個別選択の自由化における社会構築
NOTTI
第1話:なぜ、人は選択をするのか? ①
現在、日本において多くのことを自分で選択し、自分で実行に移している。
しかしながら、これらの自己選択が尊重されないことや仮に選択をしても孤立するというパターンが後を絶たない。
私はこの背景に“社会的パワーバランスの弊害”と“社会における年功序列型決定権の行使”などいくつかの要因がある中でこの2つはかなりの比重を持っている可能性がある。
なぜなら、私が見てきた事例でも、公的機関の事例を参照しても分かる事なのだが、日本というのは以前から言っているように“トップダウン型社会”となっているため、上から下に物事が動いていくときに最終決定をするのはトップの人たちであり、それに従うのはその下にいる人たちである事はいうまでもないだろう。
しかし、そこで反論することはその人たちに背いているということになり、最悪の場合、周囲からの孤立も十分に考えられる。
今の社会において1人1人が選択の自由が与えられているように錯覚するが、実際は選択が出来るのはごくわずかの人たちであり、大多数は選択肢がある程度絞られた状態で選択しているため、“選択出来ている”という錯覚に陥りやすい。
では、なぜ人は物事を選択するようになっているのだろうか?
第一に“生きていくための訓練として”という考え方がある。
人間は生まれた時から亡くなるときまで常に目の前に選択肢を置かれている状態になる。
そのため、生まれた時から物を覚えて、人を覚えて・・・と自分が正しいと思う情報を自分の脳に記憶させ、そこから必要な情報を引き出すという訓練を続けており、新しい事を見つける度に情報の取捨選択をしているのだ。
しかし、社会においてはかなり無理難題な部分も多い。
例えば、小学校~中学校までは義務教育のため、自分たちで答えを見つけるのではなく、ある程度の答えが出来上がった状態で情報が出てくるため、仮に“僕・私はこう思う”と言っても答えとして認められないことも多い。
そして、学習する科目もあらかじめ決められた科目であり、内容もあらかじめ大人たちが決めた内容を学習するなど1つ捉え方を間違えると“義務教育=強制教育”と捉えられる可能性も少なくない。
ただ、高校生・大学生になると学習する科目を選べるのだが、問題は学習する科目が“必修科目と選択科目”に分かれていることで選択肢を狭めるということになり、ここでも“強制教育”の名残が残りつつ“半強制教育”へと変化する部分もあり、学習する子供たちにとっては千差万別の心理が芽生えることになる。
私は“選択可能教育の実現”が急務だと思う。
なぜなら、出来ない事を継続させるよりも出来る事を織り交ぜながら子供たちに教育を受けさせることが精神発達の観点からも知識・理解の観点からもメリットが大きいと思うからだ。
もちろん、これまでの教育方針を継続する事で子供たちも学習機会が増加するなど子供たちの成長にとってはメリットが多いが、一方で子供たちに不得意な科目を継続して学習させることで子供たちの学習意欲が低下することや勉強についていけず挫折してしまう、不登校になってしまうなど子供の成長の妨げに繋がる可能性もある。
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