第2話 絶対の約束

 あたしがトウキョウへ出向し、チルドレンの臨時世話係シッターになってから、早くも三日が経った。

 彼らとの出会いこそ衝撃的だったものの、初日以降は、意外にも平穏にすごせている。穀倉を襲撃されるという事件をとんでもない方法で収めたりも、大人の仕事の邪魔をしたりもしない。よく食べて、よく遊んで、よく眠る彼らに付き添う、いかにも世話係シッターらしい仕事で、あたしの一日は終わる。

 ただし、そのというのが、なかなかの重労働ではあった。

 よく晴れた今日、あたしたちは鬼ごっこに興じていた。


「ぎゃーっ! イチルが鬼だ!」

「逃げろ!」


 少し離れた木の上で、ニィナとミクロの悲鳴が上がる。本気の悲鳴ではなくて、もっと純粋な、きゃっきゃとした楽しそうな音色だ。

 あたしはそれを聞きながら、碌に舗装もされていない獣道を駆けずり回り、息を切らしていた——絶対に捕まってはならないのだ。

 今回は運よく初めのじゃんけんで鬼を逃れた。なんとしてでもこのまま逃げきる。鬼になった瞬間、あたしは詰む。

 はじめて彼らから鬼ごっこに誘われたときは、童心を思い出してわくわくしたものだったが、いざ彼らに混じってみれば、これがとんだであることを悟った。

 まず、行動範囲の広さがえげつない。まさかの皇居敷地内全域で鬼ごっこをしやがるのだ。

 チルドレンの住まいである御所の周りは、鬱蒼とした森林で溢れている。彼らが猿山サルヤマと呼ぶ、その険しくも豊かな環境は、彼ら曰く、鬼ごっこに最適なのだとか。

 あたしからしてみれば、あほんだら、といった感じだ。ドーム球場何十個分ものだだっ広い敷地を、びっちりと木が埋めつくしているのだ。足場も視界も悪い、この魔窟の森は、鬼になった人間のやる気を一気に削ぐ。

 こんな規格外の広さで鬼ごっこが成立するのは、彼らがチルドレンである他にない。


「わっ、もうイチルあんなところまでいるよ!」


 大きな木の太い枝に、両足を引っかけてぶら下がっていたニィナが、遠くを眺めながらそんなことを言った。

 あたしも振り返ってみるが、イチルの姿なんて見えない。しかし、あたしたちよりもずっと先に逃げていたヨハクも「こわっ」と顔色を悪くする。

 あたしの視力では捉えられずとも、彼らの目には見えているのだ。

 ヨハクはその小さな体で、獣のように獰猛に、木から木へ、岩から岩へ、縦横無尽に飛び移っていた。それを追うのはミクロだ。二人は色違いの錆のように鮮やかな髪を靡かせ、凄まじいスピードで走り去っていった。ほんの数秒で、彼らの姿が完全に見えなくなる。

 実に驚異的な身体能力だ。五人ともがこのスペックを持ち合わせているのだから、こんなでたらめな鬼ごっこも成立する。

 でも、当然だが、あたしは無理だ。

 もしも鬼になったとして、この敷地内で、彼らを見つけられる気も、捕まえられる気もしない。

 実際、あたしが鬼になったとき、あまりに絶望的で途方に暮れた。空も暮れた。どこにいるかもわからないのに、たまに、落ちこむあたしを嗤う声だけが聞こえて、わりと本気で心が折れた。むごたらしいワンサイドゲーム。

 せっかく今日は鬼を回避できたのだから、絶対に捕まってはいけない。捕まった瞬間、あたしは詰む。


「あっ、ジュリちゃん見っけ」

「わああーっ!」


 イチルの声が聞こえて、あたしは本気で悲鳴を上げた。

 無理無理無理無理。

 普通に怖い!

 ただでさえ全速力だった足に鞭打って、必死に逃げ回った。

 日頃から動きやすい服装を選んでいて心底よかったと思う——ヒールなんて履いていたら地獄だった。

 あたしを追いかけるイチルが「逃げないでよ」と涼しい声で言う。


「いやああ、本当怖いのまじで来ないで絶対来ないで」

「あはは、ジュリちゃん必死。面白い」

「うるさいうるさいこの鬼畜外道おたんこなす!」

「酷いなあ。ちゃんと手加減してるじゃん」


 イチルの言ったように、彼は一般的な体力と脚力しか持たないあたしに合わせて、かなり手を抜いてくれている。いや、この場合は、足を抜いている、とでも言うのか。他の四人は一切の手加減(あるいは足加減)もないというのに、親切な話である。

 しかし、その親切が、逆に怖い。いつでもとどめを刺してしまえるところをあえて遊ばれているような、薄ら寒い心地になる。

 あとどれだけあたしは逃げ回ればいいの。あたしは腕時計を確認した。驚くことに、かれこれ二時間は遊びつづけている。予定としては、あと三十分は動く必要があった。

 それはイチルも理解しているようで、あたしが手首を出した時点で、「残り三十四分と十九秒だよ」と言った。体内時計まで完璧らしい。

 一見するとただの遊びだが、あたしたち——というか、チルドレンは、ただ遊んでいるわけではなかった。

 チルドレンは神の悪戯により、発電機ともコネクトしている。どういう仕組みかは知らないが、チルドレンが運動することで得られる熱エネルギーを、電力エネルギーに変換、そのエネルギーをトウキョウ全域に分配しているらしい。つまり、この子たちの運動量が、そっくりそのままトウキョウの動力源になるのだという。

 遊ぶだけでエネルギーが生みだせるなんてすっごいお得!

 そういう理由もあり、チルドレンは一日に最低三時間、外で遊ぶことを推奨されていた。彼らがこの広大な敷地を猿山と称して好き勝手できているのは、熱電発電のためという大義名分のためだ。

 チルドレンの鬼ごっこは、権利ではなく義務なのだ。

 よく食べよく遊ぶことは子供の義務。


「あと三十分逃げきれるかあ!?」


 と、半ばキレながらあたしは叫んだ。この調子で逃げきれるわけがない。あの日みたく、虚しい気持ちを味わうのはごめんだ。

 周囲を確認する。どうせ周りにはイチル以外いないんだし、当たって怪我をさせることもないだろう。

 あたしは両手に嵌めていたグローブの安全装置を外した。


「へっ?」


 イチルの口からそんな素っ頓狂な声が漏れたのは、あたしのグローブの手の甲、拳鍔にも見える篭手から、が噴射したからだ。

 先に猪目型の錘のついたその糸は、大きな木の枝に巻きつく。拳を握り締めながら、くんっと手前に引っ張ると、糸はグローブの篭手へと高速で巻き取られる。その瞬間に大きく地を蹴れば、あたしの体は宙へ飛翔した。

 まるで振り子のように揺れ、あたしの体が前方へと押しだされたとき、もう片方の手から糸を噴射させ、別の木へと巻きつかせる。一本目の糸をこちらに手繰り寄せれば、二本目の糸にぶら下がったあたしは再び大きく揺れた。スウィングロープの要領で、イチルから距離を取る。


「うわああーっ、なにそれ楽しそう!」


 すると、どこからともなくニィナの声が聞こえた。視線を滑らせると、レーヨンにおんぶされた状態で、二人してあたしを見上げていた。

 そこへ、茂みから顔を覗かせたヨハクとミクロも合流する。二人ともそっくりな眼差しで目を見開かせている。

 あたしの追跡を止めたイチルも、木の上で止まった。あたしのグローブから出た糸をしげしげと眺めて、分析するように呟く。


「……テグスにしては丈夫な糸だ。大人の体重が加わっても千切れる気配がない。レーヨン、わかる?」

「炭素繊維を滓玻璃金おりはりきんで強化したもの。キョウト産」

「ジュリはオオサカの首長補佐だったんだろ? ゴローの警棒とおんなじ暗器の一種なんじゃねえの」


 本当に明敏な子たちである。

 ミクロの言うとおり、これはあたしの持つ暗器道具だ。用途としては、さきほどのような立体移動や危険分子の確保・拘束など、多岐に渡る。この糸を用いた護身術が、オオサカ首長補佐としてのあたしの警護スタイルだった。


「いいなあ。かっこいい。ジュリー、ニィナにもそれやらせて!」


 ニィナは弄ばれた人形のようにぐにゃぐにゃとした動きで近づいてきた。その動きに半ば引きながら、あたしは「だめ」と断じた。

 これの取り扱いには注意が必要なのだ。レーヨンの見立てどおり、この糸は炭素と滓玻璃金の合成繊維でできている。

 滓玻璃金とは、爆心期以後、列島連邦の各地で採掘されるようになった、新種の鉱物のことだ。山という山のいたるところで発見されていたため、隕石落下メテオインパクトの衝撃による化学変化で生成されたのだろうと言われている。

 滓玻璃金から製錬された金属は、光に翳せば炎のように輝くが、一見して透明な銅のようで、加工がしやすいのに硬くて丈夫という理想的な性質を持っていた。

 そんな金属をワイヤーのように紡いだのが、イチルがテグスと称した、この暗器道具だ。

 柔軟にもかかわらず硬くて丈夫、おまけに錘はハーケンのように尖っている。会敵した場合はともかく、こんなところで扱っては、下手をすれば怪我人が出る。

 そのため、あたしはいまの今まで出し惜しみしていたのだ。


「そんなのじゃん」たちまちヨハクが顔を顰めた。「大人が子供相手にそこまでする? あまりの卑しさに言葉も出ないね。ジュリがそれ使うんなら、イチルもハンデはなしにしようよ」


 そして、こういう揚げ足を取られることも予想できてきた。

 たしかにこの子たちからしてみれば、あたしのはに値する。

 しかし、糸にぶら下がったままのあたしは、「いや、よく考えてみてよ」とその意見に反論した。


「あたしがこれを使ったって、本気のイチルには敵わないでしょ。あんたたちは道具に頼んなくてもこの森を縦横無尽に動けるんだから」

「それはそうかも」

「えー、そうかな」

「そんなことない、絶対僕が負ける」


 ミクロ、ニィナ、ヨハクの順番にこぼした。イチルが「レーヨンはハンデありとハンデなしならどっちがいいと思う?」と尋ねれば、レーヨンは「どっちでもいい」と返した。


「俺もどっちでもいいよ。ジュリちゃんがそれを使うんなら、やっと張り合いがでてきたなって思うし。ヨハクはハンデなしで普通に逃げていいからさ」

「逃げるって……いまの鬼はジュリじゃなくてイチルでしょ?」

「あ、そうだ。タッチしなきゃね」


 そう言った瞬間、イチルは木の幹を蹴って、あたしの目の前へと躍りでた。

 あたしが「ひっ」と短い悲鳴を上げたときには、イチルはあたしの肩を叩いていた。笑いながら「ジュリちゃんが鬼」と言って、弾丸のように遠ざかっていく。

 やられた!

