第5話 「夜の炎」

   ──季節を送る炎と共に。



 夜の暗闇の中に赤い花が咲いた。大した物ではない。タライの中で使い終わった大量の割り箸が燃えているだけだ。未だ祖母が生きていた頃、もう十年以上前か。祖母は盆が始まる頃には迎え火を、終わる頃には送り火を焚いていた。不意に思い出して真似をしているだけだ。昔はこの火を家族と囲んで色取り取りの花火で遊んだものだが、一人になった今はもう何気なく買って来た線香花火に火を点ける程度だ。

 一度ロウソクに分けた炎に線香花火を近付ける。じりりと音を立てて先端に火が移り、ばちばちと小さな火花を散らす球体になった。これが落ちずに燃え尽きれば願いが叶うのだったか。思わず肩を竦めて苦笑した拍子に赤い球体が落ちてしまった。少し笑って、束の中からもう一本引き抜いた。タライの中の炎は未だ暫くは燃え続けている。めらめらと燃える炎と、ばちばちと爆ぜる火花を眺めながらぼんやりと様々の事を想う。

(了・序) 

 


 当たり前の一日で終わるハズだった。友達の家で遊んだ。途中で友達の妹がちょっかいを出しに来たりして楽しい時間だった。夕方になったので帰る事にした。友達は妹の世話が忙しそうだったから、部屋の前で分かれて階段を下った。小母さんは台所に居るみたいだったからとりあえず大きな声を投げると、同じように大きな声が返って来た。そのまま玄関で靴を履いていると近くの襖が開いてお婆さんが顔を出した。

「おや、もう帰るのかい?」

 白髪の品のある和服姿の人だ。

「ええ。宿題もあるので。」

 友達とは随分付き合いが長くこの家で遊ぶ事も多かったから、お婆さんと顔を合わせる事も少なくなかった。

「相変わらず真面目ねぇ、勉強も良いけれど、あの子達とも遊んであげてね? あれで結構寂しがりなのよ。」

 お婆さんは楽しそうに笑っていた。俺は「はい。」と返事をして「お邪魔しました。」と言ってその家を出た。

 そうやって当たり前の一日は終わるハズだったのだが、それ程長くない返り道を半分くらい歩いてから気が付いた。

 お婆さんは去年亡くなったのだった。

 高校の制服を着て葬式にも出席したのを今更それを思い出した。不思議な程恐怖は感じなかった。余りにも鮮明な姿と、生前と変わらない優しい笑顔があったからだろう。お婆さんとも思い出も面白いものばかりだ。何年前だったか、ハロウィンにどこからか持って来た般若の面を被って友達の妹を泣かせていた。その後でばつが悪そうにしていて、その面を被ったのはその年だけだったけれど、なら、今年は俺がその面を被ってみよう。他にもお婆さんとの記憶を思い出していると、川から少し冷えたような風が吹きあがって来た。ぼんやりと叩かれた髪を直しながら、もうすぐそんな季節だな、と思った。

(了・違わぬ面影)

 


 湿気は徐々に薄くなって、気温も夜になれば大分下がるようになった。けれど、俺の中には酷く冷え切ったような感覚しかなかった。花火の音が聞こえる。蜩の声は随分前にかき消されたように思える。代わりに聞こえ始めた違う虫の声も、一向に進まない手元の作業も、どうやら厭だとしか思えないようだ。

 一つため息を吐いて煙草を銜えた。

 一度頭を掻き毟ってみて、どうにもならないと諦めた。

 いつからこんな事をしているのだ。いつまでこんな感傷に浸る心算だ。自分に投げ付けたそんな問いにさえ答えられず外へ出た。虫の声は止まず、僅か不安定に思える空気も変わらなかったけれど、見上げる星だけは綺麗だと思えた。

