異世界に聖女として召喚されたけど、王様が最悪だった。(短編)

雨傘ヒョウゴ

異世界に聖女として召喚されたけど、王様が最悪だった。

 

 異世界に聖女として召喚された。そもそもその時点でわけがわからないしどういうことなの、と叫んでしまいそうになったけれど、ぐっと堪えることができたのは自分でもなんとか及第点である。


 けれどもなんというか、「なんだ、もうひとりと比べてこっちは随分地味だな」と真っ赤な髪の王様が私の前髪を引っ張ってきたとき、「うるっせぇ!」と叫んでしまった。これはしまった、と思った。


 でも、悲しいことに口から出してしまった言葉というものは戻っては来ないのだ。

 後悔は、していない。



 ***



「ねえ真琴ちゃん。せっかく私達、聖女として召喚されたんだから、もうちょっとまったりしたらいいんじゃないの?」というのは私と一緒に召喚されたお姉さん。年齢は聞かないでと言われたので知らないけれど、大学を卒業して会社に勤めて、うん年目、ということをいつかぽろりと呟いていたので多分二十代の前半だ。


 濃いアイメイクとマスカラはマストアイテムらしく、最近の悩みはマツエクができないことらしい。まつ毛の量が減ることを彼女はとにかく恐れていて、神官さんにまつ毛増やしの魔法を開発するように命じていた。よろしくねとにっこり微笑まれていた若い気弱そうな神官さんがだらだらと汗をこぼしていたときは正直気の毒だとはちょこっと思った。


「わかって、わかってるんです、菫さん、わかってるんですけども……!」


 私はぐずぐずに鼻を鳴らして、気持ちの尾っぽをいつまでも引きずってうめいた。

 実は菫というのは本名じゃないそうだけど、異世界に来たんだからそれっぽい名前を名乗りたいわ~! とぱちんとウィンクをしていたパリピなお姉さんだ。とても明るい。

 そして私はただの高校一年生で、王様に地味と言われるくらいに特になんの特徴もなく、あえていうならちょっと勉強が得意というくらいで、我慢が人よりも下手くそかもしれない。多分これは特徴ではなく欠点である。


「だって、だってあのバカ王、めっちゃくちゃむかつくんですよ~~~~!!!」

「バカ王じゃなくて、ライナルト様ね」


 うおおん、と叫びながら力いっぱいテーブルを叩いていると、今までの出来事が走馬灯のように襲ってきた。思い起こせばひと月前のことだった。私と菫さんは、瘴気に溢れたフロレルジュ国を助けるため、『聖女召喚』という儀式でこの世界に喚ばれた。瘴気は魔物を集め、人々を混乱に陥れる。聖女は存在するだけで場を正常化し、魔物を遠ざけるのだ。なんて便利な職業なのか。最高である。私達以外にとっては。


「こっちのひと月って、あっちのどれくらいなんだろう……一秒だったりしないかな、もしくは反対に一年くらい経ってたら……」

「そこは考えても仕方ないわね。まあまあ落ち着きなさい。もとに戻る方法は一応探してくれているみたいだし。一人でいい聖女が二人。ということで瘴気が消えるのも二倍のスピード。お勤めが短くなりそうでよかったわー」

「うううう学校、学校で、友達が待ってるんですー!」

「真琴ちゃんのご両親は亡くなってらっしゃるんだっけ? でもまあ、学生さんならそういうとこ心配よねぇ。私は仕事がなくてぐうたらできるから万々歳だけど。イエイ」


 ピースピース、と両手でポーズをつけながらウホホと菫さんは笑っているけれど、私はそこまで開き直ることができない。ローテーブルだから低すぎるけど、テーブルに突っ伏しながら菫さんの自室で涙するのはすでに私のヘビロテ的な日常である。


「ほらほら真琴ちゃん、考えてみて? 聖女とは名ばかりでぐうたらできるなんて最高じゃないの! 何かすることがあるのかしら? と思ってたけど、別にそんなこともないし、こうしてお城でだらだらしてお菓子をむちゃむちゃしてればいいし」

「せめてむしゃむしゃにしてください。あああ、どうしよう。我慢ができない、まだ私、王様に手は出てないんですけど、いつか出そう。菫さん見てください。私、パンチには自信があるんです。えぐりこむように、こう……打つんです! フンッ! フンッ!」

「いい感じね、見てたら私も強くなりそう。むちゃむちゃむちゃ」

「いやだからお菓子を食べすぎですよ、だめだ! こんなことしてる場合じゃない、せめて勉強しよう! すいへぇりいべぇぼくのふねー!」

「ちょっとやめてよこんなところで教科書を開かないでよ」

「くーかりくーけれ」

「聞きたくない……聞きたくない……頭が痛くなるぅううう」


 菫さんも同じくテーブルに突っ伏してしまった。一体私達は何をやっているのか。


「もとの世界に帰ってきたときのために、勉強を忘れないようにしないといけないんです! カバンごとやってこれたのはラッキーでした!」


 ひぇえと呪文を聞いて頭を抱える菫さんにどどんと胸をはって伝える。なんせこんなときだ。せめて前向きにならなければやってられない。



 ***



「げっ」

「げげっ」


 教科書を抱えて自分の部屋に戻って行ったとき、噂のバカ王、ライナルトと対面した。バカ王は無意味なほどに髪が長くて、腰まである髪はさらさらつややかで、出来のいい顔を見せつけるがごとく前髪をかきあげている。最初に会ったとき、前髪をひっぱってきたことは未だに根に持っているので見ていると髪型までも腹が立ってくる。


 無視して去ってやろうと思ったが、一応このお城でタダ飯を食べさせてもらっている側である。挨拶の一つでも口にすべきかと考えて「王様、ご機嫌麗しゅうです」とそれっぽい言葉を伝えてみたら、「なんだその下手くそな口上は」と言われて、顔を思いっきり歪めていらっしゃった。右腕がうなりそう。ストレートで打ちたい。


