布団が吹っ飛んだ結果団地妻と関係を持っちゃった話

間貫頓馬(まぬきとんま)

布団が吹っ飛んだ結果団地妻と関係を持っちゃった話

 ふとんがふっとんだ。


 言葉としては聞き飽きた、駄洒落の王道中の王道ともいえるその現象は、実際に目の当たりにすると非常に焦る。嘘じゃん。


 ふわりと宙へ浮いた薄手の布団は、吹き荒れる春一番とダンスでもするかのごとく、どんどんと青い空へ舞い上がっていく。これはまずい。暦の上での春はもうすぐそこでも自分自身の春は一体いつ到来するのやら分かったものではない。


 具体的に言うと自分には今、彼女も同居人もいないのである。あっごめん今って言ったけどもう上京してからずっとだった。上京以前も彼女いなかった。ちょっと見栄張った言い方してごめん。


 このままでは唯一のぬくもりの当てである布団すらもない状態で夜を明かさなくてはならないということだ。悲しくて悲しくて震えて自分の涙もスプリンクラーのごとく飛び散り、枕も濡れてしまうことだろう。そんなことしていたら風邪をひいてしまう。春近しとはいえ夜はまだ寒いというのに。独り身大学生男子が布団のない状態で熱に浮かされている姿なんて我ながら目も当てられない。下手したら死ぬ。死因:ふとんがふっとんだため。なんだそれダサすぎる。死んでも死にきれん。


 そんなしょうもないことを考えている間にも、布団はどんどんと遠ざかっていく。慌ててコートを羽織り、スマートフォンと財布をポケットにねじ込んで、外へと駆け出した。


◇◇◇◇


 ピンポーン


 おそるおそる、見知らぬ部屋のインターフォンを鳴らす。


 幸か不幸か、飛んでいった布団は近所にある団地の3階、誰かさんの部屋のベランダにうまいこと引っかかってくれた。


 このままどこまでも飛んで行ってしまったらどうしようかと不安になっていたところだ。本当に良かった。実際良くないのだけれど。自分のコミュ障な部分が悲鳴を上げているのだけどね、本当は。せっかくどっかに引っかかるんだったらもっと誰にも迷惑のかからないところにひっかかってくれれば良かったのに。ちょっとひとりで頑張れば手の届くところにひっかかってほしかったな、うん。


 まあ電柱とか電線とかに絡まっておっきな組織に連絡しなきゃいけない状況になって、ご近所の野次馬さんたちに見守られながらふっとんだ布団を回収してもらうとか、そういう大事にならなかっただけまだ良いのかもしれないけど。てか実際そんなことになったら知らないふりして新しい布団買いに行っちゃってたかもしれないな、恥ずかしすぎて。大人としてやってはいけない事とは分かってはいるけれど、ご自慢のメンタルは絹豆腐の丈夫さに負ける劣るわ系のご立派な強度なので、知らない人に囲まれて注目の的になるのは本当にしんどい。


 などと考えればまあ関わる人がこの部屋の住人の方だけでよくなったというのは不幸中の幸いとも言える……けどやっぱり知らない人怖いなと思ってしまう。


 どうしよう、もう帰ろうかな、もう諦めて新しい布団買いなおそうかな。


 というかこの家の人になんて説明すればいいんだ?


「僕の家のふっとんだ布団がお宅のベランダに引っかかっておりまして」とか言うのか。言いたくないなぁ。……本当に心の底から言いたくないな。傍から聞いたら頭おかしいやつじゃん。今ここからいなくなれば近所の悪ガキがいたずらでピンポンダッシュしたってことにならないかな。あの布団そんなかさばるタイプじゃないし処理にもそう困らないだろうし。あるなあ。もう帰ってしまおうかな。


 というか、もしかして留守かもしれないぞこれは。よし、あと10秒待って出てこなかったら帰ろう。そうしよう。


 ガチャ


 ドアノブの回る音が、死刑宣告に聞こえる日が来るとは。


 今までの比ではないレベルの冷や汗で背中をびしょびしょにしている自分の目の前で、扉がゆっくりと開かれていく。


 扉の向こうから顔を出したのは、とても、綺麗な女性だった。


 美術品のよう、と表現するにはどこか人間的な美しさで、開いた扉に添えられた手は、所々荒れた様子だった。不思議とそれを痛々しいと思うことはなく、陶器のような滑らかで白い手に散らばる紅色が艶やかで、倒錯的な美しさを感じさせる。