 そう言えばあの子はこんな事を言っていた。

 厭な事ばかりが周りにある時は外に出た方が良い。最初は余計に厭になるけれど、空を見て歩いているうちに風と空の色が少しだけ気分を良くしてくれる、だったか。もう、二度とその声を聴く事は無い。たった二十三年、未だ燃え続けていた筈のその命は、誰かの間違いで消えてしまった。いっそそれを憎んでしまえば楽だったのだろうが、あの子の笑顔とその優しい心根はそれを許さないだろう。ならば君が自分の分まで幸せになれば良い。そんな事を平気な顔で言ってのけるような子だった。俺の下らない感情一つであの真剣で誠実な顔を濁らせてはいけない。

 近くで祭りをやっていた。この辺りでは一番遅い祭りだ。祭りだからと浮かれて、迂闊にかき氷を買ったあの子の為に温かい飲み物を遠くまで買いに行ったのはいつだったか。こんな時期の花火も未だ綺麗に見えるのだと思ったのは何時だったか。手を繋いであの木の下を歩いたのは。

 危うく溢れそうになった涙を押し戻すと、その木の下に誰かが居るのが見えた。こっちを見ているようだけれど、誰かは分からない。シルエットははっきりしているのに、顔も服もよく見えない。俺の目がぼやけているのか、そいつが黒子のような格好をしているのか確認できないうちにそいつは木の後ろに回ってしまった。

 追いかける気にはならなかった。もしはっきり見えたとしたら、あの頃と同じ、少女のような笑顔を浮かべていると確信できたからだ。

 俺はあの日から立ち直っていない。勿論、あの子の家族にも、俺やあの子の友人にも悟られないようにはしている。その姿が滑稽で、あの頃みたいに心配でもしに来たのだろう。もしもはっきりと俺の前に現れたなら言ってやろう。勝手に死んだ奴に何も言われたくない、と。

 祭りの会場を過ぎるとすぐに墓地がある。あの子もそこで眠っている。何気なく視線を飛ばしていると、仄かに赤い球体が空を泳いでいた。もう何をされても俺からは何も言ってやらない。

 少し拗ねているのかも知れない。

 怒っては、いないだろう。未だ涙はいつでも流せそうだ。

 けれど、もう大丈夫。そうやって見守ってくれるのなら、きっと大丈夫。あの子も、そう言っているような気がする。俺の近くまで来た柔らかな色の球体は少しの間くるりひらりと舞ってから墓地の奥へ戻って行った。

 俺は安心も諧謔も、穏やかさもあの子の柔らかな感情も、何もかもが混ざった奇妙な心地を覚えたまま墓地の隣を抜けて帰路を歩いた。

(了・晩夏の夜)



 煙草を買いに行く時は散歩がてら少し遠回りをして歩く。今はもう葉さえ落とした桜の木の下を、子供さえ寄りつかない寂れた墓地の隣の公園を、歩道は無いのにやたらと車通りの多い道を、赤く染まった散りかけの葉の下を歩く。それから砂利を敷き詰めた駐車場を抜けて通りに出ればコンビニに着く。その駐車場は幾つもの民家と隣接していて、時折人の声や生活の音が聞こえてくる。その一つ、やや古びた家の前で二つの声を聞いた。幼い高い声は、恐らく少女と少年だろう。交互に少しだけ違う音階で響いている。俺はいつの間にか白く濁るようになったため息を吐き出しながら歩いた。

 暫く経ってから風の噂で知った。一家心中と生き残った母親の事。その人はもう遠い生家へ帰って養生しているらしい事。あの家は近々取り壊されるらしいが、今はまだ空き家としてそこにある事。

 今日も俺は遠回りをして同じ道を歩いている。子供の声は未だ時折聴こえる。どんな理由も知らない。ただ、その子達は未だその家で暮らしているようだ。

(了・声) 



 時折幻覚が見える、ような気がする。それは決まって夕陽が沈んだ後、未だ僅かに光が残っているような時間帯に見える。

 その日は仕事が早く終わったので近所の喫茶店で珈琲を飲んでいた。軽食を頼もうかとも思ったが、部屋に戻れば昨日の残り物があると思い出して止めた。窓辺の席で珈琲を飲み煙草を吸い、会計をしていると後ろから女に声を掛けられた。