「言い直します。ライナルトバ王様、今日も見事にご自身の頭髪と同じく無駄にド派手なお召し物が目に痛いほどに麗しいです」

「おい今バが多くなかったか。もしかして異世界の女はまともに名前もおぼえられんのか?」

「そこなの!? もっとトゲトゲしてたでしょ!? ちゃんと反応したり怒ったりしてよ!」

「なぜ褒め言葉に怒らねばならんのだ。俺が麗しいことは周知の事実である」


 スーパーポジティブにドヤッとされた。ぶんなぐりたくてたまらない。しかしそれはあちらも同じなようで、出会い頭にうるせぇと私に叫ばれたことを微妙に根に持っているらしく、菫さんと話すときと比べて、私と会話するときの王様はいつも若干顎がしゃくれていてアアン? と言いたげに上から圧をかけて見下ろしてくる。負けてたまるか。激しく火花を散らせてバチバチしている。


「れ、ライナルト様、そろそろ、その……」


 王様の後ろでは、菫さんにマツエク魔法を編み出せと命じられた気弱な神官さんが、あわあわしている。「何が言いたい、カッラ」「ふええ」 カッラとは神官さんのことだ。別にライナルト相手に根負けしたわけではなく、カッラさんが気の毒なのでこれくらいにするくらいにした。


「ふんっ!」

「はんっ!」


 王様も私と同じくそっぽを向いたから、まったく同じような反応である。そんなこんなな私とライナルトだが、一国の王様に失礼なことをしているんじゃないかとドキドキする気持ちはもちろんある。でももうあとには引けない。うるせぇと叫んでしまってお前の方がうるせぇと返されてしまった瞬間に、私達の関係は決まってしまった。


 これはライナルトが許しているからこそできる行為だとわかっているけれど、だからといってしおらしくするのと、暴れる感情を抑えつけるのとは別物なので、私とライナルトの戦いは続いた。バチバチである。



 ***



「菫さん、王様がめちゃくちゃむかつくんです、今日もとにかく嫌いです! 私が教科書を読んでたら、異世界の女はわけのわからん呪文を唱えるのかっていうんです!」

「そうよねぇ、私からしてもわけがわからないしねぇ……」

「でもなんでもかんでも、『異世界の女は』って枕詞につけるんですよ! それしか主語を知らないんじゃないでしょうかね!?」

「何でも代名詞に使われるのって、腹が立つわよねぇ。でも向こうからしたらきっと私達が不思議なのよ。こっちもそうでしょ? 次は『異世界の男は』って言ってみたら?」



 ***



「カッラ! なんだあの女は! せっかく俺が話してやっているのに、喜びの一つもせんぞ! 異界からやってきて心細く思っているだろうという俺の労りも理解できんとはどういうことだ!」

「お、おそれながら……真琴様はご自身で望まれてやってきたわけではございませんので、現状を理不尽に感じていらっしゃるのではないでしょうか?」

「なんだと? 聖女としてこの世界に召喚されるなど、これ以上ない名誉だろう。そんなわけがない! それに何かに付けて、『異世界の男は』と言ってくる。鬱陶しくてかなわんぞ」

「わたくしどもが、真琴様にとって異世界の人間ということは、間違いのない事実ですので……」

「うむ? ……そうか? しかしだな」

「ライナルト様、どうやら真琴様や菫様の世界では、聖女というものは存在しないようなのです。ですから、私どもと違う常識もあるのかもしれません」



 ***



「菫さぁん! 王様が! やっぱりむかつく! 今度は私の教科書を見せろっていって、盗んだの! ひったくったの! 大事な、大事な、だだだ、大事なものなのに……!」

「そうよねそうよね。私達の世界をつなぐものでここに持ってくることができたものってものすごく少ないもんね。とられちゃったら腹がたつわぁ。私もメイク道具をとりやがったらボコボコのボコだわぁ」

「そ、それで、早く返してっていったのに全然返してくれなくて、高くされたら手も届かなくって……」

「ライナルト様、背が高くいらっしゃるものね。こちらの人は日本人と身体の作りが違うというか。本当に全部が違うわよねぇ」

「見たいなら、見てもいいけど、でも、私、いいよって言ってないのに! ちゃんと返事をきいてからしてほしかっただけなのに! なのに、王様、私のこと、心が狭いやつだって」

「きっと興味があったのね。でも言い方がよくないわよねぇ」

「なんであの人、ごめんなさいの一つも言えないの!?」



 ***



「ああ腹立たしい! カッラ! お前があいつらは俺と違う常識があると言っていたから、俺もちょっとは理解してやろうと思ったのに……! まったく、一体何の文句があるというんだ!? こちらの心がわからんのか!」

「恐れながら……その、真琴様がいつもお持ちでいらっしゃる本は、とても大切なものだと菫様が以前おっしゃっておりまして……ですから、もしかするとなのですが、ライナルト様に盗られてしまう、と思ったのでは……」

「何!? 俺が盗むだと! ふむ。……それのどこに問題があるのだ? 王に書物の一冊を献上した、ただそれだけのことだろう? 喜ぶというのならばともかく、嘆く理由がまったくわからんのだが……」

「おっしゃるとおりなのですが、どうやら真琴様が住んでいらっしゃった国には、王というものがいないらしいのですよ」

「馬鹿な。そんなわけがないだろう。いやまて、以前にも、聖女がいないと言っていたな……」







 うわー! と私は菫さんの膝につっぷした。あらあらまあまあ、と言いたげに彼女は私の頭をなでている。長い爪がときどき頭に刺さって痛いのはご愛嬌だ。ライナルトは会う度に私につっかかって邪魔をする。好きでこんなところに来たわけじゃない。だからせめて放っておいてほしいのに、何かにつけて私の勉強の邪魔をする。


「帰りたい、はやく、家に帰りたい……」


 丁度、菫さんのもとにマツエク魔法を届けにきていたカッラさんが、ぎくりと体をこわばらせた。

 私と菫さんを召喚したのは、カッラさんを含む神官の人々であり、彼らが異界をつなぐ架け橋になったことを知っている。国を取り巻く瘴気も少しずつ収まってきたし、もとの世界に帰る方法を探してくれているけれど、目下調査中のままでうんともすんとも進んでいない。


 カッラさんは煙突のような帽子に手をあてて、とても恐縮しているような様子だった。別に、彼を責めたわけじゃない。嘘だ。心の中では十分すぎるほどに責めている。でもそんなことを言ったってもとに戻れるわけじゃないこともわかっている。


 この世界の人々が、瘴気にみんな苦しんでいた。だから、聖女を召喚することは否応ないことだった。私を召喚しないかわりにみんな死ねと見知らぬ人達に願うほど、私はまったく強くない。関わりがないのなら興味もないけど、自分で押せるスイッチを握らされてしまったら逃げることだってできなくなる。