 背中に流れる長く艶やかな黒髪は、黄昏時の夕日に照らされてきらきらと輝いている。長く黒い睫毛は少し伏せられた形の良い目元に、幽かに影を落としていた。唇に引かれたルージュは瑞々しい紅色で、止め処無く発せられる色香に目が眩みそうになる。朝露に濡れた白百合のような気品と華やかさを纏っている一方、豊満な胸元と引き締められたウエストラインが女性特有の艶めかしさを放っていて、酷く魅惑的だと思わざるを得ない。


 まあ端的にいうとめちゃくちゃにえっちだった。


「あの……」


「えっっっっ! へぁい!」


 見た目もえっちなら声もえっちである。もう文学的な表現を一切合切諦めてしまう程度にはえっちである。えっちである以上の的確な表現が自分の中には存在しない。語彙力など小学校の国語の教科書とともに捨て去った。


 えっちだなぁ。


 おっと、えっちが過ぎて危うく口に出してしまうところだった。危なすぎる。ただの変態に成り下がるどころか下手したら犯罪者になる前に止められてよかった。


「うちに何か御用でしょうか……? 」


 顔にかかった長い前髪を耳にかける仕草とともに、上目遣いでこちらの様子をうかがってくる女性。対する自分はもう変な汗が止まらなくて、喉はカラカラに乾いてしまっていて、何か返答しなければとひとまず自分の唾液を飲み込んで喉を潤した。


「えっと、あの信じてもらえないかもしれないんですけど」


「はい」


「僕の布団が吹っ飛びまして……」


「はい? 」


 死にたい。恥ずかしすぎて死ぬ。


 なんでこんな美人でえっちなお姉さんを目の前にしてこんな恥ずかしいことを、こんなくだらないダジャレを披露しなくてはならないのか。事実は小説よりも奇なりってか。うるせえ馬鹿、泣くぞ。


 案の定というかなんというか、お姉さんは眉間にしわを寄せて困惑したような顔をしている。そのお顔も悩ましくて素敵です。ってそうじゃなくて。


「あの、僕も正直すごくびっくりしまして。こんなこと本当にあるんだなんて思って必死にその布団を追っかけていたのですが、このお宅のベランダに不時着してしまったようでして、その、すいません、ご確認だけお願いしてもよろしいでしょうか」


「はぁ……」


 お姉さんは怪訝な顔をして呟くと、玄関の扉を閉めた。それからの時間は体感したことがないくらい長く感じられて、もうこの扉一生開かないんじゃないかと思い始めたあたりで、ガチャリとドアノブが回る音がした。


 顔を出したお姉さんは、目に涙をにじませながら笑っていた。


◇◇◇◇


「ごめんなさいね、狭くて」


「いえ、全然そんなことないです大丈夫です」


 先述の通りベランダから戻ってきたお姉さんは涙が出るほど笑っていて、訳を聞くと、「こんなこと現実にあるんだって思って面白くなっちゃって。あとこんな面白い現象と君のまじめな態度の温度差がすごいなって思っちゃって」とのことだった。


 まあともかく無事に布団は見つかり、回収できた。できたのだが、お姉さんは僕に対し「こんなに笑ったの久しぶり。良いもの見せてもらったお礼がしたいから、お茶でもどう? 」と話を持ち掛けてきたのだ。


 自分のコミュ障な部分&理性VS綺麗なお姉さんと一緒にお茶したいという煩悩、リングは僕の脳内、ファイト開始。理性は2秒でリングを降りた。コミュ障という部分だけではこの強大すぎる煩悩には勝てない。よって決着。この間5秒。


 そんなこんなでお茶をいただくために家に上がらせていただいている。お姉さんはキッチンでお湯を沸かしたりなんだりしているようで、手持無沙汰な僕はぐるりと部屋を見回してみた。全体的に片付いていて、独り身大学生男子とは似ても似つかない整頓された部屋だ。流石女性の部屋は片付いているのだなあ、しかしひとり暮らしにしては広めのお部屋に住んでいらっしゃる——ん?


 ふと目に留まったのは写真立てだ。今の見た目も十分若いが、それよりももっと若いお姉さんが白いドレスを身にまとって、幸せそうな笑顔で写真に写っている。と、いうことは、隣の男性は——。


「お待たせーって、あら、どうしたの? 」


 写真を見て固まっていたので、お姉さんがキッチンからこちら側にやって来ていたことに気が付かなかった。振り向くと彼女の右手には、可愛らしいお盆に乗せられたマグカップがふたつと、お茶菓子が少々。左手にはこれまた可愛らしいティーポットと、薬指には綺麗な指輪。


 人妻!!