「お兄さんこの辺の人だよね?」

 知らない女だったが、本当に知らないのかは分からない。かつての知り合いが見知らぬ女に成長する事だってあるだろう。

「ああ。」

 財布から紙幣を抜き取りながら適当に応える。

「なんか見かける度に一人だよね。一緒に帰ってあげようか?」

 お釣りを受け取り財布にねじ込んだ。

「いや、これから用事があるから。」

「そう? 残念。」

 肩を竦める女は長い髪の魅力的な女性ではあったが、俺は出来るだけ自然に見えるようにその場を立ち去った。知っている。その女は、その服を着た女は、数週間前の夕闇の中で山羊の頭で大きな鎌を持っていた女だ。

(了・夕闇の影)



 長旅の途中、広い駐車場があったので休憩する事にした。目的地はもう直ぐそこだから、少し休めば良いだろうと運転席のシートを倒して天井を見上げた。ふと、煙草を吸う時に少しだけ開けていた窓に気が付いた。慌ててキーを回して窓を閉める僅かな間も、その隙間にある赤く血走った目は俺を見ていた。

(了・目) 



 粘り気を増し始めた夜風の中を蛍が飛んでいる。無数にあってもふらふらと漂うだけの小さな光は余りにも儚く思えた。川辺の道を歩きながら煙草を銜えかけて止めた。小さな光が一つだけ俺の周りを飛んでいる。まるで纏わりつくようにくるくると、何度も俺の周りを飛ぶ。煙は嫌いだろう。そう思って胸のポケットに小さな箱を仕舞った。何時だったか、同じようにしていたな。妹が死ぬ少し前だったか。病室から自宅のベッドに移されて、それでも前よりは少し楽そうに呼吸をする妹が身体を横たえる部屋で、同じように煙草の箱を仕舞ったのだった。あの時妹はなんて言ったのだったか。一年という時の流れの中で忘れてしまったのか、たった一年では未だ思い出せないのか、どちらなのかは判らなかった。

 いつの間にか蛍は何処かへ飛んで行ってしまっていた。

 見上げる空には幾つもの星が散らばっていた。急に、胸の底がざわつくような感触を覚えた。妹は昔から身体が弱く、余り外へ遊びにはいけなかったから、俺や母が家の中で遊び相手をしていた。学校へ行っていた時も、社会に出てからも、その前だって、十八で妹が夭折する直前だって、俺が使える時間の殆どは妹と一緒だった。それがなくなってしまって、まるで二十四時間という区切りの中にぽっかりと穴が開いてしまったようだ。それまでは散歩なんて殆どした事がなかったし、自室の灰皿が煙草で埋まるような事もなかった。母は何かを忘れるように父と旅行するようになった。家に居たくないのだろう。あの家には余りにも妹の思い出が染み込み過ぎている。

 散歩道の最後には桜の木がある。一つ前の季節にあった見事な薄紅の花は冷たい雨に打たれて全て散ってしまった。そこまで歩いて、漸く寂しいのだと気が付いた。足を止めて見上げる桜の木には青々とした葉がある。俺には何が残ったのだろう。

 ため息を吐きながら歩き出そうとして、足が止まった。また蛍が一匹、今度は一度だけ俺の周りをくるりと回って飛び去って行った。儚げなその姿を眺めるだけの俺の頭の中に、小さな声が流れた。

「遠慮しなくて良いよ。お兄ちゃんの煙草、良い匂いだから。」

 あの日、あの部屋で妹はそう言った。煙草を銜えて火を点ける。儚く散った命は、どうやら思い出だけは残してくれたらしい。家に戻ったら撮り溜めた写真を整理しようとか、母にも見せようとか、そんな事を思った。

(了・蛍)

 


 炎が消える。結局線香花火を最後まで咲かせる事はできなかった。それで良いのかも知れない。来年もまた同じように火を灯そう。揺らめく炎の中の面影に会おう。すっかり炎の燃え尽きたタライに水を流し込みながらそう思った。

(了)

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