 とっとと逃げていればよかった!

 ミクロたちも「逃げろ!」と言って走り去っていくので、あたしはその後を追った。


「……いや無理! あんたら速すぎ!」

「へへんっ、もっと速く走れるし!」

「おい誰がもっとはよ走れ言うてん!」


 あたしの悲鳴を聞きつけた彼らは、自慢げにスピードを上げた。

 テグスの使用を許可されたことから、あたしもなんとか彼らを追うことができた。もう遥か彼方まで引き離されることはないし、追いかけられるあの子たちもあの子たちで楽しそうだ。

 しかし、盲点だったのは、視力的な問題だ。

 文字どおりの盲点である。

 いくらあたしが暗器の扱いに慣れているとはいえ、ここは使用場所として適していない。まったく開けていない、見通しの悪すぎる森の中。いくら動けるようになったからって、あたしの視界が追いついていなかった。

 あたしがテグスを伸ばした先、ただの木の枝だと思っていたところに、ヨハクが隠れていた。


「うわっ」


 ヨハクの足首にテグスが巻きつく。そのまま足を取られたヨハクは、木の上からずり落ちた。

 あたしは咄嗟にもう片方のテグスを発射させ、木の幹に巻きつけた。ヨハクの足首を取っていたテグスを離す。木の幹へと伸ばしたテグスを巻き戻し、それによる移動の遠心力で、幹の周りをぐるりと浮遊する。そのまま、落下するヨハクを抱きとめようと手を伸ばして——しかし、ヨハクが先に体勢を整え、地面へと着地した。

 まるで猫のような柔軟な動きで、ヨハクはくるりと空中で身を翻し、なんてことのないように降り立った。

 やや遅れてあたしが着地する。慣性による制動距離を計算したうえでの着地だったので、地面を滑る足が完全に止まったのは、ヨハクがすぐそばまで迫ったときだ。

 ため息をついて「ほら、負けるって言ったじゃん」とこぼしたヨハクの手を、あたしは引っ掴んだ。


「大丈夫!?」あたしはその顔を覗きこむ。「ごめん、木の上にいたなんて気づかなくて……怪我はない? 足見せて」

「えっ、へっ、なに」


 目を瞬かせているヨハクの足元へ、あたしはしゃがみこむ。

 その細っこい足首を確認すると、案の定、血が出ていた。

 テグスが巻きついたときに喰いこんでしまったのだろう。危うく彼の足を輪切りにしてしまうところだった。あたしは顔をあおめさせる。


「もう鬼ごっこのときにテグスは遣わないから、本当ごめん、痛かったよね、ごめんね」


 あたしがひたすらに謝っているのを、ヨハクはぽかんとした顔で見下ろしていた。

 ただ、それはヨハクだけではなくて、一部始終を見ていた他の子供たちも同様だった。

 ニィナだけはどこか浮足立った様子で「ニィナもね、さっき擦り剥いちゃったの! 足の裏も切っちゃったんだよ!」とか「このあいだもね! 膝を怪我してね、すっごく痛くてね!」とかアピールしてきた。

 そんなニィナのことを、ミクロは苛立ったように見つめている。ヨハクが怪我をしたというのに、そんな反応ならば当たり前だ。いまだにびっくりしているイチルを含めて、彼らには危機感がなさすぎる。


「医務室に行こう。ここからだとちょっと遠いけど、手当てしなきゃ」


 あたしはヨハクを抱えて移動しようとする。

 そこにミクロがつべこべと口出しをした。


「ナメてんのか? 俺たちはチルドレンだぞ。外皮膚はお前らと同じそれだが、内皮膚は格子構造のコラーゲン層でできてる。それどころか毛細血管から表皮に至るまで自癒因子が、って、ちょっと!」


 あたしはそれを最後まで聞かずに、テグスを使ってその場から離脱する。

 この子たちの寝起きする御所まで戻れば、一階の奥に医務室があるのだ。ゴロー補佐に案内してもらったこともあり、基本的な生活圏内の情報は、とうに頭に入っていた。運よくも今日は、トウキョウ医務院から派遣された非常勤のが当直している日だった。

 大慌てで御所へと戻り、あたしは医務室の扉を開ける。


「急患よ。いますぐ手当てして」


 ヨハクの手を引いてきたあたしを見て、その医師は「へっ?」と目を見開かせた。それにかまわずにヨハクを椅子に座らせ、「血が出てるの」とあたしは告げた。


「ええと、切り傷のようですね」

「手違いで怪我させちゃったのよ。消毒したいから道具を出して」


 あたしがそう言うと、医師は動揺したようだった。たちまち苦い顔で「消毒薬には限りがあり、容易に使うわけには……」とこぼす。

 現代において、消毒薬は貴重だ。隕石落下メテオインパクトの衝撃によって、薬品として必要な物質が消滅したり、作用機序に歪みが生じたり、化合が難しくなったりしたためだ。

 医師の言い分も理解できたが、いま目の前に怪我人がいるのに、ここで出し惜しみしてどうする。あたしは内心でイライラしながら「そんなダバダバは使わないわよ、」と反論する。


「ちゃんとケチるから、とっとと持ってきて」

「しかし、」

「トウキョウの公的医務院は医療の知識もない医者を雇っているのかしら」間怠まだるっこしくて、あたしは語気を強める。「この世界での死亡理由の約八割は、汚染物質を摂りこんだゆえの疾病。原因となる毒素の摂取経路のうちの約四割は創傷部位から……舐めときゃ治るの時代はとっくに終わっとんやぞ、お前の脳みそは化石なんか?」


 いくらトウキョウの空気が他よりよっぽど清潔だからって、それ以外にも人体に有害な脅威はまだまだある。だからこそ、この御所にも救急箱なんてちゃちいものは置かずに、医務室を設置しているのだ。


「わかったらとっとと出すもん出し。ここまで言うてまだ出し惜しみするんやったら、怪我人増やせばええんか?」


 近くのペン立てに収められていた鋏を取りだし、あたしは自分の腕に突きつけた。鋏の刃を肌に食いこませれば、医師の顔色が目に見えて変わった。

 しかし、そのとき、あたしの鋏を持つ手を、ヨハクが握る。


「別にいいよ」


 移動中もずっと黙っていたヨハクが、あたしを見上げて告げた。なにがええねん、と言おうとした矢先、ヨハクはあたしに見せつけるように、怪我した足を椅子から浮かせる。

 一瞬だった。さっきまで血を滴らせていた傷口が、メキメキと治っていく。信じられない光景に、あたしは目を見開かせる。しばらくして、ヨハクは傷口のあった箇所を手でごしごしと擦った。血の拭われた足首は、きれいにされていた。


「僕はチルドレンだから。傷口から入った汚染物質も、体内で解析・分解できる。消毒薬は他のひとたちに回してあげて」


 慌てふためくあたしに困惑していた彼らにも、消毒薬を出し惜しみした医師にも、やっと納得がいった。

 彼らはチルドレン。

 先人たちの遺した人間遺産であり、新人類であり、人類の希望。

 これしきの怪我など、掠り傷にもならないらしい。






 遊び疲れた夕刻。

 あのあともヨハクは猿山へと引き換えし、みんなと一緒に鬼ごっこに興じていた。あたしも途中まではそれに加わっていたが、ついには体力の限界を向かえ、「ごめん、先に帰る」と言って、彼らから離れることにした。

 御所に戻ったあたしは、与えられた自室までの廊下を歩きながら、ジャケットを脱ぐ。

 もうすっかり汗だくだ。服も手足も汚れている。本当なら風呂にでも入りたいところだが、トウキョウはオオサカと違って、水がない。

 否、水がないというより、設備が整っていない。トウキョウの生活水は地下水から供給しているらしく、地下水の引き上げと濾過のための稼働エネルギーも、チルドレンが賄っている。しかし、稼働のためのエネルギー量は相当のもので、彼らが一日遊び回ったとて足りないのだ。

 トウキョウにとって、水は無駄遣いできない資源である。飲料水を確保するため、風呂や洗濯は一週間に一回しか許されていない。

 水瓶のおかげで潤っていたオオサカとは雲泥の差だ。正直、かなりきつい。精神的にもそうだが、心なしか体も重い。いや、重いのは筋肉痛が原因かも。自覚するとさらに気怠く感じてきたので、あたしの歩幅はとぼとぼと情けのないものになる。

