虚構の影絵

笹森 賢二

第1話 「夜の色彩」


   ──通り過ぎる風景達。



 不意に蝉が鳴き止んだ。居間の畳に寝転んでいた僕は、ああ、また雨が降るなと思いながらガラス戸に背を向けた。

 いつだったか、今日と同じように寝転んでいた事があった。ガラス戸の向こうで降り出した雨はあっという間に勢いを増し、何もかもが真っ白な色の中に沈んだようになった。それに紛れるように歩く幾つもの真っ白な人影も見えた。

 その時はどうしたのだったか。ガラス戸から一番遠い部屋の隅で震えていたのだったか。もう何年も前の話だし、あの時だって実害はなかったのだから大丈夫だろう。僕はガラス戸に背を向けたまま目を閉じる。

 大丈夫。

 例えば何かが窓に張り付いたような気配を感じても、きっと大丈夫。

(了・真白き雨) 

 


 ロウソクの上で赤い炎がゆらゆらと揺れている。その向こうには未だ少し幼い顔立ちの女性が居る。隣の部屋に住んでいるのだが、落雷の影響でさっきから続いている停電の所為で俺の部屋に来ていた。ロウソクも懐中電灯も予備があったからそれを持たせて帰そうとしたのだが、涙目になられてしまったので止めた。

「で、ですね、そこで赤い服の女の人が、」

 その割にさっきから怪談話ばかりをしている。好きなのだそうだ。気が紛れるどころか逆に怖くなるだけのような気もするが、涙目になられるよりはマシか。

「そんなお話です。」

 俺は僅かに身を引き、その女性は満足そうに笑いガスコンロで淹れた紅茶を飲んだ。

「ところでなんだが、」

 俺は眉をひそめてその人を見る。

「何です?」

 ロウソクの炎の色が移っているのか、その人の瞳は赤く輝いているように見えた。その所為だろうか。

「どうかしました?」

 隣人はこんな顔だったか? 無言のまま見つめる俺の思考を読み取ったかのように赤い瞳の少女は口元に不思議な笑みを浮かべた。

「さぁ、次の話をしましょう。」

 停電の夜は長く、しばらく終わりそうにない。

(了・赤い瞳)

 

 

 俺はゆったりと進む舟の上でぼんやりと目の前に広がる新緑の渓谷を見ていた。今日は天気も良く気温も高かったが、枝葉に守られた日陰は水面を滑って吹く涼しい風のお陰もあって快適だった。

 舟はゆっくりと上流へ進む。俺は何気なく水面に手を当てた。夏は随分と近付いていたがひんやりとした心地よい感触があった。指が隠れるくらいまで入れてみて、すぐに手を引っ込めた。何か黒い細い物が絡んでいる。その向こう、微かに見える川底に見た。

「どうかしましたか?」

 隣に居た旅客の声で我に返った。指先は水に濡れているだけで、川底は見えなかった。

「いえ、何でもありませんよ。」

 俺は濡れた指をシャツで拭い、渓谷の木々だけを見ている事に決めた。

(了・川底の黒)

 


 深い山の中を車で走っている。脳は確かにその道は目的の場所へ続いていないと認識していた。例えこの先で大きく回る道があったとしても戻るべきだと言っていた。けれど俺はその道を進み続けた。トンネルを抜け、大きなカーブ、昇り下り、蛇のような山間の道を滑り続ける。興味本位よりも強い感情があった。その先に何かがある。呼ばれているのかも知れない。山中の木々に紛れた廃屋の一室に手を拱く何かが居る。

 なんだ、もう直ぐじゃないか。

 痺れたような意識でそう思った時、身体が勝手にブレーキを踏んだ。潤滑油が足りない首が軋みながら右を向く。大きな赤い鳥居があって、その奥に小さな社があった。高く強い鈴の音が鳴った。


 反転した車は元来た道を走る。久しぶりに見るような気がする看板は目的から大きく外れている事を教えてくれた。俺は強くアクセルを踏む。一刻も早くあの場所から離れよう。きっとあの場所は。

(了・鈍色の迷い道)

 


 少し時間は早かったが宿へ入った。旅行だからとはしゃぐのは嫌いではないが時間に追われるのは厭だ。少し持て余すくらいで丁度良い。チェックインを済ませ、部屋で酒を飲もうかシャワーを浴びようか考えているとデスクに備えられた鏡の中の絵が目に付いた。その二枚の絵に振り返ってみる。一枚は女性の絵だ。肖像画のようで、胸から上だけが描かれている。整った顔立ちに儚げな笑みを浮かべていて、薄茶のストールを巻いている。手は恐らく膝にでも置いているのだろう。もう一枚は瓶にいけられた花の絵だった。薄紅の花弁を抱える綺麗な花だ。暫くその絵を眺めていて、先に食事をしようと思った。それからのんびりとシャワーでも浴びて用意されているドテラにでも着替え、この絵でも眺めながら酒を飲もう。折角の旅行なのだ。使えるものは全て使って楽しまなければ。