(でも、だからって)


 自分を犠牲にして、みんなが幸せになればいいなんてことも思わない。だからせめて、「あ、謝って、ほしい……」 ごめんなさい、と言ってほしい。ここに呼び出してしまって申し訳ないと、本当は本意じゃなかったけど、どうしようもなくで、仕方のないことで、本当にごめんなさいと、そう言ってほしいのだ。


「……なんていうか、真琴ちゃんって素直よねぇ。本当の気持ちを出すなんてお姉さんとっくに忘れちゃったわ。最後にこんなにぶつかったのいつかなぁ」


 菫さんからすれば、私はきっとしょうもないことに怖がって前にも進むことなくひんひん泣きながら生きているように見えるんだろう。それでもよしよしと頭をなでてくれる彼女は、やっぱり私よりもずっと大人だった。


「あ、あの、真琴、様」


 菫さんの膝の中で泣いている私の隣に慌てて座り込んだのはカッラさんだ。この人はいつも泣き出しそうな八の字眉毛で、きっとライナルトにいいように使われているんだろう。同情したい。


「真琴様、ライナルト様は謝ることができないのではないんです。謝ってはいけないんです」

「……謝っては、いけない……?」

「長らく聖女召喚は行われませんでした。それこそ、帰還の方法がわからないほどにです。けれど、この国、フロレルジュ国にとって、聖女召喚の儀式は女神の力を得ることができる誉れであり、誇るべきものなのです。ですから、僕も……その、実際の真琴様や、菫様を見るまで、聖女の皆様はきっと喜んで召喚される、ものだと……」

「そんなわけない!」


 ぴょっと犬が耳を垂らすみたいにカッラさんは小さくなる。あらあら、と菫さんは笑っている。


「ねえ真琴ちゃん。前に召喚された聖女の人達は、ずーっとずーっと昔だったんでしょ? この国はその聖女さんにとってアウェイだったんだろうし、周りに都合がいいようにお話なんて捻じ曲げられていくものだと思うな。女子更衣室の噂話も、そんなもんだし」


 ふう、と息を吐いて菫さんはふるふると首を降っている。色々とあったんだろうか。ジョシコウイシツ……? とカッラさんは首を傾げていたけれど、はたとして床に座り込みながら彼は私に向かい合った。


「ですから、この聖女召喚が間違いであったと謝罪してしまえば、フロレルジュ国の歴史そのものを否定することにもなりかねません。そして、ライナルト様はおそらく今までの人生で、一度も謝ったことがないのです」


 さすがにその言葉には私と菫さんはどんびきして、そっと互いに抱きしめたままカッラさんから距離をおいた。


「お、お待ちください! 違います! ライナルト様は幼い頃から謝罪の言葉を避けて育てられました。前国王であるライナルト様のお父君は身体が弱く、ライナルト様の治世になる日は、そう遠くはない、と思われていたのです。謝罪をするということは、間違いを行うということです。ですからすでに亡くなられてはおりますが、ライナルト様のお母君は、それは厳しくライナルト様を躾けられました。謝ることが必要がない、間違いを犯すことのない、未来の王を作り上げたのです」


 きょとん、と瞬いた。

 ライナルトは多分二十歳を過ぎたか、もしくは過ぎてないか程度の年で、下手をすると菫さんよりも年下だ。随分若い王様だと思ってはいたのだ。


「ですから、ライナルト様は謝ることを許されなかったのです……」


 しんみりとした声でカッラさんがまるで自分のことのように悲しげな顔をする。カッラさんとライナルトは身分も違うけれど、もしかすると小さな頃は仲のいい友達のような関係だったのかもしれない。私は想像した。少しだけ息を止めて、瞳を伏せて、たくさん考えた。そして、カッラさんを見つめる。


「いやそれ私に関係あります?」

「…………は」

「だからですね。ライナルトがそんな育てられ方をしました。王様として生まれましたってことは理解したんですけど、私が今抱えている感情と関係ありますかね?」

「あ、あの」

「こっちは見ず知らずの国どころか世界に召喚されまして死ぬほどふざけんじゃねぇなんですけど。それとこれと関係あります? あります? ないですよね?」

「…………ないです…………」


 WINNER! と拳を握って天井に突き出した。菫さんが呆れたようにため息をついて、それでもちょっと笑っている。カッラさんは心持ちかしおしおになっていた。そんな彼に、「ところで早くマツエク魔法をかけてくれる?」とお願いしちゃう菫さんも中々である。


 翌日、菫さんのまつ毛はもりもりになっていた。これがないと元気がでないのよね、と言っていたけど、人にとって心の拠り所となるものは色々あるんだろう。私にとってはそれが教科書で、問題集で、明かりもついていない、ぽつんとした家だった。





「…………とは、言ったものの」


 関係ないですよね? とカッラさんに言い切ったけど、知らないと、知ってしまうとまた別だ。なんであいつは謝らないんだ、とお腹の中がぐるぐるとしていたはずなのに、そういう理由じゃ仕方ないよね、と心の底で思ってしまう。そしてこんな自分が許せない。私がこの世界にやってきて苦しかったり、悲しかったりした気持ちはちょっとやそっとのことではないはずなのに。


 いつもの教科書に加えて問題集とノートを抱えてお城の中をふらふらと移動した。図書館だと読むことができない文字に囲まれていると思うとなんだか気持ちが嫌になるし、どうせなら見晴らしのいい場所にしたい。それならばと広い庭にやってきて、小さな小さな花の芽を見つけた。チューリップの球根からやっとちょっと飛び出したみたいな、爪の先ほどの可愛らしい花の芽だ。一体どんな姿になるんだろう、と気になってちょこんと座ってじっくり見てみることにした。さわさわと頬を撫でる風がとっても気持ちがいい。


「あー……もっとたくさん、鞄に本を詰め込んでたらよかった。授業数が多い日だったから、まだマシだったけど、問題集がほしかったなぁ。くーからくーかり、しーきーかるけれかれ……古文はだめ……何回も言わないと忘れる……」

「だからその魔女の呪文のような言葉はなんなんだ」

「ひいいいい」

「化け物でも見たかのような反応はやめろ」


 スーパーポジティブの塊だった王様だけれど、さすがに私が嫌がっているということはさすがに理解してくれているらしい。よかったと思えばいいのか、どっか行ってくださいと言えばいいのか。


