第4話






 翌日の昼近くになってから、ようやくラーダは起き出すことができた。

 これ以上早かったら人間ではないと疑われてしまうから。

 でも、これ以上こんな状態に置かれるのがいやで、さっさと逃げ出す心積もりだった。

「だれもいないみたいだな。今がチャンスかな?」

 屋敷の中は静まり返っている。

 みな出掛けているのは間違いなかった。

 今なら逃げ出せる気がする。

「そう度々薬なんて使われたらたまらないからね」

 ほとんどの薬はラーダには無効だが、さすがに多用されると影響も受ける。

 その危険性を減らすためにも、ここから逃げ出すことが必要だった。

 寝台から出て扉へと近付く。

 それから取手に手をかけて、ガチャガチャと回してみたが、まるで動かない。

「変だな。俺の力で開かないはずがないし、これって魔法?」

 静まり返っていることに気を取られ気付かなかったが、この部屋を覆うように魔法が掛けられている。

 結界だ。

 ラーダをここから出さないための。

 念のため窓にも近付いてみたが、ガラス窓はビクともしない。

 もちろんこの程度の結界なら、ラーダが本気になれば呆気なく破ることは可能だ。

 今は人間として振る舞っているから全く逆らえないだけで。

「参ったな。人間として振る舞っている限り逃げられないじゃない、これじゃあ」

 呆れたように呟いて寝台に腰掛ける。

 どうしよう。

 多少危険でも結界を突破して逃げるか?

 でも、この結界の強さだと多少の心得くらいでは普通は破れない。

 魔法使いでもかなり強大な力が必要なはずだ。

 ラーダが破って逃げ出すというのは、どう考えても不審がられるだろう。

 そこから人間ではないという仮定を導き出されるのは、さすがに都合が悪い。

 ラーダ・サイラージュの頃と血縁関係にあると、おおよそではあるが知られているのだ。

 それでそういう仮定が出るのはマズイ。

 下手をしたらラーダとラーダ・サイラージュが同一人物だとバレてしまうかもしれない。

 そうしたらラーダこそが妖魔の騎士だと悟る者も出てくるだろう。

 そうなったら愛しい子供たちを追い詰めてしまう。

 それはさすがにできない。

 こうも度々非常手段に出られたら、次なる一手に迷うのも本当だが。

「こうなったらネジュラ・グレンが改心して俺を解放してくれるときを待つしかないのかなあ。ショウが心配するから、なるべく早く帰りたいんだけど」

 それにここに閉じ込められていたら、妖魔の騎士として動きたいときに動けない。

 もちろん夜の姿になりたいときだけ身代わりを使うという手もあるが、あまり常用したい手ではない。

 身代わりを置いて逃げ出すというのはどうだろう?