 すると、正面から、ゴロー補佐が歩いてきた。彼はあたしを見つけるなり、「お疲れさまです」と声をかけた。


「お疲れさまです、ゴロー補佐」

「この時間まで外に出られていたんですね。鬼ごっこですか?」

「ええ、まあ」


 疲れが出ていたためか、あたしの笑みは苦笑となった。それを見たゴロー補佐は、もう一度「お疲れさまです」とあたしを労った。


「ここに来て三日目ですが慣れましたか?」

「だいぶ。はじめは、ガスマスクなしで歩くひとたちを見て、怖いなあ、って思いましたけど。ただ、部屋の造りには慣れませんね。ここは豪華だし、とても広いですから」

「ははは。きっとじきに慣れますよ。子供たちも、すっかり貴女には慣れたようですし」


 慣れというか、ナメているというか。もともと大人には動じない性格のようだし、あたしにビビる子たちでもないだろうが、世話係シッターとして共にすごすようになってからは、さらに。

 まず、あたしを呼び捨てにする。最初、イチルに「ジュリちゃん」と呼ばれたときなどは、一回りも歳の離れた男の子にちゃんづけで呼ばれる居心地の悪さに慄いたものだが、ニィナは「ジュリー」と、ミクロとヨハクは「ジュリ」とそれぞれ呼ぶので、馴れ馴れしさでならイチルはよっぽどだったんだろうな、と思った。ちなみにレーヨンがあたしをどう呼んでいるかは知らない、呼ばれたことがないので。

 また、あたしの怒声に効果がないことも悟った。イガラシ首長やゴロー補佐の期待を裏切る結果となって申し訳ないが、あたしが一番手を焼いている。なにせ、あたしの言うことなど聞きやしない。

 なんと昨日、あたしはあの子たちに落とし穴を仕掛けられた。主犯はミクロで、共犯はヨハクだ。まじでとんでもない双子である。わけもわからぬまま穴に落ちてたあたしは、目を白黒させながら、地上でけたけたと笑う二人を見上げた。

 幸い、あたしに怪我はなかった。幸いというか、落とし穴には、大量の木の葉と綿、折り鶴で作られたクッションが敷き詰められていたのだ。綿は御所にあったソファーなどの家具から抜き取ったらしい。折り鶴にはクレヨンで「これからよろしくね、ジュリー」と書かれていた。いま思えばニィナも共犯だった。


「は!? なにしてくれとんねんボケェ!!」


 あたしは怒りのままにそんなことを吐いた。反射での言葉だったので、一切の躊躇も理性もなかった。しかし、笑っていた二人の声がぴたりとやんだので、〝あっ、しもた。こいつら泣く〟と我に返った。

 だが、わなわなと震えたヨハクが、


「なんて粗悪で貧弱な語彙によって構成された発言……知性のある生き物とは思えない、ごろつきだってもっと品があるのに……ヒトの形をした畜生なんじゃないの?」


 などとのたまったので、あたしは「くぉんのクソガキァ」と穴から這いあがり、二人を追い回したのだった。もちろん、あんな脚力に追いつくわけもなく、捕まえることは叶わなかったが。


「……驚異的な子たちですね」


 あたしの口からは、しみじみとした感想がこぼれ落ちていた。それを聞き取ったゴロー補佐は、「そうですよね」と頷いた。


「驚くべき身体能力でしょう? その理由は、彼らの脳波に起因します。特異な電気信号によって、身体をコントロールしているんですよ。運動神経がいいというよりは、元々の神経が違うのです。加えて、丈夫な身体。大抵の怪我は自然治癒で完治します。そのスピードも我々とは段違いです」


 それについては今日、確認できた。

 生活を共にしていると、あまりに人間離れした彼らにびっくりすることが多いが、あの回復力にはいっとう目を瞠った。

 道理で、あたしが慌てふためいていたのを、あんなふうに驚いていたはずだ。彼らからしてみたら、大の大人が見当違いのことで取り乱して、おとなげないなんて思ったかも。


「そういえば、ゴロー補佐はどうしてここに?」

「あっ、そうでした。ジュリさんにお伝えしようと思って……頼まれていたが見つかったんですよ」


 思わぬ朗報に「助かります」とあたしは頬を緩める。

 五十年前までは世界に普及していた電話という連絡手段は、現在では壊滅している。壊れて滅んでしまった。理由は単純、電話環境を整備するためのシステムも人間も環境も、きれいさっぱりなくなってしまったからだ。

 それを再現する技術はいまのあたしたちにはなく、だからこそ、トカゲは首長会議において、防災行政無線のを提案した。生き残った機器を見つけだし、再利用を目論んだのだ。

 整備するシステムも、人間も、環境が壊れても、たまに、まれに、運がよく、いまもなお通信の可能な機器は存在していた。

 で繋がっている電話。

 まぐれの電話機。

 あたしはトウキョウには疎いので、このあたりにまぐれの電話機はないかと、ゴロー補佐に頼んでいたのだ。教えてもらったのは、国会議事堂や警視庁本部跡からも離れた公衆電話。

 夜も近い時間に、丸腰の女一人がトウキョウの街をうろうろするものではないが、あたしは丸腰ではないので問題ない。

 あたしは手に嵌めたグローブを一瞥する。

 テグスは使わないとあの子たちに言ったが、暗器道具として携帯している以上、その時が来れば絶対に使用するものだ。加えて、世話係シッターとしてのあたしは、どう足掻いてもあの子たちと行動を共にすることが多い。その時があの子たちのそばにいるタイミングである可能性は絶対にある。

 せめて、あの子たちが怪我をしないよう、手を打たなければ。

 歩いていると、目的の公衆電話を見つける。割れたガラス壁で覆われた、個室のようなボックス。黄ばんだ緑の電話機がレトロだった。

 あたしはボタンを押して、応答を待った。

 電話の相手は、トカゲだ。


『——おう、久しぶりやな、ジュリ。元気にしてる? 肋骨の一本や二本は折れてない?』

「あたしはどんな抗争地帯にいるのよ」


 そうツッコむと、トカゲは『これ、これ、これが欲しかった!』としみじみ言った。聞くと、あたしの代理である補佐が、あまりに従順でボケ甲斐がないのだと。神妙な声音で「あれはボケ殺しやで、俺は毎日あれに殺されてる」と語るトカゲに、殺されてんのに元気そうやなこいつ、とあたしは思った。


『まあ、オオサカのほうは心配しなくていい。なんとかやってる』

「引き継ぎも全然できなかったのに、みんながんばってくれてるのね」

『ジュリのほうはどう? クソガキちゃんたちのお世話は?』

「あんたの世話に比べたらねえ」

『俺、時代の寵児どころか、神の寵児超えちゃった?』

「……と、言いたいところだけど、手を焼いてるわ」螺旋する電話のコードをくるくると指に巻きつける。「みんなして悪知恵がはたらくし、体力もすごいし、一人一人癖が強いしで、くったくた」


 ここ三日で、五人それぞれの個性が見えてきた。

 年嵩でリーダーシップのあるイチルは、みんなのお兄さん、って感じだ。ゴロー補佐の前評判どおり、かなり話が通じる。行儀の悪い四人を叱ることも、喧嘩を仲裁することもある。十三歳くらいとのことだったが、それよりもずっとおとなびて見えた。

 そんなイチルに懐いているのがニィナだ。五人の中でおそらく唯一の女の子というだけあって、イチルもなにかとかわいがっている。お絵描きやお人形遊びが好きで、だけど、外で遊ぶのももちろん好きで、かなりのおてんばだ。関節が柔軟なのだろう、軟体動物のようにウネウネと動く体は、たまに本気でぎょっとする。ちょっと空気の読めないところがあるため、わりと頻繁にミクロを怒らせている。

 イチルがリーダーだとしたら、ミクロはガキ大将だ。いたずら好きで、言葉遣いが乱暴で、負けず嫌い。むきになるとすぐに怒る。ニィナを睨んだり、髪の毛を引っ張ったりと、いじめているところをよく見かける。双子の兄弟であるヨハクとも言い合いをする場面はあるが、舌戦ではヨハクに分があるらしい。

 ヨハクもミクロと同じでいたずら好きだ。口が達者で、厭味いやみったらしく、こまっしゃくれた態度を取る。えらそうなのもミクロと一緒だが、ヨハクは妙なところで卑屈っぽいというか、ネガティブなところがある。鬼ごっこにおけるあたしへのハンデを嫌がるのもヨハクだけだ。ミクロとは別のベクトルで負けず嫌いだと思う。

 第一印象では寡黙な印象のあったレーヨンだが、この数日で、思ったよりかは口数が多いとわかった。とはいえ、五人の中では一番しゃべらない。真面目に「うん」とか「すん」とかしか言わない。応答が短すぎて、声で男女を判別することもできない。ただし、尋ねたことにはきちんと答えてくれる。ニィナと一緒にいることが多く、よく彼女に手を引かれている。十二歳とのことらしいが、それぐらいのよわいなら女の子と手を繋ぐのを恥ずかしがるものだろうに。ミクロはよく嫌ったらしい目でその様子を見ていた。

 あたしの感想に、トカゲは『へえ』と頷く。


『意外とちゃんと見てんじゃん。えらいね、ママは』

「あたしがいつあの子たちの親になったのよ」

『にしても、すごいな、チルドレン。底なしの体力に、発電機とのコネクト。羨ましいね。これが神の悪戯か。しかも、怪我してもすぐ治るなんて……時代の寵児として、俺はどう張り合えばいいのか』