 ものすごく迷って、私はノートと問題集を抱えたまま10センチくらいお尻の位置を移動させて後ずさり、大きなため息をなんとか飲み込み、そのままどすんと体育座りをすることにした。やっと居心地のいい場所を見つけたのだ。王様に負けて場所移動なんてしたくない。


 ライナルトはチューリップの球根らしきものを見つめて無言で本を開いた私をじっと見下ろしていた。なんともいえない気配を感じながら無視していると、唐突に、どっかりと隣に座り込んだ。ヒイッと心の中でさらに悲鳴を上げた。王様なんだから忙しいでしょあっちに行って、と言いたいけれど多分言わなくても勝手にどこかに消えてくれる。会う度に私につっかかってくるライナルトだけれど、実は本当に忙しいらしく、一言二言重ねる程度ですぐに誰かに声をかけられて、いつもさっさと消えてしまう。


 だからいちいち相手をするより、黙っていた方がいいと判断したのだ。それだけだ。


 古典の問題を問いて、シャーペンを紙の上ではしらせる。芯が少なくなってきたから、大切にしないといけない。気持ちの上では筆圧を和らげて、ちょっとでも使う量を少なくするように節約する。「……おい」「んぐっ」 なのに声をかけられて、思いっきりペンのさきっちょの芯が折れて吹っ飛んだ。喋らないようにと意識していたからか、逆に口が妙な形になって自分の肩がめちゃくちゃ飛び跳ねた。


「な、なんですか……」


 心臓がどくどくしている。さすがにここまでくると無視をするのも気がひけたので、そっと振り向いてみると、想像よりもライナルトの顔が近かった。びっくりした。けれどそれ以上にこの人って金色の瞳をしているんだな、ということに初めて気づいて、そっちにばかり視界が移動する。いつも顔を合わせたら喧々諤々の怒鳴り合い、叫び合いばっかりで、まともに顔を見たことはなかったかもしれない。わかっていたはずなのに、こんな顔をしていたんだ、とじっくり飲み込むようにライナルトの鼻筋が整った顔つきを見た。


 ライナルトは不思議と静かな表情をしていた。そしてつい、と長い指を私のノートに向ける。


「……それは、本当に魔女の呪文ではないのか?」

「…………は?」


 言っていることがなんだかおかしい。しかしバカ真面目な表情だからどうやら本気なようである。「じゅっ、じゅも……」 こいつは何を言っているんだ、と言いたくなって叫ぼうとして、ここは異世界なのだと思い出した。彼は『異世界の男』なのだ。


「……私の国の、勉強の方法です。昔の話は、現代と書き方が違うので読み方を覚えなきゃわからないんです」

「そうなのか。俺はてっきり、いつもお前が呪いの儀式をしているのだろうと思っていたんだが」

「そんなことできませんし、できるならとっくに王様にかけてますけど!?」

「俺には特級の呪い返しの守りがあるからな。下手に呪うと死ぬぞ」

「冗談だっつーの!」


 真面目な顔をして言うことだろうか。しかし、この世界では呪いというものがきっと本当にあるのだろう。世界が違う、という言葉を改めて理解して、ため息が出てしまった。「……昔の話を紐解く魔術の呪文だったか」 違うけれども訂正するのが面倒なので放っておくことにした。


「お前の国にも、歴史というものがあるんだな。そしてそれは、我が国とは異なっている……」


 噛みしめるような声が、さらさらと風の中に飲み込まれていく。「常識も違う、か……」 ぽつりとライナルトは呟いた。


「おいお前。本当にお前の国では聖女という存在がないのか?」

「な、ないですよ! そもそも魔法なんてありませんし……」

「魔法がない!? それでどうやって生きていくんだ。死ぬだろう!」

「色々と、こう、色々とあるんです! 死なないです! 言っときますけど、魔法なんてなくても便利なんですよ、菫さんだってマツエクがないって嘆いてたし! 開発してもらってたけど! こっちの世界は不便です!」

「そんなわけがない。この国ほど素晴らしいものはない。なぜならフロレルジュ一世が魔の土地を切り開き、肥沃の大地に変えた奇跡の国だぞ!」

「いや誰なのよ知らないわよ! 奇跡の国ならシャー芯ちょうだいよ!」

「しゃーしんとはなんだ、また謎の呪文をほざくな!」

「これよ、便利なペンよ、私は文字を書かなきゃ覚えられない派なのよ! ああもう、早く家に帰りたい!」

「……まさかお前、本当にもとの世界に帰りたかったのか?」

「当たり前でしょ!!?」


 敬語も忘れて叫んでしまったから、ほんの少し涙まじりの声になってしまった。そんなつもりはなかったのに、鼻の奥がつんとした。これはだめだ、と思ったから普通の声になるようにがんばったつもりだけれど、やっぱりだめだった。情けない声になってしまったことが悔しくて、ペンを持ちながらごしごし目を拭った。


 それを何度も繰り返して、やっと大丈夫だと思ってライナルトを見たとき、彼はぽかんと驚いたような顔をしていた。自分では思ってもいないような場所からボールを投げつけられた猫みたいな顔だった。狼みたいな瞳をしていて、何かの強い動物のような姿や、雰囲気をしているくせに、そのときのライナルトは小さな子供のようにも見えた。



 時間だ、と言って、すぐにライナルトは消えてしまった。私だってわけもわからなかったけれど、時間が無限ではないことは十分に知っている。だから必死に問題を問いた。わからない問題でも、時間をかけて、ゆっくりと進んでいった。





 それからライナルトは私のお気に入りの場所にやってくるようになった。


「……カッラは、お前が聖女として召喚したことを、喜んではいないと言っていたが、もう一人は違った様子だったから、まさか本当にそうだとは思わなかった」

「……菫さんは、なんというか特殊だから」


 多分。会社なんてくそくらえ、と叫んでいる彼女が次にカッラさんに求めたものは、自分が持っている化粧ポーチの中身を無限に増殖させる方法である。さすがのカッラさんも無茶苦茶ですよと泣いていた。しかし菫さんにとってお化粧道具がなくなってしまうことは死を意味するようでぐいぐいしていた。彼女は負ける気などゼロだった。