 いや。

 万が一身代わりになにかあって、ラーダ本人じゃなかったとバレるとマズイ。

 それはできない。

「自分の孫相手に苦しめられててどうするんだか、俺も」

 本心だった。

 サルシャを置いて姿を眩ますときは、将来その子供に苦しめられるなんて思いもしなかった。

 それともこれは愛しい子供たちを置き去りにしたラーダへの罰なのだろうか。

 妖魔の王である自分が、いつまでも人間として生きることはできない。

 年老いていくことができないのだから、キリのいいところで姿を消さなければならないのだ。

 だが、そのためにサルシャは若くして王位を継がなければならず、かなり苦労をかけてしまったのも本当だ。

 ネジュラ・グレンなんて、そのせいで祖父も祖母も知らない。

 その罰だと言われれば甘んじて受けるしかないのだろう。

 それはラーダの義務だ。

 でも、それでもやっぱりグレンには、こんなことはしてほしくない。

 ネジュラ・ラセンの孫として相応しい行いをしてほしい。

 治世は短かったとはいえ、彼は王として相応しい力量を持っていた。

 その名に恥じない王子でいてほしいのだ。

 身勝手な望みかもしれないが。

 そんなことを考えながらラーダが寝台に腰掛けていると、大勢の人の気配を感じた。

 どうやらネジュラ・グレンが戻ってきたらしい。

 扉を睨み付けていると飄々と顔を見せた。

「起きていたのか」

「結界まで掛けて俺を閉じ込めるなよな。いい加減に解放してくれっ」

「それはできない」

「王子さまは俺を閉じ込めてどうしたいんだ? 薬なんかで俺を自由にしようたって、俺は言いなりにはならないよ」

「そんなつもりはっ」

「ここに連れてくるとき、そして昨夜。二度も薬を使用しておいて、そんなつもりはないなんて言って、だれが信用するわけ? 信用してほしかったら態度で示してよね」

 いい加減腹が立っていたので言い方はきつかった。

 自分の孫相手に冷たい言い方かもしれないが、今はこれが本心だった。

 そのためにショウにまで心配をかけているのだから。

「おれがお祖母さまの孫だから悪いのか」

「え?」

「おれがお祖母さまの孫じゃなかったら、そんなに警戒しなかったのか? あいつみたいに振る舞ってくれたのかっ」

「変なところでラーダ・サイラージュ妃を引き合いに出さないでよ。関係ないよ、それは」

「おれがお祖母さまの孫だから、素性を知られるつもりがないから、だから、おれには付き合ってくれないんだろうっ」

 叫ばれてとっさに言い返せなかった。

 素性がバレないために距離を置く。

 それは実際にやっていることだったから。

「ショウとアンタに対する態度の違いにラーダ・サイラージュ妃は関係ないよ。アンタのやっていることが原因だ。ショウなら絶対にこんな真似はしない。相手の心を無視するような真似は絶対にしないっ」

 言い切るとグレンは悔しそうな顔になった。

 それからもう言い争うことはやめたのか、枕元の椅子に腰掛けた。

「腹が減っただろう。昨夜からなにも食べていないからな。今すぐ食事の用意をさせるから」

「いらないよ。そんな気を使う余裕があるんだったら、今すぐ帰してよ」

「食べないと元気も出ないぞ」

 帰せという言葉は聞こえなかったかのように無視されて、ラーダはムッとした。

 ラーダの主食というか、主な好物は人間の生き血である。

 屍肉喰らいではないので人間の血肉は食べない。

 ただ生き血だけを飲む。

 別に生きていくために必要不可欠というわけではないのだが、気がついたら血を好んでしまうのだ。

 それこそ妖魔の性である。

 普段は植物の生気から栄養を摂っている。

 生きていくだけなら、それだけで十分なのだ。

 だから、食事の必要性はない。

 王子に対する当て付けで食べないことに決めた。

 それで心配するなら心配させればいいと思って。

 そのぐらい腹を立てていた。

 それからすこしして言われた通り食事の準備が整ったが、ラーダは見向きもしなかった。

「食べなかったら身体がもたないぞ」

「いらないって言ったでしょ。下げてよ、それ」

 意地の張り合いである。

 グレンもムッとしたらしいが、ラーダとこれ以上やり合う気もなかったのか、この場は退いていた。

「用意させておくから腹が減ったら食べるんだ。いいな?」

「いらないって言ったらいらないっ」

 叩き付けるとグレンはそれ以上なにも言わなかった。

 その日は夜になるまでグレンがいたので逃げ出すことはできなかった。

 お互いに顔を見たらムッとするというのか、ラーダもグレンを見なかったし、グレンもラーダを見なかった。

 グレンのラーダに対する態度の大半は、どうやらショウへのヤキモチらしい。

 ヤキモチを焼くことだけは一人前で、やっていることは半人前。

 嘆かわしいかぎりだ。

 その日魔族が現れたのは真夜中を過ぎてからだった。

「魔族が出たのか。わかった」

 一言だけ答えてグレンは立ち上がると、昨夜手にしたビンをもう一度手にした。

 一気に煽る。

 青くなったが逃げ出せなかった。

 口移しで飲まされるとやっぱり昨日と同じ薬だった。

(この薬、多用されると普通なら生命にまで関わるような危険な薬だよ。わかってるの、この王子はっ!!)