「まずその図に乗るところを直せば?」

『暴動を鎮圧したってのも納得だ。そもそも、チルドレンがそういった緊急任務を請け負うことはよくあるんだろ?』


 首長会議の日での暴動鎮圧は、五人の気まぐれだと思っていたが。

 イガラシ首長は、自分たちでは手に負えない仕事を、人類の希望であるチルドレンに託していた。突発的な暴動に始まり、各所で湧いた害虫の駆除、熱電発電など多岐にわたる。五人もそれを小遣い稼ぎのように、あるいは遊びのように、難なくこなしている。


「でも……見ていてはらはらすることはあるわよ」あたしは髪をがしがしと掻き乱す。「なまじ回復が早いだけに、多少の怪我でもけろっとしてるんだもの。見てるこっちが痛いわ」

『どれだけ優秀で有能っつったって、見てくれは子供だもんな』

「今日はあたしが怪我させちゃったし」

『えっ、ジュリ、いくらなんでも体罰は、』

「ちゃうわ。不慮の事故よ」


 事故とはいえ、胸に刺さった。怪我をさせた原因はあたしにあるし。

 怪我をしてもすぐ治るのと痛くないのは、まったくの別だ。コラーゲン層だか自癒因子だか知らないが、いくら身体が丈夫だからって、出血するくらい皮膚が裂ければ、当然、痛みは伴う。

 いずれにしろ、いまのテグスのままではまた怪我をさせてしまうだろうから、なにか別のものに変えるしかない。

 幸い、はある。

 七連に加盟しているヒョウゴは、巨大な薬座ヤクザを抱えている。

 薬座とは、活性化した山に生える植物の、栽培・利用をおこなう組織だ。七連の抱える山々は、滓玻璃金といった鉱物だけでなく、新種のキノコや山菜など、多様な植物も自生している。それらは、食物や薬品としてはもちろん、繊維としても有用だ。あたしのテグスにしても、紡いだのキョウトの技術師だが、原材料はヒョウゴの薬座から調達していた。


「……トカゲ。急で悪いんだけど、毛糸とかリボンとか、柔らかい素材のものを送ってくれる? なるはやで」


 近日中に届ける、という心強い返事をもらえたので、あたしは「じゃあね」と言って受話器を下ろした。そのとき、割れたガラス扉の向こうから、背中を叩かれる。


「誰と電話?」

「うわっ」驚いたあたしは振り返った。「イチルか、びっくりした」


 暗がりを帯びて深まった茶色い髪の毛が、夜さりの風にふわふわと靡いている。よく見ると、イチルの瞳はわずかに閃いていた。まるで先ほどまで発光していたかのように。


「ていうか、イチル、よくここに来れたわね」

「あはは、まぐれの電話なら、俺たちのほうがよく知ってるよ」


 よく場所がわかったわね、という意味じゃなくて、こんなに暗くて遠いところまでよく一人で来れたわね、という意味だったのだが。

 オオサカにいたあたしよりも、イチルのほうがトウキョウには詳しい。過剰な心配はかえって失礼かもしれないと、あたしは訂正しなかった。代わりに、「なんでここにいるの?」と尋ねる。


「ジュリちゃんが電話してるみたいだったから、気になったんだ。なんの話だったの?」

「大したことないわよ」あたしは扉を開けて、ボックスを出る。「あたしの上司……あ、元上司になるのかな? そいつと話してたのよ」

「なんの話?」

「なんの……」あたしはウーンと悩む。「なんの話だっけ」


 元々、なにかあって連絡を取りたかったわけではない。定時の状況報告でもない。ここ最近のトカゲのこと、あたしのこと、それからちょっとした頼み事。それくらいの話しかしていなかった。


「なにそれ。子供には言えない話でもしてた?」


 イチルは目を細めて笑った。

 あたしも喉を鳴らして笑う。


「むしろ、子供になら言えるような、大人げない話かな。イチルもいつか遠くに知り合いができたら、電話してみようかしらって思うはずよ。そのときにわかるわ。別に大した理由なんてなくて、ただ相手の声が聞きたくて、もしくは自分の話を聞いてほしいっていう、それだけの話なんだってね」


 帰路を辿りながらそう言うと、隣を歩くイチルが、あるかなきかの表情で、目を瞬かせる。ややあってから、「それってホームシック?」と尋ねてきたので、あたしは「近いかも」と答えた。


「大人になっても、人恋しさや寂しさを覚えるものなの?」

「人恋しさに大人も子供も関係ないんじゃないかしら」

「どうだろう。成長するからには、人は、未熟な部分を克服すべきだって、俺は思うけど」


 あたしは素直に感服したので、「一理ある」と漏らす。


「イチルって、考えかたがしっかりしてるよね」

「え……そう?」

「うん。たしかに、成長するからには進化すべきよね……かっこいいこと言うわ」あたしは納得したのち、うーん、と考えてみる。「でも、寂しいって気持ちは、ただの不安であって、未熟だからってことにはならないんじゃないんじゃない?」

「不安になることがそもそも未熟なんじゃなく?」

「生きてて不安にもならないやつは、よっぽどの完璧超人でしょうよ。人間を超えた存在になんか、無理してならなくてもいいわ」


 ていうか、これすらなんの話だ? トカゲと話しているときより、イチルと話しているときのほうが、小難しい話をしているような感覚に陥る。時代の寵児は神の寵児には敵わないか……次に話すときは相対性理論の話とか振ってみる? あたしもよく知らないけど。


「でも、不安そうな相手を見ているとこっちも不安になるっていうか、どうにかしてあげたいって思うものじゃない。たとえばだけど、ヨハクはちょっと消極的なところがあるから、見ていてはらはらする」

「ああ……イチル、いっつも気にかけてるもんね」


 あたしは少し仰いで、今日のことを思い出した。

 鬼ごっこ中のテグスの件にしたって、あたしが使おうが使うまいが、正直、有利不利はさほど変わらないと思う。そりゃあ使ったほうがあたしの機動力は増すが、ヨハクたちのほうが体力も地の利もある。なのに、ヨハクは嫌がった。自分が負けると言い張った。


「ヨハクはよく頭が回るし、運動勘だってすごくいいのに、ゲーム中でもわりとすぐ、できないできないって言うわよね」


 ヨハクのそういうところは、たまに、とても、目に余る。

 もやもやしていた気持ちを捏ねくり回していると、隣からうんともすんとも聞こえなくなったので、ふとそちらを見遣れば、イチルはあたしをじっと見つめていた。


「どうしたの」

「いや、ジュリちゃん、本当によく見てるんだなって、びっくりして」

「いや、それあたしの台詞なんだけど」


 たしかにイチルはしっかりしているが、ここまで周りが見えているなんて。ヨハクには、いくらイチルのが二歳年上だからって手を焼かせてんじゃないよ、と思う。


「ヨハクはやる前から弱音癖。イチルはすごく気遣い上手」


 あたしがそう言うと、イチルは少しだけ俯いた。

 照れたのかしらと伺うが、その表情はどこか不思議そうだった。

 この子はたまにこういう表情をするときがある。それはきっと、相手が自分に関心を持ったときだ。どれだけ叱りつけても飄々としているくせに、相手の関心がこちらに向いているとき、心配されているとき、どうしてだろうという顔をする。

 あたしがそれにもやもやしている間に、イチルは口を開いた。


「ヨハクには自信がないのかなって思うんだよね。いくら俺が、そんなことないよ、ヨハクならできるよ、って言っても、ずっとああだから。だから、なんとかして自信をつけてあげたいんだけど……」


 イチルはそのように悩んでいたが、むしろヨハクは、イチルのそういう優しい言葉を欲しがっているのではないかと、あたしは感じていた。

 どれだけ賢くても、知能が高くても、彼らはまだいたいけで、些細な関心でも欲しがるものだ。ヨハクの怪我にニィナが張り合ってきたのもそういうことだろう。でも。


「えらいじゃん」

「俺はみんなのお兄ちゃんだからね」


 ちょっと誇らしげなイチルが微笑ましく、その心がけも立派だったので、あたしは余計なことは言わずに、見守ることにした。






「緊急事態です。トウキョウ湾に、ダイマオウイカが出現しました」


 いつものように五人が部屋でくつろいでいた、ある日のこと。

 ゴロー補佐がやってきて、そんなことを言った。


「ダイマオウイカ? なんですか、それ」


 大きなソファーに寝そべっていたあたしは、ゴロー補佐に尋ねる。

 聞く姿勢として態度が悪く、だらしない格好であるのは重々承知だが、許してほしい、あたしは現在進行形でデッサンのモデルをしているのだ。少しでも動くと、五人から非難を浴びせられる。

 はじめはレーヨンとニィナが仲良くお絵描きをしていただけだったのだが、急にニィナが「これを描きたい」と言って本棚から絵画集を引っぱりだし、カバネル作『ヴィーナスの誕生』を指差した。それを見たミクロとヨハクが張り合って、そこにイチルも加わって……というような流れで、あたしは「実際のポージングを素描したいからモデルになれ」と無茶振りされてしまった。

 ソファーに寝そべるあたしと、それを取り囲む子供たちというのは、なかなか珍妙な光景だろうに、ゴロー補佐は冷静な——おそらく慣れている——態度で、あたしの疑問に答えてくれた。


「太平洋側でたまに見かける海洋生物ですから、オオサカにいたジュリさんには馴染みがないですよね。ダイマオウイカは、全長十五メートルもの巨体に剛力の触腕を持つ海獣です」