 ――チューリップらしき球根は、中々大きくならない。ちょっとだけ不安になったけれど、私が思う花と違うかもしれないのでじっくり待つことにした。



「お前、親がいないんだってな。なのに、なんで帰りたいんだ?」

「親がいなくても、友達がいるの。勉強を教える約束をしたもの。学校にいって、テスト勉強がんばろうねって話をしたの」


 もうテストなんて終わっているかもしれない。けれど、してしまった約束は守りたかった。私の家族は、ある日いきなり帰らなかった。だから私は誰も開けることもない扉を見て、いつまでもぽつんと待った。



 ――ちょんと尖った緑の芽はぐんと伸びて私の指先程度の姿を見せた。なんとか育ちそうでほっとした。



「王様だって、ご両親がいないんでしょ。カッラさんが言ってたけど」

「まあな。それがどうした?」

「……悲しくないの?」

「先代の王の寿命は誰が見ても明らかだった。わかっていたことを悲しがる必要などどこにもない。母がいなくなったときは、わずかな喪失感はあったが、その程度だ」

「そう、なんだ。私は悲しかったな。でも、いきなりだったからかもしれない。おかえりって言うはずだったのに言えなかったから。だから私、絶対待ち合わせには絶対遅れないんだ。自分が悲しかったことを、他の人にしたくないんだよ」

「面倒な考え方だな」

「こうして話してみると、私達ってほんとに違うんだね。すごく、違うんだね」

「……ああ、そうだな」



 ――ぐんぐんと、ぐんぐんと芽は伸びた。驚くほどのスピードだった。淡い緑の葉っぱが大きく広がりちょっとやそっとのことでは潰れないような、硬くてしなやかな葉っぱに変わる。蕾の色は真っ白だった。



「友達の名前はねぇ、あっちゃんって言うんだよ。幼馴染みで、ずっと一緒にいてくれた。悲しいときも背中を叩いてくれてさぁ。なんにも言わないけど、あったかくてさ、私、あっちゃんみたいな手のひらになりたいなぁ、って思った」

「……真琴、それは男か?」

「あっちゃんって言ったじゃん。いや言ってもわかんないか。女の子だよ、っていうか聞いてた? ねぇ、聞いてた? 本筋と質問がまったく違ってておかしいんですけど」

「そうか女か」

「聞いてないよね」






 ああ、と。

 私なのか、ライナルトなのか。どっちともわからずに小さな声を出した。膨らんだ花の蕾は今にも弾けてしまいそうだ。感嘆の声だった。今か今かと開花を待つ私の隣で、別に何の意味もないように、ライナルトはちょいと私の顎に指を伸ばして、ほんの少し顔を近づけようとした。それが何の意味かわからないくらいに私は馬鹿ではなかったけれど、うわあ、とびっくりして逃げ出した。


 ライナルトといえば、特に表情に変化はないように見えたけれど、よく見ると眉間にシワができている。逃げるべきじゃなかったか、それとも、とノートを抱きしめて視線をぐるぐるさせていると、ぽんっ! と花の蕾がはじけた。


「えっ!?」


 どこにそんな量がと驚くくらいに蕾の中からたくさんの花弁がぐんぐん、どんどん生まれて、勢いよく舞い上がった風の中で踊るように私達の視界を真っ白に染めた。


 花の海におぼれて、苦しくて、息すらもできないほどだった。でもすぐにライナルトが私に覆いかぶさるようにかばってくれた。白い花びらは風にさらわれ消えてしまう。残ったのはマントと髪にたくさんの花びらをつけたライナルトだ。彼は難しそうな、もしくは不愉快そうな顔をして長い髪とマントをはらった。それでも払いきれていないところは、私も笑いながら手を伸ばして、ひとつひとつとっていった。


「……何がおかしいんだ」

「だって、チューリップだと思ってたから。びっくりしたんだよ」

「ちゅーりっぷ? 知らんな。あれは、白花だ」

「シンプルな名前だね」


 白い花だから、白花。もうちょっとひねってあげてもいいだろうに、と思ってしまう。ライナルトは淡々とマントを綺麗しながら、「昔につけた人間が、名付けたくなかったんだろう」と伝える。いつの間にか、彼と言い合いをすることはなくなってしまった。ライナルトとは互いに同じ言葉を話していても、込められた意味が違うことがあるとわかったから、お互いきちんと確認をするようになった。そうすれば、やっぱり喧嘩することはあるけれど、伝え合うことができると知ったのだ。


「名付けたくなかった? どうして?」


 めんどくさがりな人だったのかな、と笑ってしまう。けれども奇妙なほどにライナルトの表情は変わらなかった。ぴくりとも、笑いもしない。


「別れの花だからな」

「…………」


 動けなくなった。互いに視線も合わせられなかった。言葉を伝え合うことで、ほんの少し距離を縮めることができた。けれどもやっぱり、私達は他人で、育った場所も、考え方も違っていて、全部が全部理解できるなんてあるわけがない。


 ライナルトは、私と菫さんを元の世界に返す方法を探してくれた。そして、とてもとても、古い文献を見つけた。


 すでにこの国に楔を打たれた聖女は、元の世界に戻ることはできない。けれども召喚されたものが二人ならば。


 ――喚ばれた聖女のうち、片方のみが、帰還できる。




 ***




「え? 私? かえんないかえんない。真琴ちゃん、帰りたいんだよね? 全然気にしないでいいよぉ」


 と、菫さんはいつもと同じくにこにこ笑いながら片手を振ってくれた。もとの世界に戻ることができる時間と日付は決まっていて、そのときを逃したらどっちも帰ることができなくなってしまう。気づいたときには時間は刻一刻と迫っていて、落ち着いて考えることもできなかった。


 だから、菫さんがそう言ってくれて、ほっとした。私も帰りたいと言われたらどうしよう。でも、私は譲りたくない。だって友達が待っている。いきなりいなくなってしまうのはもう嫌だ。私は約束を絶対に守りたい。あっちゃんに悲しい思いなんてさせたくない。

 それに、と帰りたい理由は他にもあったけれど、なんとなく言えなかった。とてもとても大切なことだから、口になんてできなかった。


「……でも、真琴ちゃんはいいの? ライナルト様と……」

「えっ、なんで? 帰るよ。最初からそう言ってるもん」


 わざと明るい声を出した。それならいいけど、と菫さんは綺麗な眉をしゅんとさせていたような気がするけれど、そっぽを向いた。






 準備する時間なんてないくらいに、あっと言う間に時間は過ぎていった。私達を呼び出したときはたくさんの神官さんが必要だったけれど、呼び出すことは難しくても返すことは簡単だそうで、この場にいるのはカッラさんと、お見送りの菫さん。そして一応ライナルトだ。ライナルトは何か重たそうな荷物を無造作に持って地面に置いた。袋の中身がこすれあって、じゃりじゃりした音がなっているのが不審である。