 頭の中で作った予定は滞りなかったが、選んだ酒が少しばかり強過ぎたらしい。安ホテルの一階にあるレストランで呑んだのも悪かったらしく、シャワーを浴びてドテラを着た俺は何杯か呑んだ辺りでベッドへ倒れ込んでしまった。まぁ、良いさ。明日も未だ行く所がある。こんな酔い方でも時間は未だ早い。明日の朝食に間に合うように起きられるだろう。そんな事を考えているうちに眠ってしまった。

 正確な時刻は分からない。雨音で目を覚ました。何気なく身体を起こし、鏡を見た。薄明かりの部屋にはドテラ姿の俺と二枚の絵がある。様子が少し違っていた。瓶の中の花は何枚か花弁を散らせていて、女性の絵の中では薄紅の花弁が降っていた。絵の中をスローモーションのように降る花弁が女性の唇に近付くと、いつの間にか深紅に染まっていた唇が開き、花弁を噛み砕いた。とっさに振り返って絵を見ると昼と変わらない二枚の絵があった。俺がため息を吐いた瞬間、女性の唇がすっと深紅に染まり、にやりと笑った。

 翌朝目を覚ました俺は慌てて支度を済ませた。早くこの部屋を出よう。最後に一度だけ見ると、瓶の中の花弁が少しだけ減っているような気がした。気の所為だろう。俺は無理にそう思い込む事にして逃げるように部屋を出た。

(了・真夜中の深紅)



 雨がころころと表情を変えながら降り続いている。僕は林道を歩いている。自宅近くの小高い丘の中の公園に設けられている物で、それ程長い物ではない。真っ直ぐに歩けばすぐに大きな道に出る。それが何となく素朴な感じがして好きだった。それに、今日は初夏の雨だ。枝葉の上で跳ねる水の音が心地よく感じられる。時折強く速いリズムを刻んだり、何事も無かったかのように静かな音を鳴らしたりする。 

 ふと、前から真っ白な服を着た人が歩いて来た。いつもと同じように軽く挨拶をしながら隣を通り過ぎる。その瞬間にその人が足を止めてこっちを見たような気がしたから僕も足を止めて振り返った。そこには微かな雨音があるだけで、誰も居なかった。一つだけ、未だ花を咲かせるのは先の筈の紫陽花がその化弁を広げて一つだけ落ちていた。

 僕は頭を掻きながらその花に歩み寄って拾い上げる。五年も前に死んだ姉は雨と紫陽花が好きだった。それから、明日は姉の命日だ。

(了・林道の紫)



 徒然と雨が降り続いている。傘を天に翳し歩く今の私にはそれが心地良いと思えた。二年前に妻が死んだ時、私の人生は大きく変わった。私だけではない。多くの人が変わってしまった。けれど、それも長くは続かなかった。人は人のあるべき場所へと落ち着き、私も私の生活を取り戻していた。

 徒然と雨は降り続いている。求めて、願っていたのは平穏な日々の継続であり、彼女が呉れる温かな感情だ。何もかもは弾け飛んで消えてしまった。

 だから今は唯、降り続く雨の中を歩いていたいと思った。否、歩いていたいと願っているのか。私は数ヶ月の迷走を経て妻の居ない生活を受け入れた。友人は酒を呑みながら私の肩を叩いて呉れた。それが正しい事なのかは分からない。受け入れられないまま、延々と降り続く雨のように彼女が居る生活を願い続ける方が正しかったのかも知れない。

 丁度踏切に差し掛かって、赤い色が燈った。私は足を止める。遮断機がゆっくりと降りる。その向こうに青白いような影を見た。儚げに笑うその人は確かに私の妻だった。その人は誰にも聞こえないような声で何かを言って私に小さく手を振った。その刹那、列車が通り過ぎた。後に残されたその場所に彼女の影は無かった。雨も上がっていた。微かに明るくなったような世界は雨の名残で蒼く染まっていた。

 私は長い瞬きをして歩き出す。あの優しい人を何時までも現世に留めてはおけない。天にある幸せな場所で静かな暮らしをさせなければ。

 僅か割れた雲の隙間から陽の放った光が一陣、蒼く変わった世界に伸びた。

(了・雨上がりの蒼)

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