 怒鳴り付けたかったが飲まされたのは速効性の睡眠薬である。

 ラーダはなにも言わないまま、その場に崩れ落ちた。

 それをグレンが受け止め、そっと寝台に横たえた。

「おれが出掛けているあいだ眠っていてくれ。すまない。手荒なことばかりして」

(そう思うならするなっ)

 心の中で毒づいたが、王子には伝わらなかっただろう。

 全く頭の痛い。

「出掛ける。支度を」

「はい」

 そうして屋敷にラーダひとり残して、みんなが出ていくまで時間はかからなかった。

 ひとりもいなくなってから、ひとり残されていたラーダがムクリと起き出した。

「全く。世話の焼ける王子だなあ。薬に頼って束縛するなんて最低だよ。その辺のことわかってるんだがわかってないんだか」

 急がなければならない。

 魔族が現れているのだという。

 妖魔の騎士の出番だろう。

 それともあの王子に対する当て付けで、今夜は見捨ててやろうか。

 心を掠めた誘惑にちょっとグラッときたが、やれやれとかぶりを振った。

「できないよね。それで迷惑を被るのはショウなんだから」

 髪を振り色を変化させる。

 緑と赤の斑の瞳が真紅に染まる。

 闇より深いその髪の色。

 ラーダの姿は闇に溶けた。





 次に現れたのはショウの屋敷だった。

 黒衣はこちらにしか置いていないのだ。

 夜の姿になってもこちらに戻ってこないことには出られない。

 ついでに心配だったのでショウの様子を覗き見た。

 ショウは自分の部屋にいたが眠ってはいなかった。

 両手を合わせて祈るような仕種をしている。

(ショウ……)