「なにそれ怖っ! 怪獣!?」

「海獣だよ」紙面から顔を上げてヨハクが言う。「生物学的にはまったくの別物みたいだけど、あんまり大きいからそう呼ばれてるんだ」

「本来は深海に棲む生物なのですが、たまに海面に上がっては人間を襲うんですよ。それこそ怪獣のように」

「人間を襲うって……まさか怪我人が出たんですか?」

「死人が出ました。ダイマオウイカは人間を食べますので」

「やっぱ怪獣やんけ!」


 怯えるあたしを、ミクロが「おいジュリ動くな」と睨む。


「本来は、ダイオウイカと呼ばれる頭足類の末裔のようですが……爆心期を経て海も汚染され、生物が死滅して以降、生き永らえた個体が独自の進化を遂げ、ダイマオウイカになったと言われています」


 強い酸性を示す海で、大概の生物は生きてはいけない。爆心期より前までは、海水浴なんて文化もあったそうだが、いまじゃ絶対に無理だ。ぐちゃぐちゃに溶けて骨も残らない。なればこそ、そのダイマオウイカがいかに驚異的か伺える。


「食性が変化したのも一因かと。他の魚が死に絶えてからは、人間を食べるようになりました。それからは味を占めたみたいで」

「味を占めたって、なんで? そもそも海に入る人間なんて……」


 そこではっとした。かつて人類は、深海に国を作ろうとしていたのだっけ。結局はその計画もお陀仏になったようだが、その人間の死骸だかを食べて肥え太ったのが、そのダイマオウイカとやらなのだ。


「次は生きた人間を襲って食べてるってこと? やばいですね」

「やばいんですよ」ゴロー補佐はため息をつく。「なので、チルドレンに出動してもらおうかと。彼らなら、強酸性の海でもある程度動けますし、過去に一度、撃退してますから」


 あたしが「えっ、そうなの」と彼らの顔を見渡すと、みんななんでもないことのように頷いた。ミクロだけ「だから動くなって」と睨んできたが。

 本当にすごいな、この子たち。


「チルドレン、お願いできますか?」

「へんっ、一回倒した雑魚の駆除なんてわけねえよ」ミクロは鼻で笑った。「一人で余裕だろ。じゃんけんで勝ったやつが行こうぜ。捕まえたダイマオウイカを捌いて今日の晩ごはんにするんだ」

「馬鹿だね、ミクロは。ダイマオウイカは食べられないんだよ? 体の中に大量の塩化アンモニウムを溜めこんでるから」ヨハクも鼻で笑った。「じゃんけんで決めなくても、僕が行ってこようか? どうせ絵を描くのにも飽きてきたころだし」

「抜け駆けすんなヨハク」


 双子が揉めだしたので、公平にじゃんけんで決めた。言いだしっぺのミクロが勝ち、ゴロー補佐と共に出かけていく。

 正直、そのダイマオウイカにミクロが食べられやしないか心配だったが、残った四人が平然としていて、むしろヨハクが「あいつじゃんけん強いんだ」と拗ねた様子だったので、まあ大丈夫だろうと見送った。


「いや、本当に大丈夫だよ、ジュリちゃん。泳げないレーヨンが行くってなら心配だったけど、ミクロだったらすぐに仕留めてくるよ」


 イチルに太鼓判を押されたので、そうなのか、とあたしも納得した。

 しかし。


「取り逃がした」


 帰ってきたミクロが眉間に皺を寄せて、そうぼやいた。

 なんでも、過去に対峙したダイマオウイカよりも、ずっと大きい個体だったらしい。力は強く、移動も速く、ミクロは惜しいところでとどめを刺せなかったのだという。

 イチルは「ミクロが逃がすなんてよっぽどだったんだな」と、ニィナは「へえ、お疲れさま」と、ヨハクは「あんなに自信満々で行ったのに、逃がしたんだ?」とそれぞれ言った。ヨハクは完全に煽っていたので、あたしは「やめい」とツッコんだ。


「くっそ……明日は絶対仕留めてやる」

「だったら俺も行くよ、ミクロ」

「は? イチルの手伝いなんかいらねえし」

「手伝いっていうか、俺も気になるからさ」イチルは苦笑した。「そんなに大きいダイマオウイカなんて見たことないしね。せっかくだから俺にも見学させてよ」


 そうは言っても、実際は、イチルもミクロが心配だったんだろう。

 取り逃がしたと聞いて一番驚いていたのはイチルだった。

 あくまで見学と言ったからか、ミクロは意地を張ることもなく、イチルの同行を許した。イチルがサポートにいればもう大丈夫だろう。

 しかし、その予想すら外れた。


「取り逃がした……」


 どこか居た堪れなさそうなイチルと、かなり機嫌の悪そうなミクロが、とぼとぼと帰ってきた。二人の頬はわずかに墨で汚れている。

 二人がかりでも無理だとは。さすがにこれには驚いたのが、「えええ、また?」とニィナが、「本当に?」とヨハクが、大きく目を丸める。

 ミクロは無言でベッドのほうへ歩いていった。それをレーヨンが目で追っていたのに、ミクロは〝見んな〟とも言わなかった。ぼすん、とベッドに身を沈める。

 あたしが「どうだったの?」と問いかけると、イチルは答える。


「想像以上に大きい。前に見たやつの倍くらいはあった。力も強い。触腕に捕まったら引き剥がすのが厄介だよ。ミクロもあとちょっとだったんだけど、最後の最後でトライデントを取り上げられて、逃がしちゃって……」

「二人とも、怪我は?」

「俺はないよ。ミクロは腕に痣があったけど、もう治った」


 そっぽを向いて横になるミクロのほうを見遣った。負けず嫌いな性格だから、上手くいかないことがあると、こうやって機嫌が悪くなるのだ。でも、今回に関しては、落ちこんでいるようにも見える。一度克服したはずの相手に、二度も負けて帰っているのだから、悔しいと思うのも無理はない。


「あれ? ダイマオウイカを晩ごはんにするんじゃなかったっけ?」


 そんな相手を冷やかすヨハクの、意地の悪さである。

 ヨハクはベッドの上のミクロをせせら笑った。


「イカの締めかたわかってる? ミクロは乱暴なんだよね、トライデントもどうせ適当に振り回してるだけなんじゃない?」

「こら、ヨハク」とイチル。「俺たちだって、対峙したことは一回しかないんだし、失敗することだってあるだろ。しかも、その一回はニィナが一人でやっつけたんだし」

「え、そうなん?」

「うん。ニィナが俺たちの中で一番、泳ぐのが得意だから」

「待って。あんたたち海の中を泳いだの? あの強酸性の海を?」

「うん。だって、陸からじゃ倒せなくない?」


 せやけど……どえげつな……。

 戦慄している私の傍らで、「ニィナはそのときどうやって倒したんだっけ」「刺して倒したよ」「そりゃあ刺すだろうけど」「えらい?」「そりゃあえらいけど」と話は進んでゆく。


「たしかあのとき、ニィナにできたんなら俺たちにもできる、って言ったのもミクロだったよね」ヨハクの口撃こうげきは続いた。「できてなくない? そりゃあ、前の個体よりは大物だったんだろうけど、あれだけ意気揚々と言ったのに負けて帰ってくるなんて、だっさい」


 ヨハクにここまで言われて黙っているミクロも珍しい。

 黙っているというか、なにも言えないのだろう。

 ミクロはいま、目に見えて傷ついている。

 なのに、ヨハクはそれに気づかないのだろうか。


「けったくそわるいわ」


 思わず、あたしは吐き捨てていた。ヨハクが「え?」とあたしのほうへ振り返ったので、あたしはその目を見返して、腕を組む。


「……ヨハク、あんた、どこまで性根が曲がってんのよ。ミクロじゃなくても気ぃ悪いわ。まあさ、たしかにミクロは最初のほう調子乗ってたかもしんないけど、諦めずにチャレンジする姿勢は普通にかっこいいと思うわよ。そこまで厭味いやみ言われる筋合いないし、そう言うあんたはダイマオウイカ倒せんの?」


 あたしの言葉に、ヨハクはおもむろに視線を逸らす。


「えー、どうだろうな……できなくはないだろうけど、イチルも手こずるくらいだし、もしかしたら苦戦するかもね。僕はミクロみたいに確証を持ってって断言はできないよ。それこそ、もしかしたらできないかもしれないし……」


 イチルは、ヨハクに自信を持ってほしい、と言っていたが。

 こいつはすでに自信プライドを持っている。

 そのみみっちくてせせこましい自尊心プライドを。

 ヨハクに対して目に余ると言ったが、ぶっちゃけ、あたしはたまに本気でイライラしてしまう。大人げないのも重々承知だが、純粋に見苦しいのだ。イチルが慰めてくれるのに味を占めていること、克服すべき未熟から、失敗から、そうまでして逃れたいことが、見苦しい。


「あんたは、失敗したとき怖いから、保険かけてるだけでしょ。先にできないできないって言っとけば、実際に失敗しても〝やっぱり〟で済むもんね。そうやって賢いふりして傷を浅くしたいだけ。こすっからいやつよ、あんたって」


 言えば言うほど、あたしの言葉は硬く、冷たい色をしていった。

 それをヨハクも感じていたのか、いつもの饒舌は鳴りを潜め、あたしと目線を合わせぬよう、足元を見ている。

 イチルは「ジュリちゃん、その言いかたは、」とあたしを宥めようとするが、あたしはその一切を無視し、組んでいた腕をほどいて、しゃがみこんだ。俯いているヨハクと目線を合わせ、その非対称の瞳を見て伝える。


