第3話 接近
キーボードを叩く音がする。
けど、それ以外はすごく静かだ。
いい匂いもする。
どこだろう、ここは。
ゆるゆると少し瞳を開けると、間接照明の暖かな明かりが見えた。
「大丈夫ですか?」
横から俺を虜にした甘い声が聞こえてきて、俺は目を一気に見開いて飛び起きた。
「うわあああ!」
そうだ俺、治療してて………。
先生は俺が大声を上げても動じず、軽く笑みを浮かべて俺の様子を確認している。
「ここは私の自宅です。
治療中に呼吸困難で気絶したので私が様子を診ていたんです」
先生は横でパソコンを使っていたみたいだ。
俺はおそらく先生のベッドに寝かされて、丁寧に布団までかけてもらっていたようだ。
「あ、ありがとうございました」
「いえ、よくあるので」
先生はパソコンをたたんで、横においてあった白地に青色で模様が描かれたカップにお茶を注いで俺に差し出した。
「え?」
平然と言ってのける先生に俺は驚いた。
受け取ったカップからは意識が朦朧としていたときに漂っていたものと同じ香りがした。
「私と一緒にいると、高木さんのように意識が遠のいたりする人が多いんです」
「それは、先生がすごく綺麗だからだ」
間髪を入れず俺は答えた。
「そうみたいですね」
あっさりと認めたものの、自分の容姿を誉められても先生は嬉しくとも何ともないようだった。
「外見で勝手にあれこれ思われても私は不快でしかありません」
ずっと穏やかだった先生が俺に向かって、苦い顔をして言い捨てた。
「…何があったんですか?」
「え?」
「俺も今のままだと先生を綺麗な歯医者さんだって事しか知らないから。
嫌だったらごめんなさい 」
先生は驚いた様子だった。
「立ち入りすぎてますか」
「いえ、そうではなくて、私はあなたに悪意を向けているんですよ」
「?
怒ることくらいありますよね。
先生は、人形ではないんだから 」
さらに驚いた顔をして黙ってしまった先生に俺は続けて言った。
「ただ俺には先生が不快な理由が分からな
い。
だから知りたいんです」
「………貴方は私の話より自分の意思を押し
通そうとは思わないんですか?」
俺はカップに口をつけてすすった。
「例えば、折角入れてもらったこのお茶。
香りはいいけど俺は苦手な味です」
俺は苦笑いした。
「怒りましたか?」
「いえ。
好みは人それぞれですから」
先生はきっぱりと言った。
「ですよね。
本音を伝えるのは悪いことじゃない。
俺も不満を隠されるより、本当の事を聞い
て関係がよくなるほうがいいと思います。
だから先生の本心が知れたなら、悪意でも
俺は嬉しいです。
本心を聞けたときは、悪意を好意に変える
チャンスです」
先生の瞳は潤んでいて、灯りの下で輝いて見えた。
同じように照らされている唇も無防備に軽く開かれていて、艶っぽい。
肌も陶器のようで、触れるとどんなに心地いいだろうと想像がつきない。
俺は惚れ惚れと見ていたが、ひとつ大事なことを言い忘れていたことに気付いて、急いで付け加えた。
「お茶の味は苦手だけど、いち患者の俺を介
抱してくれてお茶まで出してくれた先生の
優しさはすごく好きです。
だから、飲むのはちっとも嫌じゃないで
す」
俺はカップのお茶を一気に飲み干した。
先生は、俺を見ながら悲しそうに笑った。
「もっと早く高木さんみたいな人に出会えて
いれば、私も変わっていたのかもしれませ
んね」
その表情はあまりに儚くて、消えてしまいそうに弱々しかった。
先生は瞳をぎゅっと閉じてから、ゆっくりと開いた。
しっかりとした眼差しは、いつもの冷静な先生に戻っていて、人を寄せ付けまいとする意思がピリピリと感じられた。
「もう大丈夫そうですね」
先生は手際よく俺にかけてあった布団を畳み始めた。
遠回しにもう帰ってほしいと言われているようだ。
今を逃したら、先生は心の扉を固く閉じて、もう二度と近づかせてくれない気がする。
「いいえ、まだ駄目です」
俺はカップを机に置きながら先生のほうに体を乗り出すと、先生の唇に自分の唇を重ねた。
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