 心で名を呼ぶとショウがそれに答えるように呟いた。

「ラーダ。無事だよな? 一体どこにいるんだよ、おまえは。無事でいてくれ、ラーダ!!」

 祈るショウにラーダはなにも言えず踵を返した。

 3階まで戻ってからため息をつく。

「俺の身を気遣ってくれているのか、ショウは。妖魔の俺の身を」

 呟きは苦かった。

 心配してくれるショウの気持ちが嬉しい。

 それと同時に自分が心配される資格のない妖魔であることが悲しかった。





「妖魔の騎士はまだかっ!?」

 ひとり、またひとりと魔族を斬り捨てながら、全身に汗を掻いてグレンが叫ぶ。

 今日は妖魔の騎士の出現が遅かった。

 いつもならとっきにきているのに、今日はまだ姿を見せていない。

 おかげで人間たちの被害が多い。

 このままでは全滅も考えられた。

 魔族の力に押され剣で弾き返したときに、待ち望んでいた声が聞こえた。

「俺にも都合というものがあるんだ。そうそう都合よく現れるものか」

「そういう科白は素顔を明らかにしてから言うんだなっ。今のおまえの都合などおれたちにはわからないっ」

「勝手な奴だ」

 言いながらも華麗な手際で魔族を倒しているのか、断末魔の悲鳴が続けざまに上がっている。

 なんだかその様子がいつもと違うような気がした。

 いつもなら一撃必殺というか、こちらには軌跡すら見せないような戦い方なのに、今日は違ったのだ。

 まるで鬱憤晴らしでもしているかのように、残酷な手段で魔族を殺している。

 一撃で殺さないのがその証に思えた。

 グレンが怪訝に思っていると、大方の魔族の処理を終えたのか、妖魔の騎士がつまらなさそうに呟いた。

「なんだ。もう終わりか。呆気ないな。つまらん」

「つまらんって言われても」

「もっと手応えのある奴はいないのか?」

「機嫌でも悪いのか、妖魔の騎士」

 グレンにそう訊かれて、ラーダはよっぽど言い返してやろうかと思った。

 だれのせいだと。

 だが、素性を明かすようなことを言えるはずもなく、結局、適当にごまかした。

「今日の俺は虫の居所が悪いんだ。なんなら相手になるが?」

「おまえとやり合ってどうするんだ、おれたちが」

 呆れたような声に「つまらん」ともう一度吐き捨てた。

 だれでもいいから八つ当たりの相手になってほしい心境だ。

「夜が明けるな。俺は消える。後はそっちで適当にやってくれ」

 言い残してラーダの姿は消えた。

 ショウの屋敷に転移したのである。

 そこで着替えてグレンたちが戻るまでに、グレンの屋敷に戻る必要があった。

 これでラーダもなかなか忙しいのである。

 この環境はなんとかしないと命取りになりかねなかった。

 このままではいつか素性がバレるかもしれないから。

 どうにかしなければと気ばかりが焦っていた。






 ラーダがいなくなってから1週間が過ぎた。

 普通なら諦める頃である。

 元々ラーダは旅人だ。

 旅の途中に寄ったのだから、また旅に出ても不思議はない。

 1週間も音沙汰がないとなったら、気紛れに旅に出たのではないかと思っても不思議はなかった。

 だが、ショウはそうは思えなかった。

 ラーダはたしかに旅人だったし、気紛れなところもあった。

 でも、ショウにもなにも言わず、あんな形で姿を消すなんてあり得ない。

 そう思っていた。

 ラーダのことで知っているのは、ラーダがラーダ・サイラージュ妃の親戚だということだけ。

 ここまで考えたときハッとなった。

「ラーダ・サイラージュ妃? そうだよ。ラーダが巻き込まれる事件があるとしたら、メイディア絡みしかあり得ない。どうして気付かなかったんだ?」

 メイディア側でも聖妃の素性は、どうしても知りたいことのはずである。

 その唯一の手掛かりがラーダ本人だ。

 メイディア側がラーダに手を出しても不思議はなかった。

 今メイディアの関係者は王宮に招待されている。

 正確には長期滞在なので、たぶん屋敷かなにかを与えられているのだろうと思うが。

 それはグレンも言っていた。

 ラーダと初めて逢ったときに屋敷に連れていけないと。

 もし彼がラーダを連れていったのなら、ラーダはメイディアの関係者の住む屋敷にいるのかもしれない。

 だが、近付くのは危険だった。

 王宮の付近にあるのだろうし、メイディアの関係者を招いた屋敷なら、王宮の方でも気にしているだろう。

 定期的に様子を見に行っているかもしれないし、そこへショウがノコノコやっていくのは、どう考えても自殺行為だ。

 自分から殺してくれと訴えるようなものである。 でも、本当にそこにラーダがいるとしたら?

 帰りたくても帰れないでいるとしたら?

