そして僕は猫になる。

伏見春翔

第1話 僕は人か猫か

 吾輩は猫である。もし自己紹介をする場面があったとしたら、僕はその有名な小説の一文をちょっとお借りして、そう切り出したことだろう。

 僕は猫である。比喩でも冗談でもなく、事実僕は猫だ。

 でもそれは見た目だけ。

 中身は違う。

 これでも僕は、れっきとした人間なのだ。

 いや、人間だったと言った方が正しいだろうか。

 あの小説では名前はまだないと続いていくが、名前だってちゃんとある。


 ――雪城渚ゆきしろなぎさ


 これが僕の名前だ。

 僕はもともと人間だった。どこにでもいる平凡な大学生だ。それがどうして現在いま、猫になっているのかというと、実は僕にもさっぱりわからない。

 何かの呪いだろうか。呪われるようなことは何もしていない。していない……はずである。自信はない。だってそうだろう、生きていれば何かしらあるものだ。どこかで知らぬ間に悪因縁を作っていてもおかしくはない。そんなことはないと胸を張って言えるほど、みんなだってきっと綺麗な生き方をしてはいないだろう。

 とはいえ、僕だって何も鬼畜というわけじゃない。困っている人がいれば助けたいって思うし、実際車に撥ねられそうになった女子高生を、その危機から身を挺して守った。

 そして、その後。

 ただの平凡な大学生でしかなかった僕は――


 目が覚めたら、猫になっていた。


 最初、僕は死んだんだなって思った。生まれ変わるには少々早過ぎる気もするけれど、それ以外に考えられなかった。

 それならどうして雪城渚の記憶があるのかという疑問も残るが、これが噂に聞く『転生』というやつなんじゃないか、なんて考えていたら案外あっさり腑に落ちた。

 どうせ転生するんだったら異世界の英雄とかがよかったのにって思うところもあるけど、現実なんてこんなものである。どこかの名探偵のように体が縮んだりもしない。そっちの方がまだ人として第二の人生を送ることができるだけ、猫よりはずっといい気がする。もう一度小学生からやり直すなんて、僕はまっぴら御免だけど。

 という感じで、僕はこの現実を呑み込んだ。半ば強制的にでも受け容れるしかなかったとも言えるが、いざ猫として過ごしてみると意外と悪くないと最近は思い始めている。

 ところが、である。

 どうやら僕は、雪城渚は、死んだというわけではないらしい。


『ああ、そんな事故もあったな。でもそれ、死者出てないぞ』

『……え?』

『軽傷で済んだらしい。この間、退院したって聞いたな』

『本当に?』

『おう、俺もこの前そいつ見かけたから間違いないよ』


 と、言うのだ。

 なんとびっくり、これはカラスから聞いた話だ。まさか烏と普通にしゃべる日が来るなんて――って驚くところはそこじゃない。


 雪城渚は生きている。


 生きていた。

 死んでいなかった。

 信じられない。だって、現に僕は今ここにいるじゃないか。雪城渚は『猫』になって、こうして生きているんだ。それなのに人としての僕が死んでいないなんて、そんなのはおかしい。


『もしかして、あいつにからかわれた?』


 いやでも、あの烏が嘘を言っているようにも見えなかった。第一嘘をつくメリットもない。烏は神の使いとも言うし。あの烏がそうだとも言い切れないけど。


『でもそれじゃあ、僕は何だっていうんだ?』


 人としての僕が死んでいないのなら、どうして僕はここにいるのか。

 考えても考えても、その答えは見つからない。そうしてあれこれとずっと考えているうちに、とある疑問が浮上してきた。


 ――そもそも僕は、『雪城渚』なんだろうか。


 そんな疑問に行きついて、急に怖くなった。

 もし自分が人間だと勘違いしているだけだったとしたら。飼い犬や飼い猫が、自分が人間だと思い込んでいるという話をどこかで聞いたことがある。それが今の僕なんだとしたら……。

 そんな思考に行きついて、どうしようもない不安に駆られた。

 くらくらと眩暈さえしてくる。


『だめだ、やめよう』


 これ以上考えていると、頭がおかしくなりそうだ。

 僕の中に答えはない。ここでいくら考えたって仕方がないことなのに。猫の一日は時間がたっぷりあるから、学校に、バイトに、と時間に縛られ追われることのない分、ついつい考え込んでしまうのだ。それもネガティブな方向に。これはよくない。

 だけど。

 このまま、というわけにもいかない。

 知ってしまったからには、何がどうなっているのか確かめなければ。

 そうしなければ気が済まない。確かめたところで、何ができるってわけでもないけど。できることなんて何もないけれど。それでも、動かずにいるよりはずっといい。このままモヤモヤした状態で、毎日過ごすなんて僕にはできない。

 だから、こんなところで四の五の言ってないで――


『とにかく行ってみよう!』




  ***

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