 なんというか、もっと厳かな場所で行ってくれるのかと思いきや、場所は晴天の青空の下でぶっちゃけいつもの私とライナルトのたまり場である。別れの花が散った場所が最適とのことで、私は知らずに自分のさよならのきっかけを育てていたらしい。少し苦いような味がしたのは、多分気の所為だと思う。


 荷物は十分にまとめて、背負った鞄の中には教科書と参考書、そしてノートと筆記用具もばっちりだ。持ってきたものが少ないから、持って帰るものだって同じだ。


「真琴。帰るのか」

「もちろん帰るよ」

「そうか」


 今更な問いかけである。せめて前日までにしておくべき掛け合いだったのではなかろうかと思ったけれど、私も言うことができなかったのでおあいこだ。ライナルトの高い背を見上げながら、「さよなら」と伝えた。彼は返事をしなかった。それがなんだか寂しいような気がした。


 カッラさんが、大きな手鏡にきらきらとした太陽の光をたっぷりとそそぎこんだ。そこに、私を大切に想う人が映っているらしい。その人までの道筋を頼りに、もとの場所に帰ることができる。


「ええっと、時間です。始めます」


 おろおろとしつつカッラさんが手鏡の準備をする。ぴかり、ぴかり、と奇妙なほどに明るく鏡が映る。真琴、と誰かが私を呼んでいる声が聞こえる。「あっちゃん」 ふらりと一歩を踏み出したら、つんのめった。ライナルトが、私の腕をひっぱっていた。


 金色の瞳が、じっと私を見つめている。息を止めた。重たい何かが、どしんと胸の奥にくる。でもだめだ。振りほどこうとした。そのとき、『梅子……』という声が聞こえた。いや誰。瞬間、その場にいる人達の心の声が重なった。伝わってくる雰囲気である。


 手鏡から聞こえているということは、私達を呼んでいる誰かであることは間違いなかった。だからこそ写ったのだし、鏡は召喚された聖女を呼ぶ声に反応する。カッラさんがあわあわして、ぴかぴかさせていると、鏡の中に、中年の女性がぽろぽろと涙をこぼしている姿が見えた。だから誰だ。


 知らない相手に帰っておいでと言って泣かれている。ど、どちらさまなの……と困惑以外の何者でもない感情をごくりと飲み込んだとき、ふと思い出した。菫さんは、本名じゃない。異世界に来たから、それっぽい名前を名乗りたいとイエイと元気に楽しんでいた。


「……う、梅子、さん……?」


 カッラさんと私が勢いよく菫さんを振り返って、さらにゆっくりとした動作でライナルトも続いた。菫さんはマツエク魔法でびしびしになっていた大きな瞳を見開いて、じっとカッラさんの鏡を見た。中年の女性の姿から、男性に変わって、今は菫さんとよく似た私と同じ年くらいの男の子だ。姉ちゃん、どこ行ったんだよ、と彼は言って、耐えようとして、それでもだめで、ぼろりと涙をこぼしていた。大声で泣いていた。


 そこまで見たとき、もうこれが誰かなんて、言わなくてもわかった。しんとして、どれくらいかわからない時間が経って、やっと聞こえたのはカッラさんが手を滑らせて鏡を地面に落としてしまった音だった。カッラは悲鳴を上げて、割れていないかどうかを確認して息をついて、すぐに自分の体で鏡を隠した。間違えましたね、これじゃないですね、と呟くように言って、彼のごまかし笑いばかりが響いた。


 気まずい空気の中で、菫さんはじっと地面を見つめていた。そしたらその大きな瞳からみるみるうちに涙が溢れて、こぼれて、ぼたぼたと地面に落ちた。せっかく綺麗にしたお化粧があっという間にぐしゃぐしゃになっていく。こんな菫さんの姿は初めてみたから、私はどう声をかけていいかもわからなくて、「菫さん……」と小さな声を出すことしかできない。


 溢れる涙の量は、どんどんと増えていく。地面を見ていたはずの彼女は、今度は空を見上げて、必死に瞳をつむった。ぱくぱくと息もできないくらいに口を開けて、閉じてを繰り返して、言葉にもならずに消えていく声があった。その中で、やっと形になったものは、「かえりたい」と言った言葉だ。


「帰りたいよ、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい……!!!」


 一つ言葉があふれると、次々に漏れ出てくる。お母さん、お父さん、ときっと彼女の弟らしき、男の子の名前を彼女は呼んだ。誰も、何も言えなかった。ぼろぼろになった彼女は、ひくひくと喉を震わせて吐き出して、わあっと座り込んだ。体育座りで指の先が真っ白になるくらいに自分で自分の身体を抱きしめて、嗚咽をもらす。


 しん、と静かになったとき、菫さんはごくんと何かを飲み込んだ。「ごめん、さっきのなしで」 からっとした表情で立ち上がって、服の汚れを叩いている。声だけ聞けば、なんてこともないいつもの菫さんだ。にこにこ笑っている。でも鼻を真っ赤にして、パンダみたいな目で、さっきの全部が嘘だったなんて、ありえるわけない。


 そのとき、気づいた。ずっと、菫さんは私に嘘をついていた。


 ――なんていうか、真琴ちゃんって素直よねぇ。本当の気持ちを出すなんてお姉さんとっくに忘れちゃったわ。


 彼女の本当の名前だって、私は知らなかった。いつだって嘘で塗り固めて、本当のことを教えてくれなかった。


 ――え? 私? かえんないかえんない。真琴ちゃん、帰りたいんだよね? 全然気にしないでいいよぉ


 でも、多分、それは。

 私のためだ。



 ライナルトは、菫さんが帰りたくない様子だったから、私もてっきりそうなものだと思っていたと言ったとき、あの人は特殊だから、と伝えたけれど、そんなわけない。


 私はこの世界にきてずっと不安で、怖かった。でもいつも菫さんが笑っていたから、こころの底では、ほっとしていた。一人じゃなくてよかったと思って、いつでも菫さんに泣きついて、大人なお姉さんに甘えていた。でも、私よりもずっと大人だと思っていた彼女は、大人だけど大人じゃない。大学を卒業して、社会人になったばかりで、私よりもちょっと年上な程度のお姉さんだった。菫さんは私がいるから子供になることができなかった。自分だって帰りたくて、怖かったくせに、ずっと大丈夫なふりをしていた。


