第2話 「夜の羽根」


   ──奇怪なるはこの世の常。



 草木も眠る頃、郊外、というよりも田舎にある我が家の周りには殆ど音が無い。だから、何か音がする時にはすぐに分かる。遙か上空から舞い降りた風の音、珍しく通った車両の音、小さな池に蛙が飛び込む音、甲高い猫の鳴き声がする夜もある。雨音も、雪が降り積もる日は押しつぶされる雪の悲鳴さえ聞こえてくるような気がする。その中には奇怪な音も混ざっている。それは家の木材が軋む音であったり、闇夜に紛れ屋根に降りた鳥の足音だったりするのだが、どうしても説明できない音もある。

例えば、畳を踏む音。僕は一人で暮らしている。近所には飼い猫か野良猫か、夜歩く猫があるようだが、家の中へ入り込むような隙間はない。そしてその音は、決まって家の奥にある部屋から聞こえてくる。その部屋にはこの家で暮らした人々の遺影がある。そんな場所から、畳を踏む音はゆっくりと近付いてくる。疾しい気持ちがない今は、ただ様子を見に来ているだけだろうと思えているが、この先どうなるかは分からない。それでも僕は耳を澄ます。聞こえるのは、雫の落ちる音。窓もカーテンも閉め切った夜でさえ、その音は外から聞こえてくる。人の話す声。それは真っ白な壁の中から聞こえる。壁の向こうは狭い庭と、その先に小道がある。人が通らないとは言えないが、何時間も、また幾晩も話し込むような場所ではない。

 それでも、実害のない僕は平然と夜を迎える。僅かばかり楽しみにさえしている。友人はお前のその神経が、と言った。どうかな。僕は今日も真夜中の声を聴く。それはきっと、明日も。

(了・真夜中の声)



 夏になると昼の陽光を避け、月明りの中を散歩する。湿気も熱も残っているから快適とは言えないが、それでもただ立っているだけで汗が噴き出るような灼熱の中を歩くよりは良い。それに、陽光の中では見落としていても、静寂で満たされた月明りの中ならば聞こえる物がある。木の葉の擦れる音や、水の流れる音、蛙や虫の声。見上げればある筈のない星達が囁き合う声さえ聞こえるような気がしてくる。見える物ももある。細い道の脇に崩れかけのブロック塀がある。向こうはどうやら空地のようだ。かつてはそこに家があり、沢山の声があったのだろう。今はもう半分程崩れていて、台形状になった塀が残っているだけだった。ブロックの表面はざらざらした起伏があるし、継ぎ目は窪んでいるから決して一定ではないが、一応は平面になっていて、その中に、影が居る。月明りが作った僕の影ではない。その影はマッチ箱程の大きさで、十個はあるようだった。ブロック一つが部屋になっているのか、上下の継ぎ目の窪みを床のようにして立っている。それが時折歩き出して、左右のブロックへ移るときは扉を開けるような仕草をして、上下のブロックへ移る時は縦の窪みの周りを螺旋階段でも上るような動きで移動していく。その陰には足があった。手もあった。頭があった。それらを繋ぐ胴体もあった。影達は僕に気づいているのかいないのか、ばらばらに壁の中を動き回っているが、時折その動きを止め、こちらを見ている、ような気がする。触れてみようかと、触れたらどうなるのかと、ぼんやり思った。触れてはいけないと誰かが言ったような気がした。けれど、僕は、嗚呼、月の青白い光に騙されたのだ。陽光では見えないものに唆されたのだ。止まってこちらを見ているような影の一つに、人差し指で触れてしまった。


 裏道にあった古いブロック塀は危険であるという理由で取り壊された。その近辺ではここ数年で十数名もの行方不明者があった。彼らの所在はついに知られぬまま、やがて時の風化に任せて忘れ去られていった。

(了・夜の影絵)

 

 