 グレンとショウは顔見知りだ。

 あのとき、一度だけとはいえ逢っている。

 だから、逢ってくれと言えるだけの権利はある。

 でも、逢ってくれるとは限らない。

 本当にラーダを拉致しているのだとしたら、ショウには逢ってくれないだろう。

 それでも逢いたいのだと強行しようとしたら、どう考えても庶民の少年では無理だ。

 それなりの地位にいなければ、メイディアの王子相手にやり合えない。

 そうなればラスターシャの王子だと明かすしか方法はなく、これまた自殺行為である。

 メイディアに後ろ楯になってもらうために明かすのならともかく、そういう方法で明かしたら危険極まりない。

「どうしよう。おおよそのメドがついても、これじゃあ動きだせないよ。ラーダは今も困ってるかもしれないのに」

 呟いて途方に暮れた。

 自分になにができるのかを考えながら。





「いいかげんにしてよね、もう」

 力なく寝台で呟くのはラーダである。

 この1週間、なにかといえば薬を使うのだ。

 おかげでちょっと体調が悪い。

 普通の薬ならまだしも、多用されると生命に関わるような薬を毎日飲まされているのだ。

 さすがに影響だって受ける。

 身体がダルい程度だが、これ以上多用されると本格的に身体を壊しかねなかった。

 グレンは自分がいなくなるときは、大抵ラーダに薬を飲ませる。

 それをしないときは薬から解放されたばかりのとき。

 さすがに連続で使うのは心が痛むのか、このときは使わない。

 その代わりラーダを残していく場合、部屋にきっちりと結界を掛けていく。

 ラーダが逃げられないように。

 おかげでラーダは逃げるに逃げられず、虜囚の身に甘んじているのだった。

 時々バレてもいいから逃げてやろうかと思わないこともない。

 ラーダが本気になれば容易く逃げられるからだ。

 でも、正体がバレるようなことを、自分からするわけにもいかなくて、結局グレンの言いなりになるしかなかった。

 もう1週間だ。

 ショウはどんなに心配しているだろう。

「もう1週間もここにいるんだ。すこしくらい打ち解けてくれてもいいだろう」

「この状況で打ち解けたら、俺はただのバカじゃない。薬で俺を自由にしようとしてる奴の言うことなんて聞かないし、打ち解ける気もないからね」

「ふう」

 やれやれと言いたげなため息をグレンがついたので、ラーダはため息をつきたいのは、こちらの方だと睨み付けた。

 頭痛い。

 すこし眠ろうか。

 どうせグレンが見張っているあいだは逃げ出すこともできないんだし。

 そう思ってラーダが眠ると、グレンは悲しそうにその寝顔を見ていた。

 自業自得なのかもしれない。

 ラーダが言っているように、この状況で打ち解けてもらおうとするグレンの方がおかしいのかもしれない。

 でも、打ち解けてもらえないのが悲しかった。

「王子」

「エスタか」

「王子はこの方をラーダさまをどうなさりたいのですか? このままではいつか殺してしまいますよ?」

「殺す? おれがラーダを? 何故?」

「あの薬はお渡しするときにも申し上げましたが、非常に強い薬です。聖妃さまは普通の薬が効きにくい体質だったとお聞きしているから、王子は絶対に効く薬が欲しいと申されました。だから、あれをお渡ししたのです。

 しかしお渡しするときにも申し上げたように、あの薬は非常に強く多用すると使用者の生命すら危うくします。王子はもう1週間も立て続けに使用されています。

 この方もたしかに普通より薬の効きは鈍いようですが、これ以上続ければお生命の保証ができません。それでもよろしいのですか?」

 ラーダを殺すつもりかと言われて、グレンは青ざめた。

 そういえばすこし顔色が悪くなったような気がする。

 意地を張っているからなのか、ラーダは絶食を続けているから、そういう意味でも変化が起きて当然なのかもしれないが、それでもこの顔色はすこし悪すぎる。

 青ざめているし時々土気色のときもある。

 これ以上続ければたしかに危険かもしれない。

 祖母は普通の薬が効きにくい体質だったと聞いた。

 だから、その血族であるラーダも薬が効きにくい可能性があると考えて、グレンはあの薬を用意してもらったのである。

 しかし今エスタが言ったようにあの薬は非常に強く、それだけに使用するには危険な薬でもある。

 1週間使用してきたが、ラーダはたしかに普通より薬が切れるのが早い。

 常識的にはまだ効いている時間にひょっこり目を覚ます。

 それが度重なっている。

 だから、グレンはあの薬で正解だったと思っているのだが、たしかにこれ以上続ければラーダの生命を危険に晒す心配はあった。

 しかしラーダが起きている間中、魔法で結界を張っておくなんて真似ができるはずもなく、薬がダメだとしたらどうすればいいのかがわからない。

 エスタは諦めろと言いたいのかもしれないが。

 寝台で休んでいるラーダの傍にグレンは付き添っているのだが、エスタはその彼の斜め後ろから見守っていた。

 不器用な愛情表現しか知らない王子を。

「エスタはおれに諦めろと言いたいのだろう?」

「はい。もう十分でしょう? これ以上続けてもラーダさまのお心は王子のものにはなりません。離れていくばかりで王子の望むようには決してならないのです。もう十分です。これ以上は王子も傷付きます」