「……明日、ダイマオウイカのとこに行くから。あんたとあたしで」


 五人分の「えっ?」が重なった。






 余計なことは言わずに、見守ることにしたんじゃなかったのかよ。

 その日の夜、あたしは「やらかしたか?」と自問自答していた。ちょっと感情に任せて口を滑らせてしまったところはある。つい口が出てしまった。手が出なかっただけかもしれない。

 あたしは御所の二階の廊下を歩いていた。

 トカゲに頼んでいた物を受け取りに、先刻まで外に出ていたのだ。河豚ふぐにプロペラをくっつけたみたいな機体が、オオサカからばびゅんと飛んできたらしく、使いの者があたしに荷物だと言って預けて帰ったと聞いた。その荷物をゴロー補佐から受け取ったのがついさっき。

 部屋に戻る道すがら開封すると、大量の毛糸やらリボンやらが出てきた。どれもこれもカラフルであどけなく、一見すると、手芸でもすんのか、って感じだ。暗器道具に使うやつだから、もっと落ち着いた色がいいんだけどなあ。

 左腕で箱を抱えて、右手で物色する。

 すると、なにやら騒がしい声が聞こえた。御所の二階の廊下には、常夜灯として、蝋燭の火がいくつも灯してある。それを辿るように歩いていけばあたしの部屋だ。その途中に、あの五人が共に寝起きする部屋もあるのだが、声はそこから聞こえてくる。

 時刻は十一時半。子供はもう寝る時間のはずだ。あたしはコンコンと扉をノックする。すると、中から聞こえてきた声がぴたりとやみ、しばらくしてから扉が開いた。


「なんだよ、ジュリ」


 出てきたのは、トランプを持った寝間着姿のミクロだ。

 部屋の奥は真っ暗だったが、蝋燭の火に反射した眼が、四人分浮かびあがる。

 普通におっかなくてあたしはぎょっとした。


「明かりもなしになにやってんのよ」

「俺たちは夜目も利くからいらねえの。ジュリこそなんの用だよ」

「こんな夜中に声が聞こえたから、まだ起きてるのかと思って」

「遊んでないでさっさと寝ろって?」

「まだなんにも言ってないでしょうが。夜中なのに楽しそうにしてるなあって覗いただけで、寝かしつける気はないわよ」


 ていうか、やっぱり遊んでたんだ。

 楽しげな声の中にはヨハクのも混ざっていた。あれだけ口さがなく罵られたのに、意味不明だ。ミクロとヨハクはすぐ喧嘩するくせに、次の瞬間にはけろっとして一緒に遊んでいる。仲がいいのか悪いのかよくわからん。


「臨時でも世話係シッターなんだから、夜ふかしを叱るべきなんじゃねえの?」

「叱られたいの?」あたしは苦笑する。「でも、夜ふかしして遊ぶのって楽しいじゃない。あたし絶対テンション上がっちゃう。ちなみにみんなはなにやってるの?」

「ババ抜き。そこまで言うんならジュリも混ざる?」

「まだそこまで言ってないのよ」あたしは抱えていた荷物を見せるように揺らした。「楽しそうだけど、遠慮しとくね。作業しなくちゃいけないの。明日のために、テグスを別の素材に変えようと思って」


 すると、気になったのか、ニィナが「えっ、見せて」と言って、部屋の奥から近づいてきた。あたしの抱える箱の中を覗きこんで「うわあ、かわいい」と呟く。

 女の子の目には、こういう雑貨は魅力的に映るのだろう。まん丸い瞳がさらにまん丸くなっている。ニィナが「もっと見ていい?」と言い、あたしも中に入ることにした。

 気を利かせたイチルが、廊下からいくつか蝋燭を持ってきてくれたので、部屋の様子をじっくり見ることができた。初日に顔を合わせたときにも見た部屋だ。二人掛けのテーブルに大きなソファー、クローゼットの中にはテレビ。五人の寝起きする部屋でもあるため、奥には五つの小さなベッドが並べられている。その足元はこの子たちの物でしっちゃかめっちゃかだ。

 五人は、一つのベッドの上に集まっていたようだ。レーヨンはずっとベッドに座りこんだまま、こちらを見ている。弾みをつけたニィナがぼふんとベッドに舞い戻った。ミクロとヨハクは地べたに座り、ベッドの縁へ腕を乗せる。ヨハクはあたしを見て、居心地悪そうにしていた。蝋燭を部屋のあちこちへと置いたイチルが少し遅れて戻ってくる。あたしもベッドの上に腰かけさせてもらう。

 ニィナは箱の中のものに目をきらきらとさせて「すごい」とこぼしていた。


「この毛糸の色かわいいね、玉虫蜚蠊タマムシゴキブリみたい」

「嫌な比喩」

「明日の準備って、ジュリもダイマオウイカと闘うのか?」

「うーん、正直、ジュリちゃんが対峙するのは無理があると思うよ」

「万が一のためよ。それに、このあいだの鬼ごっこで、ヨハクに怪我させちゃったからさ。毛糸とかリボンなら安全かなって、テグスと交換しようと思ってたのよ」


 あたしの言葉に、ヨハクが拗ねたような顔をした。すっごく嫌そうだ。実際に「やだよ、本当に捕まっちゃうじゃん」とこぼしていた。


「あんたらの運動神経と体力すごすぎて、あたしがこれ使ったところで、普通に逃げられるのがオチよ。それに、ゲームなんだから、勝ったり負けたりして当然でしょ。むしろたまにはそっちが負けてくんないと、あたしが可哀想じゃない?」

「……わかった。いいよ。たしかに、可哀想なジュリのために、僕が譲って、負けてあげるべきだよね。本で読んだよ。これがノブレス・オブリージュの精神ってやつなんでしょ?」

「あんた、そういうところやで」


 言いだしっぺはあたしだが、ここまで手の平を反されると癪に障るな……普通に性格が悪い。でも、あたしに委縮するだけじゃなくて、ちゃんと言い返せるようなメンタルになったようで、そこはよかったと思った。もうあたしが怒ってないのを、図太く察している。

 あたしだって別にヨハクが憎いわけじゃない。あのときはついカッとなってしまったが、ヨハクがミクロを傷つけたことに、あたしも傷ついたのだと思う。二人で一人みたいなところのある二人だから。

 それに、いつか本当に嫌われることもあるんじゃと、ちょっとだけ不安になった。当の本人たちはけろっとトランプなんてしていたわけだが。


「……てかさ」あたしは話を変える。「みんな、だいぶ薄着じゃない?」


 半袖半ズボンの寝間着で、おまけに五人とも素足だった。唯一イチルだけは上からジャケットを羽織った格好でいたが、それでもじゅうぶん薄着だ。見ているだけで手足が冷たくなる。


「寒くないの?」


 夜はとにかく冷える。ただでさえ届きにくい太陽が、完全に姿を消してしまうから。汚染物質に太陽光を遮られ、日中に熱を溜めることもできなかった地上は、月光すら届かない、闇の中の冷蔵庫みたいなものだ。地域差は関係ない。トカゲなんて靴下を履いて寝る。

 まあ、子供体温って言葉もあるくらいだし、五人はあのチルドレンなのだから、これしきの寒さなんてへっちゃらなのかもしれない。


「寒いよ?」


 寒いんかい。

 あたしは「じゃあ、なんでそんな薄着なのよ」と顔を顰める。


「ストーブは点けらんねえし、しょうがねえだろ」

「寝るときは毛布にくるまってるし大丈夫」

「防寒めんどくさい」


 いくら丈夫だからって、怪我もするなら風邪だって引く。爆心期前ならいざ知らず、医療さえ衰退した現代において、病はまさに命取りだ。それも、どうせすぐに治るから、と蔑ろにするのだろうか。

 あたしはため息をつく。

 足元に鉛筆が二本転がっているのを見つけたので、それを拾いあげる。編み棒にしては歪だが、無理ではないだろう。ニィナの瞳の色よりも薄い色の毛糸玉を掴み取り、その糸をほどいていく。輪を作り、それを鉛筆に引っかけ、編み始めた。


「なにしてんの」

「靴下編んでる」


 編み物なんて久しぶりにやったが、意外と覚えているものだ。手が勝手に動く。模様をつけるとなると厳しいが、簡単なものならあしらえることができた。

 はじめは五人ともあたしの様子が気になったのか作業を眺めていたが、ミクロ、イチル、ヨハクの順番で飽きていったらしく、トランプへと戻っていった。

 ニィナとレーヨンは気が長いようで、一向に飽きる気配がない。ニィナは俯せの体勢で頬杖をつき、食い入るように作業を見ている。

 それなりの時間が経過し、あたしが「できた」とこぼすと、他の三人も再びこちらへ視線を遣った。


「……靴下じゃなかったっけ?」

「失敗した。靴下っぽいルームシューズ」あたしはそれをニィナに渡す。「まだだけだけどあげる。もう片っぽはいまから作るから」


 ニィナはあたしの作ったルームシューズを両手で受け取とると、蕩けるような声で「かわいい」とこぼした。


「すごい……ジュリーが作ったの?」

「目の前で作ったやん」

「かわいい、リボンついてる」早速、左足に履く。「イチル、似合う?」

「うん、似合ってるよ」

「えへへへへ」

「なに調子乗ってんだよお前」

「はいはい、妬むな。全員分作るわよ」


 あたしがそう言うと、ミクロは「妬んでねえ」と反論したが、イチルは「全員って五人みんな?」と驚いた。あたしは「うん」と頷く。


「なんで?」

「履いたほうがあったかくない?」

「あたたかいけど……」

「やだよ、そんなの、だっせー。リボンなんて趣味じゃねえし」

「それはニィナ用。かわいいから、ニィナに似合うと思って」

「えっ」ニィナは嬉しそうにした。「ニィナかわいい!?」


 厳密には、かわいいと言ったのはリボンになのだが、嬉しそうにしているニィナはかわいらしかったので、あたしは「かわいいよ」と告げた。すると、さらにニィナは頬を緩める。