 旦那さんがいらっしゃるタイプの女性!!


 お姉さんどころか奥様じゃねーか!うおおおお勝手に独身だと思ってた! 何故「陶器のような滑らかで白い手に散らばる紅色がうんぬんかんぬん」の時点で気づかなかった!? 注意力散漫のザコですね!このセリフ文字でやると面白く無い!


 うおおおおとにかくびっくりした! 脱水症状が心配になるレベルでおかしな汗をかきっぱなしの今日。持ってくれよ俺の体内の水分。


「ナンデモナイデス」


 何とかしてそのセリフだけ絞り出したが、お姉さんもとい奥様はすこぶる勘の良いお方だったようで、僕の背後の例の写真と僕の顔を見比べてにんまりと笑った。


「もしかして私のこと独身だと思ってた? 」


「………………ハイ」


 ぜんぶ、まるっと、お見通しされてしまった。某ドラマの某美人霊能力者以外にこんなことをしてくる人がいるなんてな。


 にこにこと笑っている奥様は「ふーん」と言いながらローテーブルの上にティーセットを置くと、するするとこちらへ近づいてきて座り込み、僕の顔を覗き込んだ。


「ねぇ、私が独身だったら何するつもりだったの? 」


「いえ、まったく、何も」


 本心である。間違うことない本心であるがこうも嘘くさく聞こえるのは何故だろうか。


 先ほどリングを降りた理性はもはや会場すらも後にしてしまっているというのか。否、引きずり戻せばよいだけの話。立て、立つんだ理性。煩悩に屈してはいけない。一度屈してるけど。大丈夫だ今からリベンジマッチと洒落込もうではないか。あっ、愚息はお下がりくださいどうぞ。理性に語り掛けたのであってそちらに言ったんじゃないんだ。いろんな意味で下がっていてください、頼むから。


「本当に? 」


 奥様の手が僕の腕を滑る。艶っぽい唇がどんどんと耳元に近づいてくる気配を感じる。


「だ、だめです奥さん」


 こんな安っぽいAVみたいな台詞を自分の口で吐く日が来るとは! 本当に今日は思いもよらないことばかりが起きる。今日が厄日か明日が命日かのどちらかだろうな。


「いや、だって旦那さんが帰ってきたり」


「明日の夜まで出張なの」


 しかし まわりこまれて しまった !


 ドット文字のテキストの幻覚が見える。逃がしてはくれないらしい。そもそもこの状況を作り出しているのはほぼ全部自分の行動が原因だったような気もする。自業自得ということですか。


「ねえ良いでしょう?朝まで夫とはできない事いっぱいして、お姉さんと遊びましょうよ? 」


 ああまったく本当に、本当にえっちなお姉さんだなぁ。


◇◇◇◇


 窓から日が差し込んでいる。どこかで鳥が鳴いて、新聞配達のバイクが走り去っていく音が聞こえた。朝だ。


 靴紐を固く結んで立ち上がり、お姉さんがいるほうを振り返る。夜通し起きていたから少し眠そうだった。まあ、自分もそうなのだけれど。


「忘れ物、無い? 」


「母親みたいなこと聞きますね」


「あら、お母さんともあんなことするの?」


「するわけないじゃないですか」


 お姉さんは「そう? でもお家によるんじゃないかしら? 」と言っていたずらっぽく笑った。


「でも、結構上手だったと思うわよ」


「いやいや、奥さんの足元にも及びませんでしたよ」


「ふふふ、だってあなたってばすぐにトんでいっちゃうんだもの」


「攻められっぱなしでしたからね」


 流石経験が違いますねえとぼやきながら、畳んだ布団を仕舞った袋を持ち上げた。こいつのせいでとんでもない一日を過ごす羽目になった。でもまあ、「おかげ」と言っていい部分もあるのかもしれない。


「じゃあ、帰りますね」


「うん、気を付けて。また遊びましょうね」


「布団が吹っ飛んだらね」


 そう返すと、お姉さんは声をあげて笑った。基本的には色っぽくて大人な人だけれど、存外子供っぽく笑うこともあるんだな、と思った。


 ドアノブに手をかけ、玄関の扉をあける。陽の光が、夜通し画面を見続けた目に染みる。


 家に荷物を置いたら、スマブラを買いに行って、ちゃんと練習しよう。


 ひと晩中対戦して一勝もできなかったのはとても悔しい。


 次こそは勝ってみせよう、と心に誓って、僕はお姉さんの家を後にした。

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