(私だって、帰りたい)


 他人のために、自分を犠牲にすることなんてできない。


(それでも)


 嫌だと思っているはずなのに。勝手に口が動いている。


「――菫さん、あなたが帰って!」


 ああ、しまった。言った瞬間に後悔した。私は菫さんの両手を、自分の両手でぎゅっと掴んで握りしめた。想像よりもずっと小さな彼女の手はとても冷えていて、今すぐに温めてあげたかった。


「ま、真琴ちゃん? いやいやさっきのは冗談だから。思わず勢いで飛び出ちゃったというか?」

「そういうのはいいですから。時間がないでしょ!? カッラさん!」

「はいぃ!」


 元の世界に戻るための道が開いているのは、ほんの少しだけだ。ぐだぐだしてしまっていては、どっちも戻ることができなくなる。ごくんとツバを飲む。じっと菫さんを見つめたあとに、彼女を勢いよく彼女を抱きしめた。優しく頭を撫でる人になりたかった。でも私は全然だめで、やめろと叫ぶ自分を抑えるために必死に彼女を掴んでいる。


「菫さん、私、帰らない。もう決めた。話し合っている時間はないから、どうか頷いてほしい」


 今度はぐいっと菫さんの肩を掴んで、じっと見つめた。

 困惑した瞳で菫さんはパチパチと瞬いていたけれど、ぶるりと唇を震わせて、ゆっくりと頷いた。今にも泣き出しそうな顔で、それをなんとか飲み込んでいる表情だった。「よし!」 そうとなったら、忙しい。


「カッラさんは、今すぐ菫さんをもとの場所に戻す準備をして! 対象が変わっても大丈夫ですよね!?」

「は、はい。呼び声があれば、それで」

「ライナルトはカッラさんを手伝う! 鏡を落とさないように固定!」

「お、おう」


 えっとえっと、と頭の中を必死で回転させる。背負っていた鞄を慌てていたから引っかかりながらも腕をひきぬき、ファスナーを開いて問題集を取り出した。「これ、あっちゃんに、そう、あっちゃんっていうのは明子って子で、ああ学校名、いいや、鞄! 全部もってって!」「わ、わかったわ」 慌てて色々省略しすぎな気がするけれど、なんせ一生に一度の状況だ。冷静になんてなれるわけない。


 それから。


「もし、可能ならだけど、私の、家族のお墓に」


 綺麗にお花をそえて、掃除をして。

 そこまで言おうとして、これは求めすぎなことだと気がついた。私と菫さんは他人だから、そこまで面倒を見る義務なんてどこにもない。でも、誰にも言えなかったけれど、これがもとの世界に帰りたかった理由の一つでもあった。どうか、お墓の管理をしてほしい。いなくなってしまった大事な人を忘れないでほしい。そう思うけれど、お金も、時間もかかってしまう。簡単にお願いできることではない。


「菫。餞別代わりに、真琴に渡そうとしていたものだ」


 そのとき、どしんと菫さんの荷物が増えた。ライナルトが大きな袋を菫さんに渡したのだ。何か彼が無造作に地面に置いていた謎の袋である。開けてみると金銀財宝がつまっていた。「ヒエッ……」 なぜか私が悲鳴を上げて、菫さんも顔をひくつかせていた。


「給料代わりだ。好きに使え」

「……もらってくわ。仕事もクビになってるかもしれないし、退職金代わりね」

「金で解決できることではないかもしれんが。せめてもと考えてはいた」

「お釣りがくるわよ」


 ふんっと菫さんが鼻から息を出すように笑った。そして、私を見た。「お墓ね。任せて。誰に聞いたらわかるの?」 ぐっと息がつまった。それから、生徒手帳に親戚の電話番号が書かれていることを思い出して、念の為に場所も必死で伝えた。


 こうして、私達が菫さんと話す時間はほんの短い時間しかなかった。

 私の通学用鞄を抱きしめた菫さんは、ぎゅっと唇を噛んでいた。多分、私も同じような顔をしていたと思う。瞳を閉じて、瞬くと菫さんは消えていた。カッラさんが握っていた手鏡は、ただの鏡に変わってしまって、もう使うことができない。




 さっきまでの慌ただしさが嘘のようで、いつもと変わらない風が、ひゅるひゅると吹いている。


「う」


 風の匂いがやわらかで、胸の中がいっぱいになっていく。


「う、う」


 なのに、頬がとにかく冷たかった。寒くて、寒くてたまらなかった。


「う、う、う、う、うあーーーーーーーー!!!!」


 力いっぱいに、泣いた。


 綺麗な泣き方なんてできなかった。一生分の涙はずっと昔に出し尽くしたはずだったのに、次から次にあふれてくる。ぼたぼたとこぼれて、立っていることもできなくて、何かを抱きしめようとしたのに何もない。「あっちゃん、ごめんね」 聞こえもしないのに、会えもしない幼馴染みに謝った。自分は消えないって誓ったのに。絶対に誰にも悲しい思いをさせないと願ったのに。なのにだめだった。


「ごめんね、ごめんね、ごめんねぇ……!」


 誰かが、私を力いっぱいに抱きしめていた。覆いかぶさるように大きくて、安心して、ほっとしたのに、憎たらしくてたまらなかった。


「はなせ!」


 じたばたと暴れた。ライナルトは私を離さなかった。


「はなせ、はなせ、はなせ! あんたのために残ったんじゃない!」


 汚い感情を叩きつけた。「私は、絶対に、あんたのために残ったんじゃない!」 叫べば叫ぶほど、ライナルトは強く私を抱きしめた。ぴくりとも動かなかったし、逃げなかった。


 好きな人ができた。それでも、私にはもっと大切なものがあった。自分の中にある、譲れないものがあった。でも、それでも。


「私が! 残ったのは! 菫さんのためでもない! 菫さんの、ご家族のためなんだ!!!」


 私にはもう家族がいない。だから天秤にかけたのなら、重たくなる方はきっと菫さんだった。そんなわけない。違う、と言いたいのに、どうしても想像してしまった。誰も帰ってこない家族を待つ気持ちを、私は多分、誰よりも知っているから耐えられなかった。「わかっている」 ライナルトが、大きな背を折り曲げて、暴れる私の頭を大きな手のひらで震えながらも押さえて、自分の肩につけた。「わかってる」 染み込むみたいな声だ。一体、今ライナルトがどんな顔をしているのか、私には見えない。けれども。