 ミクロは「調子に乗んなブス」と言った。

 イチルは「こら」とミクロを叱った。


「寒くないって言うなら、無理して受け取る必要ないわ。でも、寒いのに無理する必要もないでしょ。ぶっちゃけ、昔ちょっと作っただけで、大したものは作れないけど、夜ふかしのお供にはちょうどいいと思うわよ」あたしは四人を見遣って尋ねる。「いる? いらない?」


 だんまりを決めこむなか、レーヨンは間髪入れずに「どっちでもいい」と答えた。痩せ我慢でも突っ撥ねるでもない、どこか淡々とした声。とりあえず嫌がってはいないことはわかったので、あたしは強めに「じゃあ、受け取れ」と推した。応答も早かった。レーヨンにつられて、残りの三人も頷く。

 結局、その夜、五人分のルームシューズを作るために、あたしまで夜ふかしすることになったのだった。






 夜ふかしどころか徹夜である。普段はさして眩しくもない朝日に目が抉られたくらいだ。意識ははっきりしているのに、頭はぼうっとする。こんな状態でダイマオウイカと対峙するのかと憂鬱だ。

 あたしとヨハクは、ゴロー補佐や武装した役人と共に、四輪駆動のオフロード車に乗って、トウキョウ湾まで来ていた。

 はじめて訪れるトウキョウ湾だったが、爆心期以後、復興が遅れているのが見てとれた。ゲートブリッジ、通称の恐竜橋は、陥落したまま放置されている。孤立した埋立地もそのままにされているところが多く、舗装が割れて滅茶苦茶だった。

 到着したのは、元は港だったという埠頭ふとう。真っ平でだだっ広くて、錆びたり熔けたりしているコンテナが無造作に散らばっているものの、閑散とした印象を受ける。当時は栄えていたであろう影も見えるけれど、所詮、影は影だ。停泊した船はどろりと傾いていた。

 それもこれも、この海のせいである。

 鉄や人を簡単に熔かす強酸性の海。

 滓玻璃金で補強するまでは埋め立てた土地すらも崩れるほどだったという。爆心期の一時は放射性物質にも脅かされていたらしく、一日沿岸にいただけで死に至ったそうだ。

 だが、汚染されたとて海は広く、時が経てば薄まる。いまでも滅多に人は寄りつかないが、死の漂う印象はさほどない。むしろ、新たな生態系を育んでいる。

 オオサカの内海もそうだが、トウキョウの海も鮮やかな黄緑色をしている。生息する藻類が海水を染めあげるためだ。昔は空の色を映す青だったらしいが、たとえいま空を映したとしても、鈍色になるだけなのだろう。


「この海の中でも平気なんて、本当にチルドレンってすごいわね」

「平気なわけないじゃん。普通に痛いよ」


 ヨハクの言葉に唖然とするあたし。

 え? あんたら平気とちゃうの?

 そこへ続けざまにヨハクは言う。


「潜水用のスーツがあるんだよ。それを着て海に潜るの」


 一人、車に戻ったヨハクは、その潜水スーツとやらに着替えた。酸をも恐れぬスーツというのだからどれだけ頑丈で武骨なのかと思ったら、体にぴったりと密着するような、伸縮性に富んだ、身軽なスーツだった。

 びっくりした。ずいぶんと軽量な潜水スーツである。オオサカでは、海に潜るときは滓玻璃金の鎧を着る。重いために自由に身動きは取れず、本当に潜るためだけのスーツである。しかし、ヨハクの着るそれなら、海の中でも自由に泳げそうだった。

 ヨハクが滓玻璃金製のトライデントをかまえる。対ダイマオウイカ用に支給されたものだ。海水にも溶けない滓玻璃金は、海岸沿いの補強や武器として使用される。透き通った銅のように光沢する、大きな三叉槍トライデントだった。

 ミクロはあたしへと振り返り、躊躇いがちに口を開く。


「……本当にできるかわかんないから」

「まだ言うか」

「どうせジュリは僕に痛い目見せたくて連れてきたんだろうけど」

「んなわけ。昨日のでじゅうぶん身に沁みたでしょ。あたしだってあんたを痛めつけたいわけじゃないわよ」

「だったら、ここまでする必要あった?」

「そこまで言うならやってみろよ、って思ったのはたしかだけど、それとこれとは別」あたしはため息まじりに告げる。「ぶっちゃけ、あんたの言うことをあんま信じてないのよ。あんたって、本当はできることでも、保険をかけてできないって言うときあるじゃない」

「…………」

「あたしはイチルみたいに甘やかさないわよ。あんたができること、知ってるから」


 ヨハクは薄っすらと目を見開かせる。

 そのとき、「来ました!」と声が上がた。

 海面が揺らぐ。大波が立つ。優れた嗅覚を持つというダイマオウイカは、陸の上の獲物の香りすらも嗅ぎとるのかもしれない。ゆらゆらと大きな影が見えたかと思えば、その触腕を大胆に覗かせた。

 全貌が見えないとはいえ、その不気味な様子にぞっとする。


「ジュリさん! あとはヨハクに任せてこちらへ!」


 あたしを呼ぶゴロー補佐は、あちこちに散らばったコンテナの裏に隠れ、待機している。あたしもそれに倣い、海水のそばから下がろうとして、あたしはヨハクへ言った。


「怪我には気をつけて!」


 あたしの声が届いたかはわからない。言い切らないうちに、潜水ヘルメットを被ったヨハクが、海へと飛びこんだ。

 ヨハクの姿は見えなくなったが、ダイマオウイカの足がうねうねと動きながら海水へと浸っていく。

 海中ではきっと戦闘がおこなわれているのだろう。


「……ちなみに、あの潜水スーツ、どうやって作ってるんですか? うちでも作れたら嬉しいんですけど」


 こっそりゴロー補佐に耳打ちすると、苦笑が返ってくる。


「トウキョウの潜水スーツは、チルドレンの頭髪や血液を素材として練りこんでいるんですよ。そのため、量産できませんし、作れたとしてもキッズサイズのみです」


 そもそもがチルドレンありきなので、オオサカでの実現は不可能。

 やっぱすごい子供たちなんだな。言ってしまえば体の一部を素材にしているのだ、その素となるあの子たち自身だって、おそらくこの海の中で自由に行動できるのだろう。ヨハクもさっき「痛い」と言うだけで、「死ぬ」とは言わなかった。痛みを我慢すれば、生身でも海に飛びこめる。

——でも、やっぱり痛いんだ。

 どんなに驚異的で、人間離れしていても、あの子たちだって人間なんだから、痛いものは痛い。

 あたしはグローブを嵌めた手をぎゅっと握りしめる。

 そのとき、ざばん、と大きく波飛沫が上がった。そこには、太長い触腕とダイマオウイカのものらしき頭部の一部が見えた。

 想像を絶する大きさに、本気で血の気が引く。

 海獣や怪獣と思われたっておかしくはない。

 気持ちが悪くて鳥肌が立った。

 ざぷん、とまた一つ大きく波が立つ。海中に沈んでいたダイマオウイカの触腕の一本が、海面から持ちあげられた。よく見ると、その触腕にはトライデントを突き刺すヨハクがいる。ダイマオウイカはヨハクを引き離そうとぶんぶん触腕を振り回すが、ヨハクの握るトライデントは突き刺さったままだ。

 観念したダイマオウイカは暴れるのをやめた。代わりに、ヨハクの捕まる触腕を徐々に足の付け根——口元へと持ってくる。

 食べる気だ。


「ヨハク、逃げて!」


 あたしがそう叫んでも、きっとここからじゃ声は聞こえない。

 ヨハクは触腕にぶら下がったまま、されるがままになっている。

 いよいよ目と鼻の先というところにまで近づいたとき、ヨハクは身を翻す。触腕に足をかけ、踏みしめるようにして、突き刺さっていたトライデントを引っこ抜いた。

 一瞬でかまえなおしたかと思ったまさにその瞬間、ヨハクはトライデントでダイマオウイカの目の間を刺した。

 えんぺらから足の付け根までが真っ白になる。目に見えて、ダイマオウイカの動きがおかしくなった。弛緩するように脱力。完全に動きを止めて、そのまま海に沈んでいった。


「ヨハクが仕留めました!」

「よし!」


 ゴロー補佐たちは歓喜を滲ませる。コンテナの裏から飛びだして、嬉しそうに飛び跳ねていた。

 あたしはヨハクの姿を探した。ダイマオウイカの死骸につられてヨハクも沈んでいったのだ。海面へと走り、覗きこもうとして——ばしゃっと波が立った。


「どわーっ!」


 強酸性の飛沫が我が身に降りかかろうとし、あわや溶けるというところで、あたしは後ずさって回避した。

 本当に心臓に悪い。あたしは胸を撫でおろしながら息を整える。

 海面から上がってきたのは、ダイマオウイカを見事に仕留めたヨハクだった。


「できたよ、ジュリ!」潜水ヘルメットを外したヨハクは、声を上擦らせて言った。「図鑑で読んだとおり! イカは目と目の間に脳の中枢があるんだって! そこを刺せばすぐに仕留められると思ったんだ! ダイマオウイカの体の色が変わるところ、ジュリも見た!?」