「わかっているさ。おれのやり方が不味いってことぐらいは。おれのやり方ではラーダは離れていくばかりで、好きになってくれる可能性なんて万にひとつもない。そんなことはおれが1番よくわかっているんだ、エスタ。この1週間ラーダと接してきたのはおれなんだから」

「だったら」

 希望を持ったように明るく言いかけたエスタを遮って、グレンは彼を振り向くと一言だけ告げた。

「それでも諦めきれない。万にひとつがダメなら億にひとつでもいい。その可能性に賭けてみたいんだ」

「王子っ」

 きらわれるばかりで愛されることなど万にひとつもない。

 それは可能性の数を増やせば可能性が増すというわけではないのだ。

 機会が一万回から一億回に増えたとしても確率は同じなのである。

 王子が今のやり方を持続させるかぎり。

 それをわかってもらえないことが辛かった。

「ではせめて薬の使用はお控えください。このままではラーダさまのお生命に関わります」

「わかった。できるだけそうしてみるから」

 これだけ言っても努力するとしか言わない王子に、エスタはほとほと困り果てた。

 王子が恋愛に関して、これだけ不器用だとは知らなかった。

「時折王子とラーダさまの会話に出てくるあいつとはだれですか? ラーダさまはショウと呼んでいらしたようですが」

 ショウの名前が出てグレンが一気に不機嫌になる。

「おれもよくは知らない。だが、話を総合するに一緒に住んでいる奴らしいな。ラーダとどういう関係なのかは、おれの方が知りたいくらいだ」

「王子はその方を一方的に敵視されているようですが」

「当たり前だ。ラーダはなにをやってもあいつの肩を持つ。おれよりあいつの方ばかり気にしている。それで気にするなと言われても無理だ」

 たしかにラーダはグレンのやっていることを批難するとき、時折だが「ショウならこんな真似はしない」と断言してくる。

 それはエスタも耳にしている。

 ラーダがショウに心を寄せているのは避けられない現実のようだった。

 そういう意味でラーダがショウを想っているのなら、王子の勝ち目はまるでないということになってしまう。

 どんな人物か純粋に興味があった。

 その人物があいだにいなければ、こんなに揉めていない気がして。

 ラーダの頑なな態度はショウに心配をかけてしまう現実に対して生じているらしいから。

 心配をかけさせている王子が相手では、容赦してほしいと思うこと自体が間違いかもしれない。

「好きになってもらえるように努力しようとは王子は欠片も思わないのですね」

「おれだって努力しているっ」

「薬でご自分に縛り付けることを、好きになってもらえるように努力しているとは言わないものです。単なる無理強いです。それがわからないのですか?」

「エスタ……」

 エスタは幼なじみ兼お目付け役なので、きついことも口にする。

 はっきり言われてグレンは動揺して目を泳がせた。

「ラーダさまがショウという人物に、元々好感を抱いていたとしても、それを強固なものにしているのは、王子の振る舞いがあまりに理不尽だからです。

 どうしてそれがわからないのですか? このままの状態を維持するなら、億にひとつの可能性だってありませんよ」

「はっきり言うんだな」

「最近の王子の行動はあまりに目に余りますから。お目付け役としてお諌めもします」

 それが王子のためだと信じている口調に、グレンはなにも言えず目を逸らした。