「……すまなかった」


 王様が、私に謝る声が聞こえた。


「本当に、すまなかった……! お前の世界を奪った。約束を破らせた。一生をかけてつぐなう。お前を、一生かけて大事にしてみせる」


 だからお前は、俺を許すな、と告げた彼の言葉が、どんなに覚悟を決めてのものかほんのちょっとでもわかっていたのに、私ができたことは、鼻をすするだけだ。強く強く抱きしめられたまま、声を押し殺して泣いた。うん、と何度だって、頷いた。





 ***




 みんみん、と蝉の声が聞こえると、また次がやってきたんだな、となんとなく思う。どれだけ泣いても、苦しくても時間はすすむし、ぼやけてくるものらしい。


 くあ、と俺はあくびをした。首の後ろをぽりぽりとひっかいて、ベッドから起きた。部屋のテレビがつけっぱなしになっていたから、しくじった、とか母ちゃんにばれたらやばい、と慌ててリモコンを使って証拠を隠滅して、壁にかけられたカレンダーを見た。大学の夏休みは長い。とんとんと指で日付を叩いて確認して、まだまだ休みがあるぞ、とベッドの上に転がったとき、遠くで泣いている声が聞こえた。


 ぞわりとして、飛び起きた。部屋の扉を開けて、胸騒ぎのような感覚で階段を勢いよく下りたら、玄関の扉が開いていた。ひゅっと息を飲んで、「ねえちゃん!」 


 麦わら帽子をかぶった姉ちゃんが、なんだとばかりに振り返る。ほっとした。恰好はアウトドアなくせに、化粧はいつだってばしばしで、最近はまつ毛の量がいつも以上に増えているような気もする。


「なに? どうしたのよ」

「……どこいくんだよ」


 少し前のことだ。姉は、いきなり消えた。家中がぐちゃぐちゃになって、息をするのだって苦しかった。別に姉弟の仲がいいわけじゃなかったし、むしろどっちかというと悪かった。でも、いるはずの人間がいなくなるということはとてもおかしなことだった。


 遠くて聞こえた泣き声は、多分昔の俺の声だ。こらえきれなくて泣いてしまって後悔して、ちくしょうと自分の額を殴った。そんな苦しくて、耐えられないような記憶は段々と遠くなって曖昧な日々になっていく。でもふとしたとき、顔を出す。


「ひみつ」


 なのにこの女はこっちに気持ちもわかりもしないで、うふふと笑っている。


「おいババア。かわいくねぇよ、行き先くらい言ってけ。母ちゃんが心配するだろうが」

「あんたの方が百倍可愛くないわよ。いつまで思春期ねじらせてるのよ。……でも秘密なんだもの、大事な大事な場所だからね」

「……そうかよ」


 しらねぇ、とそっぽをむこうとしたとき、「大丈夫。他の子も一緒だから。安心して」「誰だよそれ」「あっちゃん」「だから誰だよ」


 靴をはいて立ち上がった姉ちゃんは、ぴかぴかの太陽を背負ってやっぱりにっかり笑った。


「ごめんね涼真、ちょっと大事すぎて、まだうまく言えないの。でも私、死ぬまでずっと大切にしなきゃならないところで、おばあちゃんになっても守らなきゃだめなところだから、多分あんたにはいつか言うわ」


 なんだかちょっとよくわからない。めんどくさいので、「ババア、それよかさっさと彼氏つくれよ」と伝えると、殴られた。えぐりこむような一撃に、ドフッと口から妙な声が出た。一体どこでそんなもんを覚えてきたんだ。



 ***



「そもそも、きちんと言葉にしたいと思うんだけど! 一生かけて大事にするという定義を教えてくれない!?」

「……それは、いちいち言わなきゃならんことか?」

「ならんことです。私とライナルトは勘違いが多いし、話さなきゃわかり合えないことが多すぎるんだよ!」

「ほう、そうか」

「……いや、言っている意味はわかってるつもりだよ? でもほら、価値観の……すり合わせ? をしたいというか。私は、その、告白されて、付き合うと同じかなと思って」

「とりあえずお前を妻に迎えるという意味で言ってはいる」

「ほらね」

「うむ?」

「ほらねぇ!」


 付き合うレベルかと思ったらこのままでは一足飛びで結婚式の準備が始まってしまう。菫さんの要望であった無限増殖するお化粧ポーチは成功し、いつの間にか叩き込まれていたらしい化粧の技術はばっちりですから、当日は任せてくださいとカッラさんが胸をはっていたけどどういうことだ。


 魔法は理解しないと新しく作ることができないのです、と微笑む彼を見て、カッラさんが異文化を受け入れる度胸の広さの理由がわかった気がしたけれど、まてまてまて、と待ったをかけた。


「結婚は、まだ早くない!? スピーディーすぎない?」

「そうか? むしろ遅すぎるのでは?」

「怖い怖い異文化怖い。大事にする、イコールいきなり結婚なのは多分違う!」

「わからん。じゃあどうすればいいのだ。俺が考えるお前が幸せになる術と事実が異なりすぎる」

「……わかった。紙に書こう。お互い何をされたいのか、したいのか、書いてはっきりさせよう!」

「名案だな」

「そして実践していこう。私の方がいっぱい書けると思う」

「受けて立とう。俺の方が多いに違いない」


 私がしてほしいことと、ライナルトがしたいこと。それはいつまでたっても書ききらなくて、一つひとつ項目を増やしていくうちに、時間なんてあっという間に過ぎていく。いつしか、私は菫さんの年を追い越し、いくつもの季節が巡っていくうちにふとしたとき、しわくちゃな手のひらに気づいた。でもライナルトだっておんなじだったから、別に全然気にならなかった。


 別れの白い花は、始まりでもあったようで、こうして私は異世界にやってきて、とにかく最悪な王様に出会ったけれど、それはとっくに過去のことだ。


 最悪『だった』王様と一緒に、今日は散歩にでも出かけようと思う。

 ゆっくりと手のひらをつないで、私達はちぐはぐな歩幅を合わせながら、少しずつ歩いていく。

 たくさんたくさん、歩いていく。






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異世界に聖女として召喚されたけど、王様が最悪だった。(短編) 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo

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