第2話 気絶

「こんばんは」

仕事が終わって8時前に歯科医院に出向くと、受付の若い女の子が愛想よく対応してくれた。


病院の内装は白を基調にしていて、白い壁に沿って素朴な橙色のシングルソファが何個も並べられている。

無駄なものがなく、小綺麗で悪くない。

これで腕が確かならかかりつけにしても良さそうだ。


俺は一番端のソファに腰かけて、向かい側の壁ににかけられている額縁を見上げた。

歯学部の修了証で、長谷川 廉と記名されている。

卒業年度から推測すると、おそらく26歳だ。

俺より3歳も上には見えなかったけど。


「高木さん、今朝はどうも」

診察室から朝会ったあの人が顔を出した。

今朝無造作に揺れていた髪は、綺麗に後で束ねられている。

俺は朝と同じようにぎゅうっと胸が苦しくなる。


「先生、だったんですね」

胸には医師、長谷川の文字が印字されたバッジをつけて、サックスブルーの医療服を身につけている。

先生は困ったように笑った。

「私を何だと思ってたんですか」

「えっ、何って…ただあんまり先生ぽくない感じがして」


慌てて弁解しながらも俺は、先生とこのまま話ができればどんなにいいだろうと思っていた。

けれど先生は慣れた感じで、さっさと会話にきりをつけた。

「誉め言葉ととっておきますね。

さあ、治療を始めましょう」


当たり前だけど、俺は先生にとってただの患者でしかないことを認識してしまい、一人舞い上がっている自分が虚しく思えた。

俺は、冷静になるんだと自分にいい聞かせながら先生の後に続いて診察室へ入った。


「はい、口を開けてください」


目をタオルで目隠しされた状態で聞こえる先生の落ち着いたアルトの声はあまりに艶かしくて、俺の心臓はどきっと飛び上がった。

治療しやすくするための目隠しなのに、全身に鳥肌がたって、落ち着く気配が微塵もない。


薄いゴム手袋を装着した先生の指が口のふちをなぞるようにするりと中に入ってきて、軽く口を押し開けた。


唇にあたる先生の指を感じながら俺は、今朝見た先生の指を思い出していた。

白くて細長い、傷ひとつない指だった。

動作も綺麗で、形の良い爪をした指を揃えて流れるように使う。


先生の指、声、表情、どれを見ても好きだと思った。

だから、先生は至って普通に治療をしているだけなのに、俺にはどうしても官能的に感じられてしまう。


歯を削るドリルの甲高い音が治療室に響く。

虫歯の治療は平気な方でもない。

けど、そんなことよりも俺は、自分の舌が先生の指に触れないように気を配ることに必死になっていた。

精一杯過ぎて、息をするのも忘れてしまいそうだ。

そう、息を、いきを………。


「高木さん。

大丈夫ですか?

あれっ、高木さん?

高木さん!」


先生の声が小さくなっていく。

自分の名前を連呼され肩を揺すられる振動を感じながら、俺は意識を失った。

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