 ぼたぼたとヨハクの体から滴る海水が、地面を溶かして水玉の跡を作っていく。あたしもはじめは「見てたよ」「すごいじゃん」と言っていたが、テンションの上がったヨハクがわちゃわちゃと走り回り、足を滑らせたのを見て、再び「どわーっ!」と叫んだ。

 反射でグローブを向ける。

 篭手から噴出したリボンが、ヨハクの濡れた体に巻きついた。

 頼りないリボンはヨハクに巻きついたそばから海水に溶けていったものの、溶けきるよりも先に、その体を引っ張ることができた。

 ヨハクは踏鞴を踏んでしゃがみこむ。あたしも、ヨハクを引っ張った拍子に尻餅をついた。今日は心臓に悪いことだらけだ。


「こんな水辺でヘルメットもなしにはしゃぐんじゃないわよ! 海に落ちてその頭が溶けちゃったらどうすんの!」

「くくっ、あははは、ジュリ、テグスをリボンにしたんだ?」

「はあっ? したけどそれがなに!」

「わざわざリボンに変えたのも、こうして助けてくれたのも、僕のことが心配だから?」


 それは、いつものヨハクの捻くれた聞きかたではなかった。

 ただ純粋にあたしに尋ねている。

 あたしが「そりゃそうよ」と言うと、「僕に発破かけたのも?」と重ねてきた。


「どうせ子供らしくないとか、かわいくないとか思うんだろうけど、僕だってさすがに、ジュリが意図してああ言ったんだろうなってことくらいわかってるよ。まあ、なんで臨時の世話係シッターにそんなこと言われなきゃいけないの、とは思ったけど」

「臨時の世話係シッターだからあんなこと言ったんじゃないわ」あたしは立てた膝に肘をつく。「あのままのヨハクを見過ごせなくて言ったのよ。あたしがオオサカの首長補佐でも、通りすがりの大人でも、同じことを言ったと思うわ」


 ヨハクの、ちょっとすましているところ、実は強がりなだけなところ、本で読んだことを実践してみたいところ、それらはいたいけでいじらしくもあるが……だめなところはだめだと教えなくちゃいけないって、あたしは考えている。人として。

 そんなふうに答えると、ヨハクは再び「ジュリ、」と口を開いた。


「僕がまた怪我したら、心配してくれる?」


 まるで怪我しようとしているみたいに聞こえて、あたしは睥睨した。


「縁起でもないこと言わないでよ。もう怪我なんてさせない」


 強い語気でそう告げたのに、ヨハクはことさら嬉しそうにした。ぴょんと跳ねるように立ち上がって、その場を去っていく。

 こいつ、本当にわかってるんだろうな。わかってるんだろう。なにせ彼らは理解が速く、聡いので。

 それなのに、彼らは、心配されることにあまりにも慣れていないから、当たり前のあたしの不安をこんなにも喜んでしまうから、だから、あたしはもっと心配になってしまうのだ。


「ジュリ! 早く帰ろう!」

「はいはい」


 あたしも立ちあがって、ヨハクの後に続く。

 こうして、ダイマオウイカの討伐は、ヨハクのちょっとした成長と共に、幕を閉じたのだった。






「え? ダイマオウイカ? 楽勝だったよ? 僕はたったの一撃で仕留められたしね。ていうか、逆に、あんな雑魚を倒せないやつとかいるの? 泳げないレーヨンくらいしか許されないでしょ」

「おいなんも成長してへんやんか」


 五人の部屋の扉に凭れかかっていたあたしはツッコんだ。

 夜、寝る間際のベッドの上でねだられたヨハクが、みんなに今日のことを自慢げに話しているところだった。その語り口調にヨハクの悪いところが全部出ていたので、あたしは呆れてしまう。

 ヨハクの態度にキレるだろうと思っていたミクロは、意外にも悔しそうにしているだけだった。いや、ではない。どうやってダイマオウイカを倒したのか、熱心に耳を傾けている。

 耳を傾けているという点ではイチルも同じだったが、彼が手放しに「すごいよ、ヨハク、さすがだ」と褒めるのを、ヨハクはくすぐったそうにしている。それを眺めるイチルもどこか嬉しそうだ。自信に満ちたヨハクの様子に満足しているのかもしれない。


「僕、いろんな本読んでるから、ダイマオウイカの弱点も知ってたんだ」

「目と目の間ね……そういえば、一回目にニィナが倒したときも、そのあたりにトライデントを刺してた気がする」

「でも、統計数は少ないし、本に書いてあるのも昔の知識だし、本当は、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだよ? 自信なかったけど、でも、」ヨハクは恥ずかしそうに俯く。「ジュリが……できるって言ってくれたし」


 そう言ったヨハクに、イチルは少しだけ目を瞠って、しかし、それは一瞬でいつもどおりの表情に変わる。ヨハクの頭を撫でながら「そっか」と微笑んだ。

 ヨハクは「やめてよ」とイチルの手を恥じらい、視線を逸らす。逸らした先にあたしを見つけて、ヨハクは「そういえば、」と声をかける。


「ニィナは? せっかく僕の武勇伝を聞かせてやろうと思ったのに」

「自分より一足先にダイマオウイカを倒した相手に、よくそういうこと言えるわよね。お花を摘みに行ったのよ」

「そういえば、なんでお手洗いのことをお花を摘みに行くっていうんだろうね? トイレのことをお手洗いっていうのは、そりゃ、手も洗うし、なんとなくわかるけど」


 あたしが「話飛んだな~~」とコメントすると、背後から「呼んだ?」と声をかけられる。あたしは肩をびくつかせた。振り返るとニィナがいて、そのまんまるい目であたしを見上げていた。廊下の灯りに照らされて、揺らめく髪の輪郭がちりちりと輝く。

 驚いたあたしが「いつの間に」と問うと、ニィナは「ヨハクに呼ばれたのが聞こえて」と答えた。


「にしたって全然足音が……って、ニィナ、裸足じゃない」


 いつかの日みたく、夜の冷たい空気に晒された小さな足を見て、あたしは眉を顰める。

 ベッドの上で語らう彼らの足は、あたしの贈ったルームシューズにより温められている。てっきりニィナもそうだと思っていたのに。


「ルームシューズはどうしたの?」


 あげたときはあんなに喜んでいたのに。

 あたしが尋ねると、ニィナは片足の上にもう片足を乗せて、「ううううう」と唸りながら体を揺らす。


「ニィナのルームシューズは、ベッドの下の、宝物箱に入れてるの」

「なんで履かないの? 寒いでしょ?」

「せっかくくれたのに、かわいいのに、汚れるのがやなんだもん」

「はあ?」


 あたしはさらに眉間に皺を寄せるも、ニィナは「歩いてたら、毛糸がほつれちゃったし」とぶつぶつ言葉を重ねるだけだった。

 素人の作ったルームシューズなんてそんなものでしょう。ルームシューズじゃなくって、元々は靴下の失敗作だし。特にニィナのものは最初に作ったから、他の子たちのよりも手慣れてなくて、疎かになってしまった部分もあったはずだ。


「でも、大事にしまっておくんじゃあ、作った意味がないんだけど」

「だってぇ」

「せっかくニィナのために作ったのに」

「でも、やなの!」


 ニィナは愚図る。なんだかむきになっているようにも見えて、あたしは内心で戸惑っていた。

 ニィナは五人の中では特に甘えたがりなところはあるが、駄々をこねるようなタイプではない。それがこの様子だ。ルームシューズなんて大したことのないもののために。

 あたしは呆れ気味に口を開く。


「そんなもったいぶらなくたって、それくらいあたしが、」


 また作ってあげるから——そう続けようとして、言えなくなった。

 本当に作ってあげられるだろうかと、逡巡した。

 あたしはあくまで臨時の世話係シッターだから。

 いつまでもここにいるわけじゃないから。

 ニィナもそれ知っていた。ヨハクが理解しているように、この子だって理解しているのだ。

 宝物箱にしまいこむくらいお気に入りのルームシューズは、ほどけてしまえばどうすることもできないのだと、理解している。

 あたしは、言おうとした言葉を、喉の向こうへ押しこんだ。

 おもむろにしゃがみこみ、一途にこちらを見上げるニィナの頭を撫でる。よく梳いた毛皮みたいに、ふかふかでつやつやだ。その感触を確かめるように、あたしはゆっくりと撫でつづける。

 そして、押しこんだ言葉の代わりに、もっと別の言葉を吐いた。


「……あたしが、教えてあげるわよ」


 ニィナは緩やかに目を瞬かせる。

 その無垢な姿にあたしは微笑んで、言葉を続けた。


「編み物のやりかた、教えてあげる。汚れたって、糸がほどけたって、自分で作ればいいのよ。そしたら、ニィナの好きなように、あたしのよりももっとかわいいルームシューズだって作れるわよ」

「……本当?」

「うん」

「ニィナに教えてくれるの?」

「明日にでも教えてあげる」

「絶対だよ。ニィナ、明日が来るのを楽しみにしてるからね。絶対だからね、ジュリー」

「うん。おやすみ。また明日」

「また明日」


 そう約束したあと、ニィナは部屋に戻っていった。

 その背中を見送りながら、どうしようもなくもどかしくて立ちつくす。あたしは思いを馳せる。

 痛いことも、寒いことも、寂しいことにもまだ慣れない、心のうちだけで持て余してしまう、不器用な彼ら。

 あたしは、ここを去るまでに、このなにも知らない子供たちに、どれだけのことを、どんなことを教えてあげられるだろう。

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