 気が付くと車道のど真ん中に立っていた。霧がかかったような頭の中の記憶を辿る。思い出せる日常の欠けらは、どれも今と繋がらない。俺は確か自分の部屋に居た筈だった。最後に部屋のどこにいたのか、何をしていたのか、思い出せない。仕方なく辺りを見た。知らない場所だ。一応交差点の前のようで信号機が見えるが、それは青、赤、青、黄、赤、赤、青、とでたらめに点滅しているだけだった。標識もあったが文字が掠れていて読み取れない。道の脇にある街灯は白やオレンジの光を投げているが、その向こうにあるビルらしき建物はただ黒い塊で、灯りどころか窓や入口さえ分からない。人は居ないようだ。車の音もしない。何の音もしない。ふと、黒い塊に白い影が映った。それはゆっくりと右から左へ流れて行った。丁度、歩行者の影が映っているようだが、辺りには誰も居ないし、話し声も足音もしない。軽い眩暈がして、ここに居てはいけないと思い歩き出した。幾つか交差点を過ぎると、漸く向こうから人が歩いて来たが、俺は視線を落としてすれ違った。その人間らしい何かの唇は鳥のクチバシのようなっていて、目は赤く塗りつぶされたようになっていたからだ。その後も俺は出会うもの全てとただすれ違った。シルクハットを被りステッキを持ったペンギン。黒い塊から塊へ飛び交う魚。犬の声で鳴く猫。蛇のように滑って行く人。とても話ができる相手ではないと思った。一度だけ、オープンカフェのようなところに居たフランス人形に声をかけられたが、その言葉の意味が分からなかったから無視をした。赤い海を渡って緑の空に落ちる、というのはどういう意味だろう。そして、激しく点滅する信号機の下まで歩いた俺はそのまま倒れた。酷い眩暈を感じたような気がするから倒れたのだと思う。視界は真っ黒に染められていて、ばちばちと火花が散るような音が聞こえた。それは唐突に途切れて、真っ白になった。全てが真っ白だった。眩しいと感じているのか、そもそも視覚が狂っているのか。自分の感覚を探っていると足元から高い音の鳴き声が聞こえた。俺は真っ白な部屋に立っていたのだった。見ると、白の中に灰色のネズミが居た。俺を見上げて、何か言いたそうな顔をしていた。しゃがもうとしたらネズミは素早く振り返って駆け出した。殆ど反射的に追いかけると、青い扉が見えた。ゆっくりと開くその扉の向こうへネズミは吸い込まれていき、俺も続いた、のだと思う。


 朝の鈍い光の中で目を覚ました。雨音が聞こえる。僅かに混乱したような気がするが、ニュースを見ながら食事をする頃には元に戻っていた。きっと夢だったのだろう。ただ、一つだけ。天気予報は秋雨前線云々と言っていたが、近付いていたのは梅雨前線ではなかったか。確認は出来なかった。それ以外何の変化もなかったからだ。カレンダーは九月のものだったし、実際もそうだった。仕事も昨日の続きをきちんとこなせた。まぁ、小さな事なのだろう。そう思って今は諦めている。

(了・時空遊泳)

 

 

 酷く気だるい朝、顔の毛を剃りながらふと思った。鏡に映っている自分は口ひげを剃っているが、それ以外の時は何をしているのだろう。僕が鏡に映っていない時、鏡の中の僕はどこに居るのだろう。映っていなければ、見えていなければ存在しないのだろうか。鏡の中にも洗面所の出入り口になっている扉がある。僕が髭を剃り終えてそこから出て行けば、鏡の中の僕も同じように扉をくぐるだろう。その後は? 実は僕と少しだけ違う暮らしをしていて、映るものがある場所でだけ丁度同じになるようになっているのではないか。いや、待てよ。実はそれは今もあるのではないか? けれど僕にはそれが確認できない。自分の顔は、自分では直接見れない。服ならどうだ。しかし上から見下ろす服と、鏡に映っている服では角度が違う。一度脱いで、いや、着ている時だけ違う事もあるかも知れない。手の平の皺ならばどうだろう。僕は手の平と鏡の間に顔を入れ、同じような角度から見えるようにして、交互に確認した。大丈夫、同じだ。いや、手を見ている時と、鏡を見ている時では、と思いかけた時、鏡の中、左回りの時計が目に入った。もうそろそろ出かけなくてはならない。手早く支度を終え、扉をくぐった。鏡の中の僕もそうしただろうか。確信は持てなかった。

 それから毎朝僕は己の手の平の皺と、鏡の中の皺を見比べた。流石に外ではできなかったが、個室に鏡がある場所では確認した。場所が違えば、時間が違えば。一ヶ月経っても違いはなかったが、さらに一週間経った月のない夜にそれは見付かった。鏡の中の手の平の、中指の付け根から伸びる皺が一部分だけ途切れていた。驚いて体を引くと、鏡の中に驚いた僕の顔があった。何度見ても、鏡の中の皺は繋がらなかった。その日から、何かが変わり始めた。鏡の中のそいつが少し早く振り向いたような気がする。服が小さな汚れの位置が違う。切ったばかりの爪の形が違う。手で触っても見付からない髭の剃り残しが鏡の中にはあった。

 どれくらい経っただろう。鏡の中のそいつが本当に僕なのか、僕はこんな顔をしていたのか、分からなくなってきた頃、そいつが奇妙な事を始めた。タオルを数枚結びつけ、長い紐を作ったのだ。大きな違いがあってはならない。僕も同じようにタオルを結んだ。次に鏡の中の男はそれで輪を作り、物干しに使っている棒に吊るした。もう、男を見る必要は無かった。僕とそいつは久しぶりに全く同じ動作で首を吊った。意識を失う数秒の間にこちらと鏡の中と、どちらが本当なのか、どちらが間違ったのかを考えたが、すぐに真っ白な霧に飲まれて消えてしまった。

(了・鏡)

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