 もし今から態度を改めたとしても、ラーダの脳裡にはグレンはワガママで理不尽な王子と刻まれてしまっているだろう。

 今更遅すぎる。

 そう思えてならなかった。

 手放せば失うのなら、このままの状態を維持するしかなかった。

 ラーダを失いたくないのなら。





 ラーダとはぐれてから10日。

 ショウはとうとう我慢の限界を越えて、動き出すことを決意した。

 その日ショウはラーダとグレンとやってきた下町の飲み屋にもう一度足を運んでいた。

 カウンターについてバーテンダーに声を投げる。

「俺、いつもの奴ね」

「了解。ショウがカウンターとは珍しいな。なにか欲しい情報でもあるのか?」

 顔馴染みのバーテンダーはカクテルを作りながら、そんなふうに問い返す。

 ショウがこの店にきてテーブルに腰掛けず、カウンターに腰掛けたときは、この店の裏の顔に用があるときなのだ。

 そしてバーテンにカクテルを頼むときは、欲しい情報があるという前振りでもある。

 カウンターで頼むいつものカクテルを手に取って、ショウは身を乗り出した。

「メイディアの情報が欲しい」

「そりゃまた注文がでかいな」

 こういう世界の常識は、どうしてその情報が欲しいのか詮索しないこと。

 相手の身許も詮索しないこと。

 一言で言えば「一切詮索しないこと」に限られた。

 バーテンも慣れたものでショウの言葉に驚いた顔をしてみせたが、それ以上の反応を見せることはなかった。

「メイディアの王子の一行がどこに泊まっているか知りたいんだ。情報は掴めるか?」

「そりゃあここで手に入らない情報なんてないが、それはちょっと情報が大きすぎるぜ。メイディアは大国だからな。その世継ぎの王子の一行の情報となるとかなり値が張る」

「金は言い値で払う。教えてくれないか」

「王宮に程近いアルト街にある屋敷だと聞いてる。近付いていけば一目でわかるさ。メイディアの人間がうろうろしてるから」

「王宮の方の動向も知りたい。メイディアの王子の屋敷には度々使者を送ってるのか?」

「そりゃあ正式な客人だからな。それでなくとも魔族のことで、王子に助力を願わなければならない立場なんだ。使者は毎日のように訪れてるさ」

 ここまで聞いてからショウは用意していたお金とは別にバーテンにだけお金を握らせた。

 賄賂を受け取ってバーテンは心得た顔になる。

「まだ欲しい情報があるんだろう? なんだ?」

「この10日程のあいだにメイディアの一行に変わったことが起きてないか?」

「変わったこと?」

「ああ。例えば非公式の訪問者でもいるらしいとか、姿は見えないけど客が滞在中らしいとか。なんでもいいから普段と変わったことだよ。なにかないか?」

「そうだなあ。変わったことといえばグラッグっていう薬知ってるか?」

「ああ。あの人も殺しかねない危険な睡眠薬だろ? 麻薬の一種じゃないかって専らの噂だよな」

「そのグラッグを大量に用意したらしいんだ」

「グラッグを大量に?」

 欲しい情報とは違っていたが、メイディア側がそんなに危険な薬を大量に用意する理由がわからなくて眉を潜めた。

「殺人でも起きなきゃいいのにって専らの噂だぜ。もちろんメイディアがそんなことするわけないとは思うんだが、あの量だとひとりやふたりは軽く殺せるだろうから」

「そんなに大量に集めたのか」

 そういえば噂で聞いたくらいだが、ラーダ・サイラージュは普通の薬が効きにくい体質だったって話だ。

 変わった体質の持ち主ってことで現在まで語り継がれているが。

 まさかラーダに使っている?

