね」と花の食べる姿を嬉しそうに見つめる凛だったが、花は牛丼の味を噛みしめるのに必死になっておりそれどころではなかった。

 彼にはいい事を教えてもらった。川に飛び込んだかいがあったな、なんて思ってしまう。


 そんな時、フッと視界の端で何かが動いたのに気づき、花は顔を上げた。



 「今、そのクマ動きました?」

 「え?」


 

 そのクマというのは、花が川から救い上げた凛のテディベアだった。

 今は、ソファの分厚いタオルを弾き、そこに座っている。はずだった。先ほどまでは、確かに凛と並んで座っていたのだ。だが、今はというとそのテディベアは後ろに倒れて、まるで寝ているようだった。

 凛は食事をしていたはずなのに、クマにぶつかったりはしていない。と、なるとそのクマが自然に倒れた事になる。どうしてだろうか?と、不思議そうにそれをそれを見つめる。水を含んで、バランスが悪くなったのだろうか。



 「きっと眠くなったんじゃないかな。ほら、川に落ちてしまって溺れかけたわけだし」

 「………」

 「ちょっと寝かせておいてあげよう」

 「……凛さんは、ぬいぐるみで遊ぶのも好きなんですね」

 「え、ちょっと待って。別におままごととかしてるわけじゃないよ。作ったり服着せたりするのは好きだけど」

 「私、男女差別も大人だからという区別もしない人なので大丈夫で」

 「いや、絶対誤解してるよね?」

 「大丈夫」

 「大丈夫じゃないよ。………花ちゃんは、強いなー」



 苦笑しながら花を見つめる凛は、とても楽しそうだった。そんな彼を見ている自分も笑っている事に気が付いた。

 そこでハッとする。

 こんなにも人と話て自然と笑えたのはいつぶりだろうか。

 自分でも気づかないうちに楽しいと思ってしまっていた。



 川からぬいぐるみを落とす最低の男だと思っていたはずなのに。

 そこから数時間で彼を見る目が変わってきている。


 本当は悪い人ではない?



 けれど、花はその感情をそれ以上考えないようにする事にした。

 初めて会った人に優しくするのは当たり前だろう。たった数時間なのに、信じられる要素などないではないか。温かいお風呂とご飯を貰っただけで懐いてはダメだ。

 花は少し気が緩んでしまっていた事に気付き、改めて背筋を伸ばして座り直した。

 まだ名前と職業しか知らない相手だ。

 さっさと依頼を済ませてもらって、この店から出ていこう。


 依頼が終われば、もう関わる事もない人なのだから。



 そう思い、花は牛丼を食べる手を早めたのだった。






 夕食を食べ終わった後、凛は住居スペースから大量のオーダー表を持ってきた。

 ぶ厚いファイルが何冊もある。そして、どれも大分古いものだと一目でわかった。



 「これ全部がオーダーした時のメモなの?」

 「そうだな。祖父が引退したのが10年前だから、それ以降のものになるけど。いつごろオーダーしたのかわからないから、最後にしたものからさかのぼっていこうと思ってる」

 「凛さんの叔父さんは長い間お仕事されていたんでしょ?すごい数なんじゃ」

 「そうだね。夜中になる可能性があるかな」

 「………」



 きっと何十年もの年月、テディベアを作り続けていたはずだ。そうなると依頼の数も増えているはずだ。



 「花ちゃんのお父さんが関係しているとなると、年代的には絞れてくると思うから。一度家に帰って、明日にもう1度来たらいいんじゃないから。服は乾かないと思うから、その服で帰っていいよ。タクシーに乗れば大丈夫だじゃにかな」

 「ここで待ってる」

 「でも、夜中になっちゃうよ?家族も心配するだろうし」

 「一人暮らしだから大丈夫。それに、早く結果知りたいし」

 「わかった。じゃあ、ソファで待ってて。話しながらなら、俺も眠くならないから付き合って貰おうかな」

 「うん」



 どうして、そんな事を言ってしまったのか。

 花は自分でもよくわからなかった。

 疲れてしまったから、動きたくなくなった?美味しいごはんで安心した?久しぶりに笑えたから?

 この場所を居心地がいい、なんて思ってしまったから?



 普段の花だったら家に帰っていたはずだ。

 自分の気持ちがわからない。



 全てはこの男のせいだ。


 

 優しく微笑む凛を見て、どんな顔をすればいいのかわからず視線を逸らす。

 と、ソファにはいつの間にか起きたのか凛のテディベアがこちらを向いて座っていた。



 「………おはよう………」



 凛には聞こえないぐらいの声でそう挨拶したのは、花と濡れたテディベアとの秘密。



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