【短編小説】走馬灯
半月 工未
空目
物音で目が覚めた。何か物同士が擦れ合うような耳に障る音だった。俺は寝起きの回らない頭で考えた。今の音は一体何だ。どこから聞こえてきた。空耳だろうか。それとも……。段々と思考が鈍くなっていく。甘い眠気と直前まで見ていた夢の続きが、俺を再び眠りに誘っていた。もう一度物音が鳴るまでは。
寝室を出て、廊下を歩いた。スリッパを履き忘れて足裏が冷たかったが、今思えばそのおかげで足音を小さく抑えることが出来ていた。このときにはもう擦れるような物音は聞こえていなかった。代わりに、それとは違う音を俺の鼓膜は捉えはじめていた。震えて不規則な自らの呼吸音に交じって、隙間風に似た風音が聞こえていた。
階段の手すりをなぞりながらリビングに向かった。一段々々と下りていくほどに風音は大きくなった。実際は外から入り込んだ夜の風が扉や窓、あるいは家具や観葉植物の葉を小刻みに揺らしていた音だったかもしれない。触れないものに音は宿らない。
そうして階段を半分まで下りるとリビングの様子が見えてきた。庭に面した窓ガラスから月明かりが射し込んで、床のフローリングとその木目を淡く浮き上がらせていた。ダイニングテーブルは静かにそこに佇んで、しかし椅子ひとつだけがまるで数秒前までそこに人が座っていたかのような具合で引かれていた。ふと俺は心のどこかに引っ掛かりを覚えたが、構わず足を動かした。一定の拍で鳴り続ける壁掛け時計の秒針が俺を落ち着かせると同時に焦らせていた。風音がもう、すぐそこで聞こえていたからだ。
そのとき、カーテンが風を孕んで大きく膨れ上がった。
俺は見た。顔こそ影になっていて見えなかったが、確かにリビングに人影があった。
寝ぼけて見間違えたのだと思った。あるいは幽霊か。ともかく俺は自分の目を疑って身を乗り出し、階段の最後の段を軋ませてしまった。するとその人影はすぐに俺にの存在に気が付いて、隙間ほど開いた窓から風に乗って夜に消えていってしまった。待て。と、俺はそう言ったような気がする。
再び目を覚ましたときには朝になっていて、俺はリビングのソファに横になっていたのだった。
それから数分かかってようやく状況を理解した俺は今、こうして椅子に座っている。
視線だけ動かして扉が開いたままの妻の部屋を見る。
妻は撮影を趣味にしていた。だから部屋の壁には彼女自身が撮った風景写真が額縁に入れられて飾られている。素人目だがどれも良いものばかりで、特に紅葉した並木道を収めたものは気に入っている。
その内の一つが昨晩の人影によって盗まれた。金目当ての犯行だろう、と警察は言った。その言葉通り、俺がテーブルに置きっぱなしにしていた腕時計も盗まれていた。妻から貰った腕時計だった。
深く息をした。俺の心内にある感情の中で、どれが正解か分からずにいる。怒りと嫌悪と絶望と、しかしそれらと相反する喜びが同居出来ずに葛藤している。盗人は妻の写真を価値のあるものだと思って手を出したのだろうか。いや、それよりも。あのときの盗人の人影を、亡くした妻に空目してしまった自分がいることのほうが、どんなことよりも余程問題だった。
背凭れに体重と心労とを預ける。
あの束ねた白いカーテンすら彼女に見える。割られた窓ガラスから風が吹き込むたびに、部屋の隅に、キッチンに、観葉植物の鉢の横に、不自然に引かれた椅子に、彼女がいるように感じる。
触れないものに、俺は何かを求めている。
【短編小説】走馬灯 半月 工未 @hangetsu-takumi
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