 ラーダ・サイラージュとラーダが本当に血族で、その特徴まで似ていたとしたら、普通の薬は効かないラーダのために、危険な薬を用意した可能性は十分に残っている。

 そういう理由でもないかぎりメイディアが、あんな危険な薬を集める意味がわからないから。

「ありがとう。欲しい情報は大体貰えたから今日は帰るよ。カクテル。美味しかったよ。じゃあな」

 言って帰ろうとしたショウに言おうかどうしようか迷った一言が届いた。

「メイディアになにかする気なのか?」

「考えすぎだよ。俺がメイディア相手になにをするって? まだそこまで人生捨ててないから心配しなくてもいいよ」

「ならいいが、その歳で危険な真似はするなよ」

 商売としてなら明らかに規則違反。

 口出ししないのがルールなのだから。

 だが、ショウは心配してくれたのが嬉しくて、笑って手を振って別れた。

「グラッグの特効薬と言われているのがリョガーザだっけ。なんだろう。これから先必要になるような気がする」

 幼い頃より優れた勘の持ち主だったショウは、ふと浮かんだ不吉な考えに我知らず眉を寄せていた。

 眉間のあいだのシワがその深刻さを物語っている。

 この段階ではショウはなにも知らなかった。

 ラーダの正体もラーダとグレンの繋がりも。

 そのときは刻一刻と近付いてきていた。





「はあ」

 荒く息をついてラーダは寝台の上で身を捻った。

 呼吸が荒い。

 胸が苦しくて呼吸が荒い。

 この10日ほぼ毎日あの薬を使用されているのだ。

 さすがのラーダも異常を感じはじめていた。

 熱っぽいし時々だが苦しくてたまらないことがある。

 こんな状態でも夜になれば、きちんと妖魔の騎士として動いている。

 二重の負担だ。

 本当はそんな体調ではないのに。

 なのにそんな無茶を続けているから、ラーダは影響を受けているのである。

 グレンもそれは知っていたが、ラーダが手当てを受けないため手を打てなかった。

 手当てしようとするとラーダが激しく拒絶するのだ。

 まるで死んでもいいから構うなと言っているようだった。

 そこまで拒絶されていると知って尚更辛くなる。

 さすがにそこまで追い込んで、なお受け入れてもらえないのを知って、ショウの下へ帰そうかと思うこともあった。

 彼の下にいたらラーダは手当ても受けてくれるだろうし、もうあんな薬を使われることもないだろいから、どんどん回復に向かうだろう。

 わかっているのにそれができない。

 諦めることだけができない。

「ラーダ。もう意地を張るな。手当てを受けろ。そのままでは大変なことになるぞ」

 寝台を覗き込んできたグレンを睨み付けて、ラーダが吐き捨てた。

「だれのせいだと思ってるんだか」

「おれのせいだとわかっているから手当てを受けろと言ってるんだ。おれだって好きでこんなことをしてるわけじゃない」

「それが10日も連続であの危険な薬を使ってる奴の科白とは思えないね」

「それは」

 ラーダにはなんの薬を使っているのか教えたことはないのだが、どうも知っているようだった。

 だから、自分の容態が正確にわかっている。

 わかっていて手当てを拒絶するのだから、グレンが心配するのも無理はない。

 もちろんそんな状態に追い込んでいるグレンが心配するというのは、あまりに傲慢が過ぎるのかもしれないけれど。

「矛盾しているかもしれないが、おれの本音なんだ。頼むから素直に聞いてくれ」

 ご飯さえ食べてもらえないグレンは、さすがにラーダの身が気掛かりだった。

 常識的に考えれば薬以外は一切口にしていないのである。

 そんな状態が10日も続いているのだ。

 気になって当然である。

 だが、ラーダはその言葉にも答えなかった。

 素直に聞くときは彼がラーダを解放する気になったときだと決めていた。

 それまでは絶対に折れない。

 こちらから手当てを頼む気もなかった。

 それに半神半妖のラーダだ。

 普通の手当ては無駄である。

 今回のことにしたって影響を受けているのは、ラーダが半神半妖だからなのだ。

 普通の妖魔、もしくは光の神であれば、こんな形で影響を受けてはいない。

 ラーダはその身に光と闇の両方の特徴を宿していた。

 それだけに普通の神とも妖魔とも違うのである。

 その強さも圧倒的だが、その特徴も特殊なのだった。

 そんなラーダが人間の手当てを受けたところで、どうにもならない。

 下手をしたら効果がないことから、人間ではないとバレる可能性もある。

 だから、手当てを受けろという言葉には頷かないのである。

 もちろんこちらから折れないと決めたせいでもあるのだが。

「素直に聞いてほしかったから俺を解放するんだな。それ以外ではあんたの誠意なんて認めない」

 苦しそうにしながらも言い切られて、グレンがウッと詰まった。

 なにも言えないまま顔を背ける。

 まだ解放すると言えずに。

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